木曜日, 1月 18, 2018

脚立から落ちた

生まれて初めて気を失った。

ドラマで山ほど気絶シーンを見かけるので、すっかり身近に感じていたが、考えてみたら自分で経験するのは初めてだ(そういう人は案外多いと思う)。

状況はシンプルで、脚立に乗って木を刈っていて、そこから落下したらしい。
記憶にあるのは、枝を切り落とした瞬間までで、その直後から意識が途切れている。
だから、枝が倒れかかってきたのか、脚立が倒れたのか、自分で足を踏み外したのか、はたまた先に失神して落下したのか、何が原因かはわからない。
誰かに殴られたのでないことだけは確か、、、とも断言できないか。なんせ知らないんだから。

身体は冷え切ってなかったので、意識が無かったのは数分か、せいぜい10分以内だと思う。
意識が戻ったときの感覚は、居眠りから目覚めたときと変わらない。
ただ、何が起こったのかわからないだけだ。

最初に感じたのは、辺りの静けさと柔らかな冬の日差し、頬の下の乾いた落ち葉と芳ばしい匂い、などである。地面に伸びた右手の先に、チェンソーが転がっているのが見えた。
近くにいた犬たちが、心配そうにこちらを覗き込んでいた、、、のなら可愛いのだが、みな知らん顔で寝そべっていた。

辺りの情景をこんな印象で記憶しているということは、心の方もまぁまぁ平穏だった、ということだろう。
「気を失う」ことには、パニックを防ぐ安全装置みたいな機能があるのかもしれない。
たまたま大事に至らなかったから、のん気なことが言えるのだけれど。

それからのことも、もやがかかったように記憶があいまいだ。
家に誰もいなかったので、自分で部屋に戻り、作業服を着替え、コタツをセットして横になった。
そういう行動を記号的には覚えているが、どんな気分でどうやったかなどが判然とせず、どこかリアリティが無い。
もっともらしい記憶を、後づけで作ったのかもしれない。

どこかが痛いというより、とにかく身体が動かし辛く、何をするにもひどく時間がかかった。救急車を呼ぶことも考えたが、自分で動けるのになんか申し訳ないような気がして、結局やめた。
頭に外傷が無いことだけは、何度も確認した。

それが、木曜の午前中だったから、これを書いている時点でもう一週間が経っている。
今はどうかというと、まだ腰が痛くて寝返りも打ち辛いが、それでも日常生活にはほとんど支障が無い程度になった。
土曜日にはHiroさんに引っ張られて病院にも行ったが、まったく異常無しという診断であった。

あとは月日が笑い話に変えてくれるだろう。
それにしても、自分に何が起こったかわからないというのは、もどかしく、また不安でもあるけれど、考えてみればこうして生きているのだって、似たような状況なのかもしれない。
ということは、今のあり様を感謝して、目一杯それを享受するしかないわけやね。
りょーかい。

火曜日, 1月 09, 2018

宇宙人ふたたび

宇宙人のアイデア、思い出した!
「遺伝子を持たない」ことだ。

つまり個体ごとに姿形や性質が異なっていて、これといって似たところが無い生物。
強いて言えば、特徴らしい特徴が無いことが特徴だ。

見た目はもちろん、知能も言語も異なるから、本人たちでさえ仲間かどうかわからない。
唯一の手がかりは、太古から連なる深層的な記憶(集合的無意識とゆーやつ)を共有していること。
だから普段はとりとめなく暮らしているが、何か事があって心の深いところで共感すると、初めて種としてのアイデンティティに目覚めて団結するという、面倒臭い生物である。

思いついた時は、これ、スゲーじゃん?って思ったけど、書いてしまえばそれほどでもない。
忘れてしまうだけのことはある。

ただ負け惜しみすると、このアイデアの本当の狙いは「目新しい宇宙人像の提案」ではなくて、これを読んだり聞いたりした側が、この宇宙人を宇宙人として認知できるか?という挑戦的な問を投げかけるところにある。
カテゴライズできないものを物語の主題に据えたらどうなるんやろ?という思考実験でもある。(どーにもならない気もするけど)
森羅万象を分類してラベル付けし、それでもって世界を理解しようとするのが、人間的な知性の「型」だと思うからだ。
まぁそれが不発に終わったとしても、国籍とか民族とかLGBTとか男女とか老若とか貧富とか、自分たちのことですらやたら分断したがる昨今の風潮の批判にはなりそうな気がする。

と、ここまで書いてきて、新しい宇宙人像を思いついた。
知性の型が人間とまるで異なる、というのもアリじゃないかと。

「感情が無い」くらいだったらミスター・スポックが近いけど、彼にしたってエンタープライズ号のスタッフになるくらいだから、考え方は人間そのものだ。
そんなんじゃなくて、もう論理やら認識やら感覚やら記憶やら、一切合財がヘンテコなの。
それはさすがにまだ考案されてないと思う。
自分と違う「知性の型」を発想したり説明したりすることは、絶望的に難しいからだ。

言語は人間的知性そのものだから、小説や物語の形式で表現することはまず不可能だ。
可能性があるとしたら、映像や音くらいか。
ただし、受け手が何か解釈できたり納得できたりしたら、それは知性の型が異なることにはならないから、全く意味不明だけど心がザワつくような「作品」が必要かもしれない。
あるいは逆に、いくら見ても何の印象も残さない像とか。

挑戦してみる価値はあると思う。

日曜日, 1月 07, 2018

ひつじのにく

羊を飼い始めて13年、初めて肉にした。

「飼育した家畜を食べる」ことは、ファーム開設の当初から漠然と頭にあった。
畜産農家じゃないし、エコや自給自足や自然食にこだわるタチでもないから、敢えてする必要も無かったのだが、できるだけ身の周りのものを口にしたい、くらいの気持ちはあった。
最初に羊を分けてもらったとき、牧場にいたおっさんに不要になった羊の後始末について尋ねたところ、「どうか食べてやってください」と言われたことが、ずっと心に引っかかっていた、、、というのもある。
ただ、実際には何やかやと壁があって、なかなか実行には至らなかった。

一番のネックは「自分でできない」こと。
四つ脚はもちろん、鶏やカモですら、どうしたらいいかわからず、考えただけで途方にくれてしまう。たぶん、できるかどうかではなくて、やるかやらないかだけの問題なのだが、その一歩がなかなか踏み出せない。

移住した当初、鶏を捌くくらいは近所の人ができるやろと軽く考えていたが、誰に聞いても「おじいちゃんくらいまでは、自分らでやってたんやけどねぇ・・・」と、同じ回答が返ってきた。
こんな田舎でも、ここ1~2世代の間に、その手の知恵やスキルが綺麗に一掃されてしまったということだ。
しかも、食卓には、昔も今も変わらず鶏肉があるのだから、その変化は極めて巧妙かつスムーズだったことになる。
環境変化というと、どうしてもスマホなどの先端技術に目が行ってしまうが、実は「自然から遠ざかる」変化の方が、ずっとドラスティックなのかもしれない。

それは、さておき、、、
仮に自分で肉におろせたとしても、許可が無くては、販売することも食事として客に出すこともできない。
屠殺して肉を販売するためには食肉処理業と食肉販売業、加工するためには食肉製品製造業、食事として提供するためには飲食店営業の許可がいる。
もちろん、どの許可にもそれなりの施設と知識が必要で、一個人にはハードルが高い。

次善の策は業者や専門機関に依頼することだが、このやり方がまたわかりにくい。
手続き自体は複雑でもなんでもない。
ただ、情報が少ない。
ネットを調べても、法令や規則などは出てきても、具体的にどう動けばいいかという情報は皆無に等しい。
人に尋ねようにも、誰に聞けばいいのかわからないし、ようやく聞けたとしても、その回答がまたステキなほど要領を得ない。
どうやらこの業界、一般人や個人の利用は想定されていないらしい。
日本では古来、食肉やそれに絡むプロセスを忌み嫌い、人目から隠そうとする風儀があったが、その名残があるのかもしれない。

そうこうするうち、たまたま同じ市内に屠殺→枝肉(骨付きのでっかい肉塊)処理をやってくれる、公的な施設があることがわかった。
これは結構ラッキーなことで、家畜は生きたまま持ち込まないと処理できないので、近ければ近い方がありがたい。
ただ、やっぱり手順はわかりにくい。
何日前に申し込んだらいいか、1頭からでも引き受けてもらえるのか、家畜は何時どんな状態で持ち込めばいいのか、どれくらい時間がかかるか、枝肉はどれくらいの大きさでどんな状態で渡されるのか、、、
確認したいことが山ほどあって、できるだけ役所や施設で聞いて回ったが、それでもわからないところは見切り発車することにした。

残ったのは枝肉を小分けする作業で、これは自分たちで何とかしようと覚悟を決めていた。
しかし保健所に相談に行くと、みわファームでは施設の要件を満たさないという判断で、待ったがかかってしまった。
またもや心が折れかけたが、結局、そこも他の業者(近所の焼肉屋さん)にお願いすることになり、これでようやく、か細い道が一本つながった。
ふぅ。

で、羊を送り届けて5日後、返ってきたのは、骨を外され、血抜きもされた綺麗なお肉。
見た目で言えば、スーパーに並ぶブロック肉と変わらない(かなりでかいけど)。
これなら小分けして冷凍しておいて、少しずついただくことができそうだ。

そこまでが一ヶ月ほど前のこと。
以来、煮込んだり焼いたりBBQにしたりオーブンに突っ込んだりと、いろんな調理法で食べた。
量が半端じゃないので、親や知り合いにも声をかけ、協力してもらった。
なかには、生前の羊をよく知っていて、変わり果てた姿を見てボロボロと涙を流す人もいた。
そういうことも、大事かもしれない。

問題は味で、もういい歳のオス(去勢)だし、食肉用に肥育したわけでもないから、めちゃ固かったり臭かったりする可能性は大いにあった。
そうなると、あとは犬の餌にするくらいしか、利用法を思いつかないが、それでは羊に申し訳ない気もする。

幸い、覚悟していた臭みもなく、むしろ「美味しい肉」の部類に入る味であった。
少し固かったけれど、個人的にはその方が好みだし、しっかり煮込めばトロトロになる。
ありがとう、○○くん。
これなら、定常的にサイクルを回していくことができそうだ。
でも、羊に名前をつけるのは、もうやめた方がいいかもしれない。