金曜日, 11月 23, 2018

書き出し

助手席に犬を載っけて、真夜中の高速をドライブするのが好きだったりする。
狭くて孤独な空間を共有していると、友情のようなものまで感じる。

でも、こっちが眠気に襲われている時に、横でぐあ~と寝てられると、無性に腹が立ってくる。
じゃあ、眠いのをこらえて愛想振りまいてくれたら嬉しいのかというと、そーでもない。
やっぱりムカつく。
いったい、私は犬に何を求めているんだろう?

・・・という書き出しだけ思いついた。

本文さえあれば、面白いエッセイになりそうなのに。。。


火曜日, 10月 30, 2018

粉もんドラマ「見られてる」

(暗がりで)

小林:よう古賀、久しぶり。相談って何だよ。
古賀:うわ、びっくりした、何だ、小林か。
小林:何だって何だよ、お前が悩んでるっていうから、オレたちここにいるんじゃねぇか。
古賀:え!? オレたちって、他にも誰かいるの?
小林:おいおい、何言ってんだよ、さっきからここにいるだろ、ふくもっちゃんが。
福本:大丈夫か?、古賀、ボケてんじゃねーの? ま、いいや、で、悩みって何だよ。
古賀:ん~、それがさぁ、、、よくわかんないんだけど、最近、ずっと見られてる気がするんだ。
小林:はぁ?気のせいだろ! だれがお前のことなんか気にするかよ。
古賀:だよなぁ、、俺、ジミだし、モテねーし、、、でも、なんかすっげー視線感じるんだよ。
   さっきなんか、空から監視されてる気がしたし。。。
小林:お前さぁ、ちょっとそれ、ヤバいんちゃう? 医者行った方がいいって!
福本:いや、古賀の言うこと、わかる気がする。。。
古賀:えっ!?
小林:えっ!?
福本:実はオレも、誰かに狙われてるんじゃないかって感じてた。
   それに、いきなり棒でツツかれたこともあるんだよ。ついさっきなんだけど。。。
小林:も~、ちょっと、やめろよ~。キミ悪いじゃん~。
古賀:ゴメン、ゴメン、やっぱ気のせいだよな!? バイトしすぎて疲れてんのかなぁ。。。

(食卓で)

母:セリちゃん、グズグズしないで、早く食べちゃいなさい!
娘:え~、でも、どれ食べるか、迷っちゃう~。
母:バカねぇ、たこ焼きなんか、どれも一緒よ!
  あと行儀悪いから、爪楊枝でツンツンするの、やめなさい。
娘:は~い、ママ。
  ど、れ、に、し、よ、う、か、な、、、
  よし! キミに決めた!!

(プスッ)

古賀:あ~~~!
小林:あ、待てよ、古賀! どこ行くんだ!? お~い!!!
福本:あーあ、行っちゃった。ま、しょうがないか、オレらたこ焼きだし。

土曜日, 10月 06, 2018

腕時計の怪

昨日、久しぶりに銭湯に行って帰ってきたら腕時計を無くしていた。
そういやロッカーの奥に置いたままだったことを思い出し、慌てて受付に電話して、ロッカーの中を探してもらうようお願いした。
どこかのおっさんがパチってたら見つからんよなぁ、、、ちょっと悲しくなりながらベッドに行くと、何と枕元に置いてあった。
どうやら、朝から時計をしていなかったようだ。。。

そして今朝、目覚めたらその時計が止まっていた。
そういや、前回電池を交換してから、もう2年以上も経っている。
慌てて時計店を探したが、田舎の悲しさ、なかなか見つからない。
ようやく、食料品スーパーの中に小さな店があったのを思い出し、車を走らせた。

「すみませんっ、この時計の電池交換できますか?」
「え~っと、これは太陽電池ですねぇ。光に当ててやってください」
「・・・」

情けない。
まぁ、忘れっぽくなったのはしょうがないとして、「ロッカー奥に時計を置いた」「2年前に電池交換した」などとウソの記憶を作ってしまうのはどーゆーこと?

その場しのぎのいい加減な人生を送ってきたツケが回ってきたのかも。

日曜日, 9月 30, 2018

へへへ

リトグリちゃんがラジオに投稿したメール読んでくれた!
嬉しすぎてしんどい。
ラジオネーム、もうちょっと考えたら良かった。。。







木曜日, 8月 30, 2018

暑すぎる

柵に突っ込んだ首が抜けなくなったと、べぇべぇ羊が喚くもんだから、救出のため外に出たんだけど、いやもう、ほんと暑い。たった5分で汗まみれ。
動物たちの様子は普段とそれほど変わらないが、運動量は明らかに少ない。
実際にはすっげーストレスなんだと思う。

脳の適応力は大したもので、異常気象をもうそれほど異常とも感じなくなってきたけれど、身体の方はそうはいかない。
この変動の早さはほんとにヤバイと思う。
まずは教育プログラムを抜本的に改編して、地球規模の自然を考える人材を組織的に育成すべきだ。
今すぐにでも。

月曜日, 7月 30, 2018

もう勘弁してください

一瞬、軽く心臓が止まったと思う。

刈り払い機にガソリンを入れようと、いつものように倉庫でゴソゴソしてたら、ふと視界の隅に黒い影がよぎった。不吉なものを感じて目を凝らすと、太くて黒いゴム管のようなものが、顔の高さから床のすぐ上まで、縦一文字にブラ下がっている。
まさかぁ!?とは思ったが、そのまさかだった。
両手を広げたくらいの青大将。
ヒュッと喉が鳴って、全身が総毛立って、おしっこ漏らした(ウソ)。

棚に丸めてあった防鳥ネットに潜ろうとして、そのまま絡まって動けなくなってしまったようだ。
これで、「ネットに絡まって自殺した蛇」を目撃するのは6匹目だ。
ラベル付けて包装したらヘビ捕獲器として売れるかも。グロいけど。

そーいえばここしばらく、倉庫で作業していると、ときどき磯の香のようなツンとした刺激臭を感じていた。その臭いには覚えがあって嫌な予感もしたが、ま、いろんな生き物いるからしょーがないかと、あまり深刻に考えないようにしていた。
あ、そーいえば最近、乾いてるはずの床に黒々としたシミを見つけて、首を傾げたこともあった。
あれ、ヘビの体液だったんだ!
10cmほど視線を上にずらしてたら、濡れた尻尾があったはず。。。

え、ちょ、そしたらさぁ、ネットに絡まってまだグネグネしていた時にも、真横で作業してたかもしんないじゃん!
や〜だ〜!!
1日1回は倉庫に入るし、その辺に置いてある工具は使用頻度が高いから、可能性は極めて高い。

想像しただけで気が狂いそうになるが、どうかトラウマになりませんようにと、今、必死の思いで文章に書き起こしている。

日曜日, 7月 01, 2018

耳タコ

とりあえず、いんでぃどとはずきるぅぺととりばごは、おれのテレビから出て行ってくれないか?
話はそれからだ。

土曜日, 6月 30, 2018

分離不安

まだ幼かった頃、知らない場所や人混みで親の姿が見えなくなると、それまでの上機嫌がウソのように泣き喚いたものだ。

今でも記憶に残る、どこかのデパートの売り場。
プレゼントを買ってもらえるというので、有頂天になって駆け回っていて、親がいない!と気づいた瞬間に世界が暗転した。
わーわー泣いても周りの大人たちが知らん顔なのがまた怖くて、ますます大声で泣き叫んだ。
買ってもらったはずのプレゼントは思い出せないが、生まれて初めて店内放送のお世話になるという痛恨の失態とともに、売り場で感じた不安や無力感は、今でもハッキリ覚えている。

なぜそんな羽目に陥るかというと、調子こいて辺りに気を取られて、親の居場所確認をサボっていたからだ。逆にいうと、親に頼っていたせいで、アウェイな場所なのに油断できるくらい安心していた、とも言える。
「あんまり離れなさんな」という親の注意なんか、まるで耳に入っていなかった。
ま、子供なんてそんなもんだし、むしろそうやってすぐに油断できるから、いろんなものを吸収できるのだろう。

犬の問題行動とされるものの一つに分離不安というのがあるが、これなんか同じだと思う。
しつけやトレーニングをどうこう言うより、要は犬が幼いということじゃないかと。

ファームに来る犬たちの中にも、それまで機嫌良く敷地をブラついていたのに、飼い主がちょっと姿を消した途端、急に騒ぎ出す犬がいる。飼い主が消えたドアの前に陣取り、抗議するように、あるいは哀訴するかのように、脇目も振らず吠え続ける。
飼い主が戻ってくると、再会を喜んで甘えまくるかというと、そうでもなくて、すぅっと平静に戻ってまた辺りをフラフラしだす。
安心と不安、万能感と劣等感、高揚と抑うつなど、気分が極端から極端に振れやすいのが未成熟な心の特徴の一つだが、分離不安な犬というのは、まさにそういう心の状態にあるのだと思う。

犬を飼うという行為は、大なり小なり、相手に子犬(の役割)を求めることでもあるから、それが分離不安という形で現れるのかもしれない。
「問題行動」と仰々しくラベリングしてしまうのは、ちょっと気の毒な気がする。

ただ気になるのは、そうやって騒ぐ犬ほど、飼い主の呼びかけへの反応が鈍いように感じられることだ。
呼んでもなかなか寄ってこない、、、くらいだったらまだいい方で、飼い主の方を見たり、あるいは耳をピクリと動かしたりといった、僅かな応答すら返さない犬もいる。
これも、まぁ子供だからと苦笑いでやり過ごすこともアリだが、呼びが効かないというのは現実的な不都合が多い。それに、幼かろうが年寄りだろうが、呼びかけをスルーするという態度は、ちょっとヨロしくない気がする。これは何とかしたい。

以前テレビで、分離不安の対処法として、犬が陣取るドアの前に敷物を置いて、吠えたタイミングで思いっきり引っ張るという方法を紹介していた。
いわゆる天罰方式というやつだが、映像を観ていて、ええ、そんなあ!?とのけぞってしまった。
もちろん、それで鳴き止む犬もいるだろうけど(TVに出演した犬には見事に効いた)、例えば不安に陥っている子供に対して、いきなり足払いをかけてひっくり返すようなことをするだろうか?

手っ取り早い対処を求める気持ちはわかる。
特に集合住宅なんかで隣近所から苦情が、、、といった事情では、即効性のあるやり方に頼らざるを得ないだろう。
ただその場合でも(問題行動が収まったとしても)、成熟やコミュニケーションに関わる課題が残っていることは頭に留めておくべきだ。

いや、たとえ目に見える問題が無くても、私たち犬飼いは「飼い犬をどうしたら成熟させられるか?」ということに、もうちょっと心を砕くべきじゃないかと思っている。犬の成熟とは何か?それを促すにはどうするのがいいか?といったことについて、犬の個性や置かれた環境に照らし合わせ、各自が少しずつ考えるのである。「心の成長」みたいなワードを意識するだけでもいいかもしれない。

そうすれば、犬との関係性が変わる、、、ことはないかもしれないけれど、自分や人社会の未熟なところに気づくことはできる。

土曜日, 6月 09, 2018

ファームあるある怖い話

3日ほど前だったかな、倉庫の中でネズミが死んでいた。

まだ、なまなましかったから、たぶんシャッターを開けたときにどこかに挟まれたんだろう。
忙しかったから、申し訳ないけど埋めずにコンポストに捨てた。

で、今日、Hiroさんがゴミを捨てようとコンポストを開けると、、、
そのネズミがまだ動いていて、こちらを睨んでいた!、、、そうだ。

どんよりした梅雨空の今朝の話。

土曜日, 5月 26, 2018

信頼関係

よく「犬と信頼関係を築こう」なんてことが言われて、それがまた耳触りが良いもんだからつい激しく頷いてしまうわけだけれど、フと立ち止まると、どーゆーことかよくわからなかったりする。もうちょい噛み砕いて言ってもらわないと困ります、と当局に苦情の一つも言いたくなるが、その当局の所在がまたよくわからないときている。
こうなったら、自己流で解釈するしかない。

信頼関係は双方向の作用だ。
自分から相手、相手から自分への信頼があってこその関係である。
そして単純に字面を追えば、信頼とは「信じ」て「頼る」ことだから、その第一歩はまず相手を「信じる」ことになる。

実はここで引っかかってしまう。
人が犬を信じるのはまぁ信じればいいとして、犬が人を信じるとはどういうことか?
「信じる」は、相手がウソをついたり裏切ったりする可能性があるからこそ成り立つ行為だ。いや、別に本当にウソついてくれなくてもいいのだが、少なくともウソという概念がないと、それを乗り越えたところにある「信じる」も成立しない。

何だかわざわざ話をややこしくしているようだけれど、言ってみればウソも裏切りも、わざわざ話をややこしくするのが大好きな生き物特有の技だ。犬の住む世界はそうではないだろう。
だからことさら言わなくてもいーじゃんという意味で、「犬が人を信じる」という言い方には違和感をおぼえる。

では、犬はどんな心理を経て、人を信頼するようになるのか?
それは「安心」ではないかと思う。

動物の欲求は、基本的には生存確率を高める方向に向いているから、特に群動物の場合、メンバーから受ける安心感は、何物にも代え難い魅力に違いない。
だから犬は真っ先に、一緒にいて安心できる存在を求めるようになる。
エサくれるとか、遊んでくれるとか、褒めてくれるとかもポイントにはなるが、それよりも何よりも、安心を与えてくれる人を求める。
そして人から安心を得た犬は、その人の意を汲み取ろうとするし、周りの世界に向けて自発的に行動しようとする。

だとすると、当面の問題は、どうすれば犬に安心感を与えられるのか?に移る。
人間同士だと、相手の財力や権力も安心の源になるだろうが、もちろん犬にはそんなものは通用しない。言葉も無力。
たぶん動物としての安定感みたいなもの、、、落ち着いた態度、穏やかで力強い声、安定した姿勢、揺るがない自信、心身の健康、、、そういうもろもろを全身をアンテナにして感じているに違いない。ノンバーバル言語とか無意識の所作と言ってもいい。

これは頭で考えたりコントロールするものではないから、できる人は最初からできるし、できない人はなかなかできない。
そう言ってしまうとミもフタも無いが、それでも、自分の様子が犬を安心させるかどうか、ということは頭の片隅に置いておいてもいいと思う。
犬が人を信頼するようになるのは、そういう僅かなことの積み重ねだと思うし、それにきっと、人の動物的な部分に対しても同じような効果があるからだ。

では逆に、人から犬に対する信頼とは何か?
私見ではそれは、「この状況でこの犬はこういう風に振る舞うだろう」という予想のことだ。
予想が確信に近いものになり、かつ予想された振舞いが人にとって不快でも問題でもない場合に、私たちは「犬が信頼できる」と言っている。
その意味ではリードで街中を散歩するのも、クレートに入れずに留守にできることのも、信頼の賜物と言えるのだが、普通はそこまで大仰には言わない。
ここでポイントになるのが、自由意思と人との関わりだ。

ファームでは、朝と夕の2回、犬たちをフィールド内に放している。
頭数が多くて散歩に連れていけない(こともないけど、面倒臭い)からだ。
その間、人間は家畜の世話に忙しいので、犬たちはフリーで敷地内をうろついている。
本当はもっとかまってやりたいのだが、あいにく、そんな暇は無い(こともないけど、面倒臭い)。

羊を見張るやつ、鳥を睨みつけるやつ、ひたすら放牧地を駆けるやつ、人の傍を離れないやつ、、、犬たちのやることは見事にバラバラだ。個性ってすげーといつも感心している。
ただ、暇そうにするやつがおらず、揃いも揃って何やら忙しげなところは、さすがボーダーコリーと言うべきか。
こっそり柵の中に忍び込み、羊を追いつめる不届き者もいないではないが、まあ事故は起きないやろと多寡をくくっている。

最初からこうしようと決めたわけではない。
毎日の暮らしの中で、人と犬が試行錯誤を重ねてきた結果だ。
仔犬の時、自由にしてやれるのは狭いサークルの中だけだったのが、やがて庭や作業場に広がり、大人になる頃にはほぼ敷地全体になる。
その中で犬たちは、色んなことと折り合いをつけながら、自分の居場所を見つけ、わきまえた行動を身につけてきた。
ざっとまぁ、そういうこと(=そういう風に思えること)が、人から犬への信頼ではないかと思う。

と、いうことで強引にまとめると、人と犬の信頼関係というのは、犬がまず安心できることであり、その安心感を糧に人と犬が互いの意思を尊重しながら暮らしを築いていくことだと思う。
異論は多々あるだろうが、大事なことは、双方が相手(の意思)を欲望することだ。


犬と暮らすということは、イコール犬の自発的な行動を制限することでもある。
しかし信頼関係という見えない秩序のもとで、自由意思を発揮する場面を増やすことはできる。
それは人にとって煩わしいことだし、リスクも伴う。
ただ、世の中の多くのことがそうであるように、それは一見犬のためのようであって、実は人がよりよく生きるためのものだったりする。


木曜日, 4月 26, 2018

毛蟹ツアーがあるんやから毛刈りツアーとかあってもえーんちゃう?

今年もこの季節がやってきた。

例年、4月なんてまだ余裕をかましてたのだが、今年はお尻に火がついたような感じだ。
暑い日が尋常でなく暑いことと、刈る頭数が増えたからだ。

Hiroさんの努力もあって、羊は13+5(子羊)頭にまで増えた。
毎年、毛刈りのテクニックは少しずつ向上していると思うが、それと同じくらいのペースで頭数も増えている。だから、負担感はなかなか軽減しない。
そりゃー、何百頭もいるような牧場からすれば、ほとんど誤差範囲みたいなもんでしょーけどー

それに去年からは飼育委託されたアルパカも加わった。
彼らも暑さには弱いし、毛は伸び続けるので、やっぱり刈ってやらないといけない。

羊は原則、保定と剪毛が1人でできるように、手順と道具が美しいまでに確立されているが、パカはそうでもない。ようつべを検索すると、紐で縛ったり壁に押しつけたり大勢で押さえ込んだりと、お前らみんな勝手にやってるやろ!状態である。まだまだ世界的にも試行錯誤なのかもしれない。

去年はアルパカ自体が珍しいこともあって、委託元にも協力いただきワーッと作業して乗り切ったが、今後定常的にやって行くためには、そこまで力をかけるわけにはいかない。
ああ、今日は燃やさないゴミ出す日やからちょっと捨ててくるわ、くらいのノリでないと続かない。
目を血走らせた鼻息荒い男たちにとり囲まれるパカも気の毒だし。

あーあ、それにしても気が重い。
ある日突然、広瀬すずがやってきて「毛刈りお手伝いさせてもらえませんか?お金払いますから」って言ってくれないかな?

日曜日, 4月 22, 2018

俺にまかせとけ

「よく知ってるけど、口にしたことがない」セリフというのが誰にでもあると思う。

この前、何かの拍子に「オレにまかせとけ」と口にしたことがあって、その時、あれ?何かうまく言えてへん、みたいな微妙な違和感を感じた。
なぜと自問してみると、要は「言い慣れてない」からで、そう言えば、生まれて一度も言ったことないかも!?ということに思い至った。

つまり、ある仕事なり課題なりを引き受けて、実行から結果責任までまるっと背負うという言動を避けてきたわけだ、自分という人間は。
なんという無責任な男なんだろう。

いやいや考えようによっては、安請け合いをしないという意味で、逆に責任感が強いのかもしれない。
ネプチューンの原田泰造みたいに、オレにまかせとけを乱発する人間にあまり頼りたくないと思うのは、自分だけではないと思う。

まぁその辺はどっちでもいいとして、自分にはこんな未使用ワードがまだまだ一杯あるような気がする。
頭の中に、「そんなバカなっ!」とか「お前に俺の何がわかるんだ!?」とか「前の車を追ってください」といったドラマや映画の定型セリフが、未開封状態で大量にストックされている。
そういうのってちょっと可哀想じゃないかと思う。
言ったことがないセリフを使ってみたい、ということがモチベーションになって、行動を起こすことだってアリだと思う。

筒井康隆氏の小説に、登場人物の社会属性(主婦とかサラリーマンとか女子高生とかヤクザとか)と言葉遣いをミスマッチさせた話があって、強烈な異化効果に驚いたことがある。
自由に会話している気でいても、がんじがらめと言っていいくらい、言葉が限定されているのが現代人なんだと、思い知らされる。

そういえば最近、セクハラやパワハラ、暴力沙汰などの報道が多い。
そのたびに「意識を変える」必要性が叫ばれるが、それこそ表層的な意識ならいざ知らず、内面化した意識を変えるなんてことが、そう簡単にできるはずがない。
セクハラ研修でいくらケーススタディを積み重ねても、ガハハ親父の性根は変わらない。

本心は話の内容ではなく口調にあらわれる、みたいなことをどこかの学者さんが言ってたが、ならば、意識を変えるのにまず言葉遣いを変える、というソリューションもあるかもしれない。
国会なんか杓子定規な官庁語を使うから、建前しか言えないのであって、答弁は飲み会用語を使うこと、というルールにしてしまえば、ぶっちゃけオレら小役人なんかさぁ、おエライさんの顔色伺うしかないわけよ、みたいな本音が、10回に1回くらいは聞けるかもしれない。
どーしようもないガハハ上司には、とりあえず主婦の井戸端会議か、女子大生の恋バナ用語くらいをマスターしてもらおう。
もう少し、相手の気持ちを斟酌できるようになるかも。

まぁそれは難しいとしても、一人称を替えるくらいだったらできそうだ。
相手との関係で一人称が変わるのが日本語の難しいところだが、それを逆手にとるのである。

実はこんなしょうもない文章でも、しっくりくる一人称が無くて、ずっと悩んでいる。
ワタシはリーマン時代の感覚が蘇るようだし、かといってオレは強がってるみたいだし、ワシはおっさんだし、ボクは年齢的に気がひける。
だから、できるだけ一人称は使わないようにしているのだが、どうしようもないときは「ジブンは」とか「コジンテキには」などを使っている。
はっきりいって苦しまぎれだ。

あれ、何の話をしてたんだっけ?
というのも、言ってみたかったセリフの一つです。

木曜日, 4月 12, 2018

輝かしい朝に

ファームの1日は、外飼い犬のうんち掃除から始まる。

犬が一晩にする量なんてたかが知れてるが、5頭分ともなるとかなり手強い。
人間と一緒で、仕事しないやつに限って大量にうんこする、、、気がする。
掃除しながら「もう、うんこすんなっ!」と毒づいてる自分は、あんまり好きじゃない。
    
最近はそれに、アルパカのうんち拾いが加わった。
日課にされてる方には賛同いただけると思うが、これは結講悩ましい作業なのだ。
ヒツジやヤギだと、フンはフィールド中に散らばってしまうので、そもそも拾い集めようなどという気も起きない。

アルパカはフン場を決めて、決まった箇所でする習性があるようで(タイミングが重なると、一列に並んで順番待ちしてたりする)、黒々と盛り上がった塊が、嫌でも目に入ってくる。
これは掃除せなアカンか~、という空気に追い込まれる。

実は見た目だけじゃなく、寄生虫予防の意味もあるから、せっせとうんち拾いしている。
両手にチリトリと熊手を持って、中腰をキープしたまま、ウサギの糞みたいなやつを集めて回るのは、かなりの重労働である。

いや、うそ、実はそれほどでもない。
そりゃ愉しかぁないけど、気候さえ良ければ、鼻歌が交じることだってある。
問題があるとすれば1日もサボれないことで(丸一日溜めてしまうと、見ただけで心が折れる)、朝夕の2回、できれば昼頃にもう1囘、雨が降ろうが槍が降ろうが、ジミすぎる作業を重ねないといけない。

自分のペースで適当にやれればいいのだけど、動物相手だとまったくそうはいかない。
このフラストレーションが文明発展の原動力なのだろうけれど、それにしても、アルパカのうんちって・・・

金曜日, 3月 09, 2018

勉強しません

ここに書いても詮ないことだが、あんまりメディアが書かないから書くのだけれど、今、高校教育がエライことになっている。
もう、信じられないくらい学力が低い、勉強もしない、だけど大学には行く、、、のだそうだ。
ある私立高校に勤める知人がいて、トンデモな実態を教えてくれた。

その高校には進学と普通の2コースがある。
勉学できる子は進学コース、そうでない子は普通コースという、私立ではわりとよくあるパターンである。

進学コースでは、難関大学を目指してひたすら受験対策に勤んでいる。
それが良いか悪いかは別にして、まぁ見慣れた光景ではある。

問題は普通コースだ。
クラブに賭けてる連中はしょうがないとして、そうでない生徒たちがもう完全に勉強のモチベーションを失っているという。
成績が悪くて進学を諦めたからではない。
そうではなくて、誰でも大学に行けてしまうからだ。

最近では多くの(いや、たぶん全ての)私立大学が、AO入試や指定校推薦と呼ばれる推薦入学枠を用意している。私大合格者の40%が推薦枠という数字もあるから、入学者の過半数が推薦という大学も珍しくないだろう。
しかも大学の数がこれまた多いものだから、こんな地方のパッとしない高校にも山のような推薦依頼が届く。

本来、推薦入学というのは、特定の分野で高い能力を持った生徒に対して、一般試験以外の門戸を開くことが主旨だと思うが、はっきりいって公募の推薦以外は、学生の頭数を確保する手段以外の何物でもない。
これは、授業料のためならなりふり構わないというか、かなり恥ずかしい実態だと思うのだが、声を大にして言う人はあまりいない(言論人の多くが、何らかの形で大学に関わっているからだろうか?)。

もちろん、各大学の推薦枠は限りがあるから、誰もが希望通りに応募できるわけではないが、大学さえ選ばなければ、志願者はほぼ全員が推薦を受けられる。しかも、一旦推薦が得られれば、よほどのことがない限り取り消されることはない。
学費の心配さえ無ければ、あとは大学生活の開始を余裕で待つばかりである(先の高校は、裕福なご家庭が多いらしい)。

しかも、さっき「大学さえ選ばなければ」と言ったが、実は、推薦依頼を出してくる大学の中には難関と言われる有名どころ(関西で言えば、関関同立みたいな)まで含まれている。
希望枠は成績順で埋まるから、そういう大学の推薦を狙って、わざとランク下の高校に入ってくる生徒もいるらしい。
入試で落ちた優秀な学生を尻目に、な~んも勉強しなかった◯カ学生が面接だけで入学するという、アンフェアな逆転現象も生じている

わずか数年とはいえ、将来の安楽が保証されている若者がいかに傲慢で怠惰になるか、知人は授業をしながら日々実感しているそうである。
「マジメなやつはカッコ悪い」という伝統的な風潮もあるだろうが、もう教師なんかそこにいないかのような態度で授業を邪魔する。
だったら学校に来なきゃ良いのに、と思うが、そーゆーやつに限って毎日せっせと通ってくる。
出席が不足すると推薦に響くからだろう。

で、高三にもなって、My father (am are is) an English teacher. レベルの問題に首をひねっている。
いや、問題を解く前に、問題文の意味が理解できているのかどうかすら怪しい。
こーゆーのが大学に行って、一体何をするというのだろう?

水曜日, 2月 28, 2018

胸焼けしないんですか?

第一胃にある未消化物を口中に戻し、再び咀嚼する行為を反芻という。
ウシが有名だが、ヒツジやヤギも反芻する。
アルパカもする。

陽だまりで箱座りしながら、喉のあたりがぐびぐびっと動いたかと思うと、ゆっくりと咀嚼が始まる。
残った固形物をすりつぶすように、下顎が左右に動く。

最近フと思ったのだが、これってもしかして、ものすごく幸せなんじゃないだろーか?
飢えを凌ぐとか敵から逃げるといった差し迫った用事もなく、もうすぐ栄養になろうかという柔らかな未消化物を、口中に戻したりまた飲み込んだり、、、
味はもちろん、香りや喉ごしも思う存分楽しめる。

その間、思い出に耽るのもいいし、嫌いな群仲間をdisってもいい。
2年前に食べた、最高の出来の最高の青草を思い浮かべるのもいいかもしれない。
「充足」とか「至福」という言葉は、こういうときのためにあるのだと思う。

実のところ、反芻がどんな感覚なのか、人間には想像することもできない(少なくとも、ゲロがこみ上げてくるのとは違うと思う)。
ただ、リラックスしまくりの姿勢と目を細めた表情からは、「満ち足りた」感が濃厚に漂っている。

充実した仕事の後の、あるいは重い緊張から解放されたときの、薫り高いコーヒーの一服に似た感じじゃないかと、勝手に思っている。


木曜日, 2月 08, 2018

観察日誌

2月8日(木)晴れ

アルパカさんのうんちはね、ウサギさんみたいにコロコロなの。
でも、まん丸じゃないの。
しいの実みたいにちょっと細長い。

朝にはね、黒~いうんちのお山が、あっちこっちにできるの。
あっちにひと山、こっちにひと山、そっちにひと山、向こうにひと山・・・。

それを熊手で集めて、ちりとりに入れて堆肥置き場に捨てるのが、まろさんの大切なお仕事。
アルパカさんたちは、ちょっと遠巻きにしながら、不思議そうに眺めてる。

でもこの頃は寒くって、うんちがカチコチに凍ってる。
だから熊手が跳ね返って、なかなか集められないのね。

しょうがないからガリガリ引っかいてると、ちょっとずつ剥がれて、地面の上をコロコロ転がっていく。
熊手を持ったまろさんは、転がるうんちを目で追いながら、口の中で「もーいや」とか「ばかやろう」って呟いてる。

それを見ていた私は、地球人って意気地がないなぁって思いました。


金曜日, 2月 02, 2018

ロイコクロリディウム

宇宙人のことを考えていて、「カタツムリを操る寄生虫」のことを思い出した。

この寄生虫は鳥の体内でないと成熟できないので、中間宿主であるカタツムリが捕食されやすいよう、アレやコレやの策を労する。
まず、宿主を目立たたせるために、ツノとかヤリと言われる触覚のあたりに移動し、プロジェクトマッピングよろしくギラギラ動く模様を浮き上がらせる。

どう見ても散髪屋のサインポールだが、せっかくのサインも、空から見えないと意味がない。
そこでこいつは、どこにどう作用するのやら(たぶんカタツムリの神経系に働きかけて)、葉っぱの表側など、普段は避けるような位置に宿主を誘導する。

この何重もの努力により、首尾よく鳥に捕食されると、めでたく子孫繁栄できるのである。
なんとなく、自分の墓穴を掘らせる捕虜収容所の強制労働を連想させるが、暴力や権力を介さない分、より洗練されているとも言える。

ロイコクロリディウム

この気色悪さは、そのままSFネタに使える。

ある考古学者が人類の歴史を調べていて、類人猿からホモ・サピエンスに至る進化のどこかに、DNAレベルの干渉があった証拠を発見する。
すわっ地球外生物か!?というわけで世界中が興奮し、考古学、生物学、宇宙学、物理、化学、心理、宗教、哲学など、多方面の専門家が参加する調査プロジェクトがスタートする。

やがて考古学&生物学の混成チームから、重大な発見が発表される。
なんと、件の生物が類人猿の脳内に寄生していたらしいこと、さらには宿主の行動をコントロールしていた可能性があるというのだ。

勢いづいた研究チームは、二足歩行、言葉、道具、火の利用、群生活やサバンナへの大移動など、人類が人類たる所以となった行動を始めた時期には、常に寄生虫が存在していたことを突き止める。
この時点で、研究は世界的なブームとなり、一部は熱狂レベルにまで達する。

しかし、大脳新皮質の急速な発達そのものが寄生虫の共生作用によるもの、という仮説が立てられるに及び、研究ブームは一気に終焉に向かう。
「人は主体的・自律的に考えて行動する」という一神教的な人間観と、どうにも相性が悪くなってきたからだ。文明推進のエンジンでもあった「人としての尊厳とプライド」が、それ以上の真相究明を阻む皮肉な結果となったのである。

ただ、研究ブームが下火になってからも、自分そのものと信じて疑わなかった理性や思考が、他生物のものだったかもしれないという疑念は、人々の潜在意識に強い影を落とすことになった。
有名なコギト命題「我思う、ゆえに我あり」は、「我思う、ゆえに我あるんやと思う」と歯切れが悪くなってしまった。
少なくとも、「脳は脳の欲望に従って行動するのであって、必ずしも自分自身や、ましてや隣人や世界のためではない」ことは、誰もが意識するところとなった。

人はなぜ働く?
人はなぜ争う?
人はなぜ愛する?
人はなぜ挑戦する?
人はなぜ宇宙を目指す?
人はなぜ頑張る?
人はなぜ夢みる?
人はなぜ・・・?

これら人の成り立ちや行動原理に関わる問には、模範回答が無く、一生かけて各自が自問し続けるものと相場が決まっていたが、「もしかしたら寄生虫のせいかも~」という安直な回答が可能になってしまった。

まったくもって困ったことである。

木曜日, 1月 18, 2018

脚立から落ちた

生まれて初めて気を失った。

ドラマで山ほど気絶シーンを見かけるので、すっかり身近に感じていたが、考えてみたら自分で経験するのは初めてだ(そういう人は案外多いと思う)。

状況はシンプルで、脚立に乗って木を刈っていて、そこから落下したらしい。
記憶にあるのは、枝を切り落とした瞬間までで、その直後から意識が途切れている。
だから、枝が倒れかかってきたのか、脚立が倒れたのか、自分で足を踏み外したのか、はたまた先に失神して落下したのか、何が原因かはわからない。
誰かに殴られたのでないことだけは確か、、、とも断言できないか。なんせ知らないんだから。

身体は冷え切ってなかったので、意識が無かったのは数分か、せいぜい10分以内だと思う。
意識が戻ったときの感覚は、居眠りから目覚めたときと変わらない。
ただ、何が起こったのかわからないだけだ。

最初に感じたのは、辺りの静けさと柔らかな冬の日差し、頬の下の乾いた落ち葉と芳ばしい匂い、などである。地面に伸びた右手の先に、チェンソーが転がっているのが見えた。
近くにいた犬たちが、心配そうにこちらを覗き込んでいた、、、のなら可愛いのだが、みな知らん顔で寝そべっていた。

辺りの情景をこんな印象で記憶しているということは、心の方もまぁまぁ平穏だった、ということだろう。
「気を失う」ことには、パニックを防ぐ安全装置みたいな機能があるのかもしれない。
たまたま大事に至らなかったから、のん気なことが言えるのだけれど。

それからのことも、もやがかかったように記憶があいまいだ。
家に誰もいなかったので、自分で部屋に戻り、作業服を着替え、コタツをセットして横になった。
そういう行動を記号的には覚えているが、どんな気分でどうやったかなどが判然とせず、どこかリアリティが無い。
もっともらしい記憶を、後づけで作ったのかもしれない。

どこかが痛いというより、とにかく身体が動かし辛く、何をするにもひどく時間がかかった。救急車を呼ぶことも考えたが、自分で動けるのになんか申し訳ないような気がして、結局やめた。
頭に外傷が無いことだけは、何度も確認した。

それが、木曜の午前中だったから、これを書いている時点でもう一週間が経っている。
今はどうかというと、まだ腰が痛くて寝返りも打ち辛いが、それでも日常生活にはほとんど支障が無い程度になった。
土曜日にはHiroさんに引っ張られて病院にも行ったが、まったく異常無しという診断であった。

あとは月日が笑い話に変えてくれるだろう。
それにしても、自分に何が起こったかわからないというのは、もどかしく、また不安でもあるけれど、考えてみればこうして生きているのだって、似たような状況なのかもしれない。
ということは、今のあり様を感謝して、目一杯それを享受するしかないわけやね。
りょーかい。

火曜日, 1月 09, 2018

宇宙人ふたたび

宇宙人のアイデア、思い出した!
「遺伝子を持たない」ことだ。

つまり個体ごとに姿形や性質が異なっていて、これといって似たところが無い生物。
強いて言えば、特徴らしい特徴が無いことが特徴だ。

見た目はもちろん、知能も言語も異なるから、本人たちでさえ仲間かどうかわからない。
唯一の手がかりは、太古から連なる深層的な記憶(集合的無意識とゆーやつ)を共有していること。
だから普段はとりとめなく暮らしているが、何か事があって心の深いところで共感すると、初めて種としてのアイデンティティに目覚めて団結するという、面倒臭い生物である。

思いついた時は、これ、スゲーじゃん?って思ったけど、書いてしまえばそれほどでもない。
忘れてしまうだけのことはある。

ただ負け惜しみすると、このアイデアの本当の狙いは「目新しい宇宙人像の提案」ではなくて、これを読んだり聞いたりした側が、この宇宙人を宇宙人として認知できるか?という挑戦的な問を投げかけるところにある。
カテゴライズできないものを物語の主題に据えたらどうなるんやろ?という思考実験でもある。(どーにもならない気もするけど)
森羅万象を分類してラベル付けし、それでもって世界を理解しようとするのが、人間的な知性の「型」だと思うからだ。
まぁそれが不発に終わったとしても、国籍とか民族とかLGBTとか男女とか老若とか貧富とか、自分たちのことですらやたら分断したがる昨今の風潮の批判にはなりそうな気がする。

と、ここまで書いてきて、新しい宇宙人像を思いついた。
知性の型が人間とまるで異なる、というのもアリじゃないかと。

「感情が無い」くらいだったらミスター・スポックが近いけど、彼にしたってエンタープライズ号のスタッフになるくらいだから、考え方は人間そのものだ。
そんなんじゃなくて、もう論理やら認識やら感覚やら記憶やら、一切合財がヘンテコなの。
それはさすがにまだ考案されてないと思う。
自分と違う「知性の型」を発想したり説明したりすることは、絶望的に難しいからだ。

言語は人間的知性そのものだから、小説や物語の形式で表現することはまず不可能だ。
可能性があるとしたら、映像や音くらいか。
ただし、受け手が何か解釈できたり納得できたりしたら、それは知性の型が異なることにはならないから、全く意味不明だけど心がザワつくような「作品」が必要かもしれない。
あるいは逆に、いくら見ても何の印象も残さない像とか。

挑戦してみる価値はあると思う。

日曜日, 1月 07, 2018

ひつじのにく

羊を飼い始めて13年、初めて肉にした。

「飼育した家畜を食べる」ことは、ファーム開設の当初から漠然と頭にあった。
畜産農家じゃないし、エコや自給自足や自然食にこだわるタチでもないから、敢えてする必要も無かったのだが、できるだけ身の周りのものを口にしたい、くらいの気持ちはあった。
最初に羊を分けてもらったとき、牧場にいたおっさんに不要になった羊の後始末について尋ねたところ、「どうか食べてやってください」と言われたことが、ずっと心に引っかかっていた、、、というのもある。
ただ、実際には何やかやと壁があって、なかなか実行には至らなかった。

一番のネックは「自分でできない」こと。
四つ脚はもちろん、鶏やカモですら、どうしたらいいかわからず、考えただけで途方にくれてしまう。たぶん、できるかどうかではなくて、やるかやらないかだけの問題なのだが、その一歩がなかなか踏み出せない。

移住した当初、鶏を捌くくらいは近所の人ができるやろと軽く考えていたが、誰に聞いても「おじいちゃんくらいまでは、自分らでやってたんやけどねぇ・・・」と、同じ回答が返ってきた。
こんな田舎でも、ここ1~2世代の間に、その手の知恵やスキルが綺麗に一掃されてしまったということだ。
しかも、食卓には、昔も今も変わらず鶏肉があるのだから、その変化は極めて巧妙かつスムーズだったことになる。
環境変化というと、どうしてもスマホなどの先端技術に目が行ってしまうが、実は「自然から遠ざかる」変化の方が、ずっとドラスティックなのかもしれない。

それは、さておき、、、
仮に自分で肉におろせたとしても、許可が無くては、販売することも食事として客に出すこともできない。
屠殺して肉を販売するためには食肉処理業と食肉販売業、加工するためには食肉製品製造業、食事として提供するためには飲食店営業の許可がいる。
もちろん、どの許可にもそれなりの施設と知識が必要で、一個人にはハードルが高い。

次善の策は業者や専門機関に依頼することだが、このやり方がまたわかりにくい。
手続き自体は複雑でもなんでもない。
ただ、情報が少ない。
ネットを調べても、法令や規則などは出てきても、具体的にどう動けばいいかという情報は皆無に等しい。
人に尋ねようにも、誰に聞けばいいのかわからないし、ようやく聞けたとしても、その回答がまたステキなほど要領を得ない。
どうやらこの業界、一般人や個人の利用は想定されていないらしい。
日本では古来、食肉やそれに絡むプロセスを忌み嫌い、人目から隠そうとする風儀があったが、その名残があるのかもしれない。

そうこうするうち、たまたま同じ市内に屠殺→枝肉(骨付きのでっかい肉塊)処理をやってくれる、公的な施設があることがわかった。
これは結構ラッキーなことで、家畜は生きたまま持ち込まないと処理できないので、近ければ近い方がありがたい。
ただ、やっぱり手順はわかりにくい。
何日前に申し込んだらいいか、1頭からでも引き受けてもらえるのか、家畜は何時どんな状態で持ち込めばいいのか、どれくらい時間がかかるか、枝肉はどれくらいの大きさでどんな状態で渡されるのか、、、
確認したいことが山ほどあって、できるだけ役所や施設で聞いて回ったが、それでもわからないところは見切り発車することにした。

残ったのは枝肉を小分けする作業で、これは自分たちで何とかしようと覚悟を決めていた。
しかし保健所に相談に行くと、みわファームでは施設の要件を満たさないという判断で、待ったがかかってしまった。
またもや心が折れかけたが、結局、そこも他の業者(近所の焼肉屋さん)にお願いすることになり、これでようやく、か細い道が一本つながった。
ふぅ。

で、羊を送り届けて5日後、返ってきたのは、骨を外され、血抜きもされた綺麗なお肉。
見た目で言えば、スーパーに並ぶブロック肉と変わらない(かなりでかいけど)。
これなら小分けして冷凍しておいて、少しずついただくことができそうだ。

そこまでが一ヶ月ほど前のこと。
以来、煮込んだり焼いたりBBQにしたりオーブンに突っ込んだりと、いろんな調理法で食べた。
量が半端じゃないので、親や知り合いにも声をかけ、協力してもらった。
なかには、生前の羊をよく知っていて、変わり果てた姿を見てボロボロと涙を流す人もいた。
そういうことも、大事かもしれない。

問題は味で、もういい歳のオス(去勢)だし、食肉用に肥育したわけでもないから、めちゃ固かったり臭かったりする可能性は大いにあった。
そうなると、あとは犬の餌にするくらいしか、利用法を思いつかないが、それでは羊に申し訳ない気もする。

幸い、覚悟していた臭みもなく、むしろ「美味しい肉」の部類に入る味であった。
少し固かったけれど、個人的にはその方が好みだし、しっかり煮込めばトロトロになる。
ありがとう、○○くん。
これなら、定常的にサイクルを回していくことができそうだ。
でも、羊に名前をつけるのは、もうやめた方がいいかもしれない。