土曜日, 12月 23, 2017

まだ誰も考えたことのない宇宙人

「新しい宇宙人を思いついた」という書き出しの、自作のメモを発見した。

ファイル作成日が今年の11月15日だから、ほんの1ヶ月とちょっと前だ。
そう言えば、フとそんなことを思いついて、ああ、オレ天才ちゃうか!?、と勢い込んでメモしたような気がする。
ただ、すぐに飽きてしまったようで、途中でぶった切れている。
メモの内容がこれ↓

―メモ―

新しい宇宙人を思いついた。
これまで、小説や映画でものすごいバリエーションの宇宙人が造形されてきた。
人間型、動物型、魚型、イカ型、昆虫型、寄生虫型などはもちろんのこと、基本元素が炭素ではなくケイ素や鉱物であるものや流動体まで創造されてきた。
生身の身体という概念を越えようと、惑星や星雲自体が生きている、という発想もあった。


スタートレックは実はあまり観たことがないのだが、なんとなく意識だけとか、スピリチュアルなのが得意そうな気がする。
時間軸を合わせた4次元空間に棲む生物というSFも読んだことがあるが、これは頭の中にまるでイメージできなくて困った記憶がある。


でも、どの宇宙人も、

―メモ終わり―

最後に「でも、どの宇宙人も、」と書かれているから、これまでの宇宙人イメージの共通点を挙げて(あるのか?そんなもん)、「しかし、○○のような宇宙人は誰も発想してこなかった」と続けるつもりだったに違いない。
残念ながら、肝心なところをすっかり忘れてしまっている。

何を思いついたんだろう、、、1ヶ月前の自分。
ありとあらゆる宇宙人の共通点って何だ?
それを踏まえた新しい宇宙人像って?

うぅ、すっげー気になる。
まぁ忘れるくらいだから、大したアイデアでもなかったんだろうけど。

水曜日, 12月 20, 2017

手袋の陸王が欲しい

手がじっとりしてきたら、テンションダダ下がり...
冬の朝の作業。
どんな手袋をしても、魔法のように水が侵入してきて、すぐに指先がジンジンしてくる。
その状態でウンコ掃除なんかしてたら、東海林さだおの漫画みたいな情けな~い気分になってくる。
上着や長靴にも気を遣うけれど、冬の装備で一番苦労するのが手袋だ。

たぶん、中途半端な寒冷地というのがアカンのやと思う。
日が昇ると霜や氷が溶けて、地面、フェンス、餌箱、その他手に触れるもの全てがぐちょぐちょになる。
もっと寒かったら、凍ったものは凍ったままなわけで、あとは正々堂々と寒さに挑むだけだ。
なんか潔い。
それがちょいとでも温むと、途端に泥仕合になって、悲哀とか恨みとかが水と一緒に忍び込ん
でくる。

これまでありとあらゆる手袋を試してきたが、いくら防水が謳われてても、縫い目から入ってくる湿り気は防げない。
じゃあと言って外作業用のゴム手袋も着けてみたけど、結構ごつくて飼料袋の開封など細かい作業ができない。
結局、コスパも考えると軍手が一番という結論になり、ここ数年はそれで通してきた。防水性は0に近いけれど、できるだけ物に触れないようにしながら、濡れたらさっさと取り替えるという作戦で、なんとか乗り切ってきた。
もちろん、満足とは程遠い状態だ。

そんなこんなで、手袋問題はほとんど諦めかけていたところ、最近、え、これ最強ちゃうん!?と思える方法に出会った。
それが軍手と台所用ゴム手袋の重ね履き。軍手をはめた上から、ちょっと大きめのゴム手袋をつけるだけだ。
これが、結構いける。

優れポイントは、
・湿気が完璧に防げる。
・思ったより暖かい。
・軍手だと絡みついてくる干し草も、気にせず触れる。
・ゴムが薄いから細かい作業もこなせる。
・案外、丈夫(最近のゴム手って良くできてるんやね~)。
などなど。

おかげで、朝作業のユーウツ度が3割方改善した。
台所の神様に感謝。
ついでに、軍手インナー付ゴム手袋を商品化してくれたらうれしい。

それにしても、身体の末端の、しかも体表面積にして1%にも満たない指先が濡れただけで、なぜこんなにも気が滅入るのか?
掘り下げないといけないテーマやと思う。

木曜日, 12月 07, 2017

祝福と戒め

神は、人々が神のしもべであることの証に、髪の毛(神の子)を授けることとされた。
また神は、人々が神のしもべに過ぎないことの証に、その髪を少しずつ奪うこととされた。


・・・要するに、


神様っていぢわる.


火曜日, 12月 05, 2017

絶対音感と犬

養老孟司が新しい本を出したと聞いて、久しぶりに本屋に行った。
別に熱心な読者ではないけれど、「遺言。」なんてタイトルをつけられたら、スルーするのも申し訳ないかなぁ、、、とうっかり思ってしまったのだ。
で、殊勝な心持ちで読み始めたら、いきなり「当面死ぬ予定はない」とか「この本も『遺言1.0』とでも呼んだ方がよい」などと書いておる。
"まんまとじーさんに一杯食わされた"感が強い。ちっ

でも、本文冒頭にはおもしろいことが書いてあった。
犬猫の聴覚は絶対音感だと。
つまり彼らは、たとえ同じ声符であっても、音の高低によって、違うメッセージとして捉えている可能性があるということだ。

え、そ、そうなの!?
知らなかった...
そーゆー大事なことは、早く教えてくれないと困る.

そうと知ってたら、「コマンドわかってるくせに無視しやがって!」とムカつかずに済んだかもしれないのに。犬は音の違いに混乱しただけかもしれないのだから。

そういえば、いろいろと思い当たる節がある。
例えば、一般にかけ声よりも笛やクリッカーの方が犬の反応が良いと言われているけど、音程の安定度を考えると、なるほどそーゆーことだったのね、と思える。
(もしかしたら犬笛より、音階のあるチャルメラの方がええんちゃうん!?)
また、「訓練士の指示には従うのに、飼い主は無視する」という類の話は、単に指示が指示として聴こえてないだけかもしれない。飼い主がナメられてるのでは!?といきり立つ前に、検討してみる価値はある。

あと、しつけの心得の一つに「叱るのはいいが、腹を立ててはダメ」というのがあるが、これも怒りで犬が萎縮するから、という他に、声色の変化で何言ってるのかわからなくなる、という理由もありそうだ。
絶対音感を想定しただけで、いろんな気づきやヒントが得られる。

ただ、じーさんの言うことだから、ホントかどうかはわからない。
でも実のところ、そこはどっちでもいいと思っている。

コトバを操ることが息をするくらいフツーの私たちには、自分の「マテ」と他人の「マテ」が違って聴こえてるかも、、、なんてことはまず想像できない。
「いや、ウチの犬はよくコトバを聞き分けるよ」と言う人は、それが犬の努力の賜物であって、人よりも大きな負荷がかかっているかもしれない、という可能性には思いが至らない。
この種の想像力の欠如こそ、「擬人化」と呼ぶべきだと思う。
絶対音感を考えてみることで、想像の裾野が少しでも広がるなら、それはそれで充分”アリ”だと思う。

ちなみに人間はどうかというと、なななんと、やっぱり絶対音感なんだそうだ。
解剖生理的にはそうなるらしい(耳の感覚器は、周波数によって違った部位が共振するようにできている)。ただ、コトバを学習する過程で、その能力が邪魔になるので、あえて使わないようにしているとのこと。
確かに、「あ」は誰が発声しても「あ」と聞こえるべきで、声の高低によって「い」や「う」に聞こえるようではマズい。

要は、動物界では絶対音感が普通で、例外的にその能力を抑制した動物が人間、という見方が実態に近いようだ。
人は、微妙な音を聞き分けて危険を察知することより、コトバによるコミュニケーションを優先した、ということだろう。

この文章も、コトバによって失われたものをコトバで補おうとするあたり、いかにも人間らしい営みだなぁと思う。
我ながら健気。

木曜日, 11月 30, 2017

テレビ壊れたし(3)

てな風にものを考えていると、この先、いくら解析的なアプローチを積み重ねても生命の実態に迫ることはできないんじゃないか、という気がしてくる。個人をいくら調べても、歴史や社会は見えてこないように。
ただ、私たちにとって「わかる」というのは、イコール「言葉に還元できる」ということであって、これは人類全体の叡智というよりは、西洋ローカルなドグマに過ぎない、ともいえる。
何か別の仕方で「わかる」ことができれば、案外すんなりと事は前進するのかもしれない。

いや、それとも・・・

もしかしたら今でも、私たちが何かとんでもなく大きな思い違いをしている可能性だってある。
例えば、生命というのは、ロボットを作るように複雑な仕組みを精緻に積み上げるのではなく、何か重要なポイントさえ押さえておけば、まぁ妥当なところに全体が落ち着いてくるような現象だったりするとか。
いや、さすがにこれはあまりに安直だけれど、まだ私たちの知らない重要な概念の2つや3つは、案外近くに転がっているような気もする。
この痒いところに後ろ肢が届かない感じを文章にするのは、本当に難しい・・・


ところで全然関係無いけど、TVといえばドクターXこと大門未知子が嫌い、ということは以前も書いた。

なぜって、単にあの仏頂面キャラがムカつく(米倉涼子は好きな役者さんだけど)というのもあるけど、一番ヤなのは、生命に対する畏れと敬意が感じられないところだ。
キメ台詞「私、失敗しないので」は、まぁ好意的に解釈すれば「絶対に患者を治すという決意の表明」なんだろうけど、一歩間違えば「失敗さえしなけりゃ何でも治せる」という思い上がりにつながる。
医学の権威には反抗するくせに、医学そのものは過信している。

何でそこに思い至らないかなぁ。
他の誰でもない医師こそが、医療の未熟や限界に自覚的であるべきちゃうん?
「手術が三度の飯より好き」って、ざけんなよっ、何でも切ったらええっちゅうもんやないやろ!!

すみません、興奮してしまって...
嫌なら観なきゃいーんだもんね。
ただ、いくら視聴率が稼げるからといって、「スーパー外科医」みたいな幻想を世の中に振りまくのだけは、もうヤメにしてほしい。
お願いしましたからね。

水曜日, 11月 29, 2017

テレビ壊れたし(2)

ちょうど今、NHKのドキュメンタリー「人体」シリーズが始まっていて、たまたま、第1,2回の「腎臓」と「脂肪と筋肉」を観た。

シリーズ全体を通じたテーマは、これまで中枢神経や心臓によってトップダウンにコントロールされると考えられてきた人体イメージを、各臓器が直接連携するネットワーク型で捉えなおすというもの。
例えば、「血中の酸素濃度が低下すると、腎臓がEPOという物質を出し、それが骨髄に作用して赤血球が増産される」みたいな仕組み。
脳や神経を介さず、臓器同士が「ダイレクト」に、「メッセージを交換」するところがミソ。
多くの臓器がネットワークに参加しており、同定されたメッセージ物質は数百種にも及んでいる。
その機構を解明し治療や創薬に応用することが、現代医学の最先端研究領域なんだそうだ。

この手の話に触れるたび、いつも2重の絶望感に見舞われる。
一つは、生命の仕組みがあまりに精妙なことによるものだが、もう一つは、私たち人類は一体いつまで新発見すればいいんだろう?という絶望だ。

人類はその歴史が始まって以来、かれこれ何千年も心身を研究してきて、相変わらず「驚異の新発見」に驚き続けている。このシンプルな事実にまず打ちのめされる。
研究が収束に向かっているならまだしも、むしろ謎は深まりつつある。この先、いつ「もう大体この辺でええやろ」的な状態になるのかわからないし、そもそもそんな境位が存在するのかどうかすらわからない。

今、急に宇宙人が訪ねて来て「あなた方の身体ってどうなってるんですか?」と聞いてきたら、どう答えたらいいんだろう?
「いや、その話はまた今度・・・」なんて口ごもってたら、実はイラチだった宇宙人に解剖されてしまうかもしれない。
心配のタネは尽きない。

仕組みの精妙さに対する絶望感も深い。
遺伝、代謝、免疫、老化、運動、知覚、、、どんなトピックを持ってきても、ちょー複雑だし、しかも気が遠くなるくらいうまくできている。

その複雑さゆえか、身体機能の説明には、「白血球が細菌を攻撃する」とか「悪玉コレステロールで血液がドロドロに」みたいな比喩的な表現がよく使われる。おかげで、私たちはとりあえず知った気になれるけれど、それが実際にはどんな現象なのかを理解しているわけではない。
「身体の設計情報は遺伝子に書き込まれている」ことは、今なら小学生でも知ってるが、じゃあ誰がどんな風に情報を読み取って、それがどう作用して必要なタンパク質が合成されるのか?と聞かれて、答えられる人はまずいないだろうし、そもそも、そこまできちんと解明されているんだろうか?

様々な性質の有機物が寄り集まってるだけなのに、何でこんなにうまく連携して機能しているのか?
別に正確じゃなくてもいいから、実感として生命の営みを把握してみたいと、一年に二回くらいは思う。

火曜日, 11月 28, 2017

テレビ壊れたし(1)

8年間苦楽を共にしたTVモニタが壊れた。
あと10年くらい働いてもらおうと思っていたのに、一月ほど前、画面の一番下にノイズラインが出るようになったかと思うと、それがちょっとずつ上に侵食してきて、最後にはちゃんと映ってる部分が5cmくらいになってしまった。
さすがに我慢できなくなって、ヤマダ電器に持っていった。

店員の回答は芳しくない。
7年の保証期間は超えてますねぇ、、、画像センサが壊れてます、、、修理はメインボードを取り替えるしかない、、、ざっと10万は覚悟してください、、、買い換えた方がお得かと、、、まぁTVの寿命は5,6年と思っといてください、、、みたいなことを、立て板に水のごとく説明される。
画像センサって何?とか、寿命が5,6年とか誰が決めたん!?とか、言い返したいことは山ほどあったが、ここでゴネて事態が好転するとも思えず、大人の態度で引き下がった。

たぶん原因は、どこか一箇所が断線したとか、ICチップが不調になったとか、ほんのちょっとしたことだ。でも、それを突き止めたり修理するようなシステムが、もうメーカには残っていないのだろう。
店員が言うように、ボードを丸ごと交換するしかないのかもしれない。

で、TVの話が広がるかというとそうでもない。
実は、こういうことがあるたびに生き物ってスゴいと思っていて、そっちの話を書きたかったわけです。

どこがスゴいかというと、例えば、キカイだと部品が1個壊れただけでダウンしたりするけれど、生き物は、一部(とゆーよりアチコチ)が具合悪くなっても、どうにか平衡を保って動き続けたりするところ。
懐の深さが全然違う。
部品と細胞を比べたら、前者の方が圧倒的に堅固なのに、全体で見ると生物の方が丈夫だったりする。
(壊れやすいことを前提にして)細胞は常にスクラップ&ビルドされていることや、欠陥が出ても他の細胞がカバーしたりするからだろう。
これを人工で実現するのは大変だ。
100年近くも機能し続けるロボットなんて人間には作れないし、作れそうな見込みも無い。

金曜日, 10月 20, 2017

かけ声

犬の美点は数々あるけれど、その第一番は、立ち上がる時に「ヨッコラショ」と言わないことだと思う。
どれだけオッサン臭い犬でも、これはしない。
なぜって、それ言ったら飼い主に殴られるからだろう。

子供の頃、周りの大人たちが、腰を上げるたびに声を上げ、湯船に浸かって「ア゛~」と呻り、グラスを干して「ハァァァ」と嘆息するのを聞くにつけ、こういう空疎で定型的な発話をする大人にだけはなるまいと心に誓ったのに、気がつけば言いまくっている自分がいる。

、、、というようなことを書こうとしたのは、10年ほど前の話。
残念ながら、没ネタとして封印された。
きっと、心のどこかにまだ若いという衒いがあって書けなかったのだと思うが、今はその辺はもーどーでもよくなってきている。

それに今回はオチもついた。
いつのまにか、「ヨッコラショ」が「アイテテテ」に変化していたのだ。

別に本当にどこかが痛むわけではない。
「痛むかも」という予感だけで声が出てしまっている。
身体各部に警報を発するとともに、周囲に対してスローな動作の言い訳をしているのだろうか。
どーでもいいけど。

いや、これじゃあオチにもなってないですね。
やっぱ、書くんじゃなかった。

日曜日, 9月 17, 2017

むしのはなし

捻転胃虫(ねんてんいちゅう)という、椎名誠や筒井康隆のSFに登場しそうな、ふざけた名前の虫がいる。

虫は虫でも、反芻する草食動物の第四胃に棲みつく寄生虫である。
名前の語感とは裏腹に結構怖いヤツで、繁殖力が強く母体の致死率も高い。
なぜ、寄生虫のくせに宿主まで殺めてしまうかというと、成虫が産卵のために盛んに吸血するため、重篤な貧血と、それに伴う臓器不全や衰弱をもたらすからだ。

ちなみに英語圏では、Barber pole(理髪店の縞々サインのこと)という、これまたこジャレた名前で呼ばれている。成虫の体表にらせん状の赤い縞が表れるからだ。
その正体は吸い取った血が透けて見えたもので、そうと知ってから写真を見るとかなりグロい。重症患畜の胃を切開すると、2cm程度の成虫が「うじゃうじゃ」と喰らいついているのが見えるんだそうだ。
げろげろ。

成虫が産んだ卵は宿主のフンとともに排出される。
濃厚感染の場合、その数はグラム当たり数千~数万個にも上る。
体外に出た卵は、適当な水分と温度(10度以上)があれば、3~7日で孵化する。
孵化した幼虫は熱や乾燥にも強く、草などに潜みながら再び宿主の体内に取り込まれるのを待つ。
胃に帰り着いた幼虫はすぐに成虫になり、2週間程度で繁殖を始める。
3~4週間という短い世代交代サイクルによって、早い増殖スピードと高い環境適応能力を有する。

「胃壁に喰らいつく」と聞くと、人間の場合アニサキスを思い出すけれど、あれは高々2~3匹で七転八倒の痛みを伴う。その伝で行くと、念転胃虫の痛みも相当ではないかと思うが、動物が辛抱強いのか、あるいは痛みは感じないのか、そんな素振りは見られない。
ただ、何となく覇気がなくなり、食欲が落ち、ちょっと具合悪いかな?と首を傾げていると、そのうち立てなくなって逝ってしまう。

もともと草食動物は我慢強い(弱みを見せると襲われる?)ので、目に見える症状が現れた頃にはかなり弱っている。「しばらく様子を見ましょう」とか「検査の結果を見てから」などと悠長なことを言っていると、すぐに手遅れになってしまう。

もっとも効果的とされる治療は、抗寄生虫薬(イベルメクチン)による駆虫だ。
手遅れでなければ(母体の回復力があれば)、病状は劇的に改善する。
ただし最近は、薬剤耐性を獲得する虫体も増えているらしい。また、動物によっても効き方がまちまちで、規定量の倍を投与しないと効かないケースもある。
投薬した、あるいは症状が改善したからといって、安心はできない。

実は、みわファームも開設当初に苦い思いをしている。
その後の駆虫プログラムが功を奏したのか、長らく事無きを得ていたのだが、今年、久しぶりに患畜を出してしまった。
メチャクチャ不快だった今年の長雨と高温が、幼虫たちには最適だったのかもしれない。
気候変動の影響を真っ先に受けるのは、たぶんこういった微生物の世界だ。

ところでこの記事を書いていて、捻転胃虫がアナグラムの宝庫だということを発見した。
年中移転、天然注意、中年転移、威年天誅、、、
「意中やねんて!」という惜しいのもある。
どうでもいいことだけれど、そうでもしてないとやりきれない、というのもある。


土曜日, 4月 08, 2017

歓喜

来たー!
武道館ライブ映像DVD(初回限定MV集付き)!

これでまた、リトグリちゃんたちとの妄想会話が楽しめるっと!!

日曜日, 4月 02, 2017

犬らしい犬

小学生の頃、野良犬、飼い犬を問わず近所中の犬を「煮干し」で手なずけるほど犬好きだった自分が、ボーダーコリーを見て最初に持った印象が「犬らしい犬」だった。

真っ白でも真っ黒でもなく、小さ過ぎず大き過ぎず、短足でも足長でもなく、フワフワでもツルツルでもなく、つまり見た目にはこれといった特徴が無いけれども、オオカミのような怖そうな顔と思慮深そうな眼、、、これが、色んな犬と接してきて、何となく心の中に抱いていた「代表的な犬」のイメージだった。

だから、大人になって初めてボーダーコリーを見た時、最初に書いたような印象を持ったのかもしれない。
その時点では、犬を飼育できる環境ではなく、またボーダーコリーという犬種名すら知らなかったけれど、どーしてもその犬のことが頭から去らず、手当たり次第に調べ物をする羽目になった。
そうこうするうちに、自分の中で「犬らしい犬」が「特別な犬」に変わるのに、それほど時間はかからなかった。
かれこれ、もう、20年以上も前の話である。

、、、とゆー前フリから、新しく来たLouを見て改めて「犬らしさ」を感じた、みたいなことを言いつつ、実のところは彼女のノロケ話をしたかったのだが、ここまで読み返してみて、なんか文章が軽いなぁ~、ウソ臭いなぁ~と感じてしまったので、ここで筆を置くことにする。
残念です。

ま、人が遠い目をして語るような話は、大抵がウソと相場が決まってて、ウソというのがアレなら物語と言ってもいいけど、人は物語と無縁に語ることも生きることもできないのだから、全然気にすることは無いのだけれど。


媚びを売るLouとソッコー落ちるRudi

火曜日, 3月 21, 2017

くだらない話(後編)

下町エリアに一歩足を踏み入れると、そこはもう立派なスラムでした。

荒れ果てた辺りの様子にビクついていると、向こうから悪党ヅラの女が近づいてきます。
あぷらんど姫でした。
長く離れて暮らしていた両者は、下町エリアで思わぬ再会を果たしたのです。
でも、それは幸せなものにはなりませんでした。

「うっ」
「うっ」

そうです、いきなりの対面に慌てた二人は、平常心の「あ」ではなく、緊張を煽る「う」を使ってしまったのです。
それがお互いの反感に火を着けたのか、ハデな取っ組み合いになってしまいました。

「ガルルルル」

怖ろしい唸り声を上げ、互いに相手の首を抱え込みます。
双方とも、頑として放しません。
どちらかが降参すれば決着がつくのですが、互いの意地もあるのでしょう、簡単には引き下がれないのです。

でも、意地の張り合いなら、下町育ちに一日の長があります。
もしし姫が「ひぃ」と声を漏らし、最初で最後の争いは終わりを迎えました。

やがて冷静になった二人は、それぞれの居場所に戻り、それぞれの暮らしを続けました。
And they lived happily ever after.


-- よーするに、くだらない話はどんな書き方をしてもくだらない、
-- とゆーお話でした。

月曜日, 3月 20, 2017

くだらない話(前編)

むかしむかし、ある小さな王国に、もししとあぷらんどという2人の王女が住んでいました。

もしし姫は色が黒くて小心者でしたが、王室に取り入り、母屋でぬくぬくと暮らしていました。
色の白いあぷらんどは働き者でしたが、見た目がヤボったかったせいか、けっこう雑に扱われ、普段は下町で寝起きしていました。

もしし姫はあぷらんどの才気溢れる様子が妬ましく、また、あぷらんど姫はもししの調子の良いところが嫌いでした。
つまり、お互いに相手のことを良く思っていなかったのです。

ポカポカ陽気のある日、もしし姫は一人で裏庭に出てみることにしました。
いつもは、用心してすぐに室内に入る姫でしたが、その日はヘラヘラと調子に乗ってしまい、出入り口が閉められたことにも気がつきませんでした。
そのことを知ったのは、昼寝に帰ろうとして出入り口の前に立った時でした。

「ひっ!」

急に不安になってパニクった姫は、なぜか横手にあった塀をよじ登ってしまいました。
塀の向こうは、、、禁断の下町エリアだったのです。


--宿命づけられた二人の運命!
--以下、怒涛の後半へつづく!!

月曜日, 2月 27, 2017

強者と弱者

ポイントゲットのテクニックとしては、「話題を変える」とか「キレてみせる」とか「言葉尻をとらえる」とか、いくらでも考えられるけど、案外効果的なのが「笑わせる」ことだ。
笑いが起こった瞬間、仕掛けた側にはシテヤッタリ感があり、笑わされた方はちょっと悔しかったりする。
つまりポイントのやりとりが発生する。

このテクニックのアドバンテージは、一方的にポイントを加算していっても、場の空気や人間関係が悪くならないところにある。
テレビを賑わしているお笑い芸人たちは、これを駆使できるという意味で、実は圧倒的な強者じゃないかと、わりと最近気づいた。
彼らには、たとえ相手が一国の総理大臣だろうが大会社の社長だろうが、一対一の会話であればまず負けないくらいの自信があるにちがいない。

だから彼らは、本来のバラエティだけでなく、アウェイなはずの司会やインタビューでも、相手に臆するということがない。
その余裕は、制作サイドや視聴する側の安心感につながる。
お笑い芸人があらゆるジャンルの番組に進出できるのは、ここが大きいと思う。

そういえば先日、NHKで「洞窟おじさん」というドラマをやっていた。
中学の時に家出をし、そのまま40年を山奥の洞窟で暮らした男の「ほぼ実話」だ。

前半のサバイバルの場面は、わりと平常心で観ていられたのだが、後半、他人との葛藤によって少しずつ「人間らしく」なってくるあたりから、ぐいぐい引き込まれてしまった。(しかし、リリー・フランキーってホームレス役がほんとハマるなぁ)

ドラマを見ていると、普通の人が普通に交わす会話が、慣れない男にとってはヒリヒリするような緊張を伴う体験であることがわかる。
だから彼は、人里に降りては山奥に逃げ帰ることを繰り返すのだが、他者や死者との関わりを通じて、最終的には人の世で生きることを選択する。

嫌な思いをすることがわかっていても人と関わって生きるしかない、、、そう覚悟を決めたのだろうか?
この辺に、人間性の本質的な何かが表現されているようにも思える。

ポイント判定アプリ


「会話が弾む」相手というのは、たぶん、ポイントのやりとりが頻繁で、かつトータルの勝ち負けが拮抗するような人だ(その逆は必ずしも成り立たないけど)。
ポイントの出入りが少なかったり流れが一方的だったりすると、内容が充実していても、イマイチ盛り上がりに欠けたり、ノリが悪かったりする。

最近のIT技術であれば、会話内容を認識するだけでなく、ポイント判定までできそうだ。
そうすれば、会話の「弾み度」をリアルタイムで判定したり、ロボットの会話能力を向上させたり、「気の合う相手」推薦アプリを開発できたりしそうである。

あ、これ結構良いかも!?って、こんなとこに書いてしもたら、もう特許取られへんやん!

パワーゲーム

どれだけ和やかで他愛の無い内容であっても、人対人の会話には、刹那のポイントを競うパワーゲームという側面がある。
ま、そう思ったってだけで何の根拠もないですけど。

例えば・・・

A 「なぁ、山本が結婚してたの知ってる?」
B 「え、そうなん!?」

 → 新情報を提供したAが1ポイントゲット。

A 「そうなんよー、ビックリやろ?」
B 「へぇ~、そうなんや。それで相手は?」

 → 質問したBは1ポイント減点。

A 「それがさー、なんと、経理のたま子ちゃん!」
B 「え゛~、うそやろ!」

 → と叫ばせたら高得点、Aに2ポイント追加!

A 「オレも最初に聞いた時、腰抜かしたわ。なんせデラックスたま子やからなぁ」
B 「いやいや、経理にお世話なってて、それはアウトやろ」

 → 軽くたしなめたBが1ポイント挽回!

・・・みたいな感じ。

これに表情とか態度とか地位とか年齢とかホームとかアウェイとかいろんなファクターが加わって、複雑でデリケートなゲームになる。
だから会話はおもしろいし、同時にしんどくもある。

どっちに傾くかは状況次第だけど、一つ言えるのは、人にとって「競う」ということが、息をするのと同じくらいフツーのことだとゆーこと。
ここは押さえとかないといけない。

いや、もしかしたらこれは順序が逆で、そもそもコミュニケーションというのは、わかり合うとか意思を伝えるためじゃなく、上下や順番を決めるものだったのかもしれない。

犬たちを見ていても、日がな一日、「そーゆーこと」にしのぎを削っている(ように見える)。
犬のことだったら、「くっだらねぇ!」と切って捨てられるのになぁ~。

土曜日, 2月 25, 2017

ゆく河の流れは絶えないの?

つい数年前まで、羊のフンを片づけたり柵を修理したりしていると、自分は一体何やってるんだろう?という感覚だったけど、今は逆に、オフィスで働いていたことが夢か幻のように思える。

そのうち、生きてるのか死んでるのかわかんなくなるんだろう。

鴨長明さんは、きっとこういうときに方丈記を書きたくなったんだと思う。

金曜日, 2月 17, 2017

雪が白いとは限らない

やまない雨も、明けない夜も、今まで一度も無かった〜と、さだまさしがカン高い声で歌っていたけれど、ファームで暮らしていると、雪やみぞれが一度も降らない日はもう永遠に来ないんじゃないかと、深い絶望にとらわれるときがある。

太平洋側に住んでた頃は想像もしなかったが、この時期の日本海側気候というのは信じられないくらいwetだ。
お、晴れてるやん!と外作業に出ようとしても、服を着替えてる間にもう暗〜くなってきて、倉庫に辿り着く頃には白いものがチラチラしている。
雪が犬遊びが結びついていた頃は、ちょっとは愉しみな面もあったが、ここまで生活と密着してくると、もう後ろ向きの気分にしかならない。

ただ福知山は確かに雪はよく降るけれど、めちゃくちゃ寒いというほどでもない。
だから雪は降ったそばから融ける。
その上を動物たちが歩き回って、地面はぐちゃぐちゃのドロドロになる。

実はこれが辛い。
気力とか覇気とか、そういう希少なものが全部泥に吸い取られてしまう。

毎年のことで、いい加減慣れてもよさそうなものなのに、その気配もない。
しかも今年は新参者のアルパカと仔犬たちがいて、そいつらが体中を泥だらけにするので、なんかもう気が狂いそうな状況になっている。

もし3日間の晴天が約束されたら、悪魔に魂を売り渡してしまうかもしれない。


月曜日, 1月 23, 2017

自分が2人いる

人は誰でも、最低2人の自分を持っている。
自分が知っている自分と、知らない自分。
2人の自分に引き裂かれながら、何とか折り合いをつけて生きているのが、今の進化段階の人という生き物だ。

人はオギャアと生まれた時は100%受動的な存在で、自分を自分とも思わず、ましてや「自分らしさ」とか「生きる目的」てなことに悩むこともなく、ただ充足して生きている。
これが知らない自分(の原型)である。

それが、いつしか自分と自分以外を区別するようになり、行きたい場所に行き、目的らしきものまで持って生きるようになる。
この自分が、自分の知っている自分になって、それ以外の自分は知らない自分として、舞台裏に押しやられる。もちろん消えて無くなるわけではなくて、知っている自分が知らないだけだ。
そのうち、これに「他人が知っている自分」というのも加わって、話はもっとややこしくなるけれど、これはまぁ知っている自分の分身みたいなもんだからスルーしちゃおう。

例えば人はいろんな理由で恋に落ちるけれど、職業とか年収とか背が高いとか、もっともらしい理由がスッと言える時は知っている自分が主役になっていて、そうでないときは知らない自分が働いている。後者の場合は、たぶん、声の響きとか体臭とか細胞の形とか、(知っている自分が)意識しないところでグッときてしまったのだ。

とまぁ、今良いこと言いましたヨ、みたいにもったいつけて書いてるけど、考えてみれば当たり前の話で、人が自分のことを完全には理解できない以上、残った部分は自動的に知らない自分になる。
問題は、両者の行動原理がまるで違うために葛藤や悩みが生まれることと、それらが基本的には解消できないことにある。

前者を意識とすれば後者は無意識、前者を理性とすれば後者は感性、前者が脳なら後者は身体、前者が個の生存欲求なら後者は種の保存欲求、前者が現実なら後者は夢、、、と、いろんな切り口で解釈できるのだが、どれにしても、そう言い切った途端ウソっぽくなってしまう。
実際には、二項対立のような簡単な構造ではないだろう。

そいえば世間では、スカートの中を隠し撮りしてた犯人を捕まえたら学校の先生でした、みたいな恥ずかしい事件が後を絶たない。
ニュースを見聞きするたび、地位も名誉も良識もある人が、すっげぇリスク冒してまで何でそれするかなぁ?と首を傾げるが、これは人格が1つという前提で考えるから変なんであって、彼の知らない彼の仕業だと思えば不思議ではない。
知ってる自分に知らない自分のことがわからないのと同じように、知らない自分には、知ってる自分の世界のリスクなど知るよしもない。

昔から、自分(まろ)には持てあまし気味の性癖があって、それは、ラジオ番組やTVドラマでどこか琴線に触れるところがあると、ヘビーローテーションしていつも心を一杯にしておきたい、という欲求を抑えられないことだ。

受験勉強の頃には、深夜放送のMBSヤングタウンを欠かさず聴いただけでなく、録音までして昼間もずっと聴いていた。半年ほど冬ソナにドップリ浸かったこともあって、そこから抜け出した頃には、心の中のアニマが活性化されたのか、性格まで変わってしまった気がする。

いわば嗜癖や依存の一種なんだろう。
生活が崩壊するところまではいかないけれど、論理的な思考や現実問題に向き合う意欲は明らかに減退する。
傍から見れば幸せなヤツかもしれないが、本人は結構苦にしている。
災難と同じで「ハマる」のはいつも突然なので、知ってる自分はただオロオロ見守ることしかできない。
予知とまでは行かなくても、せめて傾向だけでもつかめれば、心の準備ができるのに・・・

土曜日, 1月 21, 2017

雪ねぇ

鳥小屋崩壊した〜
アンテナ曲がった〜
雨どい折れた〜
ヤギ小屋歪んだ〜
鹿柵死んだ〜
地面ぐちゃぐちゃ〜
犬ドロドロ〜
子犬逃げる〜
人間ヘロヘロ〜

日曜日, 1月 01, 2017

新発見

犬は身体を小さくすることがある、とゆーことを発見した。
「小さく見せる」ではなくて、「小さくする」だ。

今回、初めて母犬になったLouさんは、元の農場にいたときはずいぶんと大きかったのだが、出産前後は小さくなっていた。
子育てが終盤に差し掛かった今は、また元のサイズに戻りつつある。

理由など知る由もないが、もしかしたら、外敵から身を守るのに都合が良いとか、子犬に威圧感を与えないためとか、群から反感を買わないように身を慎んでいたとか、何かそんなふうなことがあるのかもしれない。

どうやって?というのもナゾだ。ただ、全身の関節の隙間を少しずつ縮めるとか、皮膚を収縮させて身体を引き締めるとか、何かしらの手はあるのだろう。
耳を自由に動かせる連中の身体能力なんか、人間にわかるはずがない。

そういえば、オオカミの母親は子供が口をなめると胃の中のものを吐き戻して子に与えると言うが、Louにもそういう習性が残っていて、何度もそういうシーンを目撃した。
今さらながら、犬の潜在(でもないけど)能力には驚かされる。

とゆーことで、犬と暮らしているといつまで経っても新しい発見がある。
Louの場合、単に毛が抜けてまた生えそろってきただけ、という説もあるが、それじゃあつまらないから、そーゆーのは却下。