Tuesday, March 21, 2017

くだらない話(後編)

下町エリアに一歩足を踏み入れると、そこはもう立派なスラムでした。

荒れ果てた辺りの様子にビクついていると、向こうから悪党ヅラの女が近づいてきます。
あぷらんど姫でした。
長く離れて暮らしていた両者は、下町エリアで思わぬ再会を果たしたのです。
でも、それは幸せなものにはなりませんでした。

「うっ」
「うっ」

そうです、いきなりの対面に慌てた二人は、平常心の「あ」ではなく、緊張を煽る「う」を使ってしまったのです。
それがお互いの反感に火を着けたのか、ハデな取っ組み合いになってしまいました。

「ガルルルル」

怖ろしい唸り声を上げ、互いに相手の首を抱え込みます。
双方とも、頑として放しません。
どちらかが降参すれば決着がつくのですが、互いの意地もあるのでしょう、簡単には引き下がれないのです。

でも、意地の張り合いなら、下町育ちに一日の長があります。
もしし姫が「ひぃ」と声を漏らし、最初で最後の争いは終わりを迎えました。

やがて冷静になった二人は、それぞれの居場所に戻り、それぞれの暮らしを続けました。
And they lived happily ever after.


-- よーするに、くだらない話はどんな書き方をしてもくだらない、
-- とゆーお話でした。

Monday, March 20, 2017

くだらない話(前編)

むかしむかし、ある小さな王国に、もししとあぷらんどという2人の王女が住んでいました。

もしし姫は色が黒くて小心者でしたが、王室に取り入り、母屋でぬくぬくと暮らしていました。
色の白いあぷらんどは働き者でしたが、見た目がヤボったかったせいか、けっこう雑に扱われ、普段は下町で寝起きしていました。

もしし姫はあぷらんどの才気溢れる様子が妬ましく、また、あぷらんど姫はもししの調子の良いところが嫌いでした。
つまり、お互いに相手のことを良く思っていなかったのです。

ポカポカ陽気のある日、もしし姫は一人で裏庭に出てみることにしました。
いつもは、用心してすぐに室内に入る姫でしたが、その日はヘラヘラと調子に乗ってしまい、出入り口が閉められたことにも気がつきませんでした。
そのことを知ったのは、昼寝に帰ろうとして出入り口の前に立った時でした。

「ひっ!」

急に不安になってパニクった姫は、なぜか横手にあった塀をよじ登ってしまいました。
塀の向こうは、、、禁断の下町エリアだったのです。


--宿命づけられた二人の運命!
--以下、怒涛の後半へつづく!!

Monday, February 27, 2017

強者と弱者

ポイントゲットのテクニックとしては、「話題を変える」とか「キレてみせる」とか「言葉尻をとらえる」とか、いくらでも考えられるけど、案外効果的なのが「笑わせる」ことだ。
笑いが起こった瞬間、仕掛けた側にはシテヤッタリ感があり、笑わされた方はちょっと悔しかったりする。
つまりポイントのやりとりが発生する。

このテクニックのアドバンテージは、一方的にポイントを加算していっても、場の空気や人間関係が悪くならないところにある。
テレビを賑わしているお笑い芸人たちは、これを駆使できるという意味で、実は圧倒的な強者じゃないかと、わりと最近気づいた。
彼らには、たとえ相手が一国の総理大臣だろうが大会社の社長だろうが、一対一の会話であればまず負けないくらいの自信があるにちがいない。

だから彼らは、本来のバラエティだけでなく、アウェイなはずの司会やインタビューでも、相手に臆するということがない。
その余裕は、制作サイドや視聴する側の安心感につながる。
お笑い芸人があらゆるジャンルの番組に進出できるのは、ここが大きいと思う。

そういえば先日、NHKで「洞窟おじさん」というドラマをやっていた。
中学の時に家出をし、そのまま40年を山奥の洞窟で暮らした男の「ほぼ実話」だ。

前半のサバイバルの場面は、わりと平常心で観ていられたのだが、後半、他人との葛藤によって少しずつ「人間らしく」なってくるあたりから、ぐいぐい引き込まれてしまった。(しかし、リリー・フランキーってホームレス役がほんとハマるなぁ)

ドラマを見ていると、普通の人が普通に交わす会話が、慣れない男にとってはヒリヒリするような緊張を伴う体験であることがわかる。
だから彼は、人里に降りては山奥に逃げ帰ることを繰り返すのだが、他者や死者との関わりを通じて、最終的には人の世で生きることを選択する。

嫌な思いをすることがわかっていても人と関わって生きるしかない、、、そう覚悟を決めたのだろうか?
この辺に、人間性の本質的な何かが表現されているようにも思える。

ポイント判定アプリ


「会話が弾む」相手というのは、たぶん、ポイントのやりとりが頻繁で、かつトータルの勝ち負けが拮抗するような人だ(その逆は必ずしも成り立たないけど)。
ポイントの出入りが少なかったり流れが一方的だったりすると、内容が充実していても、イマイチ盛り上がりに欠けたり、ノリが悪かったりする。

最近のIT技術であれば、会話内容を認識するだけでなく、ポイント判定までできそうだ。
そうすれば、会話の「弾み度」をリアルタイムで判定したり、ロボットの会話能力を向上させたり、「気の合う相手」推薦アプリを開発できたりしそうである。

あ、これ結構良いかも!?って、こんなとこに書いてしもたら、もう特許取られへんやん!

パワーゲーム

どれだけ和やかで他愛の無い内容であっても、人対人の会話には、刹那のポイントを競うパワーゲームという側面がある。
ま、そう思ったってだけで何の根拠もないですけど。

例えば・・・

A 「なぁ、山本が結婚してたの知ってる?」
B 「え、そうなん!?」

 → 新情報を提供したAが1ポイントゲット。

A 「そうなんよー、ビックリやろ?」
B 「へぇ~、そうなんや。それで相手は?」

 → 質問したBは1ポイント減点。

A 「それがさー、なんと、経理のたま子ちゃん!」
B 「え゛~、うそやろ!」

 → と叫ばせたら高得点、Aに2ポイント追加!

A 「オレも最初に聞いた時、腰抜かしたわ。なんせデラックスたま子やからなぁ」
B 「いやいや、経理にお世話なってて、それはアウトやろ」

 → 軽くたしなめたBが1ポイント挽回!

・・・みたいな感じ。

これに表情とか態度とか地位とか年齢とかホームとかアウェイとかいろんなファクターが加わって、複雑でデリケートなゲームになる。
だから会話はおもしろいし、同時にしんどくもある。

どっちに傾くかは状況次第だけど、一つ言えるのは、人にとって「競う」ということが、息をするのと同じくらいフツーのことだとゆーこと。
ここは押さえとかないといけない。

いや、もしかしたらこれは順序が逆で、そもそもコミュニケーションというのは、わかり合うとか意思を伝えるためじゃなく、上下や順番を決めるものだったのかもしれない。

犬たちを見ていても、日がな一日、「そーゆーこと」にしのぎを削っている(ように見える)。
犬のことだったら、「くっだらねぇ!」と切って捨てられるのになぁ~。

Saturday, February 25, 2017

ゆく河の流れは絶えないの?

つい数年前まで、羊のフンを片づけたり柵を修理したりしていると、自分は一体何やってるんだろう?という感覚だったけど、今は逆に、オフィスで働いていたことが夢か幻のように思える。

そのうち、生きてるのか死んでるのかわかんなくなるんだろう。

鴨長明さんは、きっとこういうときに方丈記を書きたくなったんだと思う。

Friday, February 17, 2017

雪が白いとは限らない

やまない雨も、明けない夜も、今まで一度も無かった〜と、さだまさしがカン高い声で歌っていたけれど、ファームで暮らしていると、雪やみぞれが一度も降らない日はもう永遠に来ないんじゃないかと、深い絶望にとらわれるときがある。

太平洋側に住んでた頃は想像もしなかったが、この時期の日本海側気候というのは信じられないくらいwetだ。
お、晴れてるやん!と外作業に出ようとしても、服を着替えてる間にもう暗〜くなってきて、倉庫に辿り着く頃には白いものがチラチラしている。
雪が犬遊びが結びついていた頃は、ちょっとは愉しみな面もあったが、ここまで生活と密着してくると、もう後ろ向きの気分にしかならない。

ただ福知山は確かに雪はよく降るけれど、めちゃくちゃ寒いというほどでもない。
だから雪は降ったそばから融ける。
その上を動物たちが歩き回って、地面はぐちゃぐちゃのドロドロになる。

実はこれが辛い。
気力とか覇気とか、そういう希少なものが全部泥に吸い取られてしまう。

毎年のことで、いい加減慣れてもよさそうなものなのに、その気配もない。
しかも今年は新参者のアルパカと仔犬たちがいて、そいつらが体中を泥だらけにするので、なんかもう気が狂いそうな状況になっている。

もし3日間の晴天が約束されたら、悪魔に魂を売り渡してしまうかもしれない。


Monday, January 23, 2017

自分が2人いる

人は誰でも、最低2人の自分を持っている。
自分が知っている自分と、知らない自分。
2人の自分に引き裂かれながら、何とか折り合いをつけて生きているのが、今の進化段階の人という生き物だ。

人はオギャアと生まれた時は100%受動的な存在で、自分を自分とも思わず、ましてや「自分らしさ」とか「生きる目的」てなことに悩むこともなく、ただ充足して生きている。
これが知らない自分(の原型)である。

それが、いつしか自分と自分以外を区別するようになり、行きたい場所に行き、目的らしきものまで持って生きるようになる。
この自分が、自分の知っている自分になって、それ以外の自分は知らない自分として、舞台裏に押しやられる。もちろん消えて無くなるわけではなくて、知っている自分が知らないだけだ。
そのうち、これに「他人が知っている自分」というのも加わって、話はもっとややこしくなるけれど、これはまぁ知っている自分の分身みたいなもんだからスルーしちゃおう。

例えば人はいろんな理由で恋に落ちるけれど、職業とか年収とか背が高いとか、もっともらしい理由がスッと言える時は知っている自分が主役になっていて、そうでないときは知らない自分が働いている。後者の場合は、たぶん、声の響きとか体臭とか細胞の形とか、(知っている自分が)意識しないところでグッときてしまったのだ。

とまぁ、今良いこと言いましたヨ、みたいにもったいつけて書いてるけど、考えてみれば当たり前の話で、人が自分のことを完全には理解できない以上、残った部分は自動的に知らない自分になる。
問題は、両者の行動原理がまるで違うために葛藤や悩みが生まれることと、それらが基本的には解消できないことにある。

前者を意識とすれば後者は無意識、前者を理性とすれば後者は感性、前者が脳なら後者は身体、前者が個の生存欲求なら後者は種の保存欲求、前者が現実なら後者は夢、、、と、いろんな切り口で解釈できるのだが、どれにしても、そう言い切った途端ウソっぽくなってしまう。
実際には、二項対立のような簡単な構造ではないだろう。

そいえば世間では、スカートの中を隠し撮りしてた犯人を捕まえたら学校の先生でした、みたいな恥ずかしい事件が後を絶たない。
ニュースを見聞きするたび、地位も名誉も良識もある人が、すっげぇリスク冒してまで何でそれするかなぁ?と首を傾げるが、これは人格が1つという前提で考えるから変なんであって、彼の知らない彼の仕業だと思えば不思議ではない。
知ってる自分に知らない自分のことがわからないのと同じように、知らない自分には、知ってる自分の世界のリスクなど知るよしもない。

昔から、自分(まろ)には持てあまし気味の性癖があって、それは、ラジオ番組やTVドラマでどこか琴線に触れるところがあると、ヘビーローテーションしていつも心を一杯にしておきたい、という欲求を抑えられないことだ。

受験勉強の頃には、深夜放送のMBSヤングタウンを欠かさず聴いただけでなく、録音までして昼間もずっと聴いていた。半年ほど冬ソナにドップリ浸かったこともあって、そこから抜け出した頃には、心の中のアニマが活性化されたのか、性格まで変わってしまった気がする。

いわば嗜癖や依存の一種なんだろう。
生活が崩壊するところまではいかないけれど、論理的な思考や現実問題に向き合う意欲は明らかに減退する。
傍から見れば幸せなヤツかもしれないが、本人は結構苦にしている。
災難と同じで「ハマる」のはいつも突然なので、知ってる自分はただオロオロ見守ることしかできない。
予知とまでは行かなくても、せめて傾向だけでもつかめれば、心の準備ができるのに・・・

Saturday, January 21, 2017

雪ねぇ

鳥小屋崩壊した〜
アンテナ曲がった〜
雨どい折れた〜
ヤギ小屋歪んだ〜
鹿柵死んだ〜
地面ぐちゃぐちゃ〜
犬ドロドロ〜
子犬逃げる〜
人間ヘロヘロ〜