木曜日, 12月 26, 2013

ペットと飼い主の微妙な関係

「大体、俺の家に居候してるくせにでかい面しやがって、ぐーたらしてるくせに飯はたらふく食うし、ゆっくりしたいときに限って遊びたがるし、部屋汚すし、臭いし、うるさいし、バカな上に性格悪いから、もうどうしようもないんだけど、たまにあどけない寝顔なんか見ちゃったりすると、憎めないんだよね~、これが」

以上、飼い犬に対する人の、、、じゃなくて、人に対する飼い猫の感想でした。


金曜日, 12月 13, 2013

写真のお蔵出し

備忘録も兼ねて、携帯に残ってた写真を貼り付けます。
それにしても1年でたったこれだけとは、本当に写真撮らないやつ。

11/29
シープドッグトライアル界の重鎮、アレッド・オーウェンさん@ふれあえない牧場
トレーニング前後の犬の扱いが丁寧なところに感心。

12/19
ストーブとマブダチ状態の老犬。
気がつけば、もう13年も苦楽を共にしてきたわけで。


2/9
鹿柵の設置作業。営農委員会の作業に駆り出されたときの一枚。
真冬の山の中の作業、ホントにしんどかったっす。(涙)
(モデルはまろじゃないから。為念)

3/7
発作的に撮った、JR東海エキスプレスカードの記念写真。

3/31
そうそう、軽トラ市という蚤の市みたいな催しにも参加しました。
売上げは?でしたが、愉しい経験でした。
面倒臭いから、二度と出ないけど。


 7/8
おお、一気に夏になってる。
もっちっちが水浴びに挑戦。毎日、世界が拡がっていく。

10/22
と思ったら、もう秋だ。
これは鳥の脱走の証拠写真。
なぜか塀の上で集合してから、一羽ずつ整然と飛び出していきやがるんです。

12/1
今年は宮当番(の添番)という、村の神事の世話役をしていました。
これは、宮講のために準備した神棚。
本当にご苦労さまでした、自分。


水曜日, 12月 11, 2013

時代と記憶

さっき、ゲストと話してる最中に、あの曲がインターネットラジオから流れてきた。

 まろ  「お、なつかし~」
 ゲスト 「何がですか?」
 まろ  「いや、この曲がね」
 ゲスト 「はぁ...」(怪訝な表情)
 まろ  「えっ!知らないんっすか!?この曲」
 ゲスト 「全然」

ショック。
いつのまにか、「戦争を知らない子供たちを知らない大人たち」の時代になってたんやね!?

年号や世紀が代わったときよりも、リアルに時の流れを感じた。
本当に、歌は世につれ世は歌につれ、なんですね。
そう言ってるうちに、いつかは「尖閣も竹島も知らない子供たち」の時代が来るんだろうか。
新法案ができちゃったから、「〇〇を知らされない子供たち」かもしれないけど。

全然関係無いけど、今朝、保温カーペットの電源が入れっぱなしになっていることを、Hiroに注意された。
これまで何度も見咎められて、その度に口惜しい思いをして、もう絶対忘れまいと決意したはずなのに、どーもこーも、このザマよ!(@家庭教師のト〇イ)

何でなんだろ?
ド忘れにも無意識の願望がある、と言ったのはフロイトでしたっけ?
いろんな屈託を抱えるまろでも、さすがに保温カーペットには恨みもトラウマもコンプレックスも無いはず(考えてわかるくらいだったら、無意識じゃないけど)。

あ、もしかして、ボケの始まり?
これが一番リアルかも...

土曜日, 12月 07, 2013

極私的みわファーム創世記Ⅱ

ついで神は「家畜たちを統べるため、働く獣を生ぜよ」と言われた。
すると、シープドッグが生まれた。
神はシープドッグに家畜たちをつかさどらせた。神は見て、それを良しとされた。
神はこれらを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、放牧地に満ちよ」。
また夕があり、朝となった。第五日目である。

そして神は言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに放牧地の家畜と、シープドッグと、この地に関わるすべてのものを治めさせよう」。
神はこのように、人を創られた。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とを区別された。

神は彼らを祝福して言われた、「この地をみわファームと名づけ、地を耕し、家畜たちを養い、人々を迎え、健やかに生きよ」。
そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。それは非常によかった。
夕となり、また朝となった。第六日目である。

こうしてみわファームのすべてが完成した。
神はそのすべての作業を終えられ、第七日に休もうとされた。しかし、シープドッグたちが仕事させろと騒いだので、結局休めなかった。
神はその第七日を聖なる日としたかったが叶わず、腹立ちまぎれに柵の一部を壊してしまわれた。そして、それをみだりに修理することを禁じた。

これがみわファーム創生のすべてである。
柵が壊れたまま放置されているのは、人の怠慢ではない。
 


極私的みわファーム創世記Ⅰ

はじめに荒地があった。
地は形なく、泥がおおい、草むらの上を神の霊が漂っていた。

神は「柵あれ」と言われた。すると柵ができた。
神はその柵を見て、良しとされた。そして地を柵の内と外に区別された。
神は柵の内側を放牧地と名づけ、外側を竹林と名づけた。
夕となり、また朝となった。第一日目である。

神は言われた、「泥と草は一つ所から退き、かわいた地面が現われよ」。すると、そのようになった。
神はかわいた地面を宅地と名づけられ、柵で囲い、住処を作られた。神はそれらを見て、良しとされた。
夕となり、また朝となった。第二日目である。

神はまた言われた、「放牧地は種をもつ草と、種のある実を結ぶ果樹とを芽生えさせよ」。放牧地は、そのようになった。
そこで放牧地は、種をもつ草と、種のある実を結ぶ果樹とを生じた。神は見て、それを良しとされた。
こうして夕となり、また朝となった。第三日目である。

ついで神は「放牧地は、その草を刈るため、草の種類にしたがって家畜を生ぜよ」と言われた。すると、放牧地より羊とヤギと馬とカモとニワトリが生まれた。
神はそれを見て、良しとされた。
こうして夕があり、また朝となった。第四日目である。
 

土曜日, 11月 30, 2013

ドクターX

突然ですみませんけど、ドクターXの大門未知子に腹立ててます。
なんで、いつもいつも仏頂面なんだ、と。
組織と権力に阿らないポリシーを態度に表してるんだろうけど、あれはどう見ても、子供が拗ねてるようにしか見えん。

「誰の力も借りません」的な一匹狼を気取るくせに、病院の設備や人手は当然のように利用する。
その手術用具は、誰が整備してると思ってるんだ?
最新設備を揃えるのに、どれだけ経理が頭を痛め、会議と稟議と事務処理を重ねたのかわかってんのか?
カッコつけて投げ捨てるゴム手袋だって、町工場のオッチャンが汗水垂らして作ってんだよ!、このバチアタリめが!
がるる、がるる~

そもそも、そんなに組織が嫌なら離れてりゃいいのに、何でわざわざ割り込んできて、ブーたれまくるのか。
それじゃー学校をクソみそに言うくせに、わざわざ毎日登校してきて、わざわざ授業を邪魔するガキと同じじゃねーかよ!

そんなんだと、わざわざ嫌なドラマにチャンネル合わせてマジギレするような、しょーもない大人にしかなれないぞ、と。
 

月曜日, 11月 25, 2013

劣等感

犬種柄、アチラもんのビデオを観る機会も多いのですが、その都度「かなわんなぁ」と思うことがあります。
いや、態度が堂々としてるとか、感情表現が豊かとか、ましてや英語がどうのこうのとかいうんじゃなくて(それもあるけど)、まず、彼ら彼女らの「手」に目が行ってしまうのです。

がっしりしてて、肉厚で、毛深くて、、、そんな手で、犬の頭から胴や胸のあたりをワシワシと撫でる。
荒っぽいんですが、どこか繊細で、包み込むような優しさもあります。
思わず、犬と手の間に自分の頭をねじ込んで、撫でてもらいたくなるような。。。
やっぱり握手文化の国の人は、手の表情も違うんでしょうかね?

そう思って自分の手を眺めてみると、なんか薄っぺらくてペタペタした感じ。
小器用そうではあるけれど、安心とか篤実とか信頼とかいう印象からはほど遠い。
こんな手に頭を撫でられても、あまりうっとりできないよなぁ。。。

犬って身体中を撫で繰り回される側だから、「手」の印象ってものすごく大きいと思うんですが、そこんとこどうなんでしょう?
少なくとも、好き嫌いくらいあってもおかしくない気がする。

撫でようとするとビミョ~に身体を避けるペグさんに、一度訊いてみたいもんです。
 

月曜日, 11月 18, 2013

天使のような

どこか透明感のある "I wouldn't say it to a friend, I wouldn't say ~♪" というボーカルに載せて、スマホを操る人たちが短いショットで次々に入れ替わるドコモのTVコマーシャルがあるじゃないですか?
いきなりですけど、そこに出てくる女の子に恋しました。

最初に出てくる育ちの良さげな子(笠井海夏子さんというらしい)じゃなくて、最後の方に0.5秒ほど登場する、音楽にノリノリになってるちょっとお頭の軽そうなロングヘアの女の子です。

可愛いなぁ。

そもそも男というのは、世の中の穢れを一切知らない天使のような女子が、この同じ空の下(それも案外近くの町)で生息していると、心のどこかで本気で信じている。
だから、そういう属性を記号的に表現したキャラクタ(白鳥麗子とか、ルパン三世のクラリス王女とか、三菱地所の女の子とか)に、郷愁にも似たリアリティを感じて、コロリと参ってしまうのです。
バカですねぇ。

で、その子のことが気になって、動画を検索してスティルで観てみたんだが、、、う~ん微妙。
最後の横顔は申し分無いのですが、映った瞬間の左向きの顔には清楚感が足りない。残念なようなホッとしたようなこれまた微妙な感じ。
と、いうわけで、儚い恋はあっさりと終わりました。

あ、でも、7人目に出てくるスマホを胸にかき抱くショートの子も可愛いやん...
 

日曜日, 11月 17, 2013

いちょう

ファームから近所のお豆腐屋さんにオカラをいただきに行く道中、大きな銀杏の木が見えるスポットがある。
「トンネルを抜けると」じゃないけれど、車一台がやっとの細い通りを抜けたあたりで、"ど~ん!" という感じで視界に飛び込んでくる。

木自体は普段から見慣れてるんですが、この時期は鮮やかに黄葉して、そこに夕日が差したりすると、燃え上がるように照り映えます。何かにつけて情が薄いと揶揄されるまろでも、荘厳さに打たれる思いがする。

ファームのある地域は、これといった特徴の無い寂れた農村ですが、その中で、この銀杏の木は数少ない好きな景色の一つです。
あと何回、その雄姿を見せてくれるでしょうか?


火曜日, 11月 12, 2013

もっちの残念

たまには、心暖まるひゅうまんな話を一つ。

ほとんど恒例のようになった、Hiroさんの九州遠征。
今回は羊4頭を運ぶ用事があったので、犬連れは無理かと半ば諦めていたが、友人の好意で羊を分乗させてもらえることになった。
で、めでたく犬連れ可になったわけで、じゃ誰を連れて行くか?って段になって随分悩んだあげく、ここは一つもっちっちで行ってみよう、ということになった。
別に事件や逃亡を怖れて悩んだわけじゃなく、ただ何かにつけて面倒臭くわずらわしいことになるだろうということが、何となく予想できたからである。

で、Hiroが帰ってきたのが昨日。
心配は杞憂に終わったようで、確かに人や犬に興奮はしたけど、ほとんどは落ち着いて対処できたらしい。そ、それは良かったね。
ただ一度だけ、車内に長時間閉じ込められたとき、ゲリPをあちこちになすりつけてしまったらしく、車内が大変臭くなってしまったとのこと。

中を掃除する間もなく、昨日のうちに、飼料のオカラを貰いに行かないといけない。
確かに、外から見ても車内は汚ない。
息を詰めるように運転席に乗り込み、気持ちを充分落ち着かせてからそっと空気を吸い込んでみると、、、
ん?
全然臭わない。
はは、そうか、ここ数日、風邪をこじらせて完全に鼻が死んでいたのだった。

人間、何がラッキーに転ぶかわからない。
以上、感動のエピソードでした。
 


土曜日, 10月 26, 2013

OctBlue

10月は油断ならない。

初めの頃なんてまだ夏の余韻があって、Tシャツ短パンでグダグダしてたのに、気候が良くなってきたからそろそろ動きだそうかとカレンダーを覗くと、なんと、11月がもうそこまで迫ってたりする。
「10月」という響きにはまだ余裕を伴った今年感があるが、11月と聞くととたんに押し迫ってきてしまって、背中にヒヤッとしたものが走る。

世にサザエさん症候群というのがある。
昔、これかなぁという経験が自分にもあって、日曜日の夕方になると不安なような焦ったような気分になって、会話もTVも食事も上の空で、それはそれは嫌な感じだった。
ちょっぴりそれと似ている。

別に年末が近づいたからといって焦る必要は無いのだが、嫌な感じの記憶だけがどこかに残っていて、フとした拍子に甦ってくるのかもしれない。
それもこれも、10月に油断してたからいけないのだが...


水曜日, 10月 23, 2013

日本初の...

実は人生相談の類が好きで、Yahoo知恵袋とかBiglobeなんでも相談室とか朝日新聞の「悩みのるつぼ」などを欠かさず愛読している。
おかげで、大分、パターンが読めるようになってきた。

近い将来、人生相談評論家としてデビューしようと思っている。
傾向と対策を出版したり、年間最優秀相談賞の選考委員になったり、回答の真摯度ランキングを発表したり、、、
どうしたらデビューできるか、今度、人生相談に相談してみよう。

今日はその中で一つだけ、、、男の言い分で一番多い「俺は"家族のために"必死に働いてるのに...」というのは、そろそろヤメた方がいいと思う。
家族を養うのだって、そうすると決めたのは他ならぬ自分なんだし、第一、もしじゃあ今この瞬間に家族がいなくなったとしたら、あなた仕事を辞めますか?
辞めないでしょう。
結局、自分のためなんですよ、仕事だって。

仕事も家事も、遥か太古の昔から、たぶん人間が社会生活を始めた時から続いてる行為なんであって、そういうのは大体、共同体を維持するためか、でなければ自分が成熟するためか、あるいは生を全うするためにどうしても必要な合理的装置だと相場が決まっている。
もちろん「家族のため」を励みにする限りは結構だけれど、それが恨みつらみになるようなら、自分の感覚を見直した方が良い。

...なんて偉そうなことを言う割には自分の生活がグダグダなやつって、メディア的にはウケるような気がしませんか?
 


土曜日, 10月 19, 2013

生まれ変わり?

どこかの犬種紹介の記事で「シープドッグは臭い」と書かれてるのを見かけたことがある。
偏見だと思う。
犬は汗腺が無いから人間より体臭は少ないはずだし、犬の中でも、ボーダーコリーは無臭な方だと思うし。

でも、やっぱりファームの犬どもは臭い。
天候や湿度によっては、ほとんど刺激臭さえ漂う。
ただし、もとからの体臭というよりは、生活習慣からくる後天的な臭いである。

最悪なのがペグさんで、なんせこの娘、馬糞とオシッコのぐちょぐちょの上にべったり伏せて、廓の掃除を観察してたりするからたまらない。
夏場は身体を冷やすのにも活用されているようだ。
それが生乾き状態になると"ツ~ン"とくる。

ペグは素のままと言おうか野生児と言おうか、頭の中がまるでわからないところは、若くして夭折した先代犬のジェスそっくりだ。
人には絶対逆らわないが、人の言うことなんか聞く耳持たない、、、と、この辺の機微がわかるでしょうか?
まろは、この手の犬にとても弱い。

最近は朝晩の羊仕事を手伝ってくれるのですが、目の使い方なんかすごく様になってきました。
ただ、相変わらず、まっすぐ羊に突っ込んでいきます。

That'll do以外にも、もうちょっと言うこと聞いてくれるとありがたいんだけど。
 

日曜日, 10月 13, 2013

究極の問い

Googleの検索欄に数式を打ち込むと、電卓の画面が出てきてちゃんと計算結果を返してくれる。
例えば「12*23+24」と打ち込むと「300」と返ってくる。
偉い!
では、「生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問の答え」と入力すると?
計算不能?
入力ミス?
いえいえ、「42」と返ってきます。

そう、宇宙の真理はなんと「42」だったのです。
なぜってこれが「全時代および全世界において2番目に凄い」コンピュータのディープ・ソートが750万年かけて出した答えだから。

...という気の遠くなるジョーク(?)の元ネタは、、ダグラス・アダムズ作の「銀河ヒッチハイク・ガイド」というSF(Googleの機能はこの作品へのオマージュ)。
実は昔からずっとこの映画が見たくて、先日、思い切ってDVDを購入した。

いやいやいや、噂にたがわぬ名作。
なんせ、映画が始まって10分後には、地球があっさり消滅してしまう。
その理由が「地球がハイウエイの建設予定地にあったから」ってあんた。

その他、乱暴な宇宙人がチョー官僚的だったり、優秀なロボットが重度のウツ病だったり、地球を攻めに来た大船団が「うっかり」サイズを間違って犬に食べられてしまったりとか、最高の苦笑ギャグ満載。
乾いていてシニカルでちょっぴり自虐的で、こういう笑いがイギリス風なんでしょうか?
最後はネタバレになるので書かないけれど、地球にもバックアップがあったというのは、映画とはいえ、うらやましかったです。

ところで、この一つ前の記事は、映画を観て頭が変になってたときに書きました。
我ながら、影響されやすい。。。

土曜日, 10月 12, 2013

神と羊

たまたま、みわファームに神が降臨した。

神は全智全能にして唯一無二のユビキタスな存在だから、姿形はどうだっていいのだが、その日はたまたま羊の恰好をしておられた。
で、放牧地でぼーっとしておられた。
(「ぼーっと」というのは、私たちのような卑小な生物が見てそう感じるだけであって、神はちょうどそのとき、あちこちの銀河で発生している大規模な星間戦争に心を砕いておられた、、、のかもしれない)

ファームには本物の羊が10頭ほどいた。
羊たちは新入り羊に違和感を感じたが、とにかく群れたがる動物だから、何となく近くに集まって草を食んでいた。
何かが起こるかもしれないけれど、それはそのとき考えよう、と集まった羊たちが考えたかどうかは、誰にもわからない。
神さまはまだぼーっとしておられた。

そのうち、夕方の片づけの時間が来て、羊を小屋に帰そうと、放牧地に犬が駆けこんできた。
羊たちは、犬を避けるため、か、あるいは早くエサをもらおうと、ワラワラと羊小屋に向かい始めた。

神さまは別に行きたくはなかったのだが、群に逆らうのもアレなので、何となく一緒に羊小屋に向かった。
(実はそのとき、意識はビッグバンの0.0003秒後の宇宙にあって、物理定数の修正作業をしていた、、、のかもしれない)

小屋に帰っても犬たちの追及は止まず、羊たちは一番奥の隅に、ぎゅうぎゅうと押し込められた。
神さま羊もその中にいて、コンクリートの壁と羊たちに挟まれる格好で立っていた。
あいかわらず、ぼーっとしたまま。

まろが小屋に入ってきた。
彼はいつも注意が散漫なので、羊の数が増えていることに、ましてや神さまが目の前にいることに気がつかなかった。

そして、なななんとその瞬間、100兆年ぶりに神様の意識が地球に向き、その0.1秒後に温暖化と人口爆発とシリア内戦と尖閣諸島と打倒マエケン問題を一挙に解決する名案を思いつき、それを近くの地球人に告げようとしたのだが、ちょうどまたそのとき、おばはん羊のでかい尻が顔にぶつかり、ムッとした瞬間にすべてのやる気を失ってしまった。

...ということで、まろの不注意で地球を救う千載一隅のチャンスを逃してしまった、、、かもしれない。
どうもそんな気がする。
ごめんなさい。

月曜日, 10月 07, 2013

ソフトボール大会の光と闇

地域のソフトボール大会に出場。
去年は天候が悪くて中止になったので、2年ぶりである。

結果は22対0だったので、これはもう正々堂々と惨敗と言ってもいいでしょう。
地域の交流とか親睦とか謳いながら、老いも若きもめちゃくちゃ本気になるところが田舎っぽいと言うか大人気ないと言うか、20点もリードしてるのに走塁妨害もどきまでして敵のホームイン阻止するか?普通。
ぶり返した暑さの中、中学校の白いグラウンドで立ちすくしたまま、1時間があっという間に過ぎていきました。

でも、実はそれほど気分は悪くない。
前にも書いたけれど、まろのプレイング・ポリシーは「自分さえ良ければ」だから。
もう少し詳しく言うと、自分が①致死的なエラーをしない、②会心のヒットを打つ、の2点さえ達成できればもうほとんど幸せなんであって、たとえ試合に負けようが、滅多打ちの辱めを受けようが、それほど苦にならない。
ほんとにヤなやつですね。
自分じゃなければブン殴ってやるのにと、自分でも思います。

というわけで、なにはともあれ、ファーストの守備機会はすべて無難にこなしたし、2度の打席(しか回ってこなかった。5回コールドだから...)では1安打を放った(一塁走者がセカンド・アウトになって、記録はセンターゴロだけど、自分的には狙い通りの超クリーンヒット)しで、まぁ80点くらいはあげてもいいじゃないでしょうか?

そのあと、恒例になった、みわファームのカフェで深夜まで打ち上げ。
人のプレイを屈託なく誉めたり貶したりできる、楽しい時間でした。

ほんと、、、チッコイわぁ、自分...
 

水曜日, 9月 18, 2013

惨!密室の犯行

今朝、裏庭のデッキを見てびっくり。



石窯の上に干してあった犬用フトンがバラバラに、、、
昨日、寝る前には何事も無かったから、どうやら賊は、夜中か明け方に忍び込んで犯行に及んだ模様。

裏庭への入り口は3つ。でも、、、


西門も、


東門も、


一番背の高い南側もちゃんと閉まってるから、どうも密室の完全犯罪らしい。

さては、おまえか!?


、、、いや、その余裕の顔つきはシロやな。

と、いうことは、、、



やっぱり、お前か...orz
 

木曜日, 9月 05, 2013

転換期

よく、講演や挨拶で「今、時代が大きく変わろうとしています・・・」的なことが、さも周知の事実であるかのようにシレッと言われたりするけれど、一体誰がそんなことを決めたんだろうか?
似たような言い回しに「激動の時代」とか「歴史の転換期」などがあって、思えば子供の頃からずっとそんなセリフを聞かされてきたような気がする。

若い頃は素直に「そうか、今が時代の変わり目なんだ!」と、それなりに焦ったり気を引き締めたりもしたが、これだけ言われ続けていると、さすがに「一体いつまで転換してるんでしょうか?」と先生に訊いてみたくなる。
自分が生きたのは昭和も30年ほど過ぎてからだが、もしかしたら明治大正の昔から、人はそんな風に言い続けてきたんじゃないだろうか?

お江戸三百年なんか、今から見れば十分「天下太平の世」だと思うが、当の江戸人たちは「今は安定期なんだから、来年も再来年も変わり映えしねーよ」などと挨拶したのだろうか?
どうも、違う気がする。

そもそも「時代の転換期」などというものは、遥か後世の人たちが判断することで、今この時がその歴史的な瞬間であって自分がその生き証人である、というのは、随分と自意識過剰で手前味噌な気分だと思う。

吉田タイガースが優勝した1985年は、積年の負け犬体質からの大転換期だと言われたが、実際には、2003年の優勝(星野タイガース)まで、悲痛な暗黒時代が続いたのであるからして。
 

木曜日, 8月 29, 2013

ダメじゃん

いいかげんにしろ!って言われて、いいかげんにしてたら怒られた。

悪いようにはしないから!って言われて信用したら、いいようにされた。

大船に乗ったつもりが、タイタニック号だった。

赤子の手を捻ったら、虐待と言われた。

苦労は買ってでもしろと言われたので、Windowsを買った。

金曜日, 8月 23, 2013

犬と子供

一時的に、知人の犬を2頭預かっている。
ぐエリアからぐを追い出して、そこを自由に使ってもらっている。

母屋からは様子が見えないので、普段何をしているのかは不明だが、ときどき、カラコロという乾いた音がする。
たぶん、床の上に石ころを持ち込んで、転がして遊んでいるのだろう。

先日、総勢7人のゲストが帰った後、テーブルの上を片づけていると、何個か石ころが並べてあった。
子供たちが遊んでいたらしい。

よく、犬と子供は同じだと言いますが、なるほどなぁと感心しました。
 

月曜日, 8月 12, 2013

暑い

毎年、暑いのを呪うブログを書いてきて、今年はそういう鬱陶しいことはしないと心に決めていたのに、やっぱりグチらずにはいられない。

いや、もう、本当に暑いです。

最近は命の危険を感じるので、居場所を変えるのに扇風機を一緒に持ち歩いている。
なんだか、病院内を点滴の機材を押して歩く患者みたいだ。

こういう時には、動物はアッパレだなぁと思わざるをえない。

今も外を眺めると、陰で休んでいるものとばかり思っていた羊たちが、強烈な日ざしの下で草を食んでいるし、犬エリアからは「仕事ですか?」という厳しい視線がいくつも返ってくる。
ちょっと毛が少なくなったとはいえ、君ら冬と同じ格好してるのにねぇ...

彼らが暑さに強いかというと、それはわからない。
負荷がスレッシュホルドを越えると、それこそ「パタリ」と逝ってしまうからだ。
でも、それまではほとんど様子を変えない(ように見える)。
ファームを初めてたかだか10年ほどだが、もう何回もそんな場面に遭遇した。
確かに、どんだけ暑がってみせても、誰も助けてくれないもんね。

あ、例外がいた。
もうこれ以上は無理というくらい、堕落した姿で暑さをアピールしている猫。
動物も、人間と暮らすとダメになるんですね。
 

日曜日, 7月 28, 2013

もなかの寝技

彼には、自分の姿がオモロイということについての自覚があるに違いない。
偶然というにはあまりにも頻繁に、わざわざ人の目の前にやって来て、「ポテッ」と寝転んでみせるからだ。
張りのある大きな腹と、無力で短い脚のバランスが絶妙で、どうしても無視できない。

怠け心を諌め、さぁ外仕事するかと立ち上がりかけたときにこれをやられると、そのまま崩れ落ちてしまう。
そーですか、でもまぁPCくらい、と椅子に座ると、わざわざ机に上ってきてキーボードで寝る。
ようやく掻き集めた"やる気"が、ため息とともに漏れ出てしまう。
人間とは本当に弱いものです。

それにしても、君の狙いは何なんですか?
どーして行く先々についてきて、"寝てみせる"んですか?













PCの隙間に寝てみる

水曜日, 7月 24, 2013

やぎさんゆうびん

前々から、ここで触れなければと思っていた。
昨日、食い過ぎで膨張したトトの腹を眺めていて、フとそのことを思い出した。


やぎさんゆうびん(詞まどみちお)

しろやぎさんから おてがみ ついた
くろやぎさんたら よまずに たべた
しかたがないので おてがみ かいた
さっきのてがみの ごようじ なあに

くろやぎさんから おてがみ ついた
しろやぎさんたら よまずに たべた
しかたがないので おてがみ かいた
さっきのてがみの ごようじ なあに  (以下、繰り返し)


なんて、ぐれーとな歌詞なんでしょ。
まず、出だし。
普通だったら「白やぎさんが手紙を書いて黒ヤギさんに送った」と説明したくなるところを、全部すっ飛ばしていきなり「しろやぎさんから おてがみ ついた」である。
この一行で見事に物語が立ち上がっている。
ばかりか、ヤギ社会に郵便システムがあるという不条理世界をあっさり成立させてしまうという力技...
文章的に唯一欠けている「手紙を受け取ったのは誰か」を示す主語は、次の行でごく自然に補われている。

「くろやぎさんたら よまずに たべた」

まったく無駄が無い。なんちゅー匠。
ここで見逃せないのは、「は」の代わりに用いられた「たら」である。
この助詞一つで、食いしん坊でうっかり者という黒ヤギさんの性格と、それでも皆に愛されているらしい、ということが推測される。
寝物語として子供に読み聞かせている(できれば南沢奈央みたいな)若いおかあさんの「あらあら、黒ヤギさんたらしょうがないわねぇ」という微笑みまで目に浮かぶではないか。
「よまずに たべた」という簡にして要を得た表現もすばらしい。

そして、起承転結の転に当たる3行目に「しかたがないので おてがみかいた」と来る。
まいった。
これも普通だったらば「はて、白ヤギさんの用事は 何だったんだろう?と疑問に思った黒ヤギさんは 白ヤギさんに手紙を書くことにしました」くらい説明したくなるところを、「おてがみ かいた」で済ましてしまう。
逆に、このギリギリまで切り詰めた歌詞の中で「しかたがないので」という長いフレーズを使うのは随分と勇気がいったと思うが、そこに黒ヤギさんの深い諦念と悲しみが伏流しているようで、そう思えばもうこれ以外の選択肢は考えられない。

極めつけが最終行の「さっきの てがみの ごようじ なあに」
これにより、直線的に進行してきた歌詞に繰り返しという運動性が加わり、「永遠」の概念が導入される。時空間が一気に宇宙レベルにまで広がる。
しかも、悠久の時が流れても、おそらく最初の手紙の内容は謎のままなのである(量子力学的にはわかるのかもしれない)。
その境地はもはや、哲学や宗教的法話の域にまで達している。

おそらく何万人を超える童子が、笑い転げながら「終わりそうで終わらない」遊びをしたはずである。
その童子は知らず知らずのうちに、輪廻転生や曼荼羅といった東洋的宇宙観や、コミュニケーションの人類史的本質について学んでいるのである。

おそるべし、やぎさんゆうびん。 

木曜日, 7月 18, 2013

前半戦終了

おっさん臭いプロ野球に入れこみ、贔屓チームの勝敗に一喜一憂する自分があまり好きじゃないので、できればもう卒業したいのだけれど、実際問題これがなかなか難しい。

ここ数年、シーズン開幕から5月くらいまでは自分でも意外なくらい醒めていて、ああ、またやってら、今年もごくろうさんですね、と関係者をいたわるくらいの距離感があるのだが、球宴前後のこの時期になると、もうリアルタイムで試合を観戦できなくなるくらい、勝敗にこだわっている自分がいる。
一体、これはどういうことなんだろう?

一つのエピソードを思い出した。

もう30年近くも前、会社に入ったばかりの頃、近くの席に2年上の先輩がいた。
その先輩は、細身の身体をトラッドファッションで隙なく固め、年若いながらも冷静かつ理知的、メガネを光らせて会議で発言すると居並ぶ上司たちも一目置くという存在だった。

あるとき、その人が巨人ファンだということがわかり、新人で阪神ファンだった自分とバトルを繰り広げることになった。
とはいってもトラッド青年対公家の闘いなので、はしたない口論などにはならない。
第三者はまったく気付かなかったと思う。

しばらくは憐み攻撃(「エラーにも味があるよね」とか「昨日の先発、、、ふっ、、、」みたいに、相手を効果的に傷つける言葉を呟き、あとは寂しげに微笑んで相手を見つめる)の応酬が続いたが、そのうち、スポーツ新聞攻撃というのが開発された。
前の晩に相手の贔屓チームが負けたとき、駅でできるだけ下品なスポーツ新聞を購入し、相手の出社前に机の上にそっと置いておくという、骨の折れる攻撃だった。
この効果は案外大きくて、半日は嫌な気分が持続した。
つまりはスポーツ新聞の見出しというのが、それくらい人の心をざわつかせるように書かれているということなのだろう。
そんなことをほとんど1シーズンの間繰り返して、そのうち、何となくやめた。

これくらい、何の教訓も反省も得られないエピソードも少ないが、その頃の思い出としては一番鮮明に記憶している。
プロ野球とは、まあざっとそういう存在なのだろう(はぁ?)。
 



木曜日, 7月 11, 2013

へび×2

使わなくなった防鳥網を、ぐるぐるっと巻いて、ログ小屋の横に置いといたですよ。
そこが草で鬱蒼としてきて、いやーな雰囲気になってたですよ。
そーゆー薄暗くてややこしいところが好きだから。

案の定、いました。
ぶっとい青大将。
近づくと、ずるずるびくびく胴をくねらせ、逃げていこうとする。

去る者は追わない主義なので、そおっと後ずさりしてその場を離れる。
そのすきにきれいさっぱり、できれば地の果てまで逃げていってほしかったのに、数分して見に戻ってみると、まだそこにいる。

ちょっと様子がおかしい?
逃げてるんじゃなくて、グネグネしてるだけのような。
勇気を振り絞って近寄って見ると、頭の部分に網が絡みつき、もがいていたようです。
防鳥網がヘビのワナになっちゃったんですね...

かわいそうですが、私にはどうすることもできない。
少なくとも一か月はその場所に近づかないから、その間に朽ち果てるか、あるいは自力で逃げるかするように。

と、決意して平穏な日常が戻るはずだったが、まだどことなく違和感がある。
そのヘビ、異様に胴が長いのか、やたらこんがらがっていて、この世のものとは思えないほど禍々しい。
気のせいか、端っこ(尻尾の先)が2つあるように見える...
オーマイガッ!!
もう一匹いる!

元のヘビに絡みつくようにもう一匹いました。
一瞬、喧嘩してるのかと思ったが、片方はすでに動かなくなっている。
やはり網に絡まって抜けなくなり、一足先に息絶えたらしい。


もう勘弁してほしい。
網に絡まるのは勝手だが、なんで、わざとらしく目につくところでやるのか。
暑いのに鳥肌が立ちっぱなしで、気分が悪くなってくる。
お願いだから、早く成仏してください。

...と、半泣きで祈ったのが一昨日。

今朝、「放っておくと臭い」というHiroが、まだうにょうにょ動いてるヘビの絡まった網を無理やり引っ張り出し(ひえぇぇ~っ!)、ゴミと一緒に燃やしてしまった。
いや、もう、ほんと、何という人でしょうか...


日曜日, 7月 07, 2013

草刈りしようよ

先日、相方Hiroが「草を刈る」と言って、刈払い機を担いで畑に入っていった。
普通、畑の草むしりにエンジン付の刈払い機を持ち出す人はそういないと思うが、ファームの畑は「畑」と書くのが恥ずかしくなるくらい、茂りまくった草で藪のようになっている。

そもそも、私たちは畑仕事というものが嫌いなのかもしれない。
堆肥を撒いて、地面を耕し、畝を作って種を撒くところまでは、かろうじてできる(いつも時期ギリギリだけど)。
そこから先の世話が、からっきしできない。
毎年、梅雨時になると、雑草の中に野菜が埋没し、生きてるのか死んでるのか不安になってくる。
そういう状態に追い込まれて、やっと重い腰が上がる。

放ったらかしのことを「自然」というなら、これはもう堂々とした自然農法と言えるでしょう。
肥料は馬のフンだけ、農薬の類は一切無し。
虫や雑草とはとても仲良く(?)共生している。
なので、収穫量と見てくれは良くないが、味はとても良い、、、と思っている。
この野菜たちを食いつなぎ、厳しい夏を乗り切るのも毎年のことである。

突然ですが、そんな自分たちにエールを送る野菜たちに感謝の意を込めた替え歌です。


草の丈が 肩まで伸びて
藪と同じに なったら
約束どおり 刈払い機で
草刈りしようよ MMM

古いモーターを ブルンと鳴らそう
土の地面が 見えたら
おくら起こして ピーマン救おう
草刈りしようよ MMM

二人で刈った 緑の草を
裏の倉庫の 軒下に並べて干そう
草刈りしようよ 草の丈は
もうすぐ肩まで とどくよ
 

木曜日, 7月 04, 2013

はい、みなさん、ごいっしょに

下の記事書いてて思い出した。

大阪人の掟の一つに、「おキライですか?」と振られたら、すかさず「おスキです」と返さなければならない、というのがある。
一種の礼儀と言うか形式だから、あまり感情込めず乾いた感じでやりとりすることが、コツと言えばコツ。

大抵は下ネタが絡んでいて、ちょっとでも引いたり怯んだ素振りが見えると、すかさず振られることになっている。
あらゆる人間を等しく形而下世界に引きずり落とす強烈な呪力がある。

振った側は、相手の品位を微妙に押し下げることで自分の尊厳を守ることができ、答えた側も無粋なやっちゃと切り捨てられずに済むという、洗練された社交術でもある。

では、ここで復習しましょう。

A:(いやらしく)「アレがナニでコレもんでんがな!」
B:「いや、それはちょっと...」
A:「おキライですか?」
B:(しょうがなく)「いいえ、おスキです」

Good!
 


水曜日, 7月 03, 2013

あたし、実は・・・なんです

先日、近所のスーパーでやっすい輸入肉を買ってきて、炭焼きにした。
やっぱ、おいしいです、ステーキ。
脂っこくなった口中をビール(まろはコーラ)で洗って、次の一片にかぶりつくときとか、皿に残った肉汁に、炊き立てのご飯を絡めて、わしわしと掻きこむときとか。
我ながら意地汚いのですが、皿に屈みこむようにして、あっという間に平らげました。

そのとき、ふと思いつきました。
この食べ方には、ロールモデルがある。。。


まだ小学生だったと思うのですが、一冊のH本を手に入れ、目を皿のようにして読んでいたことがあります。
宇能鴻一郎大先生の御著書。

本当は、ビニールに包まれた怪しい雑誌の類が欲しかったのですが、さすがに近所の本屋でエロ本コーナーに近寄る勇気は無く、小説本の棚にあったその本を、すまし顔で、その実、全身の血が逆流するような思いで買いました。

古い鞄に隠したその本を、こっそり取り出しては何度も何度も読んだ。
それなのに、今も覚えているのは「あたし、実は、好色なんです」みたいな文体くらいで、題名もストーリーもHシーンも完全に忘れてしまっている(本当に!)。
頭がオーバーヒートして、記憶が飛んでしまったのかもしれない。
そんな中、ただ一つ覚えてるのが、若夫婦がステーキを食べるシーン。

ある章の冒頭、仕事帰りの旦那が団地に帰ってきて、いよいよムチムチプリンの新妻といたされるわけですね、と期待してると、おもむろに分厚い牛肉を焼きだしたりするわけです、これが。
コラーッ、食事くらい外ですませてこんかい!とヤキモキする読者を尻目に、肉の焼き加減がどうの、塩の種類がこうの、残った脂がやあのと、グルメ系うんちく話が延々と続く。
結局、ビールを飲んだ新妻が、美味しさのあまり目尻に涙を浮かべたところで、その章は終わってしまう。

そんなところ、小学生には退屈だったと思うのですが、今でもかなり覚えています。
「おいしいステーキの物語」が、どこか心の琴線に触れたのでしょう。

結局、そのとき頭の中に構築した幻想の味を、何十年たった今も反芻していたわけです。
「人は物語の中でしか生きられない」という言葉を身に染みて納得した瞬間でした。
 

火曜日, 6月 25, 2013

吠える気持ち

のおあある とをあある やわわあ でしたっけ?
犬の遠吠え。

うちの犬たちも、欠かさずやります。
午前11時と午後5時の1日2回、役場のサイレン(!)に合わせて。

カイたんは、型どおりお座りして喉をきれいに反らして、
生真面目なはずのるぢ男は、意外なことに、寝そべったまま首だけ持ち上げて、
もちちは、まだ上手にできませんが、一応周りの真似をして、
形は違えど、みんな一斉に吠えてます。
(そう言えば、さんだけ吠えないけど君は群じゃない?)

人が聞くと狂おしいような、もの悲しいような、なんとも言えない声音。
一体どんな衝動が身体を駆け巡ってるんでしょうか?
これだけは想像することもできない。

これだけ?
いや、それはウソやね。

羊を追う、フィールドを駆け回る、寝て過ごす午後のひと時、どんなときも、たとえ一瞬たりとも彼らの感覚を推し量る術はありません。
せいぜい自分の体験に照らし合わせて、それに近い感覚を当てはめてみるしかない。

ときどき、夢想することがあります。

もし人間社会が西洋流の自然科学重視主義とは違う原理で発展してきたとしたら、あるいは言葉に依らない文明を築いたとすれば、もしかしたら人は犬たちの衝動を内観する技を修得してたかもしれない。
精神感応とか、憑依するとか。

それができたら、泥まみれになっても楽しく作業できるかもしれない。
 

金曜日, 6月 14, 2013

ヘビのゆううつ

人生には、できれば避けたいがそうもいかない年中行事がいくつかある(自動車保険の更新とか、職場の忘年会とか、自分の誕生日とか)。
田舎暮らしを始めてからは、梅雨前後の「ヘビとの格闘」というのが、そのリストに加わった。

今朝遭遇したのは、体長1mほどの青大将。
ファーム倉庫裏の通路は狭くてごちゃごちゃしていて、そういう場所を通るときはつい物陰を凝視してしまうのだが、はたしてそこに潜んでいた。
気色悪いんだったら見なきゃいいのに、ゴムみたいな物体が視野の片隅でにゅるんと動くと、どうしてもまじまじと見つめてしまう。頭のてっぺんからつま先までゾワゾワ~とする。

いつもはそのまま忘れることにしているが、今日は近くでHiroが作業していたので「ヘビがいるんだけど、退治するぅ?」とお伺いをたてにいく。
自分一人では決してしない。
10年ほど前、やむなく一人で格闘したことがあって、そのときは緊張と興奮でホルモンバランスみたいなものが崩れたらしく、終日、心身の調子が悪かった。

ヘビとて生き物だしネズミの天敵でもあるので、見逃してやりたい気もするけれど、居着いてニワトリや卵を狙ったりするから、やっぱりそうもいかない。
今回も剪定バサミで挟みながら、頭をつぶした。

えんがちょ、えんがちょお。
 

水曜日, 6月 12, 2013

Welcome new-comers

にしきを小さい馬と交換するはずがいつの間にか2頭に増えていた、なんて事件があって以来、「もう騙されまい」と固く誓ったはずなのに、またHiroの策略に引っ掛かってしまった。

ファームに新しい住人が増えた。
人間の口笛みたいな声で啼く変な鳥(3羽)である。

昨日、単管とワイヤメッシュで作った小屋に入れてみたところ、全員スルスルと抜け出してフィールドを走り回ったらしい。
ヒナのくせに人間にはとても追いつけない。

るぢ男が大喜びで追い回した頑張って捕獲に協力してくれたらしい。
鳥のトラウマにならなければいいけど。

、、、って、もしかしてこれバカウケ!?
だってほら、トリとトラとウマで「トリのトラウマ」。
たった7文字中に動物が3匹も入ってるなんて、こんな奇跡はもう起こらんやろ!!

などと、あえて陽気に振る舞ってみる自分...

金曜日, 6月 07, 2013

ある日突然、

妙にひょろ長い卵が産まれました。(たぶんA型乙女座とおもわれ)



さっそく中身を見てみましょう。



あれ!?普通じゃん。

...って、ふっふっふ、今のは別の卵の画像でした。
細長卵の中身はこちら(左側)!!



...やっぱし、普通でしたね...
で、ガックシ気落ちしてたんですが、その後、卵焼きにして食べてみたら、な、な、なんと!!

おいしかったんですぅ!、、、やっぱりフツーでしたけど。



以上、ひょろ長い卵のレポートでした。

金曜日, 5月 24, 2013

おおっ、、、と気がつけば、

このブログ、もう一か月近くも放置されてるじゃないすか。
ちょっとびっくり。

思えば、「ったく、ボーダーコリーって奴は」という前身のサイトをHiroと開いてからもうかれこれ15年(!)。
別に書いても書かなくてもいいけど、どっちかと言えば書かん方がええんちゃう?、くらいの記事を延々と綴ってきたわけだけど、そんな下らない内容も書けないときは書けないもんだと、ビミョーに感動したのである。

よく、継続することに価値があるなんてことを言ったりするが、それはやっぱり多少なりとも前向きな行動だからなんであって、無価値なことはいくら継続しても無価値だということが、15年かけて証明された。
そういう意味で、価値はあったかもしれない。

全然関係ないけど、数少ないお気に入りサイトの一つに「チミドロ鈴木の早く老人になりたい」というのがある。
身の回りのトホホ系事物を取り上げ、テッテー的にイジリ倒すという趣向。
思いのほか文章もキチンとしていて、油断してるとときどき爆笑させられてしまう(例えば、これとかこれとか)。
下らないと言ってしまえば下らないのだけれど、ここまでくれば、探偵ナイトスクープの小ネタ集やトマソンの系譜に連なる現代の「作品」と言ってもいい。

第一回の記事に、タイトルについて書かれた文章がある。

僕の祖母は、テレビのスポーツニュースで、例えばゴルフトーナメントの結果を伝える場面があると、誰が勝ったか負けたかということに関係なく、球がカップに入ったか入らなかったかだけで「入れ、入れー!入った!ほほほ」「惜しい!あー」と楽しんでいて、それを見ていると幸せな気分になった。

老人はよく日向ぼっこをしている。気持ち良い風が吹くと「気持ちいいわねー」と言って、雲の切れ間から日が差してあったかくなると「日が出るとあったかいな」と言って喜んでいる。自分もそういう境地に早くたどり着いて、なんでもないようなことに幸せを感じられるようになりたいと思って、このようなタイトルにした。

バンドをやっていると、たまにライブしたり、みんなでパーっとやったり、はじけるように楽しい瞬間があるのだが、その後すぐに日常が始まる。日常は終わりのない労働とか、悩みとか、貧乏とか、そういうものにつきまとわれていて辛い。みんなもそうでしょう。毎日ライブして飲み会して生きていければ最高なのだが、そうはいかない。決して後ろ向きな意味合いではなく、辛い日常を克服するために老人の眼差しで日々を楽しんでいくことが必要なのだ!どうっすか。

とにかく老人的な達観を目指してあっちこっちと徘徊してみて、その過程をだらだらとレポートしていくのでよろしくお願いいたします。

いいですなぇ。
こういう味が出せるなら、続けてもいいんだけど。
 

月曜日, 4月 29, 2013

毛刈りで仕返し

今年も毛刈り週刊に突入。

ちょっと気が重い。
たかが6~8頭のヒツジなのに、これまで毎年、どえりゃーしんどい思いをしてきたからだ。

でも、毛刈りのビデオなんか見ると信じられないくらい速いし、そもそも普通の牧場だったら100頭も200頭もいるわけでこんなに苦労なわけがない、、、というわけで、牧場関係者(そんなにいないけど)に会うたびに秘けつを聞いて回っていたのだが、これまでは確たる成果が無かった。

それが去年、阿蘇牧羊犬クラブにお邪魔したとき、たまたまヒツジ歴〇十年という強者がいて、これは天から授かったチャンスとばかりに教えを乞うた。
犬やヒツジに一家言ある人は多いが、バリカンの使い方について微に入り細をうがち、理論と経験に裏打ちされた説明を得たのはこれが初めてである。
とりあえず、これまでの自己流では、潤滑オイルと刃の取り付け位置に難があることがわかった。

で、今日、「これでうまく行かなかったらどーしよう」という不安と期待が交錯する中、今季最初の毛刈りが始まったのだが、、、
き、切れる...
めっちゃ切れるぅぅぅ。

これまで、親の敵のように力を入れてたのがウソのように、ススススと羊毛と皮膚の間に刃が滑り込んでいく。
私は、これまで、一体何を頑張ってきたんだろう?



ところで、今日のお相手は頭突き男のレイ君。
いつもの仕返しに、恥ずかし~い写真を公開しといたろ。



わははははははは
 
 

木曜日, 4月 25, 2013

バイタルサイン

一つ屋根の下で一緒に暮らしているのに、ほとんど丸一日、猫の姿を見かけないことがある。
特に昼間の数時間、完全に気配が消える。
たぶん、2階の寝室に引っ込んで、これでもかっちゅーくらい怠惰な生活を送ってるに違いない。

ただ、1階にもあちこちに怪しいサインが残っている。

例えば、、、

・いつのまにか猫トイレが汚れてる
・閉めたはずのドアが10cmくらい開いてる
・机の小物が床に落ちている

とか。

なんだ、生きてんじゃん。(笑)

眠いんだったら、別にドアとか開けてくれなくていいから。
もしかしたら、「俺は元気でやってるから」というメッセージなのかな。
 

日曜日, 4月 21, 2013

ぐれぐ

犬にも上半身と下半身の区別ってあるんだろうか?

わからない。

でも、この男だけははっきりしてる。

全身が下半身。。。



別名「リトマス試験紙」。

どんな微かなヒートの兆候も見逃さないからだ。

月曜日, 4月 08, 2013

金融資本は癌か?

某ネットコミュで話題になっていた、中沢新一氏の評論(「赤から緑へ④」月刊スバル4月号)を読んでみた。
経済どころか社会常識にもズブのシロートですが、結構感銘を受けてしまったので感想文を書きます。

今日の国際社会における金融資本のふるまいが、無規律に自己増殖を続けるガン細胞に酷似しているという説。
本来、社会の諸活動を円滑に動かすための血液であるべき貨幣経済が、それ自体で無節操な増殖をはじめ、経済だけでなく政治や国家まで飲み込み、宿主である人間社会に機能不全をもたらしつつある、というのが氏の現状認識である。

不都合や障壁を「癌」と呼称するのはありふれた手法だが、現在の金融問題に当てはめて考えたとき、単なるレトリックを超えた迫真性を帯てくる。少なくとも、仮想敵(禿鷹ファンドとか悪徳資本家とか。そういえばオバマ大統領も「強欲なウォール街の連中」とか言ってましたね)を仕立て上げ、それらを攻撃すれば万事うまく行く的な、古典的な政治的言説よりは説得力がある。
朝日新聞が「カオスの深淵」という特集を組んだことからもわかるように、たぶん大多数の人が「どこがどうとは言えんが絶対どっかおかしいやろ」と感じている金融問題の不気味さが、少しクリアになったような気がした。

確かに金融界における最前線のプレイヤーは投資家だったり、ファンドだったり、金融機関だったり、グローバル企業だったりするわけだけれど、それらの背後にはおびただしい数の小さな欲望、「庶民のささやかな夢」や「慎ましい老後の備え」が隠れているわけで、結局誰が戦犯かと言えば現代に生きる我々全員と答える他ないところに、この問題の深刻さがあると思う。

癌の厄介さは、それが外部からの異物や毒ではなく、もともとは生体を構成する正常な細胞というところにある。
つまり病原菌を退治すれば治る類の病ではないし、そもそも癌が「病気」かどうかも疑わしい(実際、ガンを老化現象と見なす専門家もいるし、細胞には最初からガン化がプログラムされているという説もある)。同じように、金融問題は特定のプレーヤを排除したり制度を手直しして解決するほど単純ではないし、実はそれは問題ですらなく、資本主義が目指してきた一つのゴールなのかもしれない。

この潮流の思想的後ろ盾は、規制という規制を撤廃し、すべてを市場に委ねることを理想とする新自由主義と呼ばれる社会理論である。サッチャー、小泉純一郎、橋本徹など、本人が自覚しているかどうかは別にして、新自由主義を標榜する政治家は多い。ただし、これを提唱した当の経済学者たちは、現在のような社会状況を予想したわけではなく、むしろ計画主義で不調に陥った社会を賦活し、自由公平で開かれた社会が形成されることを望んだ。それがなぜ、巨大な格差を生み、投資マネーが市民生活や国家の命運さえ左右するような危機的状況を招いてしまったのだろうか?

中沢氏はその原因を、位相変化ともいえる経済構造の変化に求めている。
人間社会の諸制度は、異質の価値を何らかの理路で関連付けできる人間固有の能力を通じて構築されてきた(ありとあらゆる商材を交換対象にする市場経済がその端的な例)。そしてどんな迂回路を通ることになろうと、あらゆる制度や価値は最終的には自然環境と生命に根を下ろし、その「大地」との関係によって自生的秩序がビルトインされてきた(おおっ、そうだったのですか!)。
ところが貨幣の役割が、単なる交換の手段から信用の手段、さらには利殖の手段へと変遷するにしたがい、その結びつきが薄れ、ついには実世界が介在しないゲーム的な結界が形成されてしまった。そこにはもはや自然摂理に基づく秩序は存在せず、論理と記号だけで構成された無限のゲーム空間があるだけである(例えば、大食は胃袋の制約を受けるが、美食を求める欲望はキリが無いのと似ている)。
この結果、抽象的な貨幣価値の運動だけで経済が成り立つようになり、さらには社会的免疫機能ともいうべき様々な規制や制度や文化的制約が新自由主義の名のもとに弱体化させられ、金融資本のアンコントローラブルな増殖を招いてしまったというわけである。

(自生的秩序の件は、正常細胞には全体の秩序を保つための自死機能=アトポーシスがプログラミングされているのに対し、それを欠く癌細胞が暴走的に増殖することのアナロジーが有効かもしれない。あ、でも、そうか、ガンを老化現象と言うなら、資本主義という制度のアトポーシスが金融資本で、それによって資本主義が滅ぶのも自然な営み、と言えるのかもしれない。奥深い。。。)

新自由主義はあらゆる規制を攻撃することで、それらの持っていた免疫機能を弱め、結果として金融資本の増殖を助けることになった。その行きつく先は、従来の社会的/文化的制度が機能不全に陥った「社会の死」だという。
そこではほとんど全ての人間が労働価値という記号に還元され、ゲーム的な経済機構の中に組み込まれ、単純に利潤との対立関係に置かれる。

果たして人間が、生体圏外の論理的世界に生身をさらすことに耐えられるのだろうか?
少なくとも、強烈な痛みは伴うだろう(そういえば、新自由主義の政治家はよく「構造改革の痛みに耐えよ」と言う)。
でも本当に怖いのは、人間がそれに耐えられるように「進化」してしまうことかもしれない。

月曜日, 4月 01, 2013

全部ウソです

今年も長い長いプロ野球シーズンが始まりました。
あれだけ大型補強したにも関わらず、相変わらずド貧打というのはアレですか、阪神はどこまでいっても阪神ということですか。

それはさておき。
どこでだったか忘れましたが、以前、日米の審判の判定傾向について、両リーグ3年間の全試合を視聴して統計的に分析したレポートを読んだことがあります(もうちょっと役に立つ研究しろよ、、、)。
結果の一つは確かこんなのでした。

「カウント2ボール2ストライクで、次の投球が際どいコースに来た場合、日本の審判の方がボールと判定する割合が高い」

この辺は、自分のデシジョンが結果を左右するのを避けたい、あるいは単に結論を先送りしたいという国民性が表われているのでしょう。

あと、こんなのもありました。

「負けているチームのバッターが緩い内野ゴロを打ち、一塁への送球とバッターランナーのベースタッチがほぼ同時だった場合、日本の審判はセーフとコールする割合が高いのに対し、米国の審判はアウトを宣告しがち。勝っているチームのときはその傾向が逆転する。」

おもしろいでしょ。
つまり日本人は判官びいきで、米国人は敗者に追い打ちをかける性向がある、ということらしいです。

一番印象に残ってるのは、

「9回裏1点ビハインド。2アウト満塁、カウント3ボール2ストライクで次の一球が際どいコースに来たとき、米国人審判はストライクアウト(ゲームセット)を宣告しやすい」

理由は「早く家に帰りたいだけだろ」だって。ははは。

水曜日, 3月 20, 2013

断固とした決意

ヒツジ、ウマ、ヤギ解放同盟との闘争が激化している。

冬の間、動物たちをシャットアウトして、放牧地の一部を養生することにしている。敷地が充分広ければそんな小細工はいらないのだが、そうでもしないと全部が不毛の荒地になってしまうので。その甲斐あってか、養生地には柔らかそうな若草が生えて、青々とした感じになってきた。

同じ景色を家畜たちも見ている。
草はもちろんのこと木の葉や木肌まで食い尽くし、ヒヅメ攻撃で荒廃させた不毛の泥地から。
そして、こう思っているに違いない。

「こんなクソ地にオレらを閉じ込めやがって...」

いやいやいや、クソ地にしたのは君たちですから、というのは人間側の言い分であって、確かに可哀そうに思うことが無いことも無いのだが、だからといって今、養生地に放牧してやることはできない。
どーせ、アッという間に食い尽くすだけでしょ?君たちは。

というわけで、ここ数日は柵を挟んだ前線の緊張が極限まで高まっている。
昨日なんか、気がつけばヒツジ、ヤギの全員が養生地になだれ込んでいたり、ウマが畑に首を伸ばそうとして柵を曲げてしまったりと、領土を巡るギリギリの攻防が続いている。
シープドッグ隊のスクランブルも4回を数えた。

やるべきことはわかっている。
柵の補強だ。
いや、もう、何年もそう思ってるのだが、手間と費用を考えるとなかなか手が付けられず、ここまでズルズル来てしまったわけです。
どうやら、それも限界のようですね。

やるか、柵の補強...


土曜日, 3月 16, 2013

春のユーウツ

固い地面がこんなにステキだったなんて。。。

だって、歩いてて「にゅるん」とずっこけないし、馬が駆け抜けても頭から泥かぶんないし、一輪車押すのが3倍くらい軽いし、犬を放っても泥人形にならないし。

大洪水が退いて方舟を降りたときは世界中が泥だったはずなのに、ノアの家族はよく気が触れなかったものだ。
あと、この時期、世間では黄砂黄砂と騒ぐけれど砂が舞う前は泥だったわけで、中国の人はさぞ辛かったのでは?とか、いろんな思いが交錯するのは、つまり、それだけ深く泥に悩んでいたということだろうか。
で、ようやく地面が乾いて、気持ちの良い風も吹くようになってきて気分爽快、、、かというと、そうは問屋が許さない(←死語)。

これは誰のせいでもなく自分が悪いのだけれど、昔から、春になるとユーウツになったり、ぞわぞわと不安になったりする。
特に風の中にほのかに甘い花の香りが混じったり、フと見上げた空が抜けるように青かったりすると、心の中に暗雲が立ち込め始める。
朝日をうけて小川のせせらぎがキラキラしたりするのもいけない。
衣替えの作業も鬱陶しいけど、それでも頑張って春物に着替えて外出したのに、くっそーまだ肌寒いやんけ、なんて状況はもっと悪い。

別に学校が嫌いだったわけでもないのに、なぜか小学生の頃からこうだ。
はい、自分でも面倒臭い性格だと思います。

でも何より面倒臭いのは、こうやって愚痴ってるときは案外機嫌が良かったりするところかもしれない。
 

土曜日, 3月 09, 2013

本の身体

タブレットPCをゲットした。
いろいろ比較検討した挙句、iPadでもNexusでもKindleでもXPERIAでもなく、NECのLife Touchを選ぶところがただ者じゃない。
まろが新しいものに弱いと思ってる人はゼウスの雷に撃たれるでしょう。

さっそく、紀伊国屋の電子書籍を試してみて、おおおっ、これは良いっ、フォントの大きさが自由自在に変えられやんけ!
めっさ読みやすい。
こんなことなら、半額セールに焦って老眼鏡買うんじゃなかった。。。
あと本の値段が安いとか、置き場所に困らないとか、ライトがいらんとか、良いとこだらけちゃうん?(でも、印刷も紙も製本も店舗も販売員もいらんし万引きも落丁返品も無いんだから、もっと安くできんかなぁ)。

でもでもでも、自分的に結構大事な「寝る前の一冊」は、わざわざ本棚からふる~い「竜馬がゆく」を引っ張り出してきて読んだりしている。
最初は嬉しくてベッドにタブレットを持ち込んで、寒い日は頭から蒲団被って読めるのを喜んだりもしてたのに、あまり長続きしなかった。
なんというか、寝入る前の安らぎ感みたいなものが違う気がする。

思えばかれこれ50年以上も紙の本を読んできたわけで、これだけつき合いが長くなると、文字や絵による情報交換の他に、手ざわりとか、重さとか、ページめくりの質感とか、匂いとか、いろんなチャネルが確立してて、そういういろんな身体感覚が無いと「本を読んだ」感がしなくなってるのかもしれない。
まだタブレットに慣れてないだけかもしれないけど。
 


土曜日, 3月 02, 2013

誰か唐沢寿明主演でドラマ化しませんか?

安倍公房氏の小説に「砂の女」という長編がある。
遥か昔、確か高校生の頃に読んだからもう内容は覚えていないけれど、砂丘の中のアリ地獄のような一軒家から脱出しようとする男、それを引き留めようとする女、穴の上から逃亡を妨害する村の人々、それにどう防いでもいつの間にか部屋に侵入してくる砂のイメージは、今でも印象に残っている。

自分にも名作が書けそうな気になっている。
題名は「泥の犬」。

降り続く雨と無残に泥濘化する敷地、そして敷地に放流した途端、一瞬のうちに頭から尻尾の先まで完璧に泥だらけになる犬たち。
夜のうちに泥が落ちて元の姿に戻るから、毎日、この儀式が繰り返される。
あ、そうそう、犬に飛びつかれて泥だらけになる男もぜひ登場させなければ。
何度長靴を新調しても、いつのまにか侵入してきて靴下をダメにする泥水のエピソードも重要だ。

考えただけでもワクワクするね。
問題は泥で何を暗示するかだけど、、、それは書きながら考えることにしよう。
書き出しだけは決まってるんだ。
こんなの。

朝、カーテンを開けると、辺り一面、泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥泥、でした。
 

火曜日, 2月 19, 2013

もなかともっすぃ

何のため?と問いただすと、Hiroさんはきっぱりと「仕事に使う」と言い切り、大枚〇〇円をはたいてペンタッチ型の入力タブレットを買いました。

で、記念すべき作品第1号がこれ↓

一体、何の仕事なんでしょうね?
 

水曜日, 2月 13, 2013

カニと猫の意外な関係

他人の夢の話ほど退屈なものはないと言うけれど...


どこかの漁村を旅してる設定なんでしょう、カニ漁が見学できると聞いて出かける。
会場(?)は人工の谷というか、地下に向かって造られたコンクリート製のでっかいすり鉢みたいなところで、他の数人と一緒に谷底を見下ろす格好になる。
そこには灰色の生き物がうごめいていて、自分はボンヤリとあぁ、あれがカニかと納得する。

今から考えるとその生き物は、どこからどう見てもウミガメなのだが、夢の中ではカニということになっている。
全部で3匹いるカニは、体長が10mほどもあり、全身がヌメヌメしていて何となく気持ち悪い。

それらと対峙する位置に、同じくらいの大きさのやはり3頭の肉食動物がいて、鉄製の檻のようなものから首を突出し、しきりにカニにかぶりつこうとしている。
それが、その辺の「カニ漁」のやり方らしい。
動物の姿ははっきりしないが、キバの無い大きな爬虫類みたいな感じ。

とうとう一匹のカニがつかまり、首を咥えこまれてしまう。
しかし首は柔らかくて特に滑るようで、咥えこまれても、ヌルリと逃げたりしている。
それで逃げてしまえばいいものを、その知恵が無いのか、何度も何度も抑え込まれている。

そのうち喉が食い破られそうになり、一瞬、カメが苦しそうな表情をする。
自分は血なまぐさい光景に辟易しながらも、目を離すことができないばかりか、どこかエロティックな刺激まで受けていて、身を乗り出して見学している。。。


珍しく目覚めた時もはっきりと内容を覚えていたので、一体あの夢は何のメッセージだったんだろうかと考える。
人生の転機に至る重要な暗示だろうか、それとも、身辺に大きな事件が起きる前触れとか。

いや、でも待てよ、あのイメージはどこかで見たことがあるナ、、、しかも割と最近、、、。
そうだ、もっちがもなかを抑え込んでるとこだ!
 

土曜日, 2月 09, 2013

冬の情景

もはや冬の風物詩になったメメ穴。
ファームの(というより集落の)周囲に張り巡らされたシカ柵に見られます。



















曲線がメメの腹形状にピッタリっつーところが笑えます。
いくら修理してもムダ。
すぐに別の穴が開けられます。

メメさんはこの穴を通って、思いつくまま気の向くまま、敷地の内外を行ったり来たり。
でも餌の時間にはキチンと帰ってらっしゃいます。

プラプラ外をうろついて  猪に間違われて撃たれたらええねん。 ケガしないようにね。
 

水曜日, 2月 06, 2013

自販機バトル

どうも自販機と相性が悪い。
むかしっからそう。
どこでボタンを掛け違えたんだろう?

確か中学生の頃、それまで気後れして使ったことがなかった駅の券売機に初めて挑んだとき、ボタンの多さに舞い上がってドギマギしてたのを人に笑われたような気がして、それ以来、ギクシャクした関係になったような気がする。
なんせ、自意識過剰少年だったもんで。。。

ここ数年は、職場にある飲料自販機と闘っていた。→例えば
ホットコーヒーを出そうとして、なぜかアイスを押してしまうのだ。
真冬の朝一番にやると、これがどんだけやるせないか。
もう、その職場には行かなくなったので長らく休戦状態だったが、昨日たまたまそこに顔を出す機会があったので、こっそり蹴りを入れておいてやった。

そしてその帰り、お初のレストランでカフェバーに挑んだときのこと。
エスプレッソマシンでカプチーノを選んだ、、、はずなのに、押したボタンがズブズブとどこまでも入っていく。
やべっ、壊したか!?と思ったら、マシンの上に置いてあるパネルの絵を押していた。
ここまで来ると、もう自分でもフォローしようがないですね。
誰も見てなかったのが不幸中の幸い。

決してウケ狙いで創作してるわけじゃないです。
空気のようになってしまった自販機といえど、人知れず悩んでいる人間がいるということを訴えたかったのかも。
そういう自分が嫌いじゃないし。
 

木曜日, 1月 31, 2013

放牧地の怪

今もって謎の、不思議な不思議な事件だった。

この時期、放牧地の一部を閉めて養生中にするのだが、ときどき、そこに犬たちを開放してやっている。
つい先日も、ぺぐ、かい、もっちの3頭を走らせていたのだが、いつの間にか、ぺぐが端っこで背中をズリズリしている。

こういうときは大抵、ミミズの腐ったのとか野生動物のフンが落ちてたりするので、のおぉっと叫びながら現場に駆けつけた。
そこでHiroが目撃したものは、、、一片のこんにゃく。

それも豆腐大の素のこんにゃくではなく、5cmくらいのやつに切れ目を入れてくるっとひっくり返した「ねじりこんにゃく」。
その付近に葉っぱの煮つけみたいなものもあったそうだから、なぜか放牧地の一角が妙に家庭的な感じになっていたわけだ。

誰かそこでご飯でも食べたんだろうか?
謎だ。
 

日曜日, 1月 20, 2013

もっち失楽園

もち嬢、数々の悪行が仇となり、ついに生まれ育った楽園を追われ、犬の園に追放されました。
ただし寒さが厳しいので昼間だけ。
夜は室内でぬくぬくと寝ています。



←ぺじの喉に喰らいつく














で、この女、外に出しても大変です。

人の気配がするたび、1.5mほどの扉を飛び越えて、裏庭と園の間を行ったり来たりしてます。
誰よりも大量に食い、他犬の〇んちまで貪り食い、巨大な〇んちを生成します。
激しく遊び続けます。
園を抜け出して勝手に羊を追っかけます。
お隣の藤田さんちまで遠征して、ハナちゃんに吠えてピンポンダッシュで帰ってきます。
里心がつけば、ぎょわわわわんと悲鳴を上げながらガラス戸を引っかきます。

総括すると「必死に生きてる」という感じ。
でも、猫を羽交い絞めするのは止めてください。

火曜日, 1月 15, 2013

「犬に向きあう」に歯向かってみる(続き)

あたりまえのことだけれども、人と犬の生活様式は違う。上下関係もある。
だから、一緒に暮らすときに「ただ暮らす」ということができない。
どうしても、人から犬に向かって働きかけてしまう。
そして人がマジメであればあるほど、犬に向きあう濃度が高まる。

でも、、、そもそも人が犬に教えることなんて、「天然自然の理」みたいな観点からすると、その半分は逆行したものだし、残りの半分は無意味だ。
それは当然といえば当然で、犬はハナから自然のままに振舞っているのであって、人間が指図するときはそれを修正したいときに限られるからである。
家具を齧らないとか、ソファに乗らないとか、牙を使うとか使わないとか、、、そういうことが問題になるのは人間社会の中だけで、自然界ではまぁどうでもいいことだろう。

だから人が犬に働きかけると、多かれ少なかれ犬は「混乱」する。
それは誉めるとか叱るとかの方法論とは関係が無い。
欲求に従った自然な行動を矯正する、という原則に変わりは無いからだ。
もしそれが行き過ぎたとしたら、自分で考える意欲を無くしたり、悪いストレスをため込んでしまう犬がいても不思議ではない。真摯に向きあうことが人と犬にとって100%望ましい結果をもたらすとは限らない。

それでなくても、人間には妙なところが多い。
喜怒哀楽が激しい、常に喋っている、すぐに触りたがる、正面から覗き込む、直立して両手を使う、走りがのろい、仲間と競争する、恨む、騒ぐ、泣く、叫ぶ、、、これはもう動物として壊れていると言ってもいいレベルだ。
そういうのと四六時中一緒にいること自体、犬にとってどうなんだろう?、、、と、たまに思いを馳せるくらいの自省的な姿勢があってもいいように思う。
犬に何かを教えたりするのは、それが必要だ(と自分が考える)から(自分の責任で)教えるのであって、それが「良いこと」とか「犬のため」とか嘯くのは慎みたい。

ものの本によると、シープドッグの本場ヨークシャ州の農夫たちには、犬をペットとして飼うことを恥じていて、愛情をかけることを他人に隠そうとする風習があるのだそうだ。
どうやらそれは朴訥な農夫たちのテレ隠しらしいが、もっと別の意味があるんじゃないかと思っている。
つまりそれは、農場で長年培われてきた犬育てのノウハウが内面化したもので、その意味するところは「犬にあまり関わるな」ではないかと。
 

「犬に向きあう」に歯向かってみる

物事や人に「向きあう」という言い回しには、どこかポジティブなニュアンスがあって、そのせいもあってか、飼い犬に対して「向きあう」ことは、正しく望ましい態度ということになっている。そこに「きちんと」や「真摯に」などの修飾語がくっ付けば、もう天下無敵の肯定表現である。
そして、犬と昼夜を共にし、常に観察とケアを怠らず、愛情かけてしつけを施し、休日には充分なトレーニングか運動、といったあたりが、たぶん普通にイメージされるところの「犬にきちんと向きあう」飼い主である。

でもサ、、、というのがこの小文の主旨なのだが、別に真っ向から意見するわけじゃなく、まぁこれに限らず耳触りの良い言い回しというのは、とかく適用範囲が過大解釈されがちなので、たまに疑ってみるのも悪くないでしょ、くらいのスタンスである。

ということで、「犬に向きあう」飼い方自体に異存は無い。言ってみればそれは、人々が長い年月をかけて獲得した、犬と暮らすことの「良心」を具体化した行動モデルであって、そのやり方をなぞることで、より多くの人が犬との暮らしを楽しむことができるようになった。
まことにもって慶賀の至り。

しかしそれを頭から信じこみ、何の疑いも無く実践し、「科学的根拠」とやらで理論武装し、ついにはそれを正義として掲げ、逸脱を非難するまでに至れば、これはこれで厄介な話である。たとえ的を得た指摘であっても、「これぞ良識」「皆、我に習え」的な心証が透けて見えると心が萎える。
そもそも良識とか良心みたいな単語が頻出するメッセージって、退屈な上にちょっと気色悪い。(この文章のように)

と、ここまでは単なる好き嫌いの話だが、問題にしたいのはここからで、つまりモデルはどこまでいってもモデルに過ぎないというところ。
そこには自ずから、限られた前提条件と有効範囲があるはずだ。
「犬に向きあうことの弊害」というものがあったとしてもおかしくは無い。

続く
 

土曜日, 1月 12, 2013

猫になめられる

もなかが膝の上で毛繕いするとき、ひとしきり(5分くらい)自分の被毛を舐めてから2,3回、私の手や太腿を軽く舐める。

これって、1)膝を貸してもらってることのお礼なのか、それとも、2)ちょっと味を変えてみたかっただけなのか、あるいは3)単なる偶然なのか...

真相が2)や3)だったとしたらちょっとムカつくが、1)だとしたら、えらい安いお礼やんけという理由で、すっげームカつく。

どうでもいいけど。
 

 

火曜日, 1月 08, 2013

ひつじと自己嫌悪

年末に負ったケガがようやく癒えてきたと思ったら、新たな傷を抱えてしまった。
心に、、、じゃなくて今度は膝である。

この季節は朝夕の2回、羊たちにもヌカとオカラを与えているのだが、これが大層好物らしく、エサ箱を配るときはいつも揉みくちゃになる。
本来こういうときに危険なのが腐れ羊のレイ君なのだが、エサに夢中でそれどころじゃないらしく、配膳のときは頭突きを控える、というのがこれまでの暗黙のルールだった。

しかし昨日は、いつものように羊たちに揉まれながら、フと心に不安がよぎった。
「レイはどこ?」
不幸なことに、そのとき彼は真横にいた。
こちらの微妙な心の揺れを察知したのだろうか、彼もまたフッと我に帰った顔をした。

・・・来るっ!・・・

一瞬の間をおいて、3発の強烈なフックが膝に入った。
そのうちの一発は、膝が逆に曲がったような気がした。

もう昨日のことなのだが、今も痛む。
膝が、、、じゃなくて心が、である。
頭突きされた瞬間に思わずカッとして、ヤツに蹴りを入れてしまったのだ。
50年以上も生きてきて、未だに自分がコントロールできないとわ...