火曜日, 1月 07, 2014

日出ずる国でシープドッグを思う (3)

「枠組み」と言っても別に一枚岩みたいにドカンとあるわけじゃなくて、その人の生死に関わるような重大なものから、気にも留まらない軽いものまで、多種多様にある(規範、主義、信条、常識、偏見、信仰、価値観、パラダイム、世界観、趣味嗜好、固定概念、好き嫌い、思い込み、こだわり、オレ流、、、等々)。
ただ、どんな枠組みでも一旦それとして登録されると、緩めたり解除することは想像以上に難しい。「授業で得た知識」のような、たぶんもっとも更新しやすい部類の枠組みでさえ、B君のようにあの手この手で抵抗してみせる生徒は、決して少なくない。

目新しく馴染みの無い事象でも、手持ちの枠組みで理解できる(ように思える)場合は少なくない。もちろん、その方が知的な負荷は少ないから、往々にして人はそれで押し通そうとする。しかし実際には、枠組み自体を拡げないと本当には理解できないことが、世の中にはゴマンとある。
そして厄介なことに、枠組みを拡げることの必要性とメリットは、実際に拡げた後になってみないと、金輪際わからない仕組みになっている(勉強の必要性が子供にはわからないように)。

ということで、ここまでが長い前フリで、ここから強引に話をシープドッグに振る。
「羊のいない国でどうやってシープドッグとつきあう?」というのは、Fair-rings Border Collie Centreとして掲げてきたテーマの一つだったりするのだが(実はそうだったんですよ!)、その前段に当たる「シープドッグを理解する」ことが、すでに十分難しいんじゃないかということを、最近しみじみと感じている次第。その理由を考えていて浮かんだのが、この枠組みの話だったのです。

今、日本には犬に関わる情報が溢れていて、それが多かれ少なかれ、私たちの頭の中に枠組みを形成している。それは確かに、私たちの「犬との暮らし」を豊かにしてきてくれたのだが、それが逆に、シープドッグ理解の妨げになってるのかもしれない、と。

(続く)

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