月曜日, 11月 09, 2015

ヤギとかヒツジとか

いわゆる「ヒツジとヤギではどっちがイケてる?」論争というのが昔からあって、未だに総括的な合意は得られていないものの、こと「なごみ度」に関していえば、ヤギが若干優位に立ちつつあるのではないか、というのが最近の感触である。

これ、やっぱり弱点やろ!?と危惧されていた容姿にしても、確かに冬毛を蓄えた丸ヒツジの完成度には遠く及ばないものの、エサを詰め込んででっぷり膨らんだ腹は、枯れ木みたいな足とのコントラストもあって、なかなか捨てがたい味がある。

しかし容姿はあくまで容姿であって、実はそれほど重要ではない。
問題はやはり内面だ。

もちろん草食動物だから、基本的には両者とも人を警戒する。
ヒツジにしてもヤギにしても、いかにも迷惑気に横目で睨まれたりすると、せっかく世話してやろうとしてるこちらとしては、鼻白むことが多い。
それでもたっぷり人手をかけて育てたヤギは、たまに、、ごくたまに、ごくごくたま~に、コミュニケーションが成立するように感じることもある。

今年の虫下しの注射のときには、両者の違いが際立った。
ヒツジはスルーを決めこむか、身体をよじって痛みを表現するだけで、自分の番さえ過ぎてしまえば、いつものように人から遠いところでじとっと固まっている。そんだけ。
だから、こちらとしても特にねぎらう気にならず、粛々と作業を終え、粛々と畜舎を後にするしかない。

これに対してヤギ。
こちらもびっくりしたのだが、注射が終わって一瞬の間を置いた後、「ぎいあああああ~!」と喚きやがった。

これがまた信じられない大音響。
たぶん集落中に響き渡ったと思う。
人の顔を睨みつけ、眼を剥いて唇を突き出したその表情は、明らかに抗議の意思を表明していた。

それで人間嫌いになるかというとそうでもなくて、当座の痛みさえ退けば、こちらへの態度は全然変わらないのである。
白衣を着た獣医さんは、1年経ってもしっかり敬遠されるけれど。

いや~、なんかすっげー癒されるわ。

土曜日, 10月 17, 2015

ドラマと家族(2)

定期購読しているメルマガにおもしろい記事を見つけた。
家族形態が国家の形を決定している、という説だ。

日本の伝統的な家族は、長男が「家」に留まる封建制である。同様の形態は韓国など東アジア一体に広く分布している。
これらの国では、細く長く3~4数世代が同居するから、年功序列や長幼の序などの概念が自然に受け入れられる。特定の人物というより「家」という象徴的権威があるのも特徴だ。これらの国では、民主制も独裁制も何となくすわりが悪い。

ただし、同じ東アジアでも中国は違う。中国の家族形態は「共同体家族」と呼ばれるもので、これは次男も三男も家に留まり、その家族も同居する大家族制である。そうした家族で秩序を作ろうとすれば、1人が強力な権力を行使するしかない。あとの成員はみな平等になる。
これは共産主義と親和性が高い。
じゃあロシアやキューバはどうなの?といえば、これが実に共同体家族なんだそうな。

欧米諸国は、親子が同居しない核家族型が基本で、こういうコミュニティでは個の自立に根ざした民主主義や人権といった概念が定着しやすい。
興味深いのは、同じヨーロッパでもドイツやスウェーデン、あるいはスコットランドやカタルーニャやバスクといった地方が封建家族制なことで、これらの国はヨーロッパの中でもちょっと異質であったり、独立問題がくすぶってたりする。

真偽の程は別にして、国家という人智を総動員したかのようなシステムが、実は家族という情念の塊みたいなものの投影にすぎない、という見方がおもしろい。
人間臭いと言えばこれほど人間臭いことは無い。


で、最初の話に戻ると、最近の右寄りの政治風潮とか、ヒステリックな日本文化称賛の傾向などが、ドラマに見られる家族回帰願望と同期してるんじゃないかと思った次第。
それが良いとか悪いとかは置いとくとして、世界的な情報共有が進む中で、この内向きの動きはちょっと気にかかる。これまで、あまりにも他国の目を気にして生きてきた反動かもしれない。

これからの日本人は、建前としての民主主義と、本音としての封建的な秩序感覚と、現実としての経済グローバリズムという、3つの流れに引き裂かれていくような気がする。
どこに軸足を置いてどう生きるのかを、自分の頭と心身で考える時代が来ているのかもしれない。

そういえば、春の月9枠に嵐の相葉くんが主演した「ようこそ、わが家へ」というドラマがあった。
電車の割り込み乗車を注意したのをきっかけに、家族が執拗に嫌がらせを受けるという設定で、寺尾聡が事なかれ主義の頼りない親父を好演していた。
全体に漂うざらついた不安感が名作「家族ゲーム」にも似ていたし、普段はフワフワして捉えどころが無いのに、何か事があると実体化するという、「家族」の亡霊性みたいなものをよく表現していると思った。
作者を調べたら、、、なるほど、売れっ子の池井戸潤でした。

金曜日, 10月 16, 2015

ドラマと家族(1)

恥ずかしながら、連続もののTVドラマをよく観ている。

会社を辞めてから自由時間も増えたのだが、阪神戦以外は見たい番組がほとんど見当たらない。最近はその阪神戦も、ドキがムネムネして正視できず、リアルタイムで観戦することができなくなってしまった(じゃあ結果のわかった試合を観ようって録画してみたら、ドキドキしないから全然おもしろくない。一体どうしたらいいんだろう?)。

いきおい、ドラマにチャンネルを合わせることが多いのだが、各局をはしごしていると、傾向みたいなものが見えてくる。
最近では、やたら「家族」がしゃしゃり出てくるのが気になっている。
昔ながらの「恋」とか「人情」が影をひそめ、その代りが「家族」ということかもしれない。

でも本当にすごいんですよ、これが。
デートの仕方がわからないKY女子も、リスクマネジメントの凄腕マネージャも、息子と入れ替わった首相も、コーラス部を立て直す女子高生も、総務で働く新入女子社員も、変顔の病児保育士も、吉田松陰の妹も、書店員も精神分析医もタレントマネージャも子育てママも、あれもこれもどれもそれも、主人公の行動の原点が「家族」という設定。

平和と言えばそうかもしれないけど、ちょっとやりすぎじゃないかと思う。
消防団員やホテルのコンシェルジェのように、たまにそうでないのもあるけど、その場合は職場が「疑似家族」として描かれる。
他の国、例えば欧米人なんかから見たら、ちょっと気色悪いくらいじゃないだろうか?
それを飽きもせずに観てる自分も相当アレですけど。


ドラマの企画担当者は、一般人の関心のマトについて、たぶん日本で一番真剣に考えている人たちだろうから、人々の共通心理の中で家族に対する何かが動き出しているのかもしれない。

安直に考えると、戦後ずっと続いた核家族化や個人主義の流れの中で、ここにきてちょっとした違和感というか、長年の無理がたたったお疲れモードみたいになっていることが想像できる。古来の家族システムへの回帰願望とか。

家族システムは確かに一つの擬制に過ぎないが、民族が相応の年月をかけて作り上げてきた擬制はバカにはできない。
本人の意識にはほとんど上らないが、他人には丸わかりで、ときに大いに鼻につく、、、という点で、体臭のようなものかもしれない。
外面は取り繕うことはできても、底の方にある感覚や情念は、ちょっとやそっとでは変わらない。




土曜日, 10月 03, 2015

痛恨

Youtubeに「一瞬で卵のカラを剥く方法」っていうのがあって、コップに水とゆで卵を入れてガシャガシャッと振ると、つるんとカラが剥ける。

おお、これやんっ!て、ちょうど近くにあった茹で卵でやったら、水と黄身と白身とカラがぐじゃぐじゃになったどーしようもないものができてしまった。
にわとりさん、ごめんなさい。

そうだよね、半熟でやったらアカンよね。
オレってバカ・・・

金曜日, 9月 11, 2015

大人考

前から「大人になるってどゆこと?」みたいなことを折にふれて書いできたが、実は今もつらつら考えたりしていて、たぶんこのまま死ぬまで考えてるんだろう(ヒマやねぇ)。

最近思ったのは、普段私たちが「大人になる」というと、温和になるとか、協調性に富むとか、自立するとか、もっぱら精神的で概念的なものを思い浮かべてしまうけれど、実は、もっとずっと身体的なものかもしれない、ということ。

つまり、食べものの味がわかるようになったとか、絵画の美しさに目覚めるとか、手先が器用になったとか、、、そんなある意味ベタな感覚の積み重ねが、成熟につながるんではないか、という考え。
これには、感覚自体の肌理が細かくなるだけでなく、外界に対して感覚をオープンにすることが必要なのだが、それらの総和的な作用として世界の感じ方が変わってくるということは十分考えられる。

世界というのは、要は自分と世界との相対的な関係のことだから、その感じが変化するというのは、生き方そのものが変化するということだ。
例えば俗にいう「生かされている」とか「自然と一体」とか「自分は一人ではない」といった"ポジティブ世界観"なんかは、頭で納得しようとしてもダメで、「暑い」とか「痛い」といった体感レベルで感じるものなのかもしれない。

逆に言えば、そういう身体的なものが十分に熟さないと、いくらなろうとしてもなれないのが大人なのかもしれない。その変化がどういうものであるかは、それが身体性に根付くものであるがゆえに、言語化はとても難しい。
だから子供には、大人というものが逆立ちしたってわからないし、大人は自分の変化を顧みることでしか、大人というものを認識することができない、、、そういうことかも。

うん、思いついたばかりだから、自分でも何言ってるのかよくわからない。
それでもここに書いておきたくなったのは、それが自分にとって何か切迫した問題だからかもしれない。
なんなんやろ?
もうちょっとハッキリしたら、また書きます。

(以下、中島らも「今夜、すべてのバーで」から)
「なおる奴もいりゃ、死んでいく奴もいたよ。私は、なんとか助けてやりたいと思った。ことに子供の患者はな。そうだろ? 子供なんてのは、人生の中で一番つまらないことをさせられてるんだからな。私だって十七までに面白いことなんか何ひとつなかった。面白いのは大人になってからだ。ほんとに怒るのも、ほんとに笑うのも、大人にしかできないことだ。なぜなら、大人にならないと、ものごとは見えないからだ。小学生には、壁の棚の上に何がのっかってるかなんて見えないじゃないか。そうだろ?」
「そうですね」
「1センチのびていくごとにものが見えだして、風景のほんとの意味がわかってくるんだ。そうだろ?」
「そうです」
「なのに、なんで子供のうちに死ななくちゃならんのだ。つまらない勉強ばっかりさせられて、嘘っぱちの行儀や礼儀を教えられて。大人にならずに死ぬなんて、つまらんじゃないか」
「せめて恋人を抱いて、もうこのまま死んでもかまわないっていうような夜があって。天の一番高いところからこの世を見おろすような一夜があって。死ぬならそれからでいいじゃないか。そうだろ。違うか?」
「いや、その通りです」
「私はね、なんとか助けてやりたいと思ったよ。子供をね。でも、そのうち、それも思い上がりだってことに気がついた」
・・・
今日の収穫

月曜日, 8月 10, 2015

理解される悦び

犬が指示に従うということは、その犬が少なくとも、

 1)人が犬(自分)に「何かさせたい」という「意図」を持っている
 2)人は「コトバ」で「意図」を伝える
 3)ある決まった「コトバ」がその「何か」を指している

ことを理解するという、3つのハードルをクリアしたということだ。

どれもこれも、犬にとっては真新しい概念なわけで、それだけで十分奇跡に値すると思うのだけど、身の回りでわりと普通に見られるせいか、なかなかそうは受け取られない。

ま、それはいいとして、、、
人にとって、犬が「言うことを聞く」ことは悦ばしいことだし、犬を飼うことの醍醐味の一つに違いない。

もっと関係が深まると、犬は人の意図まで理解し、指図以上のことをやって見せるようになる。
例えば、ロクに教えてもいないのにお遣いをするようになるとか、、、あんまりいい例は思いつかないけど、ほら、犬ってすぐ気を利かそうとするじゃないですか。
この体験がまた、一部の犬好きにはたまらない。
「犬と暮らす悦び」ランキングがあれば、間違いなく上位にランクインする。
(健全な市民感覚からすれば、こういう人は微妙にヘンタイに属するのかもしれないけれど)

つまり人は、犬といることで「理解される」悦びを享受している、ということ。
しかし、その逆方向、つまり「意図通りに人が動いた」とか「人から理解された」ことを、犬の側が悦ぶような場面は、日常生活の中にほとんど見当たらない。

だから不公平だ、などと言うつもりはない。
そもそも人と犬の関係は対等ではないし、犬は理解されることなんか望んでいないかもしれない。
だからそんな場面はありえない、、、かと言えば、そうでもない。
例えばシープドッグの世界では、逆方向の回路が開くことがある。

一緒に羊を追っていると、ある時を境に、犬の動きがガラリと変わることがある。
それはたぶん、「こんな風に羊を動かしたい」という犬が持っているイメージを人が理解し、それを尊重して行動したときだ。

このとき、犬は驚きとともに、深い悦びに包まれる、、、んじゃないかと思う。
それまで、自発的な動きは無視されるか否定されるだけだったのに、指示に従うしか人と関わる術が無かったのに、突如、生来の能力が認められ、頼られ、尊重されるのだから。
あるいは、思いがけないところで、気の合う同志に出会った感じかもしれない。
あえてコトバにすると、「ああ、やっとわかってくれた!」とか「何だ、お前もやるじゃん!」というところか。

ま、本当のところはわからないけど。
しかし、「人に理解されたことを犬が悦ぶ」ことを察して悦ぶシープドッグ・ハンドラーは少なからずいる。
彼らは、「犬に教わる」とか「犬の群に入れてもらう」という言い方を、レトリックでも何でもなく、まさにコトバ通りの意味で使っている(と思う)。

ここまでくると、もう、真性のヘンタイと言うべきですね。
犬を悦ばしたって、それこそ一文の得にもならないのだから。
それでも、この悦びは案外深いし、「いかに最大限の愉悦を犬から引き出すか」という観点からすれば、人にとっても損な取引ではないと思うのだけれど。

カイラの親父の晩年

金曜日, 7月 10, 2015

ふりーと、うざい

犬が人を歓迎するとき、前手ドン("飛びつき"とも言う)するでしょ?

ぺぐとかうちの他の犬たちは、前から走ってきて「タタン・タン」とくるのに、ふりーとはそこに「タタン・ン・タン」と余分な1拍が入る。

これが、すっげーうざい。

拍子抜けしながら犬を受け止めるのは辛いし、やつの前手がキョンシーみたいにす~~~っと伸びてきて、鳩尾に食い込んでくるのは、もっと気持ち悪い。

あと、羊は見ないくせに、それ以外のことには何でも首を突っ込んでくるし、身体をぐりぐりこすり付けてくるし、抜け毛は豪快だし、いっつもうれしそうだし・・・

もう、どっか行け!

月曜日, 6月 29, 2015

草刈りしようよ

先日、相方Hiroが「草を刈る」と言い残して、エンジン式の刈払い機を担いで畑に入っていった。
普通、畑の草むしりに刈払い機を持ち出す人はいないと思うが、ファームの畑は「畑」と書くのが照れるくらい、茂りまくった草で藪のようになっている。

私たちは、そもそも畑仕事が嫌いなのかもしれない。

堆肥を撒いて、地面を耕し、畝を作って種を撒くところまでは、もう一日も待てないというギリギリの時期にかろうじてやった。
そして力尽きた。
そこから先の世話が、からっきしできない。
毎年、梅雨時になると、雑草の中に野菜が埋没し、生きてるのか死んでるのか不安になってくる。
そういう状態に追い込まれて、やっと重い腰が上がる。

放ったらかしのことを「自然」というなら、もう大威張りで自然農法と言える。
肥料は家畜の堆肥だけで、農薬の類も一切無し。虫や雑草とも仲良く共生している。ときどき、ヤギに齧られたり、にわとりの襲撃を受けたり、それを追って乱入した犬に踏み荒らされたり。。。
なので、収穫量と見てくれは良くない(味は良いんだけど)。
この野菜たちを食いつなぎ、かろうじて夏を乗り切るのも例年のことになった。

突然ですが、拓郎の替え歌。

「草刈りしようよ」

草の丈が 肩まで伸びて
藪と同じに なったら
約束どおり 刈払い機で
草刈りしようよ mmm

古いエンジンを ブルンと鳴らそう
畑が藪に 見えたら
仲間を呼んで 野菜を救おう
草刈りしようよ mmm

 ・・・

必死で刈った 緑の草を
裏の倉庫の 軒下に並べて干そう
草刈りしようよ
草の丈は もうすぐ肩までとどくよ

月曜日, 6月 22, 2015

褒めて育てて感謝する

最近、「犬の成熟」なんてことをよく考える。
もちろん、身体ではなくて心の話。

人と犬の関係って、基本、上下関係ですよね?
大人と子供のような。

例えば躾のとき、「正しい行動を褒める」とか「悪い行動を叱る」とか言うけど、そもそも褒めたり叱ったりは上下関係を前提にしないとできない(何が正しくて何がそうでないかは、人間しか知らないし)。
実際は躾だけでなく、あらゆる生活シーンで上下関係は再現・強化される(食餌の供給、撫で撫で、ブラッシング、声掛け、体高の違い、目線、態度、姿勢、歩く位置、etc, etc)。
犬が人と関わるということは、子供役を担うことと等しい。

羊仕事では、この関係が流動的になる。
もちろん、羊仕事でも大きな目的は人間が決めるけれど、そのサブタスク(「羊を集める」とか「動かす」とか「止める」とか)では、上下関係は弱まる、、、と言うより、状況によって刻一刻と変化するようになる。
人から教わる前に、犬は自身のやり方を持っているからだ。

そこでは、人と犬との関係性が質的に変化する。
役割の固定した縦型から、その都度最適な分担を求める水平型のチームワークへ。
”指示”から”協働”へ、”服従”から”自律”へ、”愛情”から”敬意”へ、”褒める”から”感謝する”へ・・・

この関係は、犬が子供のままでは難しい。
子供はつい親の指示を待ってしまうし、その指示に「反抗する」ことはできても「対案を出して主導する」ことはできない。
というわけで、羊仕事を考えていると、犬の成熟というテーマに至る。

考えてみれば妙な話で、人にとって「大人になる」ことは間違いなく人生の大命題なのに、犬のそれは話題にすらならない。訓練やしつけのノウハウは世に溢れてるのに、大人になること=情緒的な成熟の問題をきちんと取り扱ったものは聞いたことがない。
(犬は子供のままでいてくれた方が、いろいろと都合がいいのかもしれない)

自分を振り返ると、子供の頃は親や先生から褒められると無条件にうれしかったけれど、いつのまにかそうじゃなくなってたし、逆に「バカにされた」ように感じることさえあった。
そこに「お前はまだ子供だ」というメッセージを嗅ぎ取ったからだろう。

犬に「そういうこと」は起こらないのだろうか?
「大人になれずに不安や生き辛さを抱える」のは人間だけだろうか?
そもそも、犬にとって大人とは何なのだろうか?
・・・

世に「褒めて躾ける」方法論が定着して久しい。
そろそろ、「犬を成熟に導く」あるいは「成熟を妨げない」ためにどうすればいいかを、マジメに考えてもいい頃じゃないかと思ったりする。

目一杯、子供を演じる犬・・・

日曜日, 6月 14, 2015

今年の薪

冬の間、限界集落の伐採ボランティアに参加したり、チェンソー片手に山に入ったり(刃が取られて泣きそうになったゼ)、ホダ木の伐り出し作業を手伝ったり、木材フェスティバルの薪割り体験に顔出して余ったのをもらってきたり、、、あの手この手で木材を集めておいた。

うず高く積まれた原木を見ると心が折れそうになったが、無理せず、心技体の充実した日を選んで少しずつ玉切と薪割りを繰り返してきた。
そして今日、できた薪を倉庫に積み終えた。

ふっふっふ。
来るなら来い、冬。


木曜日, 6月 04, 2015

エア・リード

夜逃げした繁殖業者宅で保護された気の毒な犬、、、ではありません。
昼下がりのるぢ男。
リード(てゆーか単なる虎ロープだけど)が糸みたいに細くなってます。

これじゃあ用をなさないじゃないか!?とお思いでしょうが、いーんです、これで。
彼にとってリードとは、論理的に繋がっているかどうかであって、どう繋がっているかは問題ではない。
どうせ「行かねばならぬ!」ときは行ってしまうのだから、多少ロープを丈夫にしたって同じだし、繋がってさえいれば、普段はおとなしくじっとしている。
別に言われたからそうするわけじゃなく、彼が自分で決めて、それを律儀に守っているだけだけど。

ただフリーにしておくと、どんなフェンスも「ヒョイと」飛び越え、ファームの内外をブラブラするので、形だけでも繋いでおかないといけない。
本当は「農家の犬」らしくフリーにしておきたいのだが、たとえドのつく田舎でも、それは許されない。

世の中は理不尽と建前でできている。。。

水曜日, 5月 20, 2015

ちょっと見直したよ、るぢ男くん

上司でも家族でも恋人でも何でもいいけど、自分に関心を持ってほしいと願うような人がいたとして、そういう人の力になれるというのは、きっと誰にとっても心躍る経験に違いない。
このとき、指示された作業をこなす場合と、そうでなくて自発的な行動が相手の役に立つ場合があるが、同じ感謝されるなら後者の方がうれしかったりする。相手に信頼された(に違いない)という思いが、大きな報酬になるのだろう。
昨日のるぢ男を見ていて、犬もそうじゃないかと思った。

昨日は恒例の予防注射&虫下しの日。
獣医さんにファームまで往診してもらい、羊(とヤギ)に注射をしてもらった。

子供と一緒で、羊たちもお医者さんが苦手だ。
ボーーーーッと生きてるようで、嫌なことをされたことはちゃんと覚えている。
いつもならサッサと小屋に入るくせに、白衣が見えただけで警戒して近寄ってこないし、やっとこさ捕まえても、最後まで悪あがきをする。
そんな小さな抵抗も相まって、羊を小屋に入れる→一頭ずつ識別する→捕まえる→保定して注射→ノートに記録、という一連の作業は、結構大変だったりする。

昨日は、るぢ男もずっと一緒だった。
羊を集めるときは集めてくれるし、捕獲するときに逃げ道を塞いだり、捕まえた羊が動かないように睨んだりと、いろいろと助けてくれた。
以前は小屋の中でも羊を追いまわし、正直、手伝ってるのか邪魔してるのかわからない感じだったけど、今回は一息ついたときに、あ、何だ、お前そこにいたのか、と思ったくらい、自然に立ち回っていた。
こちらも忙しくて、いちいち指図する暇も無かったから、きっと彼なりに作業の流れを覚えていて、率先して動いてくれたのだろう。
好意的に解釈すれば、だけど。

小屋の中が片付いても終わりではない。
頭突き羊のレイ君ともう一頭は、草刈り要員として、近所の農家の栗園に貸し出している。
そこまで車で移動しようとすると、当然のようにるぢ男が乗り込んでくる。

栗園はアップダウンのきつい傾斜地にあるし、レイの頭突きは怖いしで、捕まえに行くのが憂鬱だったのだが、るぢを放したとたん、あっという間に連れてきてくれた。
そのまま柵に押さえつけて、外から注射してもらって、一丁上がり。
おかげで、スムーズに作業を終えることができた。
るぢ男は?と見れば、またサッサと自分から車に乗り込んでいる。
うぐぐ、こ・の・や・ろ~・・・

練習だろうが毎日の用事だろうが、羊追い/鳥追いは何でも好きなるぢ男だが、昨日はもっとイキイキして、ほとんど得意気にさえ見えた。
勝手な擬人化かもしれないが、人の助けになったという実感が、もともと舞い上がりやすい彼を、一層高揚させていたのだろう。

犬の自主性なんて人間にとっては99%迷惑かもしれないが、それでも、少しでもそういう機会が作れたら、、、と思わずにはいられなかった。



月曜日, 5月 11, 2015

みっしょんこんぷりーと

ふぅ、今年も何とか毛刈り・だん!
最後まで残っていた10頭目と11頭目をようやく刈り終えた。

いつものことだけど、なかなか思ったように刈れず、羊たちには負担をかけてます。
相変わらず、流血もあるし。
来年こそは、「そうなんっすよ、いきなり毛を掴まれて座らされたかと思うと、クルクル回されて、あれ、あれっ、何だよこれ!?と動転してる間に、気が付けば丸裸にされてたんっすよ」とコメントが出るくらい、流れるように刈ってあげるからね。

でも、年々頭数は増えるし、こちらも体力が衰えるしで、本当にそうしないともうやっていけないわけです。
今、一番切実に知りたいのは、お金の稼ぎ方でも若さの保ち方でもなく、バリカンの刃の研ぎ方です。

土曜日, 5月 02, 2015

存在感0の男

今朝、ほぼ2年ぶりに、たくわえていたヒゲを剃った。
特に理由は無くて、発作的に剃りたくなっただけ。

だから「何で剃ったの?」って聞かれたら困るなぁと思ってたんだけど、今日1日、一緒に居たHiroさんや3人の友人たちの誰一人として気がつかなかった。。。

明日は気付いてもらえるかなぁ?

火曜日, 4月 28, 2015

シアリング・ハイ

羊の毛刈りシーズン=死のロードに突入した。
昔より随分慣れたけれど、それでも、ビデオのようにクルクル羊を回して、シャシャシャーとバリカン動かしてハイ一丁あがり!という風にはいかない。

それにしても、人の営みって何でもそうだけど、細かいコツとか手順とかノウハウがびっくりするほど蓄積されてて、いつも感心させられる。

 曰く、毛が無いところからあるところに刃を入れろ
 曰く、刃が入らないときは無理せずに入れ直せ
 曰く、できるだけ横に刈れ
 曰く、毛を引っ張らずスキンを伸ばせ
 曰く、なんちゃらかんちゃら・・・

今回、例年より腰が辛くなってきたことに加えて、刈り終わった後になぜかハイになっている自分を発見した。
刈ってる時はよくわからないけど、たぶん、すでに高揚気味なんだと思う。

実は毛刈りってバリカンをどう動かすかというより、羊をちゃんと保定することの方が大事だったりする。
保定というのは、言ってしまえばレスリングのような(危うく「〇ッ〇〇のような」と書くところだった)、生き物同士の密なボディ・インタラクションでもあるわけで、それが心身の活動レベルを自動的にアップするんじゃないかと思う。
もしかしたら、類人猿の時代から獣と格闘してきた記憶の名残なのかもしれない。

この文章も、その余韻で書いている。
羊にはいい迷惑だろうけど、もうちょっとつき合ってくださいネ。


木曜日, 4月 23, 2015

もなかの冒険

うっかり庭に出すと、決まってウッドデッキの下に潜り込んで長時間籠城するので、とても面倒臭かったのだけれど、入り口になる隙間をびしっと塞いでやったので、わりと気軽に出してやれるようになった。


最初は周りを警戒して、それこそ地面にへばりつくように動いてたのに、今は中腰くらいで歩けるようになった。
たまに羽虫を狙ってジャンプするような余裕までかましてるし。

放っとけば、そのうち、柵の外まで冒険しに行くようになるだろう。
まぁそれでも別にかまわないけど・・・誰に会うかわからないから、もうちょっとダイエットしといた方が良いと思うよ。

月曜日, 4月 20, 2015

やりきれん

若い頃、昼寝をすると、夜眠れなくなって困ったけれど、今は昼寝をしても、夜にはいつも通り眠くなってしまう。
困ったもんだ。
もっと困るのは、ただでさえ早く目覚める朝が、さらに早くなってしまうことだ。
ああ、でも、そうでもないと1日が短くなって困るけど。。。

更新してないからって、こんなこと書くのもどうかと思うけど。

水曜日, 1月 28, 2015

The last day of SUN

Our dearest old buddie SUN has gone on Jan 25th.
He seemed quite well until noon on that day but his condition changed so suddenly at arround 14:00.
These years he had suffered from stomach torsion attacks and this time it was lethal.

He gave us a lot of gentle memories (and scratch as well).
Thank you SUN, sleep in peace.
That'l do...

木曜日, 11月 06, 2014

ちゃんと怖がる

白状すると、まろには「怖い」犬友達が3人いる。
すべて女性で、しかも遠方に暮らしているというのが、3人の共通点だ。

だから、普段はビクビクせずに済んでるのだが、先日たまたま、そのうちの2人がたて続けにファームに来るという、惑星直列みたく珍しい巡り合わせになった。

何がきっかけだったか忘れたけど、今回、命知らずにも、1人に「○○さんって怖いですよ」と言ってみた。
当然ながら、返ってきたのは「あら、私、全然怖くないわよ。失礼な」という、直球の全否定。
ご、ごめんなさい、本当に失礼でした・・・

ただ言い訳じゃないけど、怖いという感情って大切だと、常々考えている。
人は怖いから相手を「恐れる」わけで、実はこれは「畏れる」に繋がっている。
音が一緒というだけでなく、おそらく語源的にも同根のものだ。
つまり、怖いはrespectの第一歩だ。

キリスト教の「愛」というのは、私たち仏教圏の人間にはなかなか理解しにくいが、そこにはこのrespectが多分に含まれているんじゃないかと思う。
卑屈でも優越でもなく、対等かつ自然に他者をrespectできることが、人として成熟することじゃないかとすら思っている。

相手が動物でもそうだ。
例えば犬と長く暮らしていると、往々にして相手を恐れる気持ちが薄れるが、それが何かベテラン犬飼いの証みたいに感じてるとすれば、それは違うだろうと言いたい。
どんなに従順で可愛らしく見えても、犬は犬だ。
狩りを本分とする肉食動物であり、その気になれば、サルの末裔を咬み殺すくらいお安い御用だ。
勘違いしないでほしいのだが、だから躾を、、、などと言いたいわけじゃない。
そうじゃなくて、相手をちゃんと恐れ(≒畏れ)ましょうよ、と言いたいのだ。
(同じ理由で、ことさら相手を怖がらせる必要も無い。もともと「怖い」のだから)

その点、ファームに来る子供たちは素直だ。
最初のうち、ほとんどが動物を怖がり、腰が引けている。
それで良いと思うのだが、大人の多くは「怖くないよ~」と感情を否定し、無理に「触れ合い」させたがる。
だから、「傍にいながら見て見ぬふりをする」という最上の挨拶ができない。
相手が必死に「来ないで!」と叫んでるのに、にこにこ笑って上から覗き込んでしまう。
「動物愛護」というのは随分と傲慢なフレーズだと思うが、それを傲慢と感じない感性を育てるのは、そんな経験の積み重ねかもしれない。


幸か不幸か、3人目の犬友達とは長い間会っていない。
一番遠方だから、もしかしたらもう死ぬまで機会は訪れないかもしれない。

もし会って「あんた、怖いよ」と言えば、きっとこう返ってくるに違いない。
「バカじゃね!?」
ああ、怖い・・・


土曜日, 9月 13, 2014

ウソもつきます

「子供はウソをつかない」って誰が言った?
それってウソやと思う。
知恵が足りないから巧妙にできないだけで、ちょっとでも得すると思えば、むしろ大人より躊躇なくウソをつく。
ただ、すぐバレるから「他愛が無い」し、被害が軽いから「罪が無い」と感じるだけだ。

犬もそう。
かなり頻繁にウソをつく。

最近よく目にする、ウンチを喰ったあとのことさら何事も無かったかのような仔犬たちの表情。
あれはきっと最初の「ウソ」に違いない。
犬の世界でウンチ喰いに罪の意識は無いだろうが、人間たちのただならぬ気配を察して、これは隠しておいた方が世のため人のため、、、くらいは感じてるだろう。

それにしても…、完食してまんまと証拠隠滅したつもりかもしれないけど、床は汚れてるし、毛はゴワゴワだし、顔を舐めにくる口はめっちゃ臭い!
あれでバレてないつもりなんやろか?

ま、しょうがないか。
君らのおばあちゃんは、体型が変わるくらい盗み喰いしても、「私は何も知りません」としらばっくれてたからなあ…。
その後、腹一杯でどーしても食べられない夕食と延々にらめっこしてたのには、笑ったけど。

月曜日, 9月 01, 2014

いぬさらい

8がつ31にち ふりーと

きのう、きむとけんかしました。

いつものように、がぶがぶして、れすりんぐをはじめたようとしたのに、きむがひめいをあげたから、え!?とおもって、かおをのぞきこんだら、おもいっきりはなをかんできたので、それからはもうふたりともこーふんして、しっちゃかめっちゃかになってしまいました。

すると、とつぜん、くまおがいいました。
「もう、やめろよ。いいこにしてないと…」
みんな「はっ」として、サークルの中はいっぺんにし~~んとなりました。

そうです。
きのうのばん、ぼくのうちにいぬさらいがきたのです。
よるにふたりづれでやってきて、ちょっとぱぱとままとそうだんしたかとおもうと、あっというまにみじをさらっていってしまいました。

ぱぱとままは、「みじは、あたらしいかていでしあわせになるんだよ」といいましたが、そんなのはうそにきまってます。
だって、みじがあしにかみついたり、うなったりしたら、いつもふたりで「みじはわるいなぁ」っていってたから。
わるいこが、いぬさらいにつれていかれるってことくらい、ぼくだってしってます。

それから、どーしたらいいか、みんなではなしあいました。
みんな、れすりんぐがだいすきだから、やめることはできないけれど、しーなの「ふらいんぐ・ぼでー・あたっく」はきんしすることにしました。ものすごいおとがしてめーわくだからです。
それから、とりあえず、「きょうはいいこにしよう」ときめました。

そしたら、つぎのあさ、みんなげりになってしまいました。
きんちょーしたからかなぁ?

金曜日, 8月 29, 2014

さんの近況

このサイトでブログを書き始めたのが2006年の1月。
書いても書かなくてもいいけど、どちらかというと書かない方が世のため人のため、、、という内容ばかりを書き連ねて、気がつけばもう八年と八か月。

最初の頃の記事を読み返すと、りん姉が君臨してて、ぐれぐなんかまだ子犬で、さんは「青二才」と呼ばれている。
出世犬のさんにとって、ちゃん→わかぞー→青二才と、確か3つ目くらいの名前だったと思う。
そんな彼も今や老境である。

先日、そのさんが胃拡張になり、大騒ぎをした。

人間だったら胃拡張といっても「食べ過ぎやろ」と返されて終わりだが、犬にとっては致死的な疾患である。
そのメカニズムはまだよくわかっていないらしい。
まず胃にガスが溜まって膨れる。体型が痩せていたり筋肉が弱っていたりすると、膨満した胃が「クルリと」ひっくり返ってしまう。そうなるとますますガスが溜まり、周りの臓器を圧迫したり、胃そのものが壊死したりして、悪くすると2~3時間で死に至る。
捻転を起してしまえば、手術しか有効な手立てが無いが、胃を元に戻した途端、急に血流が復活してショック症状に陥ることもあるらしい。病気というよりはほとんど事故のような疾患だ。

実はヤツには2度ほど前科がある。
どちらも捻転までは至らず、胃拡張の段階で回復してくれた。捻転が無ければ、ガスさえ抜ければウソのように元気になるのも特徴である。
それでも腹が風船みたいにパンパンになるし、吐きまくったり苦しげに呻いたりして、その都度最悪の事態を覚悟した。

それで今回である。
以前と同じように腹を擦ってガスを吐かせようとしたが、悲鳴まで上げて痛がる始末。
これはダメだと獣医に行こうとしても、お盆のど真っ最中で、市内はおろか舞鶴、綾部、亀岡…、どこに電話しても繋がらない。
ようやく、年中無休という京都市内の病院に予約を取り、約1時間半かけて搬送する。
それがまた運悪く記録的大雨の降った8月16日で、道中、滝のような土砂降りになり、ただでさえ焦ってるのに運転にまで神経をすり減らす始末。

なんとか病院にたどり着き、ガスを抜いて胃の動きを促す薬を投与してもらう。
これでダメなら開腹手術と宣告されたが、何とか持ち堪えてくれた。
それでも入院は必須と言われたので、翌日、また往復3時間かけて病院通い。
交通費含めて10万弱が、一夜にして吹っ飛ぶ。

それから2週間、ヤツは何事も無かったかのように暮らしている。
食事の回数が増えた分、要求吠えの回数も増えた。
ヤツは、ってゆーか犬は、自分の都合の良いことは、びっくりするくらい速やかに習慣化する。

というわけで、家の中がまた少し狭くなったような気がする。

火曜日, 8月 12, 2014

夢一夜

犬のるぢ男がいつのまにか学生服を着た青年になっていて、ビルの駐車場のあたりをうろうろしている。
自分はそれを3階くらいの窓から眺めていて、、、

って、あ、もちろん、夢の話ね。

あいつヘラヘラしやがって何か危なっかしいな~、と思っていると、案の定、向こうから歩いてきたガタイの大きなおっさんに飛びついてしまう。

おっさんの怒った様子に、るぢ男は腹を見せておびえている。
運悪く、おっさんは乱暴な上に性根の悪い男のようで、これからたっぷりるぢ男をいたぶるつもりだ。
いつのまにか現れた手下みたいな連中と一緒に、ゲラゲラ笑いながら、るぢ男の腹にスプレーみたいなものを吹付けている。

助けに行くべきだと思ったが、(こちらに落ち度があることがわかってるので)おっさんに殴られるのが嫌で、なかなか出ていく勇気が出ない。
そのうち、おっさんはるぢ男をトラックに載せて、どこかに連れ去ってしまう。

ここで目が覚めたのだが、そのとき自分は、るぢ男を助けなかったことを激しく後悔していた。。。

この夢って一体何が言いたかったんだろう?
 


火曜日, 6月 17, 2014

正しいシープドッグの育て方

  • ~生後15日: 生まれて間もないこの時期から勝負は始まってます。おっぱいに回り込んで到達するよう、親犬の前に障害物を置きましょう。
  • ~生後1か月: 優秀なシープドッグは、生まれてすぐにフセの姿勢をとります。すかさず、「ライダウン、ライダウン、ライダウン・・・」と声をかけてください。これを専門用語で「コマンドをかぶせる」と言います。
  • ~生後1か月: 目が開いて最初に見るものは重要です。決して猫を見せないように。
  • ~3ヶ月: 社会科が重要な時期。まず地理と歴史を教えてあげてください。
  • ~半年: 「シープドッグ養成ギプス」を装着して、正しいクラウチング姿勢を叩き込みましょう。アウェイとカムバイのお勉強も忘れずに。
  • ~1歳: いよいよ「牧場デビュー」です。本場イギリスでは赤飯を炊いて祝います。
  • ~1.5歳: トライアルを目指すなら名門私立校に、そうでなければ公立で十分でしょう。
  • ~2歳:  どこに出しても恥ずかしくない、立派なシープドッグの出来上がりです。あなたも犬もよく頑張りましたネ!

火曜日, 6月 10, 2014

ヘビネタ

また、いらぬ殺生をしてしもた。

ニワトリたちが寝場所にしている倉庫に向かう小道、軽自動車の脇あたりにでろんと伸びた1mくらいの青大将がいた。
道の脇にでもいてくれれば見逃してやるのに、狭い小道にスタートラインみたいに横たわってるから、避けて通るわけにもいかない(跨ぐのなんか死んでも嫌だ)。
近寄っても動かないし。

しかたなく、スコップでバンバン頭を叩き、昇天してもらった。
毎年やってるけど、こればっかりは何度やっても嫌なものです。
嫌なくせに、グネグネのたうち回るヘビから目が離せない。
あー気色悪い。

例によってHiroさんにお願いして、屍を近くの雨除けの屋根に放り上げてもらう。
鳥葬にするんですな。
ぐえぇぇぇ~。


そんなこんなで、朝からゲッソリしてしまったのだが、仕事には行かねばならぬ。
一旦、部屋に戻り、服を着替えて再び出てくると、、、

さっきとまったく同じ位置に、同じくらいの大きさの青大将がいた!
しかも、おんなじ姿勢で!
ぐぇぐぇぐぇ~、マジかよ~!?

嫌がらせか?
それとも、仲間の復讐しにきたん?
もしかしたら、さっきの生まれ変わり?
どーでもえーけど、そんなとこにおられたら、車に乗れんでしょうが...

幸い、今度はすぐに逃げて行ってくれたので、殺生せずにすみました。
頼むから、一生、目の前に現れないでくれ。
なんまんだ~
なんまんだ~

火曜日, 5月 27, 2014

毛刈り報告

羊の毛刈り、何とか今年も完了しました。
お手伝いいただいた方、声援いただいた方、本当にありがとうございました。

今回の新兵器は、新型バリカンと刃砥ぎツールでして、どちらもまぁそれなりに効果はありました、、、けど、劇的に状況を改善するには至らず。
刃を新品に替えた当座はビックリするくらいの切れ味なのに、2,3頭でガクッと落ちます。

羊たちの毛が良くないんだろうか?
ならば、というわけで、今年から刃砥ぎにも挑戦してみました。
説明書にあった通りにガシガシ砥いでみたんですが、「ちょっとマシになったかも?」くらいで、とても新品刃のようにはいきません。
すっげー期待してたのに。

変圧器、クーリングオイル、刃砥ぎツール、新型バリカン、、、これまで、作業の抜本的効率化を目指して投資に投資を重ねてきましたが、それももう限界です。
あとは神に祈るか、腕を磨くか。。。

それでも、ちょっと無謀でしたが、今年は某牧場で出張毛刈りまでしてきました。
毎年ぼろ雑巾のようになりながら、これでも少しずつ上達してるんです。

いつか自分で納得いくように刈れるようになったら、名前を変えるつもりです。
「シザーハンズ・まろ」とか。 
 
 

木曜日, 5月 22, 2014

理由

これだけ鼻突き合わせて暮らしてるのに、動物たちのことは、まるでわからない。
何を見て、何を感じ、どんな衝動に突き動かされているのか?
皆目、金輪際、徹頭徹尾、びた一文だってわからない。

というのはウソ。
一つだけわかっている。
それは、彼らが私たちのことを認め、彼らなりに信頼してくれている、、、ような、、、こと。
根拠もへったくれも無いが、これだけは「わかる。」

それがうれしいし、誇らしくもある。
だから、動物たちには精一杯敬意を払うし、彼らの暮らしはできる限り尊重したい。
誰でもウエルカムの「ふれあいファーム」にできないのは、たぶん、その辺が理由なんだと思う。
 

月曜日, 5月 12, 2014

爽やかな朝が暗転

久しぶりに「途方に暮れ」た。

その日はゴミの収集日だったので、のんびりと使い古しの網を袋に詰めていたところ、Hiroが血相変えて駆けてくる。
「それどころじゃないっ!」
エミューが脱走したらしい。

駆けつけると、3羽のうちの1羽が、敷地の外側をウロウロしている。
夜の間に、何かに驚いて柵を飛び越えてしまったのだろう。
柵の外はもう他所さんの畑で、その隣は田植えの終わった水田である。
農家の人にとって、水を張った田んぼは神聖にして侵すべからずの聖地である。 そこを不気味な怪鳥が走り回り、苗を踏み荒らしでもしたら、、、と思うと、生きた心地がしない。

エミューはおとなしくて人懐こい鳥だが、図体の割に怖がりで、パニくると凄いスピードで駆け回る。
そうなると、もう誰にも止められない。
力も強いので、運よく捕まえたとしても、蹴飛ばされる危険もある。

というわけで、最初は穏便にエサで釣ろうとしたが、警戒してまるでついてこない。
自分で飛び出したくせに、中に入れて~!と、柵の側を離れない。
エサ作戦は早々に見切り、馬用の長いリードを身体に巻きつけ、引っ張ることにする。

幸い、リードはおとなしくかけさせてくれた。
しかし、入り口まで連れて行くためには、一旦、柵から離れる方向に移動しないといけない。
それを嫌って暴れる暴れる。 少しでも仲間から遠ざかるのが怖いのだろう。
そーだよなー、怖いよなー。

いっそ持ち上げて柵の上から放り込んでしまおうと、今度は脚立を運んでくる。
しかし、柵もエミューも脚立もみんな180cmくらいある。
暴れるエミューもろとも地面に落下する図が頭をよぎり、決行する勇気が出ない。

進退窮まる。
思わずその場にしゃがみ込んで幼児に退行したくなったが、それでは何も解決しない。
しかたなく、力づくで引っ張っていくことにした。
幸いにも、一度抵抗して横倒しになってからは、そのままズルズルと引きずられていく。 (猫も羊もそうだけど、動物って引きずられると脱力する習性があるんだろうか?)

とにかく、表面的にはいつもの状態に復帰した。 エミューたちは、何事もなかったかのように敷地を歩き回っている。
しかし、「柵を飛び越えられた」という事実は重くのしかかったままだ。
何か対策を講じないとなぁ~。



金曜日, 5月 09, 2014

残業の鬼

↓の記事「日本人は怠惰だ」を読んだとき、以前、同じ会社に勤めていた人物を思い出した。
以下はその思い出話。(オチも教訓もウンチクも無いので安心してください)

彼は会社の購買部門に所属していた。
その部門は、500人超の事業所の購買業務を一手に担っており、確かに忙しい部署ではあった。

それでも、月150時間を超えることが珍しくないという、彼の残業時間は尋常ではなかったと思う。
たぶん労働基準法に引っかかっていたはずだが、当時はその辺の運用はルーズだった。

業務が多かったことを差し引いても、彼の場合、明らかに仕事の効率が悪かった。
机の上には処理を待つ帳票が山と積まれ、発注した社員からの督促電話が頻繁にかかってきた。
それを避けるためなのかどうか、彼は日中はほとんど席につかず、外出や会議と称して姿をくらましていた。
そして終業時刻がとうに過ぎた頃、どこからともなく現れ、おもむろにデスクワークに取り掛かるのである。

ある日、珍しく勤務時間内に着席していた彼のもとに、とっくの昔に購入依頼したのにどうなってるんだ!?という、キレ気味の電話がかかってきた。
一瞬、あたりに緊張が走り、近くの者は耳をそばだてた。
その書類が机上の山に埋もれていることは、誰もが確信できたからだ。
人々の関心は、事態の推移というより、彼がどんな釈明をするかに集中していた。

しかし次の瞬間、彼は涼しい顔で言い放った。
「書類が来てませんね。出し直してください。」
誰もが耳を疑い、正義の通らない世の中を呪った。

定休日の土日は、毎週のように出社(休出)である。
休出時の彼の勤務内容は、平日以上に謎に包まれていた。
いくつかの目撃情報-構内を散歩していたとか、自家用車を洗車していたとか-は出回っていた。
あくまで「噂」という形でだが。
それが本当なのか、あるいは悪意のこもったデマなのかは、今となっては確かめようもない。
ただ、そうやって残業時間を積み重ねても、書類の山は一向に減らなかった。

おそらく彼には、本給を軽く超える残業代が支給されていたに違いない。
「残業残業で身体ボロボロっすよ」とこぼす彼の顔は、その言葉の意味とは裏腹に、イキイキとしていた・・・らしい。

もう20年くらい昔の話。
その後、彼がどうなったのかは知らない。
たぶん年相応の役職に就き、部下に訓示してたりするんだろう。
「仕事は効率です」とか。

月曜日, 5月 05, 2014

覚え書き

とりあえず、夏までにやっとかないといけないこと。

 羊の毛刈り
 あちこちの草刈り
 第二放牧場の柵直し
 ログ小屋のデッキ修理
 ログ小屋のペンキ塗り直し
 裏庭への砂利撒き
 第一放牧場の鹿柵修理
 薪集め
 犬エリアの遮光ネット張り
 ・・・

もう、仕事なん かしてる暇ありません!

土曜日, 4月 26, 2014

ライダウンの抜け殻

一昔前に流行った「芸能人は歯が命」に倣えば、さしずめ「シープドッグは目が命」。

犬種の中で一番目が強いのが、たぶんセッターやポインターの類で、彼らは獲物を見つめると身体が固まってしまう。ボーダーコリーはそこまで極端じゃなくて、睨みながらも動くこともできる。

「見つめる」ことは、その衝動を持つ個体にとってはそれ自体がSelf Rewardingな行為とされていて、これという指示や報酬が無くても、延々と睨み続けることができる。
この衝動は人間には理解しにくいが、もしかしたら、ゲーム中毒やスマホ依存も似たようなものなのかもしれない(違うと思うけど)。

るぢ男くんの目はそれほど強い方じゃないと思うが、それでも朝夕の動物世話タイムには、自分の出番が来るまで、延々とニワトリを見つめている。
誰に頼まれたわけでもないのに、風が吹こうが雨が降ろうが、ベッタリ地面に伏せ、見張り続ける。(ちなみにこの見張りは何の役にも立っていない。トリたちは、るぢ男の目の前でエサを啄んだり、頭を踏んづけていったりするからね)
ほとんど芝居がかった生真面目さは、バッキンガム宮殿の衛兵を思わせる。

先日、おもしろい光景を見た。
ニワトリを見張るるぢ男くんの様子がなんとなくおかしい。
いつものように伏せてはいるものの、身体に力がこもってないというか、目が虚ろというか。。。

パッと見にはわからないだろうが、毎日彼の様子を見ている私たちの目はごまかせない。
まさに、「心ここにあらず」。
犬も仕事のフリをするんだ~、と妙なところで感心した。

理由は不明。
様子がおかしかったのはそのとき限りで、それ以降は今までと変わらず監視に精を出している。
体調が悪いとか、恋に悩むとか、人生に疑問を感じるとか、、、まあ、犬にもいろいろと事情があるのだろうと、あえて好意的に解釈している。

水曜日, 4月 23, 2014

バリカニック・ハイ(2)

↓だけでは記事にならないので、書いておきます。

買ったんですよ、、、3羽目のバリケンを、、、じゃなくて、2台目のバリカンを!
ごめんなさい、どうも感情のコントロールがうまくできないので、ぐふっ。

ちょっとというか、めちゃ高かったですが、エヘッ、軽量の羊バリカン。
そうやね、カタログの文言を書き写してみましょ。

「他社のバリカンに比べて10%以上の小型化および20%軽量化が施されているので、自然と強いグリップ感を味わうことができ、まるでバリカンを身体に装着するといった感覚に近いものがあります。」

あははははは、、、失礼。
「バリカンを身体に装着」して何がうれしい?とゆーツッコミは置いといて、とにかくまぁそういう次第ですわ。

いやー、毎年(このシャレわかります!?)、ちょっぴりユーウツだった羊の毛刈りが、今年は楽しみになりました。
これで、去年までの苦労が、実は腕じゃなく道具のせいだったということが証明されるでしょう。
夢の2人同時作業も実現します。

というわけで、ゴールデンウィークは毛刈りウィークということで、ちょっとずつ片づけていきます。
見学/体験したい方はぜひファームにいらしてください!!

何より、くぅぅ~、絶好調のまろと会えます!

バリカニック・ハイ(1)

ふふふふふふふ・・・

以上

土曜日, 4月 19, 2014

お前が言うな、って話ですが

この「日本人は(案外)怠惰である」という記事、おもしろいです。

自分も含めて、確かにそんなところがあると思う。
私たちが「勤勉」と思いこんでることって、案外、同じことを繰り返すことで知的負荷を軽減していることと、イコールだったりする。

最近は「おもてなし」が大流行りだけど、本当に「おもてなし」したいなら、相手のことを理解しなくちゃいけないと思うし、本当に相手のことを理解したいなら、自分が変わる覚悟がいるのだろう。

相手が動物でも同じことだと思う。


火曜日, 3月 18, 2014

熱血るぢ男が行く

るぢ男くんは、熱い男だ。
だからなのかどうかわからないが、暑さに弱い。

るぢ男くんは、この時期になるとガクンと食欲を落とす。
3月にして、早くも夏バテなのだ。

ついこの前まで、エサ皿を見るとぶっ飛んできてたのに、ここ数日は、物憂げに顔を上げて「あ、ご飯ね。そこ置いといてください」という感じ。むかつく~。

仕事もいいかげんになってきて、羊の餌やりの途中にフといなくなったかと思うと、作業が終わった頃にお隣さん(と言っても30mくらい離れてる)の畑からトコトコ帰ってきたりする。

例年、彼が絶好調になるのはほとんど12月に入ってからだし、それが3月にはもう終了。。。
オフシーズンが9ヶ月というのは、ちょっと許しがたい。
ツンツンの薄毛のくせに。


仕事中のるぢ男


...じゃなくて、こっちだ

水曜日, 3月 12, 2014

すし屋の呼び名に関する件

週一くらいのペースで大手チェーンの回転寿司に通っている。

寿司が好きというよりは(好きだけど)、すし屋の駐車場にある自動精米機のヌカをいただくのが目的。
ヌカとオカラは、ファームの2大食材だからね。
最近は、犬たちもご相伴にあずかったりしている。

子供の頃、外食で寿司というと超ド級の高級料理だったけど、たぶん今の子供にとって、すし屋と言うのはイコール回転寿司のことだと思う。
だとしたら、もうそんな無粋な名前は止めて、単に寿司屋と呼べばいいじゃないか。
そのかわり、普通の寿司屋のことを固定寿司とか板前寿司とかカウンター寿司と呼んで、プレミア感を出しましょう(自分でも、何を言ってるんだか...)。
それにしても長い間ご無沙汰だな、カウンターのすし屋。

アメリカでも、寿司の定着ぶりはすごいらしい。
以前は高級日本料理店というイメージがあったが、最近は、なじみ深いパック入りの寿司がスーパーで普通に売られている。
それを休憩時間なんかに買ってきて、パパッと食べる。
箸の使い方も堂に入っている。
ほんの10年くらい前は、それこそ箸にも棒にもかからないほど不器用だったくせに。
でも、まだ味噌汁は飲めねーだろ。

日曜日, 3月 02, 2014

シープドッグいろは歌留多 ゑ~京

【ゑ】Aはいらないアジのもの
   ←縁は異なもの味なもの
Aフレームを使うのはアジリティ

【ひ】ヒルは一代眼は末代
   ←人は一代名は末代
どんな立派な牧場も一代で潰れるが、シープドッグは継承される

【も】目前の子羊慣れぬ脚を踏む
   ←門前の小僧習わぬ経を読む
子羊のくせに、イッチョマエに前脚で威嚇する

【せ】正確にはカエル腹
   ←背に腹はかえられぬ
「体格が良い」というのは誉め言葉とは限らない

【す】スイカの実を食う?
   ←粋が身をくう
基本、何でも食べます。

【京】京の田舎にあり
   ←京に田舎あり
〇〇ファームのこと?



 

日曜日, 2月 23, 2014

シープドッグいろは歌留多 あ~し

あまり面白くもないのになぜ続けるかというと、それは、始めてしまったからです。。。

【あ】頭掻けても尻掻けず
   ←頭隠して尻隠さず
(犬ってふつうそうでしょ)

【さ】柵も木から腐る
   ←猿も木から落ちる
(もう年がら年中、柵の修理をしてる気がする)

【き】極めてお気楽、見事に遅刻
   ←聞いて極楽見て地獄
(中にはゆるゆるの犬もいて、あろうことか仕事に遅刻する)

【ゆ】悠々自適
   ←油断大敵
(引退したシープドッグが母屋でのんびりと暮らす様)

【め】目の上のタン
   ←目の上のたんこぶ
(トライカラーにはよくありますけど、それが何か?)

【み】身内から出た恥
   ←身から出たさび
(どこに出しても恥ずかしいヤツというのはいる。人も犬も)

【し】知らんわ、ほっとけ
   ←知らぬが仏
(勝手なことをする犬は放っておくに限る)


土曜日, 2月 22, 2014

オトナのフリ

中高生の頃、中年越えのオッサンと言えば、理解も共感も及ばない、完全に隔絶した存在だった。別に悪口じゃなく、オッサン達は確かに不格好で横柄だったりもしたけれど、人間社会というものにどこまでも通暁した安定感抜群の存在、という意味でだ。
それに引き替え自分は、無知で無力で、強がるくらいしか世渡りの武器の無い、情けない存在だった。それでも自分も歳を重ねていけば、どこかで別人種にガラリと生まれ変わるのだろうと、何となく思っていた。
今、実際に馬齢を重ねてみて、それが間違いだったことがわかる。

その頃と今の心根は、見事なくらい地続きだ。
全く同じとは言わないが、少なくとも断絶は無い。
もし今、14歳の容姿になれたとしたら(なりたくないけど)、違和感なく高校生活が送れる自信がある。
それを確かめる術は無いし、実際にはそうじゃないのかもしれないが、そういう風に思えてしまうとところは否定できない。

何が言いたいかというと、オトナというのはなるものではなくて演じるものだということが、段々とわかってきたということ。
最近、つくづくそう思う。
子供っぽい欲望やわがままは、いつまでもたっても消えて無くならないことが、実際に歳を重ねてみると骨身に沁みてわかる。

多分私たち大人はみんな、常識をわきまえたオトナを演じることで、周りの人間から信頼され、時には頼られたりもしながら、それを隠れ蓑にして世の中を渡っている。ミもフタも無い言い方だけど、それが実情だと思う。

ある種の社会的地位にある人たち、例えば学者や社長や芸能人やアーティストなどには、子供っぽい人が多い。それは彼らが選択的に子供っぽいのではなく、彼らの職業がそういう風に認知されていて、ことさらオトナを演じなくても、周りからちゃんと遇されるからだろう。
「老人」もそういうポストの一つで、よく「老人になると子供に還る」と言われるけども、それは長く生きたということで一目置かれ、仮面を着ける必要が無くなったという面もある。

...とここまで書いて、急に書く気力を失ったので止めます。
コドモだから、許してね。

水曜日, 2月 12, 2014

シープドッグいろは歌留多 や~て

【や】焼くもの無いの?全然肉無い!
   ←安物買いの銭失い 
(犬連れBBQでは、往々にして悲劇が...)

【ま】巻き尾はちょっと
   ←負けるが勝ち
(Jの字は好まれるが、背中の上まで巻いた尻尾は敬遠される)

【け】毛はみ出て薄く
   ←芸は身を助く
(く、苦しい、、とても苦しい、、、でもそれが快感)

【ふ】笛は鳴らねどタカが用事
   ←武士は食わねど高楊枝
(コマンドが無くても、日々の用事くらいは犬が勝手にやってくれます)

【こ】ころがされて強ぇ~
   ←ころばぬ先の杖
(強い羊に頭突きされて、すっ転がされるときもあります)

【え】得てして音を上げ
   ←得手に帆を上げ
(最初に威勢の良い犬は、バテるのも早い)

【て】停止をすれば良いんだし
   ←亭主の好きな赤えぼし
(ライダウンは、形はどうあれスピードが緩まればOK)

日曜日, 2月 09, 2014

フル天才

「振る」という行為は、先端に付着した、あるいは内部に残存した水様物を散逸させるために、子供未成年高齢者含めたほぼ100%の男性が日常的に経験している。これを怠れば、起立や収納の際に、不覚の一滴が衣服に付着あるいは床に落下することとなり、極めて不愉快な事態を惹起する。
自分の場合、当該行為を5歳齢から1日平均5回実施してきたとすると、今までざっと8万9千回繰り返したことになり、これは日本に生息する動植物種に匹敵する数字である。だからどうというわけでもないが。

世の中には1万時間の法則というのがあって、これは、一般に天才と言われるパフォーマンスが実は生まれもってのものではなく、ほとんど例外なく1万時間に及ぶ専門的トレーニングの賜物である、という説。雑誌記者のマルコム・グラッドウェル氏という人が「天才」と言われた偉人たちを調べ上げ、この法則を見出したらしい。
何だそんなもんかと一瞬思うが、1万時間と言えば、1日5時間のトレーニングをしたとして、それを5年以上休み無しで続けないといけないわけで、やっぱり尋常じゃない。それだけ努力できるということが、生まれつきの才能なんじゃないの?と思ってしまう。

でも、ちょっと待ってほしい。

もし一回の行為に1/10時間=約6分の時間をかけていれば、「振る」ことにかけては天才の仲間入りができたかもしれないということか。もしそういう競技があったとしたら、今頃ソチに行っていたかもしれない。いや、さすがにオリンピックは厳しいとして、ちょっとした名士とかカリスマとか教祖とか、少なくとも地方の有名人くらいにはなっていただろう。惜しいことをした。

さ、現実逃避はこれくらいにして、動物の世話をしにドロドロのフィールドに出ていくことにしよう。

 

火曜日, 2月 04, 2014

シープドッグいろは歌留多 ら~く

【ら】ライダウンあればクロッシングあり
   ←楽あれば苦あり
(単純な作業から高度な技まで、一通りこなせるようになること)

【む】無理に通せばそれがシェディング
   ←無理が通れば道理ひっこむ
(群を二手に分けるため、強引に羊の隙間を通させる)

【う】うしろから出たとこ勝負
   ←うそから出たまこと
(ルックバックで見えない羊を追いに行きます)

【ゐ】いぬが見えても動じない
   ←いもの煮えたもご存じない
(こういう羊はトライアルドッグにはしんどい、、、かも)

【の】のど元撫でれば背中丸まる
   ←のど元すぎれば熱さ忘れる
(のけぞって抵抗する羊も、腹を撫でてやれば丸くなって毛が刈りやすくなる)

【お】追い手が子羊を従え
   ←老いては子に従え
(強い犬ほど子羊には優しいので、子羊がついていくことも)

【く】臭いものにはダイブ&ロール
   ←臭いものにはふた
(犬のクセは千差万別なのに、これだけはなぜか共通)
 

土曜日, 2月 01, 2014

失礼とかそういうレベルじゃないかもしれない

何なんだろう、この激しい物忘れは?

一週間前に今日の4時に事務所に伺う約束をして、それを午前中までは当然のように覚えていたのに、午後にはもうキレイさっぱり忘れていた。

代わりに何をしてたかというと、3時53分からやってる「最高の離婚」の再放送を見逃さないために家の用事をどうかたづけたらいいかとか、そんなことばかり考えていた。
で、先方から電話がかかってきたときは、あんだようるさいな、今いいとこなのに(怒)状態で、不機嫌声で応答する始末。

平身低頭。

もう、健全な社会生活を送れない身体になってるのかもしれない。
 

火曜日, 1月 28, 2014

シープドッグいろは歌留多 よ~な

【よ】横の隅から顔のぞく
   ←よしのずいから天のぞく
(犬がいない!と思ったら、羊の群からヒョッコリ顔を覗かせたり)

【た】To be a Mi Ti Do Re, you wanna shake.
   ←旅は道づれ世は情け
(農夫たちが音階に託した羊追いの極意。意味は「ミ・シ・ド・レでやってみ、シビれるぜ!」)

【れ】猟犬は口で逃すし
   ←良薬は口ににがし
(ハウンドドッグは吠えて羊をバラけさせちまう、というシープドッグのグチ)

【そ】走力の迅速
   ←総領の甚六
(ちょっと意味不明。走力があって身のこなしが敏捷ということかなぁ?)

【つ】杖も数本
   ←月とすっぽん
(恰好を気にするなら、クルークもTPOに応じて用意しておきたい)

【ね】猫にはケリを入れ
   ←念には念を入れ
(本当の敵は室内にいる)

【な】ナイスランにパチパチ
   ←泣きつらに蜂
(見事なランに会場からまき起こる拍手)

土曜日, 1月 25, 2014

シープドッグいろは歌留多 ち~か

【ち】チビも追われりゃ群となる
   ←ちりも積もれば山となる
(ルール知らずの子羊も、ちゃんと追ってやれば群れるようになる)

【り】リーダー犬の子沢山
   ←律義者の子沢山
(人も犬も「英雄色を好む」のは一緒のようで)

【ぬ】濡れ手でおさわり
   ←濡れ手で粟
(作業着にタッチするのを許すなら、外出着の時でも許さないと犬は混乱する)

【る】るぢもカラスも照らせば光る
   ←瑠璃も玻璃も照らせば光る
(真っ黒けで見えにくいが、日光の下では目立つ(苦し紛れの身内ネタ))

【を】主にカネボウ
   ←鬼に金棒
(ハンドラーのレインコートはほとんどが某素材メーカー製らしい)

【わ】われさきにドジぶた
   ←われなべにとじぶた
(フィールドに入ってしまったドジな豚を、先を争って追いかけるシープドッグたち、、、ってどう考えても設定に無理があるなぁ)

【か】帰りのつらを見ず
   ←蛙のつらに水
(作業を終えて帰るときに顔を覗き込んでこないのが信頼関係)


水曜日, 1月 22, 2014

シープドッグいろは歌留多 い~と

【い】犬も仰げば尊しわが師の恩
   ←犬も歩けば棒にあたる
(犬が師となるケースが多いのがシープの世界)

【ろ】碌でもない証拠
   ←論より証拠
(口くさっ!また、家畜のフン食ったろ!!)

【は】鼻よりかかと
   ←花よりだんご
(鼻キスするより、かかとに食らいついてくるヤツの方が圧倒的に多い)

【に】憎まれ犬、地に這いつくばる
   ←憎まれっ子、世にはびこる
(羊から見たらあの姿勢は憎たらしいに違いない)

【ほ】ホライゾンまでくたびれ大回り
   ←骨折り損のくたびれもうけ
(地の果てまでアウトランさせる気か!?このハンドラーは)

【ヘ】ヘマこいて尻すぼみ
   ←屁をひって尻すぼめる
(今日はすごく良いランだったのに、最後に失敗してぐだぐだに)

【と】トロ箱の冷や水
   ←年よりの冷や水
(暑い日には水浴び用のトロ箱に飛び込む犬が続出)

火曜日, 1月 14, 2014

極私的創世記 第2章

主なる神はヒトを連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。
イヌは寝てばかりで何の役にも立たなかったので、ヒトは朝に夕に勤勉に働いた。

主なる神はそのヒトに命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよい。しかし善悪の木からはこれを取って食べてはならぬ。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、ネコが最も狡猾であった。ネコはヒトに言った、「善悪の木の実を取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか。」

ヒトはネコに言った、「神はその木の実を食べると死ぬと言われました」

ネコはヒトに言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。

そこでヒトが見ると、その木はいかにも好ましかった。それでヒトはその実を取って食べた。
このようにして、ヒトの目は開かれ、それで自分が裸であることを知った。そこで、ヒトは、ネコの毛を剥いで身にまとった。

そよ風の吹くころ、ヒトは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それでヒトは、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。

神である主は、ヒトに呼びかけ、仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」

ヒトは答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」

すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。あなたは、なんということをしたのか。」

ヒトは答えた、「ネコがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」。

主なる神はネコに言われた、「おまえは、この事をしたので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは一生、満ち足りることがないであろう」。

さらにヒトとイヌとネコに言われた、「おまえたちは罪を犯したので、罰として名前を変えなければならない。ヒトを犬と、イヌを猫と、ネコを人と呼ぶことにする。そして互いに反目しながら一緒に暮らすだろう」

主なる神は、彼ら犬という名のヒトと、猫という名のイヌと、人という名のネコをエデンの園から追放し、のろわれた地で暮らさせることにした。

だから、犬は善悪を知る上に勤勉であり、猫は寝てばかりで役に立たない。そして毛を失った人は相変わらず狡猾で、満足というものを知らないのであった。



土曜日, 1月 11, 2014

日出ずる国でシープドッグを思う (6)

こういうことをアテも無く考えていると、結局、彼らを理解することなんか本当に必要なのか?という疑問に立ち返ってしまう。

シープドッグだろうが何だろうが、相手は犬なんだから、人さえ愉しめればそれでいいじゃん。
ほら、犬だってあんなに嬉しそうなんだし。
大体、仕事って言ったって羊なんかどこにもいないんだから、そんなことゴチャゴチャ言っても始まらないだろ?
てゆーか、あんた、そういう自分を気に入ってるだけなんじゃないの?
自分で楽しむ分には勝手だけど、それをよそ様に押しつけるのはどうかと。。。


そんな声があっても不思議じゃないし、むしろ、もっともだと思う。
それでも、自分は彼らのバックグランドを理解したいし、そうした方がいいと思っているし、できれば周りの人にも勧めたいと思っている。

なぜって、そうすることで彼らの魅力を一層強く感じるようになるし、逆に、至らないところに一々腹を立てずに済む(こともある)から。一見不可解な彼らの行動を理解するヒントを得られることもある。
そして何より、「知りたい」と願い続けることが、彼らと彼らを育んだ世界に敬意を払うことになると思うからだ。

って、ん~、本当か?
我ながら、後づけでキレイゴトっぽい匂いがする。
やめよう。
いっそ「惚れた女の過去が知りたくて何が悪い?」くらいに開き直った方がすっきりするかもしれない。

それでも、犬が自分の意志で作業に参加し、終わりの合図で同じくらいイキイキと帰ってくるのを見ると、たったそれだけで、小さな奇跡に巡り合ったように思える。
そんな犬を作り上げ、今日まで継承してきた世界に感謝したくなる。
まだ十分クサいけれど、これは正直な気持ち。

自分がイギリス人だったら、断固、シープドッグをユネスコの無形文化遺産に推薦するのに、、、って、「その世界」の人たちにとっては、ホントにどーでもいいことなんだろうけど。

(終)

木曜日, 1月 09, 2014

日出ずる国でシープドッグを思う (5)

例えば、これまで色んなボーダーコリーを見てきて、一つの性格類型が形成されつつあるように感じている。
Hiroと私の間では、それを「フワフワした犬」と呼んでいる。特徴を一言で説明するのは難しいが、ざっとこんな感じ。

 ・ファームにいる間中、わりと愉しそうにしている。
 ・頭と尻尾が常に上がり気味。
 ・他犬と一緒でもケンカはしない。
 ・広い場所に出るとフラフラし始める。呼びも聞いたり聞かなかったり。
 ・共通する評価は「家ではよく言うことを聞く」
 ・羊にも結構突っ込んでいく。ただ、すぐに気が逸れる。
 ・「じっと見つめる」仕草をしない。基本的にキョロキョロしている。
 ・人への愛想はよい。ただし、目で語りかけてくるような感じは無い。

要するに、アウェーの場でも機嫌良くしていられるし、そこそこ言うことも聞くんだけど、集中力が無いというか、荒々しくないというか、どことなく「とりとめない」印象を受ける。
もちろん違いといったってわずかだし、単なる個性の範疇かもしれないが、いろんな農場で出会ってきた犬たちとは、やっぱりどこか違うという感じが拭えない。

私たちは、こういう気質が、犬と暮らすことの日本的な常識・良識の中で生まれてきたのではないかと考えている。もちろん交配の影響も大きいだろうけど、それに加えて、屋内飼いによる生活境界の消失や、ある種特徴的な犬に対する態度・習慣が相まって、そのような性格が形成されるのではなかろうかと。

それが良いとか悪いとか、好きとか嫌いとかは、また別の話だ。
フワフワしていること自体が問題なわけじゃ無いし、むしろ可愛らしく、どこでも一緒に行ける良いパートナーだと言える。
ただ、シープドッグのDNAを携えた犬を、極東の国で自分たちの枠組みで育てているという事実、それが性格形成に関わっているかもしれないという可能性には、自覚的であるべきだと思う。

(続く)

水曜日, 1月 08, 2014

トト急逝

ファームを開いた時からずっと一緒だった、トカラヤギのトトが逝ってしまった。

一昨日の夜から寝たきりになり、昨日は何とか立たせようとアレコレやってみたが、カエルのように這いつくばるのが精一杯で、それ以上は何もしてやれなかった。

動物と暮らすということは、死が身近になることでもあって、そんなことはもう慣れっこだと思っていたのに、意外なほどショックがきて自分でも驚いている。

柵を壊されたり畑を荒らされたり、いつもいつも敵対関係にあったが、10年も一緒にいるとさすがに情が湧くのか。

この数年は病気がちでボロボロだったけど、よく頑張りました。
敵ながらあっぱれ。

火曜日, 1月 07, 2014

日出ずる国でシープドッグを思う (4)

もちろん、シープドッグがお座敷犬でもスポーツ犬でもペットでも家族の一員でもなく、もともと農家で羊仕事を手伝ってきた犬だということは、誰でも知っている。しかし、この「誰でも知っている」というのが案外曲者で、それは「知ってるから誰もそれ以上突っ込んで考えない」ことでもある。
実際のところ、彼らが生活してきた世界を体感レベルで生々しく想像できる人は、この国にはほとんどいない(自分にはできない)。

なぜ、そこにこだわるかというと、もし「シープドッグとはどんな犬か」ということを少しでも掘り下げようとすれば、結局それは、「〇〇××の状況で、□□△△な振る舞いをする犬」という表現にならざるを得ないからだ。そして厄介なことに、この「〇〇××」には彼らが暮らしてきた世界そのものが含まれている。

例えば、羊に対する動き一つとってみても、それが地形や羊の気質や気候によって異なるのは、いかにもありそうだし、人の生活圏との距離や群との関係や自由時間の過ごし方なんかも関係ありそうだし、もしかしたら、食べ物や寝床の作りやトイレの作法でさえも、無縁ではないかもしれない。
結局、彼らを理解するためには、まず彼らのいた世界を理解する必要がある、、、とまぁそういうことになる。
当たり前だけど。

じゃーそーすりゃいーじゃん、と突き放されてしまいそうだが、それがそう一筋縄ではいかないのが、「枠組み」の面倒臭いところ。

そもそも「犬と暮らす」「犬と遊ぶ」「犬を躾ける」・・・ここ日本では常識(良識?)と言っていいような概念が、ことごとく当てはまらないのが彼らのいた世界だ。社会化とか散歩とか脚側とか、競技とか演技とかショーとか順位とか、車追いとか無駄吠えとか拾い食いとか、検査とか遺伝疾患とか毛吹きとかブリーダーの良心とか、、、そんなこんなとは無縁でいられたのが彼らの一生だ。
それを本当にリアルに思い描くことが、果たして私たちにできるだろうか?

あ、いや、それはさすがに言い過ぎだったかもしれない。
少し頭を冷やそう。

(続く)






日出ずる国でシープドッグを思う (3)

「枠組み」と言っても別に一枚岩みたいにドカンとあるわけじゃなくて、その人の生死に関わるような重大なものから、気にも留まらない軽いものまで、多種多様にある(規範、主義、信条、常識、偏見、信仰、価値観、パラダイム、世界観、趣味嗜好、固定概念、好き嫌い、思い込み、こだわり、オレ流、、、等々)。
ただ、どんな枠組みでも一旦それとして登録されると、緩めたり解除することは想像以上に難しい。「授業で得た知識」のような、たぶんもっとも更新しやすい部類の枠組みでさえ、B君のようにあの手この手で抵抗してみせる生徒は、決して少なくない。

目新しく馴染みの無い事象でも、手持ちの枠組みで理解できる(ように思える)場合は少なくない。もちろん、その方が知的な負荷は少ないから、往々にして人はそれで押し通そうとする。しかし実際には、枠組み自体を拡げないと本当には理解できないことが、世の中にはゴマンとある。
そして厄介なことに、枠組みを拡げることの必要性とメリットは、実際に拡げた後になってみないと、金輪際わからない仕組みになっている(勉強の必要性が子供にはわからないように)。

ということで、ここまでが長い前フリで、ここから強引に話をシープドッグに振る。
「羊のいない国でどうやってシープドッグとつきあう?」というのは、Fair-rings Border Collie Centreとして掲げてきたテーマの一つだったりするのだが(実はそうだったんですよ!)、その前段に当たる「シープドッグを理解する」ことが、すでに十分難しいんじゃないかということを、最近しみじみと感じている次第。その理由を考えていて浮かんだのが、この枠組みの話だったのです。

今、日本には犬に関わる情報が溢れていて、それが多かれ少なかれ、私たちの頭の中に枠組みを形成している。それは確かに、私たちの「犬との暮らし」を豊かにしてきてくれたのだが、それが逆に、シープドッグ理解の妨げになってるのかもしれない、と。

(続く)

月曜日, 1月 06, 2014

日出ずる国でシープドッグを思う (2)

もともと人間というのは、頭の中に独自の「枠組み」を持っていて、それを通してでないと、出来事を認識したり、行動を選択したり、社会生活を営むことができない(つまり、何もできない)ことになっている。
それは子供とて同じで、彼らなりの枠組みで親/先生/友人たちとつき合い、学校/家庭生活を送っている。そして教科の内容も、知識や考え方という、知の枠組みの重要な構成部品である。

新しい単元に入るとき、B君は精一杯、理解しようと努めてくれている(と思う)。ただ、あくまで手持ちの枠組みで済ませようとするため、それで手に負えないような新しい概念が提示されると、反射的にストッパー回路が働らく。それが、矢継ぎ早の合いの手という形で表現されるのだろう。

もう言うことの予想がついたと思うが、A君はたぶん、その枠組み自体が柔軟なのだ。新しいことが入ってくると、一時的に手持ちの枠組みを緩めたり、( )に入れたりできる。口を半開きにしたヌエのような表情は、無防備な心の状態が表出したものだろう。
そして、わからないなりに説明を鵜呑みし、しばらく反芻していると、やがてどこかで「腑に落ちる」時が来る。たぶん、この時に出てくるのが、場違いな「あ、そっか」だ。
同時にそれは、知の枠組みが再構築されたことの合図でもある。
根拠は無いけど、そんな風に思っている。

B君はよく「要するにどういうこと?」と説明を求めるのに対し、A君は「それって〇〇ということでしょ?」と自分で要約できたりする。
この差は大きい。
ちょっと応用問題になると、B君はまた一から説明し直しですからね。

(ちなみにB君は普段から腰が低い。旅行のお土産を手渡す際に、いつも出来が悪くてスミマセンねぇと言い添えるその姿には、中学生にしてすでに苦労人の風情がにじみ出ている。彼は、人とのネットワークで枠組みを大きくするタイプなんだろう。安心しろB君、君は絶対出世するから)

(続く)


日曜日, 1月 05, 2014

日出ずる国でシープドッグを思う (1)

新年早々、回りくどい話になります。

縁あってここ一年くらい、塾講師のアルバイトをしている。
個別形式だから、教えた生徒は30人にも満たないくらい。これっぽっちで何かを語るのも何ですが、感想めいたことを一つ。

今、頭に浮かんでいる2人の生徒。
A君は、こちらが新しいことを説明しだすと、ほとんど毎度、顔つきがボワーッとしてくる。もしかして死んでる?というくらい反応が薄いので、どうしてもこちらから一方的に説明することになる。そのうち、というか場違いなほど後になって、「あ、そっか」とか「おお」とか呟いたりしている。
なかなかどうして、やりにくい。

対照的にB君は最初から積極的、「ここ、教えて!」と迫って来る。内心不安な新米講師としては、こういう前向きな発言はとてもうれしい。おお、そうかとばかりに説明を始めると「なるほど」とか「わからない」とか「あ、ちょっと待って」とか、盛んに合いの手を入れてくる。こちらも調子に乗ってぐいぐい説明する。

で、A君とB君、どちらがよく勉強できるかというと、実はA君なのである。それも圧倒的に、と言っていいくらい。
この違いはどこからくるのだろう?

B君が受講をおろそかにしてるかというと、そんなことはない。自分の成績にも、人一倍不安を持っている。ただ、何となく感じるのは、彼が盛んに言葉を挟んでくるのは、関心や意欲が高いからというよりは、それによって何かを守ろうとしてるんじゃないか、ということだ。
何か、というのはもちろん彼自身のことだが、もっと言えばそれは、彼がこれまでに築いてきた「知の枠組み」みたいなもの。

(続く)



木曜日, 12月 26, 2013

ペットと飼い主の微妙な関係

「大体、俺の家に居候してるくせにでかい面しやがって、ぐーたらしてるくせに飯はたらふく食うし、ゆっくりしたいときに限って遊びたがるし、部屋汚すし、臭いし、うるさいし、バカな上に性格悪いから、もうどうしようもないんだけど、たまにあどけない寝顔なんか見ちゃったりすると、憎めないんだよね~、これが」

以上、飼い犬に対する人の、、、じゃなくて、人に対する飼い猫の感想でした。


金曜日, 12月 13, 2013

写真のお蔵出し

備忘録も兼ねて、携帯に残ってた写真を貼り付けます。
それにしても1年でたったこれだけとは、本当に写真撮らないやつ。

11/29
シープドッグトライアル界の重鎮、アレッド・オーウェンさん@ふれあえない牧場
トレーニング前後の犬の扱いが丁寧なところに感心。

12/19
ストーブとマブダチ状態の老犬。
気がつけば、もう13年も苦楽を共にしてきたわけで。


2/9
鹿柵の設置作業。営農委員会の作業に駆り出されたときの一枚。
真冬の山の中の作業、ホントにしんどかったっす。(涙)
(モデルはまろじゃないから。為念)

3/7
発作的に撮った、JR東海エキスプレスカードの記念写真。

3/31
そうそう、軽トラ市という蚤の市みたいな催しにも参加しました。
売上げは?でしたが、愉しい経験でした。
面倒臭いから、二度と出ないけど。


 7/8
おお、一気に夏になってる。
もっちっちが水浴びに挑戦。毎日、世界が拡がっていく。

10/22
と思ったら、もう秋だ。
これは鳥の脱走の証拠写真。
なぜか塀の上で集合してから、一羽ずつ整然と飛び出していきやがるんです。

12/1
今年は宮当番(の添番)という、村の神事の世話役をしていました。
これは、宮講のために準備した神棚。
本当にご苦労さまでした、自分。


水曜日, 12月 11, 2013

時代と記憶

さっき、ゲストと話してる最中に、あの曲がインターネットラジオから流れてきた。

 まろ  「お、なつかし~」
 ゲスト 「何がですか?」
 まろ  「いや、この曲がね」
 ゲスト 「はぁ...」(怪訝な表情)
 まろ  「えっ!知らないんっすか!?この曲」
 ゲスト 「全然」

ショック。
いつのまにか、「戦争を知らない子供たちを知らない大人たち」の時代になってたんやね!?

年号や世紀が代わったときよりも、リアルに時の流れを感じた。
本当に、歌は世につれ世は歌につれ、なんですね。
そう言ってるうちに、いつかは「尖閣も竹島も知らない子供たち」の時代が来るんだろうか。
新法案ができちゃったから、「〇〇を知らされない子供たち」かもしれないけど。

全然関係無いけど、今朝、保温カーペットの電源が入れっぱなしになっていることを、Hiroに注意された。
これまで何度も見咎められて、その度に口惜しい思いをして、もう絶対忘れまいと決意したはずなのに、どーもこーも、このザマよ!(@家庭教師のト〇イ)

何でなんだろ?
ド忘れにも無意識の願望がある、と言ったのはフロイトでしたっけ?
いろんな屈託を抱えるまろでも、さすがに保温カーペットには恨みもトラウマもコンプレックスも無いはず(考えてわかるくらいだったら、無意識じゃないけど)。

あ、もしかして、ボケの始まり?
これが一番リアルかも...

土曜日, 12月 07, 2013

極私的みわファーム創世記Ⅱ

ついで神は「家畜たちを統べるため、働く獣を生ぜよ」と言われた。
すると、シープドッグが生まれた。
神はシープドッグに家畜たちをつかさどらせた。神は見て、それを良しとされた。
神はこれらを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、放牧地に満ちよ」。
また夕があり、朝となった。第五日目である。

そして神は言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに放牧地の家畜と、シープドッグと、この地に関わるすべてのものを治めさせよう」。
神はこのように、人を創られた。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とを区別された。

神は彼らを祝福して言われた、「この地をみわファームと名づけ、地を耕し、家畜たちを養い、人々を迎え、健やかに生きよ」。
そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。それは非常によかった。
夕となり、また朝となった。第六日目である。

こうしてみわファームのすべてが完成した。
神はそのすべての作業を終えられ、第七日に休もうとされた。しかし、シープドッグたちが仕事させろと騒いだので、結局休めなかった。
神はその第七日を聖なる日としたかったが叶わず、腹立ちまぎれに柵の一部を壊してしまわれた。そして、それをみだりに修理することを禁じた。

これがみわファーム創生のすべてである。
柵が壊れたまま放置されているのは、人の怠慢ではない。
 


極私的みわファーム創世記Ⅰ

はじめに荒地があった。
地は形なく、泥がおおい、草むらの上を神の霊が漂っていた。

神は「柵あれ」と言われた。すると柵ができた。
神はその柵を見て、良しとされた。そして地を柵の内と外に区別された。
神は柵の内側を放牧地と名づけ、外側を竹林と名づけた。
夕となり、また朝となった。第一日目である。

神は言われた、「泥と草は一つ所から退き、かわいた地面が現われよ」。すると、そのようになった。
神はかわいた地面を宅地と名づけられ、柵で囲い、住処を作られた。神はそれらを見て、良しとされた。
夕となり、また朝となった。第二日目である。

神はまた言われた、「放牧地は種をもつ草と、種のある実を結ぶ果樹とを芽生えさせよ」。放牧地は、そのようになった。
そこで放牧地は、種をもつ草と、種のある実を結ぶ果樹とを生じた。神は見て、それを良しとされた。
こうして夕となり、また朝となった。第三日目である。

ついで神は「放牧地は、その草を刈るため、草の種類にしたがって家畜を生ぜよ」と言われた。すると、放牧地より羊とヤギと馬とカモとニワトリが生まれた。
神はそれを見て、良しとされた。
こうして夕があり、また朝となった。第四日目である。
 

土曜日, 11月 30, 2013

ドクターX

突然ですみませんけど、ドクターXの大門未知子に腹立ててます。
なんで、いつもいつも仏頂面なんだ、と。
組織と権力に阿らないポリシーを態度に表してるんだろうけど、あれはどう見ても、子供が拗ねてるようにしか見えん。

「誰の力も借りません」的な一匹狼を気取るくせに、病院の設備や人手は当然のように利用する。
その手術用具は、誰が整備してると思ってるんだ?
最新設備を揃えるのに、どれだけ経理が頭を痛め、会議と稟議と事務処理を重ねたのかわかってんのか?
カッコつけて投げ捨てるゴム手袋だって、町工場のオッチャンが汗水垂らして作ってんだよ!、このバチアタリめが!
がるる、がるる~

そもそも、そんなに組織が嫌なら離れてりゃいいのに、何でわざわざ割り込んできて、ブーたれまくるのか。
それじゃー学校をクソみそに言うくせに、わざわざ毎日登校してきて、わざわざ授業を邪魔するガキと同じじゃねーかよ!

そんなんだと、わざわざ嫌なドラマにチャンネル合わせてマジギレするような、しょーもない大人にしかなれないぞ、と。
 

月曜日, 11月 25, 2013

劣等感

犬種柄、アチラもんのビデオを観る機会も多いのですが、その都度「かなわんなぁ」と思うことがあります。
いや、態度が堂々としてるとか、感情表現が豊かとか、ましてや英語がどうのこうのとかいうんじゃなくて(それもあるけど)、まず、彼ら彼女らの「手」に目が行ってしまうのです。

がっしりしてて、肉厚で、毛深くて、、、そんな手で、犬の頭から胴や胸のあたりをワシワシと撫でる。
荒っぽいんですが、どこか繊細で、包み込むような優しさもあります。
思わず、犬と手の間に自分の頭をねじ込んで、撫でてもらいたくなるような。。。
やっぱり握手文化の国の人は、手の表情も違うんでしょうかね?

そう思って自分の手を眺めてみると、なんか薄っぺらくてペタペタした感じ。
小器用そうではあるけれど、安心とか篤実とか信頼とかいう印象からはほど遠い。
こんな手に頭を撫でられても、あまりうっとりできないよなぁ。。。

犬って身体中を撫で繰り回される側だから、「手」の印象ってものすごく大きいと思うんですが、そこんとこどうなんでしょう?
少なくとも、好き嫌いくらいあってもおかしくない気がする。

撫でようとするとビミョ~に身体を避けるペグさんに、一度訊いてみたいもんです。
 

月曜日, 11月 18, 2013

天使のような

どこか透明感のある "I wouldn't say it to a friend, I wouldn't say ~♪" というボーカルに載せて、スマホを操る人たちが短いショットで次々に入れ替わるドコモのTVコマーシャルがあるじゃないですか?
いきなりですけど、そこに出てくる女の子に恋しました。

最初に出てくる育ちの良さげな子(笠井海夏子さんというらしい)じゃなくて、最後の方に0.5秒ほど登場する、音楽にノリノリになってるちょっとお頭の軽そうなロングヘアの女の子です。

可愛いなぁ。

そもそも男というのは、世の中の穢れを一切知らない天使のような女子が、この同じ空の下(それも案外近くの町)で生息していると、心のどこかで本気で信じている。
だから、そういう属性を記号的に表現したキャラクタ(白鳥麗子とか、ルパン三世のクラリス王女とか、三菱地所の女の子とか)に、郷愁にも似たリアリティを感じて、コロリと参ってしまうのです。
バカですねぇ。

で、その子のことが気になって、動画を検索してスティルで観てみたんだが、、、う~ん微妙。
最後の横顔は申し分無いのですが、映った瞬間の左向きの顔には清楚感が足りない。残念なようなホッとしたようなこれまた微妙な感じ。
と、いうわけで、儚い恋はあっさりと終わりました。

あ、でも、7人目に出てくるスマホを胸にかき抱くショートの子も可愛いやん...
 

日曜日, 11月 17, 2013

いちょう

ファームから近所のお豆腐屋さんにオカラをいただきに行く道中、大きな銀杏の木が見えるスポットがある。
「トンネルを抜けると」じゃないけれど、車一台がやっとの細い通りを抜けたあたりで、"ど~ん!" という感じで視界に飛び込んでくる。

木自体は普段から見慣れてるんですが、この時期は鮮やかに黄葉して、そこに夕日が差したりすると、燃え上がるように照り映えます。何かにつけて情が薄いと揶揄されるまろでも、荘厳さに打たれる思いがする。

ファームのある地域は、これといった特徴の無い寂れた農村ですが、その中で、この銀杏の木は数少ない好きな景色の一つです。
あと何回、その雄姿を見せてくれるでしょうか?


火曜日, 11月 12, 2013

もっちの残念

たまには、心暖まるひゅうまんな話を一つ。

ほとんど恒例のようになった、Hiroさんの九州遠征。
今回は羊4頭を運ぶ用事があったので、犬連れは無理かと半ば諦めていたが、友人の好意で羊を分乗させてもらえることになった。
で、めでたく犬連れ可になったわけで、じゃ誰を連れて行くか?って段になって随分悩んだあげく、ここは一つもっちっちで行ってみよう、ということになった。
別に事件や逃亡を怖れて悩んだわけじゃなく、ただ何かにつけて面倒臭くわずらわしいことになるだろうということが、何となく予想できたからである。

で、Hiroが帰ってきたのが昨日。
心配は杞憂に終わったようで、確かに人や犬に興奮はしたけど、ほとんどは落ち着いて対処できたらしい。そ、それは良かったね。
ただ一度だけ、車内に長時間閉じ込められたとき、ゲリPをあちこちになすりつけてしまったらしく、車内が大変臭くなってしまったとのこと。

中を掃除する間もなく、昨日のうちに、飼料のオカラを貰いに行かないといけない。
確かに、外から見ても車内は汚ない。
息を詰めるように運転席に乗り込み、気持ちを充分落ち着かせてからそっと空気を吸い込んでみると、、、
ん?
全然臭わない。
はは、そうか、ここ数日、風邪をこじらせて完全に鼻が死んでいたのだった。

人間、何がラッキーに転ぶかわからない。
以上、感動のエピソードでした。
 


土曜日, 10月 26, 2013

OctBlue

10月は油断ならない。

初めの頃なんてまだ夏の余韻があって、Tシャツ短パンでグダグダしてたのに、気候が良くなってきたからそろそろ動きだそうかとカレンダーを覗くと、なんと、11月がもうそこまで迫ってたりする。
「10月」という響きにはまだ余裕を伴った今年感があるが、11月と聞くととたんに押し迫ってきてしまって、背中にヒヤッとしたものが走る。

世にサザエさん症候群というのがある。
昔、これかなぁという経験が自分にもあって、日曜日の夕方になると不安なような焦ったような気分になって、会話もTVも食事も上の空で、それはそれは嫌な感じだった。
ちょっぴりそれと似ている。

別に年末が近づいたからといって焦る必要は無いのだが、嫌な感じの記憶だけがどこかに残っていて、フとした拍子に甦ってくるのかもしれない。
それもこれも、10月に油断してたからいけないのだが...


水曜日, 10月 23, 2013

日本初の...

実は人生相談の類が好きで、Yahoo知恵袋とかBiglobeなんでも相談室とか朝日新聞の「悩みのるつぼ」などを欠かさず愛読している。
おかげで、大分、パターンが読めるようになってきた。

近い将来、人生相談評論家としてデビューしようと思っている。
傾向と対策を出版したり、年間最優秀相談賞の選考委員になったり、回答の真摯度ランキングを発表したり、、、
どうしたらデビューできるか、今度、人生相談に相談してみよう。

今日はその中で一つだけ、、、男の言い分で一番多い「俺は"家族のために"必死に働いてるのに...」というのは、そろそろヤメた方がいいと思う。
家族を養うのだって、そうすると決めたのは他ならぬ自分なんだし、第一、もしじゃあ今この瞬間に家族がいなくなったとしたら、あなた仕事を辞めますか?
辞めないでしょう。
結局、自分のためなんですよ、仕事だって。

仕事も家事も、遥か太古の昔から、たぶん人間が社会生活を始めた時から続いてる行為なんであって、そういうのは大体、共同体を維持するためか、でなければ自分が成熟するためか、あるいは生を全うするためにどうしても必要な合理的装置だと相場が決まっている。
もちろん「家族のため」を励みにする限りは結構だけれど、それが恨みつらみになるようなら、自分の感覚を見直した方が良い。

...なんて偉そうなことを言う割には自分の生活がグダグダなやつって、メディア的にはウケるような気がしませんか?
 


土曜日, 10月 19, 2013

生まれ変わり?

どこかの犬種紹介の記事で「シープドッグは臭い」と書かれてるのを見かけたことがある。
偏見だと思う。
犬は汗腺が無いから人間より体臭は少ないはずだし、犬の中でも、ボーダーコリーは無臭な方だと思うし。

でも、やっぱりファームの犬どもは臭い。
天候や湿度によっては、ほとんど刺激臭さえ漂う。
ただし、もとからの体臭というよりは、生活習慣からくる後天的な臭いである。

最悪なのがペグさんで、なんせこの娘、馬糞とオシッコのぐちょぐちょの上にべったり伏せて、廓の掃除を観察してたりするからたまらない。
夏場は身体を冷やすのにも活用されているようだ。
それが生乾き状態になると"ツ~ン"とくる。

ペグは素のままと言おうか野生児と言おうか、頭の中がまるでわからないところは、若くして夭折した先代犬のジェスそっくりだ。
人には絶対逆らわないが、人の言うことなんか聞く耳持たない、、、と、この辺の機微がわかるでしょうか?
まろは、この手の犬にとても弱い。

最近は朝晩の羊仕事を手伝ってくれるのですが、目の使い方なんかすごく様になってきました。
ただ、相変わらず、まっすぐ羊に突っ込んでいきます。

That'll do以外にも、もうちょっと言うこと聞いてくれるとありがたいんだけど。
 

日曜日, 10月 13, 2013

究極の問い

Googleの検索欄に数式を打ち込むと、電卓の画面が出てきてちゃんと計算結果を返してくれる。
例えば「12*23+24」と打ち込むと「300」と返ってくる。
偉い!
では、「生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問の答え」と入力すると?
計算不能?
入力ミス?
いえいえ、「42」と返ってきます。

そう、宇宙の真理はなんと「42」だったのです。
なぜってこれが「全時代および全世界において2番目に凄い」コンピュータのディープ・ソートが750万年かけて出した答えだから。

...という気の遠くなるジョーク(?)の元ネタは、、ダグラス・アダムズ作の「銀河ヒッチハイク・ガイド」というSF(Googleの機能はこの作品へのオマージュ)。
実は昔からずっとこの映画が見たくて、先日、思い切ってDVDを購入した。

いやいやいや、噂にたがわぬ名作。
なんせ、映画が始まって10分後には、地球があっさり消滅してしまう。
その理由が「地球がハイウエイの建設予定地にあったから」ってあんた。

その他、乱暴な宇宙人がチョー官僚的だったり、優秀なロボットが重度のウツ病だったり、地球を攻めに来た大船団が「うっかり」サイズを間違って犬に食べられてしまったりとか、最高の苦笑ギャグ満載。
乾いていてシニカルでちょっぴり自虐的で、こういう笑いがイギリス風なんでしょうか?
最後はネタバレになるので書かないけれど、地球にもバックアップがあったというのは、映画とはいえ、うらやましかったです。

ところで、この一つ前の記事は、映画を観て頭が変になってたときに書きました。
我ながら、影響されやすい。。。

土曜日, 10月 12, 2013

神と羊

たまたま、みわファームに神が降臨した。

神は全智全能にして唯一無二のユビキタスな存在だから、姿形はどうだっていいのだが、その日はたまたま羊の恰好をしておられた。
で、放牧地でぼーっとしておられた。
(「ぼーっと」というのは、私たちのような卑小な生物が見てそう感じるだけであって、神はちょうどそのとき、あちこちの銀河で発生している大規模な星間戦争に心を砕いておられた、、、のかもしれない)

ファームには本物の羊が10頭ほどいた。
羊たちは新入り羊に違和感を感じたが、とにかく群れたがる動物だから、何となく近くに集まって草を食んでいた。
何かが起こるかもしれないけれど、それはそのとき考えよう、と集まった羊たちが考えたかどうかは、誰にもわからない。
神さまはまだぼーっとしておられた。

そのうち、夕方の片づけの時間が来て、羊を小屋に帰そうと、放牧地に犬が駆けこんできた。
羊たちは、犬を避けるため、か、あるいは早くエサをもらおうと、ワラワラと羊小屋に向かい始めた。

神さまは別に行きたくはなかったのだが、群に逆らうのもアレなので、何となく一緒に羊小屋に向かった。
(実はそのとき、意識はビッグバンの0.0003秒後の宇宙にあって、物理定数の修正作業をしていた、、、のかもしれない)

小屋に帰っても犬たちの追及は止まず、羊たちは一番奥の隅に、ぎゅうぎゅうと押し込められた。
神さま羊もその中にいて、コンクリートの壁と羊たちに挟まれる格好で立っていた。
あいかわらず、ぼーっとしたまま。

まろが小屋に入ってきた。
彼はいつも注意が散漫なので、羊の数が増えていることに、ましてや神さまが目の前にいることに気がつかなかった。

そして、なななんとその瞬間、100兆年ぶりに神様の意識が地球に向き、その0.1秒後に温暖化と人口爆発とシリア内戦と尖閣諸島と打倒マエケン問題を一挙に解決する名案を思いつき、それを近くの地球人に告げようとしたのだが、ちょうどまたそのとき、おばはん羊のでかい尻が顔にぶつかり、ムッとした瞬間にすべてのやる気を失ってしまった。

...ということで、まろの不注意で地球を救う千載一隅のチャンスを逃してしまった、、、かもしれない。
どうもそんな気がする。
ごめんなさい。

月曜日, 10月 07, 2013

ソフトボール大会の光と闇

地域のソフトボール大会に出場。
去年は天候が悪くて中止になったので、2年ぶりである。

結果は22対0だったので、これはもう正々堂々と惨敗と言ってもいいでしょう。
地域の交流とか親睦とか謳いながら、老いも若きもめちゃくちゃ本気になるところが田舎っぽいと言うか大人気ないと言うか、20点もリードしてるのに走塁妨害もどきまでして敵のホームイン阻止するか?普通。
ぶり返した暑さの中、中学校の白いグラウンドで立ちすくしたまま、1時間があっという間に過ぎていきました。

でも、実はそれほど気分は悪くない。
前にも書いたけれど、まろのプレイング・ポリシーは「自分さえ良ければ」だから。
もう少し詳しく言うと、自分が①致死的なエラーをしない、②会心のヒットを打つ、の2点さえ達成できればもうほとんど幸せなんであって、たとえ試合に負けようが、滅多打ちの辱めを受けようが、それほど苦にならない。
ほんとにヤなやつですね。
自分じゃなければブン殴ってやるのにと、自分でも思います。

というわけで、なにはともあれ、ファーストの守備機会はすべて無難にこなしたし、2度の打席(しか回ってこなかった。5回コールドだから...)では1安打を放った(一塁走者がセカンド・アウトになって、記録はセンターゴロだけど、自分的には狙い通りの超クリーンヒット)しで、まぁ80点くらいはあげてもいいじゃないでしょうか?

そのあと、恒例になった、みわファームのカフェで深夜まで打ち上げ。
人のプレイを屈託なく誉めたり貶したりできる、楽しい時間でした。

ほんと、、、チッコイわぁ、自分...
 

水曜日, 9月 18, 2013

惨!密室の犯行

今朝、裏庭のデッキを見てびっくり。



石窯の上に干してあった犬用フトンがバラバラに、、、
昨日、寝る前には何事も無かったから、どうやら賊は、夜中か明け方に忍び込んで犯行に及んだ模様。

裏庭への入り口は3つ。でも、、、


西門も、


東門も、


一番背の高い南側もちゃんと閉まってるから、どうも密室の完全犯罪らしい。

さては、おまえか!?


、、、いや、その余裕の顔つきはシロやな。

と、いうことは、、、



やっぱり、お前か...orz
 

木曜日, 9月 05, 2013

転換期

よく、講演や挨拶で「今、時代が大きく変わろうとしています・・・」的なことが、さも周知の事実であるかのようにシレッと言われたりするけれど、一体誰がそんなことを決めたんだろうか?
似たような言い回しに「激動の時代」とか「歴史の転換期」などがあって、思えば子供の頃からずっとそんなセリフを聞かされてきたような気がする。

若い頃は素直に「そうか、今が時代の変わり目なんだ!」と、それなりに焦ったり気を引き締めたりもしたが、これだけ言われ続けていると、さすがに「一体いつまで転換してるんでしょうか?」と先生に訊いてみたくなる。
自分が生きたのは昭和も30年ほど過ぎてからだが、もしかしたら明治大正の昔から、人はそんな風に言い続けてきたんじゃないだろうか?

お江戸三百年なんか、今から見れば十分「天下太平の世」だと思うが、当の江戸人たちは「今は安定期なんだから、来年も再来年も変わり映えしねーよ」などと挨拶したのだろうか?
どうも、違う気がする。

そもそも「時代の転換期」などというものは、遥か後世の人たちが判断することで、今この時がその歴史的な瞬間であって自分がその生き証人である、というのは、随分と自意識過剰で手前味噌な気分だと思う。

吉田タイガースが優勝した1985年は、積年の負け犬体質からの大転換期だと言われたが、実際には、2003年の優勝(星野タイガース)まで、悲痛な暗黒時代が続いたのであるからして。
 

木曜日, 8月 29, 2013

ダメじゃん

いいかげんにしろ!って言われて、いいかげんにしてたら怒られた。

悪いようにはしないから!って言われて信用したら、いいようにされた。

大船に乗ったつもりが、タイタニック号だった。

赤子の手を捻ったら、虐待と言われた。

苦労は買ってでもしろと言われたので、Windowsを買った。

金曜日, 8月 23, 2013

犬と子供

一時的に、知人の犬を2頭預かっている。
ぐエリアからぐを追い出して、そこを自由に使ってもらっている。

母屋からは様子が見えないので、普段何をしているのかは不明だが、ときどき、カラコロという乾いた音がする。
たぶん、床の上に石ころを持ち込んで、転がして遊んでいるのだろう。

先日、総勢7人のゲストが帰った後、テーブルの上を片づけていると、何個か石ころが並べてあった。
子供たちが遊んでいたらしい。

よく、犬と子供は同じだと言いますが、なるほどなぁと感心しました。
 

月曜日, 8月 12, 2013

暑い

毎年、暑いのを呪うブログを書いてきて、今年はそういう鬱陶しいことはしないと心に決めていたのに、やっぱりグチらずにはいられない。

いや、もう、本当に暑いです。

最近は命の危険を感じるので、居場所を変えるのに扇風機を一緒に持ち歩いている。
なんだか、病院内を点滴の機材を押して歩く患者みたいだ。

こういう時には、動物はアッパレだなぁと思わざるをえない。

今も外を眺めると、陰で休んでいるものとばかり思っていた羊たちが、強烈な日ざしの下で草を食んでいるし、犬エリアからは「仕事ですか?」という厳しい視線がいくつも返ってくる。
ちょっと毛が少なくなったとはいえ、君ら冬と同じ格好してるのにねぇ...

彼らが暑さに強いかというと、それはわからない。
負荷がスレッシュホルドを越えると、それこそ「パタリ」と逝ってしまうからだ。
でも、それまではほとんど様子を変えない(ように見える)。
ファームを初めてたかだか10年ほどだが、もう何回もそんな場面に遭遇した。
確かに、どんだけ暑がってみせても、誰も助けてくれないもんね。

あ、例外がいた。
もうこれ以上は無理というくらい、堕落した姿で暑さをアピールしている猫。
動物も、人間と暮らすとダメになるんですね。
 

日曜日, 7月 28, 2013

もなかの寝技

彼には、自分の姿がオモロイということについての自覚があるに違いない。
偶然というにはあまりにも頻繁に、わざわざ人の目の前にやって来て、「ポテッ」と寝転んでみせるからだ。
張りのある大きな腹と、無力で短い脚のバランスが絶妙で、どうしても無視できない。

怠け心を諌め、さぁ外仕事するかと立ち上がりかけたときにこれをやられると、そのまま崩れ落ちてしまう。
そーですか、でもまぁPCくらい、と椅子に座ると、わざわざ机に上ってきてキーボードで寝る。
ようやく掻き集めた"やる気"が、ため息とともに漏れ出てしまう。
人間とは本当に弱いものです。

それにしても、君の狙いは何なんですか?
どーして行く先々についてきて、"寝てみせる"んですか?













PCの隙間に寝てみる

水曜日, 7月 24, 2013

やぎさんゆうびん

前々から、ここで触れなければと思っていた。
昨日、食い過ぎで膨張したトトの腹を眺めていて、フとそのことを思い出した。


やぎさんゆうびん(詞まどみちお)

しろやぎさんから おてがみ ついた
くろやぎさんたら よまずに たべた
しかたがないので おてがみ かいた
さっきのてがみの ごようじ なあに

くろやぎさんから おてがみ ついた
しろやぎさんたら よまずに たべた
しかたがないので おてがみ かいた
さっきのてがみの ごようじ なあに  (以下、繰り返し)


なんて、ぐれーとな歌詞なんでしょ。
まず、出だし。
普通だったら「白やぎさんが手紙を書いて黒ヤギさんに送った」と説明したくなるところを、全部すっ飛ばしていきなり「しろやぎさんから おてがみ ついた」である。
この一行で見事に物語が立ち上がっている。
ばかりか、ヤギ社会に郵便システムがあるという不条理世界をあっさり成立させてしまうという力技...
文章的に唯一欠けている「手紙を受け取ったのは誰か」を示す主語は、次の行でごく自然に補われている。

「くろやぎさんたら よまずに たべた」

まったく無駄が無い。なんちゅー匠。
ここで見逃せないのは、「は」の代わりに用いられた「たら」である。
この助詞一つで、食いしん坊でうっかり者という黒ヤギさんの性格と、それでも皆に愛されているらしい、ということが推測される。
寝物語として子供に読み聞かせている(できれば南沢奈央みたいな)若いおかあさんの「あらあら、黒ヤギさんたらしょうがないわねぇ」という微笑みまで目に浮かぶではないか。
「よまずに たべた」という簡にして要を得た表現もすばらしい。

そして、起承転結の転に当たる3行目に「しかたがないので おてがみかいた」と来る。
まいった。
これも普通だったらば「はて、白ヤギさんの用事は 何だったんだろう?と疑問に思った黒ヤギさんは 白ヤギさんに手紙を書くことにしました」くらい説明したくなるところを、「おてがみ かいた」で済ましてしまう。
逆に、このギリギリまで切り詰めた歌詞の中で「しかたがないので」という長いフレーズを使うのは随分と勇気がいったと思うが、そこに黒ヤギさんの深い諦念と悲しみが伏流しているようで、そう思えばもうこれ以外の選択肢は考えられない。

極めつけが最終行の「さっきの てがみの ごようじ なあに」
これにより、直線的に進行してきた歌詞に繰り返しという運動性が加わり、「永遠」の概念が導入される。時空間が一気に宇宙レベルにまで広がる。
しかも、悠久の時が流れても、おそらく最初の手紙の内容は謎のままなのである(量子力学的にはわかるのかもしれない)。
その境地はもはや、哲学や宗教的法話の域にまで達している。

おそらく何万人を超える童子が、笑い転げながら「終わりそうで終わらない」遊びをしたはずである。
その童子は知らず知らずのうちに、輪廻転生や曼荼羅といった東洋的宇宙観や、コミュニケーションの人類史的本質について学んでいるのである。

おそるべし、やぎさんゆうびん。 

木曜日, 7月 18, 2013

前半戦終了

おっさん臭いプロ野球に入れこみ、贔屓チームの勝敗に一喜一憂する自分があまり好きじゃないので、できればもう卒業したいのだけれど、実際問題これがなかなか難しい。

ここ数年、シーズン開幕から5月くらいまでは自分でも意外なくらい醒めていて、ああ、またやってら、今年もごくろうさんですね、と関係者をいたわるくらいの距離感があるのだが、球宴前後のこの時期になると、もうリアルタイムで試合を観戦できなくなるくらい、勝敗にこだわっている自分がいる。
一体、これはどういうことなんだろう?

一つのエピソードを思い出した。

もう30年近くも前、会社に入ったばかりの頃、近くの席に2年上の先輩がいた。
その先輩は、細身の身体をトラッドファッションで隙なく固め、年若いながらも冷静かつ理知的、メガネを光らせて会議で発言すると居並ぶ上司たちも一目置くという存在だった。

あるとき、その人が巨人ファンだということがわかり、新人で阪神ファンだった自分とバトルを繰り広げることになった。
とはいってもトラッド青年対公家の闘いなので、はしたない口論などにはならない。
第三者はまったく気付かなかったと思う。

しばらくは憐み攻撃(「エラーにも味があるよね」とか「昨日の先発、、、ふっ、、、」みたいに、相手を効果的に傷つける言葉を呟き、あとは寂しげに微笑んで相手を見つめる)の応酬が続いたが、そのうち、スポーツ新聞攻撃というのが開発された。
前の晩に相手の贔屓チームが負けたとき、駅でできるだけ下品なスポーツ新聞を購入し、相手の出社前に机の上にそっと置いておくという、骨の折れる攻撃だった。
この効果は案外大きくて、半日は嫌な気分が持続した。
つまりはスポーツ新聞の見出しというのが、それくらい人の心をざわつかせるように書かれているということなのだろう。
そんなことをほとんど1シーズンの間繰り返して、そのうち、何となくやめた。

これくらい、何の教訓も反省も得られないエピソードも少ないが、その頃の思い出としては一番鮮明に記憶している。
プロ野球とは、まあざっとそういう存在なのだろう(はぁ?)。
 



木曜日, 7月 11, 2013

へび×2

使わなくなった防鳥網を、ぐるぐるっと巻いて、ログ小屋の横に置いといたですよ。
そこが草で鬱蒼としてきて、いやーな雰囲気になってたですよ。
そーゆー薄暗くてややこしいところが好きだから。

案の定、いました。
ぶっとい青大将。
近づくと、ずるずるびくびく胴をくねらせ、逃げていこうとする。

去る者は追わない主義なので、そおっと後ずさりしてその場を離れる。
そのすきにきれいさっぱり、できれば地の果てまで逃げていってほしかったのに、数分して見に戻ってみると、まだそこにいる。

ちょっと様子がおかしい?
逃げてるんじゃなくて、グネグネしてるだけのような。
勇気を振り絞って近寄って見ると、頭の部分に網が絡みつき、もがいていたようです。
防鳥網がヘビのワナになっちゃったんですね...

かわいそうですが、私にはどうすることもできない。
少なくとも一か月はその場所に近づかないから、その間に朽ち果てるか、あるいは自力で逃げるかするように。

と、決意して平穏な日常が戻るはずだったが、まだどことなく違和感がある。
そのヘビ、異様に胴が長いのか、やたらこんがらがっていて、この世のものとは思えないほど禍々しい。
気のせいか、端っこ(尻尾の先)が2つあるように見える...
オーマイガッ!!
もう一匹いる!

元のヘビに絡みつくようにもう一匹いました。
一瞬、喧嘩してるのかと思ったが、片方はすでに動かなくなっている。
やはり網に絡まって抜けなくなり、一足先に息絶えたらしい。


もう勘弁してほしい。
網に絡まるのは勝手だが、なんで、わざとらしく目につくところでやるのか。
暑いのに鳥肌が立ちっぱなしで、気分が悪くなってくる。
お願いだから、早く成仏してください。

...と、半泣きで祈ったのが一昨日。

今朝、「放っておくと臭い」というHiroが、まだうにょうにょ動いてるヘビの絡まった網を無理やり引っ張り出し(ひえぇぇ~っ!)、ゴミと一緒に燃やしてしまった。
いや、もう、ほんと、何という人でしょうか...


日曜日, 7月 07, 2013

草刈りしようよ

先日、相方Hiroが「草を刈る」と言って、刈払い機を担いで畑に入っていった。
普通、畑の草むしりにエンジン付の刈払い機を持ち出す人はそういないと思うが、ファームの畑は「畑」と書くのが恥ずかしくなるくらい、茂りまくった草で藪のようになっている。

そもそも、私たちは畑仕事というものが嫌いなのかもしれない。
堆肥を撒いて、地面を耕し、畝を作って種を撒くところまでは、かろうじてできる(いつも時期ギリギリだけど)。
そこから先の世話が、からっきしできない。
毎年、梅雨時になると、雑草の中に野菜が埋没し、生きてるのか死んでるのか不安になってくる。
そういう状態に追い込まれて、やっと重い腰が上がる。

放ったらかしのことを「自然」というなら、これはもう堂々とした自然農法と言えるでしょう。
肥料は馬のフンだけ、農薬の類は一切無し。
虫や雑草とはとても仲良く(?)共生している。
なので、収穫量と見てくれは良くないが、味はとても良い、、、と思っている。
この野菜たちを食いつなぎ、厳しい夏を乗り切るのも毎年のことである。

突然ですが、そんな自分たちにエールを送る野菜たちに感謝の意を込めた替え歌です。


草の丈が 肩まで伸びて
藪と同じに なったら
約束どおり 刈払い機で
草刈りしようよ MMM

古いモーターを ブルンと鳴らそう
土の地面が 見えたら
おくら起こして ピーマン救おう
草刈りしようよ MMM

二人で刈った 緑の草を
裏の倉庫の 軒下に並べて干そう
草刈りしようよ 草の丈は
もうすぐ肩まで とどくよ
 

木曜日, 7月 04, 2013

はい、みなさん、ごいっしょに

下の記事書いてて思い出した。

大阪人の掟の一つに、「おキライですか?」と振られたら、すかさず「おスキです」と返さなければならない、というのがある。
一種の礼儀と言うか形式だから、あまり感情込めず乾いた感じでやりとりすることが、コツと言えばコツ。

大抵は下ネタが絡んでいて、ちょっとでも引いたり怯んだ素振りが見えると、すかさず振られることになっている。
あらゆる人間を等しく形而下世界に引きずり落とす強烈な呪力がある。

振った側は、相手の品位を微妙に押し下げることで自分の尊厳を守ることができ、答えた側も無粋なやっちゃと切り捨てられずに済むという、洗練された社交術でもある。

では、ここで復習しましょう。

A:(いやらしく)「アレがナニでコレもんでんがな!」
B:「いや、それはちょっと...」
A:「おキライですか?」
B:(しょうがなく)「いいえ、おスキです」

Good!
 


水曜日, 7月 03, 2013

あたし、実は・・・なんです

先日、近所のスーパーでやっすい輸入肉を買ってきて、炭焼きにした。
やっぱ、おいしいです、ステーキ。
脂っこくなった口中をビール(まろはコーラ)で洗って、次の一片にかぶりつくときとか、皿に残った肉汁に、炊き立てのご飯を絡めて、わしわしと掻きこむときとか。
我ながら意地汚いのですが、皿に屈みこむようにして、あっという間に平らげました。

そのとき、ふと思いつきました。
この食べ方には、ロールモデルがある。。。


まだ小学生だったと思うのですが、一冊のH本を手に入れ、目を皿のようにして読んでいたことがあります。
宇能鴻一郎大先生の御著書。

本当は、ビニールに包まれた怪しい雑誌の類が欲しかったのですが、さすがに近所の本屋でエロ本コーナーに近寄る勇気は無く、小説本の棚にあったその本を、すまし顔で、その実、全身の血が逆流するような思いで買いました。

古い鞄に隠したその本を、こっそり取り出しては何度も何度も読んだ。
それなのに、今も覚えているのは「あたし、実は、好色なんです」みたいな文体くらいで、題名もストーリーもHシーンも完全に忘れてしまっている(本当に!)。
頭がオーバーヒートして、記憶が飛んでしまったのかもしれない。
そんな中、ただ一つ覚えてるのが、若夫婦がステーキを食べるシーン。

ある章の冒頭、仕事帰りの旦那が団地に帰ってきて、いよいよムチムチプリンの新妻といたされるわけですね、と期待してると、おもむろに分厚い牛肉を焼きだしたりするわけです、これが。
コラーッ、食事くらい外ですませてこんかい!とヤキモキする読者を尻目に、肉の焼き加減がどうの、塩の種類がこうの、残った脂がやあのと、グルメ系うんちく話が延々と続く。
結局、ビールを飲んだ新妻が、美味しさのあまり目尻に涙を浮かべたところで、その章は終わってしまう。

そんなところ、小学生には退屈だったと思うのですが、今でもかなり覚えています。
「おいしいステーキの物語」が、どこか心の琴線に触れたのでしょう。

結局、そのとき頭の中に構築した幻想の味を、何十年たった今も反芻していたわけです。
「人は物語の中でしか生きられない」という言葉を身に染みて納得した瞬間でした。
 

火曜日, 6月 25, 2013

吠える気持ち

のおあある とをあある やわわあ でしたっけ?
犬の遠吠え。

うちの犬たちも、欠かさずやります。
午前11時と午後5時の1日2回、役場のサイレン(!)に合わせて。

カイたんは、型どおりお座りして喉をきれいに反らして、
生真面目なはずのるぢ男は、意外なことに、寝そべったまま首だけ持ち上げて、
もちちは、まだ上手にできませんが、一応周りの真似をして、
形は違えど、みんな一斉に吠えてます。
(そう言えば、さんだけ吠えないけど君は群じゃない?)

人が聞くと狂おしいような、もの悲しいような、なんとも言えない声音。
一体どんな衝動が身体を駆け巡ってるんでしょうか?
これだけは想像することもできない。

これだけ?
いや、それはウソやね。

羊を追う、フィールドを駆け回る、寝て過ごす午後のひと時、どんなときも、たとえ一瞬たりとも彼らの感覚を推し量る術はありません。
せいぜい自分の体験に照らし合わせて、それに近い感覚を当てはめてみるしかない。

ときどき、夢想することがあります。

もし人間社会が西洋流の自然科学重視主義とは違う原理で発展してきたとしたら、あるいは言葉に依らない文明を築いたとすれば、もしかしたら人は犬たちの衝動を内観する技を修得してたかもしれない。
精神感応とか、憑依するとか。

それができたら、泥まみれになっても楽しく作業できるかもしれない。
 

金曜日, 6月 14, 2013

ヘビのゆううつ

人生には、できれば避けたいがそうもいかない年中行事がいくつかある(自動車保険の更新とか、職場の忘年会とか、自分の誕生日とか)。
田舎暮らしを始めてからは、梅雨前後の「ヘビとの格闘」というのが、そのリストに加わった。

今朝遭遇したのは、体長1mほどの青大将。
ファーム倉庫裏の通路は狭くてごちゃごちゃしていて、そういう場所を通るときはつい物陰を凝視してしまうのだが、はたしてそこに潜んでいた。
気色悪いんだったら見なきゃいいのに、ゴムみたいな物体が視野の片隅でにゅるんと動くと、どうしてもまじまじと見つめてしまう。頭のてっぺんからつま先までゾワゾワ~とする。

いつもはそのまま忘れることにしているが、今日は近くでHiroが作業していたので「ヘビがいるんだけど、退治するぅ?」とお伺いをたてにいく。
自分一人では決してしない。
10年ほど前、やむなく一人で格闘したことがあって、そのときは緊張と興奮でホルモンバランスみたいなものが崩れたらしく、終日、心身の調子が悪かった。

ヘビとて生き物だしネズミの天敵でもあるので、見逃してやりたい気もするけれど、居着いてニワトリや卵を狙ったりするから、やっぱりそうもいかない。
今回も剪定バサミで挟みながら、頭をつぶした。

えんがちょ、えんがちょお。
 

水曜日, 6月 12, 2013

Welcome new-comers

にしきを小さい馬と交換するはずがいつの間にか2頭に増えていた、なんて事件があって以来、「もう騙されまい」と固く誓ったはずなのに、またHiroの策略に引っ掛かってしまった。

ファームに新しい住人が増えた。
人間の口笛みたいな声で啼く変な鳥(3羽)である。

昨日、単管とワイヤメッシュで作った小屋に入れてみたところ、全員スルスルと抜け出してフィールドを走り回ったらしい。
ヒナのくせに人間にはとても追いつけない。

るぢ男が大喜びで追い回した頑張って捕獲に協力してくれたらしい。
鳥のトラウマにならなければいいけど。

、、、って、もしかしてこれバカウケ!?
だってほら、トリとトラとウマで「トリのトラウマ」。
たった7文字中に動物が3匹も入ってるなんて、こんな奇跡はもう起こらんやろ!!

などと、あえて陽気に振る舞ってみる自分...

金曜日, 6月 07, 2013

ある日突然、

妙にひょろ長い卵が産まれました。(たぶんA型乙女座とおもわれ)



さっそく中身を見てみましょう。



あれ!?普通じゃん。

...って、ふっふっふ、今のは別の卵の画像でした。
細長卵の中身はこちら(左側)!!



...やっぱし、普通でしたね...
で、ガックシ気落ちしてたんですが、その後、卵焼きにして食べてみたら、な、な、なんと!!

おいしかったんですぅ!、、、やっぱりフツーでしたけど。



以上、ひょろ長い卵のレポートでした。

金曜日, 5月 24, 2013

おおっ、、、と気がつけば、

このブログ、もう一か月近くも放置されてるじゃないすか。
ちょっとびっくり。

思えば、「ったく、ボーダーコリーって奴は」という前身のサイトをHiroと開いてからもうかれこれ15年(!)。
別に書いても書かなくてもいいけど、どっちかと言えば書かん方がええんちゃう?、くらいの記事を延々と綴ってきたわけだけど、そんな下らない内容も書けないときは書けないもんだと、ビミョーに感動したのである。

よく、継続することに価値があるなんてことを言ったりするが、それはやっぱり多少なりとも前向きな行動だからなんであって、無価値なことはいくら継続しても無価値だということが、15年かけて証明された。
そういう意味で、価値はあったかもしれない。

全然関係ないけど、数少ないお気に入りサイトの一つに「チミドロ鈴木の早く老人になりたい」というのがある。
身の回りのトホホ系事物を取り上げ、テッテー的にイジリ倒すという趣向。
思いのほか文章もキチンとしていて、油断してるとときどき爆笑させられてしまう(例えば、これとかこれとか)。
下らないと言ってしまえば下らないのだけれど、ここまでくれば、探偵ナイトスクープの小ネタ集やトマソンの系譜に連なる現代の「作品」と言ってもいい。

第一回の記事に、タイトルについて書かれた文章がある。

僕の祖母は、テレビのスポーツニュースで、例えばゴルフトーナメントの結果を伝える場面があると、誰が勝ったか負けたかということに関係なく、球がカップに入ったか入らなかったかだけで「入れ、入れー!入った!ほほほ」「惜しい!あー」と楽しんでいて、それを見ていると幸せな気分になった。

老人はよく日向ぼっこをしている。気持ち良い風が吹くと「気持ちいいわねー」と言って、雲の切れ間から日が差してあったかくなると「日が出るとあったかいな」と言って喜んでいる。自分もそういう境地に早くたどり着いて、なんでもないようなことに幸せを感じられるようになりたいと思って、このようなタイトルにした。

バンドをやっていると、たまにライブしたり、みんなでパーっとやったり、はじけるように楽しい瞬間があるのだが、その後すぐに日常が始まる。日常は終わりのない労働とか、悩みとか、貧乏とか、そういうものにつきまとわれていて辛い。みんなもそうでしょう。毎日ライブして飲み会して生きていければ最高なのだが、そうはいかない。決して後ろ向きな意味合いではなく、辛い日常を克服するために老人の眼差しで日々を楽しんでいくことが必要なのだ!どうっすか。

とにかく老人的な達観を目指してあっちこっちと徘徊してみて、その過程をだらだらとレポートしていくのでよろしくお願いいたします。

いいですなぇ。
こういう味が出せるなら、続けてもいいんだけど。
 

月曜日, 4月 29, 2013

毛刈りで仕返し

今年も毛刈り週刊に突入。

ちょっと気が重い。
たかが6~8頭のヒツジなのに、これまで毎年、どえりゃーしんどい思いをしてきたからだ。

でも、毛刈りのビデオなんか見ると信じられないくらい速いし、そもそも普通の牧場だったら100頭も200頭もいるわけでこんなに苦労なわけがない、、、というわけで、牧場関係者(そんなにいないけど)に会うたびに秘けつを聞いて回っていたのだが、これまでは確たる成果が無かった。

それが去年、阿蘇牧羊犬クラブにお邪魔したとき、たまたまヒツジ歴〇十年という強者がいて、これは天から授かったチャンスとばかりに教えを乞うた。
犬やヒツジに一家言ある人は多いが、バリカンの使い方について微に入り細をうがち、理論と経験に裏打ちされた説明を得たのはこれが初めてである。
とりあえず、これまでの自己流では、潤滑オイルと刃の取り付け位置に難があることがわかった。

で、今日、「これでうまく行かなかったらどーしよう」という不安と期待が交錯する中、今季最初の毛刈りが始まったのだが、、、
き、切れる...
めっちゃ切れるぅぅぅ。

これまで、親の敵のように力を入れてたのがウソのように、ススススと羊毛と皮膚の間に刃が滑り込んでいく。
私は、これまで、一体何を頑張ってきたんだろう?



ところで、今日のお相手は頭突き男のレイ君。
いつもの仕返しに、恥ずかし~い写真を公開しといたろ。



わははははははは
 
 

木曜日, 4月 25, 2013

バイタルサイン

一つ屋根の下で一緒に暮らしているのに、ほとんど丸一日、猫の姿を見かけないことがある。
特に昼間の数時間、完全に気配が消える。
たぶん、2階の寝室に引っ込んで、これでもかっちゅーくらい怠惰な生活を送ってるに違いない。

ただ、1階にもあちこちに怪しいサインが残っている。

例えば、、、

・いつのまにか猫トイレが汚れてる
・閉めたはずのドアが10cmくらい開いてる
・机の小物が床に落ちている

とか。

なんだ、生きてんじゃん。(笑)

眠いんだったら、別にドアとか開けてくれなくていいから。
もしかしたら、「俺は元気でやってるから」というメッセージなのかな。
 

日曜日, 4月 21, 2013

ぐれぐ

犬にも上半身と下半身の区別ってあるんだろうか?

わからない。

でも、この男だけははっきりしてる。

全身が下半身。。。



別名「リトマス試験紙」。

どんな微かなヒートの兆候も見逃さないからだ。

月曜日, 4月 08, 2013

金融資本は癌か?

某ネットコミュで話題になっていた、中沢新一氏の評論(「赤から緑へ④」月刊スバル4月号)を読んでみた。
経済どころか社会常識にもズブのシロートですが、結構感銘を受けてしまったので感想文を書きます。

今日の国際社会における金融資本のふるまいが、無規律に自己増殖を続けるガン細胞に酷似しているという説。
本来、社会の諸活動を円滑に動かすための血液であるべき貨幣経済が、それ自体で無節操な増殖をはじめ、経済だけでなく政治や国家まで飲み込み、宿主である人間社会に機能不全をもたらしつつある、というのが氏の現状認識である。

不都合や障壁を「癌」と呼称するのはありふれた手法だが、現在の金融問題に当てはめて考えたとき、単なるレトリックを超えた迫真性を帯てくる。少なくとも、仮想敵(禿鷹ファンドとか悪徳資本家とか。そういえばオバマ大統領も「強欲なウォール街の連中」とか言ってましたね)を仕立て上げ、それらを攻撃すれば万事うまく行く的な、古典的な政治的言説よりは説得力がある。
朝日新聞が「カオスの深淵」という特集を組んだことからもわかるように、たぶん大多数の人が「どこがどうとは言えんが絶対どっかおかしいやろ」と感じている金融問題の不気味さが、少しクリアになったような気がした。

確かに金融界における最前線のプレイヤーは投資家だったり、ファンドだったり、金融機関だったり、グローバル企業だったりするわけだけれど、それらの背後にはおびただしい数の小さな欲望、「庶民のささやかな夢」や「慎ましい老後の備え」が隠れているわけで、結局誰が戦犯かと言えば現代に生きる我々全員と答える他ないところに、この問題の深刻さがあると思う。

癌の厄介さは、それが外部からの異物や毒ではなく、もともとは生体を構成する正常な細胞というところにある。
つまり病原菌を退治すれば治る類の病ではないし、そもそも癌が「病気」かどうかも疑わしい(実際、ガンを老化現象と見なす専門家もいるし、細胞には最初からガン化がプログラムされているという説もある)。同じように、金融問題は特定のプレーヤを排除したり制度を手直しして解決するほど単純ではないし、実はそれは問題ですらなく、資本主義が目指してきた一つのゴールなのかもしれない。

この潮流の思想的後ろ盾は、規制という規制を撤廃し、すべてを市場に委ねることを理想とする新自由主義と呼ばれる社会理論である。サッチャー、小泉純一郎、橋本徹など、本人が自覚しているかどうかは別にして、新自由主義を標榜する政治家は多い。ただし、これを提唱した当の経済学者たちは、現在のような社会状況を予想したわけではなく、むしろ計画主義で不調に陥った社会を賦活し、自由公平で開かれた社会が形成されることを望んだ。それがなぜ、巨大な格差を生み、投資マネーが市民生活や国家の命運さえ左右するような危機的状況を招いてしまったのだろうか?

中沢氏はその原因を、位相変化ともいえる経済構造の変化に求めている。
人間社会の諸制度は、異質の価値を何らかの理路で関連付けできる人間固有の能力を通じて構築されてきた(ありとあらゆる商材を交換対象にする市場経済がその端的な例)。そしてどんな迂回路を通ることになろうと、あらゆる制度や価値は最終的には自然環境と生命に根を下ろし、その「大地」との関係によって自生的秩序がビルトインされてきた(おおっ、そうだったのですか!)。
ところが貨幣の役割が、単なる交換の手段から信用の手段、さらには利殖の手段へと変遷するにしたがい、その結びつきが薄れ、ついには実世界が介在しないゲーム的な結界が形成されてしまった。そこにはもはや自然摂理に基づく秩序は存在せず、論理と記号だけで構成された無限のゲーム空間があるだけである(例えば、大食は胃袋の制約を受けるが、美食を求める欲望はキリが無いのと似ている)。
この結果、抽象的な貨幣価値の運動だけで経済が成り立つようになり、さらには社会的免疫機能ともいうべき様々な規制や制度や文化的制約が新自由主義の名のもとに弱体化させられ、金融資本のアンコントローラブルな増殖を招いてしまったというわけである。

(自生的秩序の件は、正常細胞には全体の秩序を保つための自死機能=アトポーシスがプログラミングされているのに対し、それを欠く癌細胞が暴走的に増殖することのアナロジーが有効かもしれない。あ、でも、そうか、ガンを老化現象と言うなら、資本主義という制度のアトポーシスが金融資本で、それによって資本主義が滅ぶのも自然な営み、と言えるのかもしれない。奥深い。。。)

新自由主義はあらゆる規制を攻撃することで、それらの持っていた免疫機能を弱め、結果として金融資本の増殖を助けることになった。その行きつく先は、従来の社会的/文化的制度が機能不全に陥った「社会の死」だという。
そこではほとんど全ての人間が労働価値という記号に還元され、ゲーム的な経済機構の中に組み込まれ、単純に利潤との対立関係に置かれる。

果たして人間が、生体圏外の論理的世界に生身をさらすことに耐えられるのだろうか?
少なくとも、強烈な痛みは伴うだろう(そういえば、新自由主義の政治家はよく「構造改革の痛みに耐えよ」と言う)。
でも本当に怖いのは、人間がそれに耐えられるように「進化」してしまうことかもしれない。

月曜日, 4月 01, 2013

全部ウソです

今年も長い長いプロ野球シーズンが始まりました。
あれだけ大型補強したにも関わらず、相変わらずド貧打というのはアレですか、阪神はどこまでいっても阪神ということですか。

それはさておき。
どこでだったか忘れましたが、以前、日米の審判の判定傾向について、両リーグ3年間の全試合を視聴して統計的に分析したレポートを読んだことがあります(もうちょっと役に立つ研究しろよ、、、)。
結果の一つは確かこんなのでした。

「カウント2ボール2ストライクで、次の投球が際どいコースに来た場合、日本の審判の方がボールと判定する割合が高い」

この辺は、自分のデシジョンが結果を左右するのを避けたい、あるいは単に結論を先送りしたいという国民性が表われているのでしょう。

あと、こんなのもありました。

「負けているチームのバッターが緩い内野ゴロを打ち、一塁への送球とバッターランナーのベースタッチがほぼ同時だった場合、日本の審判はセーフとコールする割合が高いのに対し、米国の審判はアウトを宣告しがち。勝っているチームのときはその傾向が逆転する。」

おもしろいでしょ。
つまり日本人は判官びいきで、米国人は敗者に追い打ちをかける性向がある、ということらしいです。

一番印象に残ってるのは、

「9回裏1点ビハインド。2アウト満塁、カウント3ボール2ストライクで次の一球が際どいコースに来たとき、米国人審判はストライクアウト(ゲームセット)を宣告しやすい」

理由は「早く家に帰りたいだけだろ」だって。ははは。

水曜日, 3月 20, 2013

断固とした決意

ヒツジ、ウマ、ヤギ解放同盟との闘争が激化している。

冬の間、動物たちをシャットアウトして、放牧地の一部を養生することにしている。敷地が充分広ければそんな小細工はいらないのだが、そうでもしないと全部が不毛の荒地になってしまうので。その甲斐あってか、養生地には柔らかそうな若草が生えて、青々とした感じになってきた。

同じ景色を家畜たちも見ている。
草はもちろんのこと木の葉や木肌まで食い尽くし、ヒヅメ攻撃で荒廃させた不毛の泥地から。
そして、こう思っているに違いない。

「こんなクソ地にオレらを閉じ込めやがって...」

いやいやいや、クソ地にしたのは君たちですから、というのは人間側の言い分であって、確かに可哀そうに思うことが無いことも無いのだが、だからといって今、養生地に放牧してやることはできない。
どーせ、アッという間に食い尽くすだけでしょ?君たちは。

というわけで、ここ数日は柵を挟んだ前線の緊張が極限まで高まっている。
昨日なんか、気がつけばヒツジ、ヤギの全員が養生地になだれ込んでいたり、ウマが畑に首を伸ばそうとして柵を曲げてしまったりと、領土を巡るギリギリの攻防が続いている。
シープドッグ隊のスクランブルも4回を数えた。

やるべきことはわかっている。
柵の補強だ。
いや、もう、何年もそう思ってるのだが、手間と費用を考えるとなかなか手が付けられず、ここまでズルズル来てしまったわけです。
どうやら、それも限界のようですね。

やるか、柵の補強...


土曜日, 3月 16, 2013

春のユーウツ

固い地面がこんなにステキだったなんて。。。

だって、歩いてて「にゅるん」とずっこけないし、馬が駆け抜けても頭から泥かぶんないし、一輪車押すのが3倍くらい軽いし、犬を放っても泥人形にならないし。

大洪水が退いて方舟を降りたときは世界中が泥だったはずなのに、ノアの家族はよく気が触れなかったものだ。
あと、この時期、世間では黄砂黄砂と騒ぐけれど砂が舞う前は泥だったわけで、中国の人はさぞ辛かったのでは?とか、いろんな思いが交錯するのは、つまり、それだけ深く泥に悩んでいたということだろうか。
で、ようやく地面が乾いて、気持ちの良い風も吹くようになってきて気分爽快、、、かというと、そうは問屋が許さない(←死語)。

これは誰のせいでもなく自分が悪いのだけれど、昔から、春になるとユーウツになったり、ぞわぞわと不安になったりする。
特に風の中にほのかに甘い花の香りが混じったり、フと見上げた空が抜けるように青かったりすると、心の中に暗雲が立ち込め始める。
朝日をうけて小川のせせらぎがキラキラしたりするのもいけない。
衣替えの作業も鬱陶しいけど、それでも頑張って春物に着替えて外出したのに、くっそーまだ肌寒いやんけ、なんて状況はもっと悪い。

別に学校が嫌いだったわけでもないのに、なぜか小学生の頃からこうだ。
はい、自分でも面倒臭い性格だと思います。

でも何より面倒臭いのは、こうやって愚痴ってるときは案外機嫌が良かったりするところかもしれない。
 

土曜日, 3月 09, 2013

本の身体

タブレットPCをゲットした。
いろいろ比較検討した挙句、iPadでもNexusでもKindleでもXPERIAでもなく、NECのLife Touchを選ぶところがただ者じゃない。
まろが新しいものに弱いと思ってる人はゼウスの雷に撃たれるでしょう。

さっそく、紀伊国屋の電子書籍を試してみて、おおおっ、これは良いっ、フォントの大きさが自由自在に変えられやんけ!
めっさ読みやすい。
こんなことなら、半額セールに焦って老眼鏡買うんじゃなかった。。。
あと本の値段が安いとか、置き場所に困らないとか、ライトがいらんとか、良いとこだらけちゃうん?(でも、印刷も紙も製本も店舗も販売員もいらんし万引きも落丁返品も無いんだから、もっと安くできんかなぁ)。

でもでもでも、自分的に結構大事な「寝る前の一冊」は、わざわざ本棚からふる~い「竜馬がゆく」を引っ張り出してきて読んだりしている。
最初は嬉しくてベッドにタブレットを持ち込んで、寒い日は頭から蒲団被って読めるのを喜んだりもしてたのに、あまり長続きしなかった。
なんというか、寝入る前の安らぎ感みたいなものが違う気がする。

思えばかれこれ50年以上も紙の本を読んできたわけで、これだけつき合いが長くなると、文字や絵による情報交換の他に、手ざわりとか、重さとか、ページめくりの質感とか、匂いとか、いろんなチャネルが確立してて、そういういろんな身体感覚が無いと「本を読んだ」感がしなくなってるのかもしれない。
まだタブレットに慣れてないだけかもしれないけど。
 


土曜日, 3月 02, 2013

誰か唐沢寿明主演でドラマ化しませんか?

安倍公房氏の小説に「砂の女」という長編がある。
遥か昔、確か高校生の頃に読んだからもう内容は覚えていないけれど、砂丘の中のアリ地獄のような一軒家から脱出しようとする男、それを引き留めようとする女、穴の上から逃亡を妨害する村の人々、それにどう防いでもいつの間にか部屋に侵入してくる砂のイメージは、今でも印象に残っている。

自分にも名作が書けそうな気になっている。
題名は「泥の犬」。

降り続く雨と無残に泥濘化する敷地、そして敷地に放流した途端、一瞬のうちに頭から尻尾の先まで完璧に泥だらけになる犬たち。
夜のうちに泥が落ちて元の姿に戻るから、毎日、この儀式が繰り返される。
あ、そうそう、犬に飛びつかれて泥だらけになる男もぜひ登場させなければ。
何度長靴を新調しても、いつのまにか侵入してきて靴下をダメにする泥水のエピソードも重要だ。

考えただけでもワクワクするね。
問題は泥で何を暗示するかだけど、、、それは書きながら考えることにしよう。
書き出しだけは決まってるんだ。
こんなの。

朝、カーテンを開けると、辺り一面、泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥、でした。
 

火曜日, 2月 19, 2013

もなかともっすぃ

何のため?と問いただすと、Hiroさんはきっぱりと「仕事に使う」と言い切り、大枚〇〇円をはたいてペンタッチ型の入力タブレットを買いました。

で、記念すべき作品第1号がこれ↓

一体、何の仕事なんでしょうね?
 

水曜日, 2月 13, 2013

カニと猫の意外な関係

他人の夢の話ほど退屈なものはないと言うけれど...


どこかの漁村を旅してる設定なんでしょう、カニ漁が見学できると聞いて出かける。
会場(?)は人工の谷というか、地下に向かって造られたコンクリート製のでっかいすり鉢みたいなところで、他の数人と一緒に谷底を見下ろす格好になる。
そこには灰色の生き物がうごめいていて、自分はボンヤリとあぁ、あれがカニかと納得する。

今から考えるとその生き物は、どこからどう見てもウミガメなのだが、夢の中ではカニということになっている。
全部で3匹いるカニは、体長が10mほどもあり、全身がヌメヌメしていて何となく気持ち悪い。

それらと対峙する位置に、同じくらいの大きさのやはり3頭の肉食動物がいて、鉄製の檻のようなものから首を突出し、しきりにカニにかぶりつこうとしている。
それが、その辺の「カニ漁」のやり方らしい。
動物の姿ははっきりしないが、キバの無い大きな爬虫類みたいな感じ。

とうとう一匹のカニがつかまり、首を咥えこまれてしまう。
しかし首は柔らかくて特に滑るようで、咥えこまれても、ヌルリと逃げたりしている。
それで逃げてしまえばいいものを、その知恵が無いのか、何度も何度も抑え込まれている。

そのうち喉が食い破られそうになり、一瞬、カメが苦しそうな表情をする。
自分は血なまぐさい光景に辟易しながらも、目を離すことができないばかりか、どこかエロティックな刺激まで受けていて、身を乗り出して見学している。。。


珍しく目覚めた時もはっきりと内容を覚えていたので、一体あの夢は何のメッセージだったんだろうかと考える。
人生の転機に至る重要な暗示だろうか、それとも、身辺に大きな事件が起きる前触れとか。

いや、でも待てよ、あのイメージはどこかで見たことがあるナ、、、しかも割と最近、、、。
そうだ、もっちがもなかを抑え込んでるとこだ!
 

土曜日, 2月 09, 2013

冬の情景

もはや冬の風物詩になったメメ穴。
ファームの(というより集落の)周囲に張り巡らされたシカ柵に見られます。



















曲線がメメの腹形状にピッタリっつーところが笑えます。
いくら修理してもムダ。
すぐに別の穴が開けられます。

メメさんはこの穴を通って、思いつくまま気の向くまま、敷地の内外を行ったり来たり。
でも餌の時間にはキチンと帰ってらっしゃいます。

プラプラ外をうろついて  猪に間違われて撃たれたらええねん。 ケガしないようにね。
 

水曜日, 2月 06, 2013

自販機バトル

どうも自販機と相性が悪い。
むかしっからそう。
どこでボタンを掛け違えたんだろう?

確か中学生の頃、それまで気後れして使ったことがなかった駅の券売機に初めて挑んだとき、ボタンの多さに舞い上がってドギマギしてたのを人に笑われたような気がして、それ以来、ギクシャクした関係になったような気がする。
なんせ、自意識過剰少年だったもんで。。。

ここ数年は、職場にある飲料自販機と闘っていた。→例えば
ホットコーヒーを出そうとして、なぜかアイスを押してしまうのだ。
真冬の朝一番にやると、これがどんだけやるせないか。
もう、その職場には行かなくなったので長らく休戦状態だったが、昨日たまたまそこに顔を出す機会があったので、こっそり蹴りを入れておいてやった。

そしてその帰り、お初のレストランでカフェバーに挑んだときのこと。
エスプレッソマシンでカプチーノを選んだ、、、はずなのに、押したボタンがズブズブとどこまでも入っていく。
やべっ、壊したか!?と思ったら、マシンの上に置いてあるパネルの絵を押していた。
ここまで来ると、もう自分でもフォローしようがないですね。
誰も見てなかったのが不幸中の幸い。

決してウケ狙いで創作してるわけじゃないです。
空気のようになってしまった自販機といえど、人知れず悩んでいる人間がいるということを訴えたかったのかも。
そういう自分が嫌いじゃないし。