木曜日, 12月 31, 2015

頭がよくならない話(2)

ここまで読んで、自分、けっこう誰とでもオープンにつき合うし、情報通やから大丈夫や~んって思った人、たぶん、ぶっぶーです。
「オープンである」というのは、たぶん、ある達成された境地を指すのではなく、そういう状態になろうとする運動、あるいは、現状から脱しようとする推力のことだからだ。

それって精神的には随分と「キツイ」ことだし、そういうことにフツーに耐えられるというのは、もしかしたら努力や心がけで何とかなるものではなく、背が高いとか駆けっこが早いのと同じような持って生まれた才能かもしれない。

例えば、世の中には「勉強熱心」で「進んで習いたがる」人がいる。
彼らは一見勤勉で、努力家で、枠組みも柔軟なように見えるが、実はその逆のケースが多かったりする。自分を変えるというよりも、むしろ自分(の枠組み)を守るための情報を「身にまとって」いるのである。
意見を表明しているようで、いつのまにか誰かの受け売りになっている。
情報を得ることに満足して、その情報を吟味し、自分にとってどんな意味があるのかを問うことをサボっている。

そんな人がよく使う決まり文句の一つが「目からウロコ」だったりする。
何度も聞かされてると、おまえは半魚人か!?とツッコミたくなるが、実はこれはこれで、言い得て妙なのかもしれない、と、たった今、これ書いてて思った。
ウロコはあくまでウロコであって、目でも肉でも皮膚でもない。
いくら落ちても痛くも痒くもない。
モノゴトを本当に理解するということは、自分が変わる、あるいはそれ以前の自分には戻れない、という不可逆的な経験なのだから、多少なりとも「痛み」を伴うはずなのに。

--

それに枠組みは、制服や鎧のようなものでもあって、それを解体するということは、一時的に裸の無防備になるようなもの。
そのスキに変な考えに取り憑かれたり、悪意や呪いに侵入されないとも限らない。
その危険を冒しながらも、外界に向き合うのだから、結局のところ、アタマがいいことの性格属性は、「勇気」とか「覚悟」とか、あるいは「腹が据わってる」的なことになるのかもしれない。

ちなみに、知の枠組みは頭の中の話だから、ここでいう「外」には自分の身体(と心)も含まれる。(もっと言えば、自分の頭の中の「他人」も)
身体の声に対してオープンであることも「アタマがいい」ことの重要案件なのだが、脳化社会ともいわれる現代ではこれも難しくなりつつある。
無理なダイエットや超清潔志向や過労自慢や健康オタクなど(こーゆーのは明らかに、頭による身体の過剰支配だろう)を見聞きすると、反射的にアタマわるっ!と思ってしまうのだが、そういう人間はすでに少数派かもしれない。

ところで、最後に全然関係ないけどボーダーコリーの話。
そういえば彼らもよく「アタマがいい」と評される。

普通は物覚えが良いとか、指示によく従う、などの意味で使われるけれど、個人的には、ここで書いてきた意味でも「アタマがいい」のではないかと思う。
あらゆる作業で高いパフォーマンスを発揮し、様々な環境で暮らす彼らの適応力を見るにつけ、よほど枠組みが柔軟なんだろうなぁと。

彼らの頭の中はわからないが、少なくとも人間よりは、身体の声にオープンであるはず。
その一方で、人に対するオープンな姿勢をギリギリまで崩そうとしない。
人というのは「自然の理」みたいなものからすれば、狂ってるとしか思えない存在だから、この2つの整合性をとるというのはかなりの苦行に違いない。
そういうアクロバティクスをあの小さな身体で引き受けているかと思うと、何だかたまらない気持ちになる。

アタマがいいことの性格属性をもう一つ付け加えるとすれば、それは「度量」とか「寛容」になるのかもしれない。

おわり

水曜日, 12月 30, 2015

頭がよくならない話(1)

もう、言いたい放題。

一口に「アタマがいい」といっても、いろんな意味がある。
知識が豊富とか、話がおもしろいとか、機転が利くとか、アイデア豊富とか、物覚えがいいとか、要領良いとか、、、人によっては、相手の話をよく聴くとか、礼儀正しいとか、はたまた動きにムダが無いとか、手先が器用なんてのも含まれるかもしれない。

素直な好青年だった自分も、齢を重ねるとヒネてくるもんで、例えばすっげー物識りな人に出会っても、すっげー、とは思うけれど、アッタマいい~、とは思わなくなった。
けど、自分の知識や考え方をちょっと上から眺めて、客観的に批評できちゃったりする、って要は「自分がわかってる」ってことかもしれないけど、そんな人に出会うと、あ、この人、アタマいいっ!と素直に思ってしまう。

「知識に関する知識」とか、「メタ知識」という人もいるけど、まぁそんなもん。
かの内田せんせーも「何かを知っている人より、何を知らないかを知っている人の方がエライ」的なことを仰ってたから、この感覚もまったくのマト外れではないと思う。

人間はもっぱら頭で、しかもコトバを使って考える。だから、どんな考えも多かれ少なかれ偏向するし、それはそれでどうしようもないことだけど、問題はそれが自覚できているかどうかだ。
個人的にはこのことを「アタマがいい」リストの上位に据えたい。

--

以前、このブログの中で「知の枠組み」というコトバを使った。
ざっくり言うと、物事を本当に理解しようとするなら、慣れ親しんだ枠組みを一旦壊して再構築する必要がある、ということで、アタマがいい人というのは枠組み自体が柔軟なんじゃないか、という趣旨である。

ということはつまり、「自分を知る」ことと「枠組みが柔軟」というのは、自分の中ではほとんど同じことになっている。
枠組みとは、常識や既定の概念みたいなものでもあるから、その中にどっぷり浸かってしまうと、枠組みの存在自体が見えなくなる。
だから、それを建て直すとなると、どうしても一段高い視座が必要になる。つまり枠組み再構築の第一歩、あるいは前提条件が「自分を知る」ことではないかと。

じゃあ次の一歩は何かというと、それはたぶん、「外部に対してオープンであること」だ。
既存の枠組みを一旦緩め、センサ感度を高めて外からの情報を取り込むイメージ。
取り込んだ情報を咀嚼し、栄養分を取り出し、それをうまく消化することができれば、新しい肉や骨格ができてくる。
なんか、食事のワーディングになってきてるけど、言いたかったことは、身体と同じように頭も「代謝」がキーワード、、、とまぁ、そんなところかもしれない。



水曜日, 12月 02, 2015

人間の器

更新間隔が開きに開いて、もう週刊たくボじゃなくて月刊じゃん、と思う今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか?

話は変わりますが、ファームでは犬ウンチを火ばさみで拾っている。
庭には小石が撒いてあるから、ブツが柔らかいと、かなりゆーうつな作業なんです、これが。

今朝、寝ぼけ眼のまま庭に出ると、たっぷりの軟便を発見して心底ゲンナリした。
犬どもめ~!

しかしよく見ると、下に枯葉が積もっていて、取りやすい態勢になってるじゃないすか!?
ラッキー!と心の中で叫びながら、どんどん枯葉ごとウンチ箱に放り込んでいく。 
 
 
・・・という夢を見て目が覚めた。

あまりの夢の「小ささ」に、しばしボー然として起き上がれなくなった、12月2日の朝でした。
 

土曜日, 11月 28, 2015

あろ男とるぢ男と茶色君

一括りにしちゃいけないんだろうけど、大体において男というやつは、始末に悪いというか、小骨がのどに刺さるというか、薬指の逆むけが気になるというか、なんかこうス~っと行かないところがある。

表題の3名はその代表として出てもらったが、ほかの男たち(ぐれぐ、ふりーと(犬)、もなか(猫)、きぃちゃん(バリケン)、白うこ(鶏)、レイ君、おれんぢ耳ばん(羊)・・・)もそんなところがある。
どこがどうというほどでもないけれど、全員例外なく面倒臭い。

あろ男。最近入ってきたアローカナの雑種鶏。
鶏舎だけで暮らしてたらしく、最初はビクついてたけど、最近は環境にも慣れ、元気にメス鶏を追い回している。
それはいいのだがこの男、朝、他の鶏と一緒に鶏エリアに入れても、すぐに網を飛び越え、そのまま夕方までフラフラしている。

先日、裏庭にいた女性ゲストが「この鳥、どうしたんですか~!?」と声を上げる事件があった。
ああ、また、あろ男がうろついてると思い、肩越しに「そいつ、人懐っこいんですよ~」と返答したのだが、どうも妙な緊張感が伝わってくる。
振り返って見てみると、あろ男のやつ、そっくりかえってジャンプしながら、ゲストに蹴りを入れてやがる!何度も何度も。。。
何が気に入らなかったんだ!?

るぢ男君、朝夕の仕事タイムには、鳥追い羊追いに精を出しているが、それ以外の時間は自分の場所でちんまりして、翁のような静かな日常を送っている。
だからその話を聞いたときは意外だったのだが、先日、Hiroが九州遠征したとき、待たせておいた車の中で大暴れしたらしい。
少し開けておいた窓から顔を出し、風除けのバイザーを再起不能にした他、シートベルトをボロボロにしやがった。シートベルトは「切れるまでこのまま使う」と決心して修理費を節約したが、それでも2万円超の臨時出費。
やってくれるわ~。

茶色君はファーム唯一のcolored羊として、熱い期待を一身に集めている。
若いし身体が小さいこともあって、比較的ひっそりと群の中で暮らしてきたのだが、最近、少しずつ自信が出てきたらしく、不穏な行動がチラホラ見える。
部外者にメンチ切ったり、他のオスにゴンしたりはまあいいとして、人間に対しても頭突きの真似事をするようになった。
今のところ控えめに、偶然を装ってでこを押しつけてくる感じで、「なんやねん」と睨んだら「ああ、こらすんまへんな」と謝ってくれそうだが、これから、エスカレートしていきそうな気もする。
レイ君みたいなDV羊になったらどうしよう。

...というわけで、何かと世話の焼ける男組だが、人間みたいに「だる~」とか「ちょーうぜぇ」とか「おやぢぃ~、金くれ」とか言わないからまだい-か。

土曜日, 11月 21, 2015

ねこのしゃーわせ

もなかの寝場所は季節ごとに変わる。

最近、つまり2015年の秋は、掛け布団の上に決めたようだ。
別にいーんだけど、足元とか、腹の横とか、股下とか、布団と首の間とか、顔の上とか、、、あっちでぐりぐり、こっちでもみもみ、一晩中動き回るから寝苦しくてしかたがない。
で、こちらも頻繁に寝返りを打つから、それがやつには寝苦しいのだろう。
夜が明けるころには、二人ともどことなく不機嫌になっている。

眠気をこらえて布団から這い出ると、もなかは布団の上で「ぎうっ」と丸まる。
占拠したベッドで本格的に寝直すつもりだ。
「やれやれ」という声まで聞こえてきそうだ。
その様子を見ると、日によって微笑ましく感じたり、苦々しく思ったり、時には軽い殺意を覚えたりもするけれど、基本的には「あんた、幸せやね~」と思う。

これが人という動物のおそろしいところだと思う。
猫の幸せなんてわかるはずないのに、勝手に決めつけている。
心の底のどこかで、「感謝しろよな」と思っている。。。

1日中うつらうつらしてる猫は、確かに幸せそうではあるけれど、実は単調な日常とそれを打開できない己の無力に絶望して、鬱になってる可能性だってないとは言えない。
痩せこけて惨めったらしい野良猫でも、実は猫界で一目置かれる存在で、その境遇に至上の喜びを感じているのかもしれない。
そうじゃないとは誰にも断言できない。
そもそも「幸せ」っつーのも人間が勝手に作った物語に過ぎないわけで、それを猫に当てはめようなんておこがましいかぎりだ。

人間の本当の恐ろしさは、内に秘めた攻撃性や残虐性よりも、実はこのハンパな共感性にあると思う。
相手の気持ちが生半可に「わかった気に」なるから、あるいは「自分には相手の気持ちがわかる」と思い込むから、相手を軽んじたり、疑心や憎しみを培養してしまうんじゃないかと。

阪神が負けて一番やりきれないのは、相手チームファンの哄笑が頭をよぎってるときだ。
犬や猫に対して逆上するのは、決まって「言ったことを無視した」とか「俺をコケにしやがった」と感じたときだ。
どちらも想像の産物、、、って言ったら「想像」に申し訳ないくらいの、つまらない邪念に過ぎないのに。

もちろん、共感性というのは人の稀少な美質でもあるわけで、それそのものを否定することはできない。
「どうせわからんのだから相手の気持ちなんか考えてもムダ」と言いたいのでもない。
そうではなくて、「本当のところは金輪際わからない」という絶望を出発点にしながら、それでも相手の気持ちに迫りたいという、切ない願望について書いている。

永遠の苦役を強いられるシジフォスの神話は、「そういうこと」の尊さを言ってるんだと思う。
てゆーか、わからないからわかろうとする、あるいは「知ったかぶりはNG」というだけの、単純な話かもしれないな。。。

月曜日, 11月 09, 2015

ヤギとかヒツジとか

いわゆる「ヒツジとヤギではどっちがイケてる?」論争というのが昔からあって、未だに総括的な合意は得られていないものの、こと「なごみ度」に関していえば、ヤギが若干優位に立ちつつあるのではないか、というのが最近の感触である。

これ、やっぱり弱点やろ!?と危惧されていた容姿にしても、確かに冬毛を蓄えた丸ヒツジの完成度には遠く及ばないものの、エサを詰め込んででっぷり膨らんだ腹は、枯れ木みたいな足とのコントラストもあって、なかなか捨てがたい味がある。

しかし容姿はあくまで容姿であって、実はそれほど重要ではない。
問題はやはり内面だ。

もちろん草食動物だから、基本的には両者とも人を警戒する。
ヒツジにしてもヤギにしても、いかにも迷惑気に横目で睨まれたりすると、せっかく世話してやろうとしてるこちらとしては、鼻白むことが多い。
それでもたっぷり人手をかけて育てたヤギは、たまに、、ごくたまに、ごくごくたま~に、コミュニケーションが成立するように感じることもある。

今年の虫下しの注射のときには、両者の違いが際立った。
ヒツジはスルーを決めこむか、身体をよじって痛みを表現するだけで、自分の番さえ過ぎてしまえば、いつものように人から遠いところでじとっと固まっている。そんだけ。
だから、こちらとしても特にねぎらう気にならず、粛々と作業を終え、粛々と畜舎を後にするしかない。

これに対してヤギ。
こちらもびっくりしたのだが、注射が終わって一瞬の間を置いた後、「ぎいあああああ~!」と喚きやがった。

これがまた信じられない大音響。
たぶん集落中に響き渡ったと思う。
人の顔を睨みつけ、眼を剥いて唇を突き出したその表情は、明らかに抗議の意思を表明していた。

それで人間嫌いになるかというとそうでもなくて、当座の痛みさえ退けば、こちらへの態度は全然変わらないのである。
白衣を着た獣医さんは、1年経ってもしっかり敬遠されるけれど。

いや~、なんかすっげー癒されるわ。

土曜日, 10月 17, 2015

ドラマと家族(2)

定期購読しているメルマガにおもしろい記事を見つけた。
家族形態が国家の形を決定している、という説だ。

日本の伝統的な家族は、長男が「家」に留まる封建制である。同様の形態は韓国など東アジア一体に広く分布している。
これらの国では、細く長く3~4数世代が同居するから、年功序列や長幼の序などの概念が自然に受け入れられる。特定の人物というより「家」という象徴的権威があるのも特徴だ。これらの国では、民主制も独裁制も何となくすわりが悪い。

ただし、同じ東アジアでも中国は違う。中国の家族形態は「共同体家族」と呼ばれるもので、これは次男も三男も家に留まり、その家族も同居する大家族制である。そうした家族で秩序を作ろうとすれば、1人が強力な権力を行使するしかない。あとの成員はみな平等になる。
これは共産主義と親和性が高い。
じゃあロシアやキューバはどうなの?といえば、これが実に共同体家族なんだそうな。

欧米諸国は、親子が同居しない核家族型が基本で、こういうコミュニティでは個の自立に根ざした民主主義や人権といった概念が定着しやすい。
興味深いのは、同じヨーロッパでもドイツやスウェーデン、あるいはスコットランドやカタルーニャやバスクといった地方が封建家族制なことで、これらの国はヨーロッパの中でもちょっと異質であったり、独立問題がくすぶってたりする。

真偽の程は別にして、国家という人智を総動員したかのようなシステムが、実は家族という情念の塊みたいなものの投影にすぎない、という見方がおもしろい。
人間臭いと言えばこれほど人間臭いことは無い。


で、最初の話に戻ると、最近の右寄りの政治風潮とか、ヒステリックな日本文化称賛の傾向などが、ドラマに見られる家族回帰願望と同期してるんじゃないかと思った次第。
それが良いとか悪いとかは置いとくとして、世界的な情報共有が進む中で、この内向きの動きはちょっと気にかかる。これまで、あまりにも他国の目を気にして生きてきた反動かもしれない。

これからの日本人は、建前としての民主主義と、本音としての封建的な秩序感覚と、現実としての経済グローバリズムという、3つの流れに引き裂かれていくような気がする。
どこに軸足を置いてどう生きるのかを、自分の頭と心身で考える時代が来ているのかもしれない。

そういえば、春の月9枠に嵐の相葉くんが主演した「ようこそ、わが家へ」というドラマがあった。
電車の割り込み乗車を注意したのをきっかけに、家族が執拗に嫌がらせを受けるという設定で、寺尾聡が事なかれ主義の頼りない親父を好演していた。
全体に漂うざらついた不安感が名作「家族ゲーム」にも似ていたし、普段はフワフワして捉えどころが無いのに、何か事があると実体化するという、「家族」の亡霊性みたいなものをよく表現していると思った。
作者を調べたら、、、なるほど、売れっ子の池井戸潤でした。

金曜日, 10月 16, 2015

ドラマと家族(1)

恥ずかしながら、連続もののTVドラマをよく観ている。

会社を辞めてから自由時間も増えたのだが、阪神戦以外は見たい番組がほとんど見当たらない。最近はその阪神戦も、ドキがムネムネして正視できず、リアルタイムで観戦することができなくなってしまった(じゃあ結果のわかった試合を観ようって録画してみたら、ドキドキしないから全然おもしろくない。一体どうしたらいいんだろう?)。

いきおい、ドラマにチャンネルを合わせることが多いのだが、各局をはしごしていると、傾向みたいなものが見えてくる。
最近では、やたら「家族」がしゃしゃり出てくるのが気になっている。
昔ながらの「恋」とか「人情」が影をひそめ、その代りが「家族」ということかもしれない。

でも本当にすごいんですよ、これが。
デートの仕方がわからないKY女子も、リスクマネジメントの凄腕マネージャも、息子と入れ替わった首相も、コーラス部を立て直す女子高生も、総務で働く新入女子社員も、変顔の病児保育士も、吉田松陰の妹も、書店員も精神分析医もタレントマネージャも子育てママも、あれもこれもどれもそれも、主人公の行動の原点が「家族」という設定。

平和と言えばそうかもしれないけど、ちょっとやりすぎじゃないかと思う。
消防団員やホテルのコンシェルジェのように、たまにそうでないのもあるけど、その場合は職場が「疑似家族」として描かれる。
他の国、例えば欧米人なんかから見たら、ちょっと気色悪いくらいじゃないだろうか?
それを飽きもせずに観てる自分も相当アレですけど。


ドラマの企画担当者は、一般人の関心のマトについて、たぶん日本で一番真剣に考えている人たちだろうから、人々の共通心理の中で家族に対する何かが動き出しているのかもしれない。

安直に考えると、戦後ずっと続いた核家族化や個人主義の流れの中で、ここにきてちょっとした違和感というか、長年の無理がたたったお疲れモードみたいになっていることが想像できる。古来の家族システムへの回帰願望とか。

家族システムは確かに一つの擬制に過ぎないが、民族が相応の年月をかけて作り上げてきた擬制はバカにはできない。
本人の意識にはほとんど上らないが、他人には丸わかりで、ときに大いに鼻につく、、、という点で、体臭のようなものかもしれない。
外面は取り繕うことはできても、底の方にある感覚や情念は、ちょっとやそっとでは変わらない。




土曜日, 10月 03, 2015

痛恨

Youtubeに「一瞬で卵のカラを剥く方法」っていうのがあって、コップに水とゆで卵を入れてガシャガシャッと振ると、つるんとカラが剥ける。

おお、これやんっ!て、ちょうど近くにあった茹で卵でやったら、水と黄身と白身とカラがぐじゃぐじゃになったどーしようもないものができてしまった。
にわとりさん、ごめんなさい。

そうだよね、半熟でやったらアカンよね。
オレってバカ・・・

金曜日, 9月 11, 2015

大人考

前から「大人になるってどゆこと?」みたいなことを折にふれて書いできたが、実は今もつらつら考えたりしていて、たぶんこのまま死ぬまで考えてるんだろう(ヒマやねぇ)。

最近思ったのは、普段私たちが「大人になる」というと、温和になるとか、協調性に富むとか、自立するとか、もっぱら精神的で概念的なものを思い浮かべてしまうけれど、実は、もっとずっと身体的なものかもしれない、ということ。

つまり、食べものの味がわかるようになったとか、絵画の美しさに目覚めるとか、手先が器用になったとか、、、そんなある意味ベタな感覚の積み重ねが、成熟につながるんではないか、という考え。
これには、感覚自体の肌理が細かくなるだけでなく、外界に対して感覚をオープンにすることが必要なのだが、それらの総和的な作用として世界の感じ方が変わってくるということは十分考えられる。

世界というのは、要は自分と世界との相対的な関係のことだから、その感じが変化するというのは、生き方そのものが変化するということだ。
例えば俗にいう「生かされている」とか「自然と一体」とか「自分は一人ではない」といった"ポジティブ世界観"なんかは、頭で納得しようとしてもダメで、「暑い」とか「痛い」といった体感レベルで感じるものなのかもしれない。

逆に言えば、そういう身体的なものが十分に熟さないと、いくらなろうとしてもなれないのが大人なのかもしれない。その変化がどういうものであるかは、それが身体性に根付くものであるがゆえに、言語化はとても難しい。
だから子供には、大人というものが逆立ちしたってわからないし、大人は自分の変化を顧みることでしか、大人というものを認識することができない、、、そういうことかも。

うん、思いついたばかりだから、自分でも何言ってるのかよくわからない。
それでもここに書いておきたくなったのは、それが自分にとって何か切迫した問題だからかもしれない。
なんなんやろ?
もうちょっとハッキリしたら、また書きます。

(以下、中島らも「今夜、すべてのバーで」から)
「なおる奴もいりゃ、死んでいく奴もいたよ。私は、なんとか助けてやりたいと思った。ことに子供の患者はな。そうだろ? 子供なんてのは、人生の中で一番つまらないことをさせられてるんだからな。私だって十七までに面白いことなんか何ひとつなかった。面白いのは大人になってからだ。ほんとに怒るのも、ほんとに笑うのも、大人にしかできないことだ。なぜなら、大人にならないと、ものごとは見えないからだ。小学生には、壁の棚の上に何がのっかってるかなんて見えないじゃないか。そうだろ?」
「そうですね」
「1センチのびていくごとにものが見えだして、風景のほんとの意味がわかってくるんだ。そうだろ?」
「そうです」
「なのに、なんで子供のうちに死ななくちゃならんのだ。つまらない勉強ばっかりさせられて、嘘っぱちの行儀や礼儀を教えられて。大人にならずに死ぬなんて、つまらんじゃないか」
「せめて恋人を抱いて、もうこのまま死んでもかまわないっていうような夜があって。天の一番高いところからこの世を見おろすような一夜があって。死ぬならそれからでいいじゃないか。そうだろ。違うか?」
「いや、その通りです」
「私はね、なんとか助けてやりたいと思ったよ。子供をね。でも、そのうち、それも思い上がりだってことに気がついた」
・・・
今日の収穫

月曜日, 8月 10, 2015

理解される悦び

犬が指示に従うということは、その犬が少なくとも、

 1)人が犬(自分)に「何かさせたい」という「意図」を持っている
 2)人は「コトバ」で「意図」を伝える
 3)ある決まった「コトバ」がその「何か」を指している

ことを理解するという、3つのハードルをクリアしたということだ。

どれもこれも、犬にとっては真新しい概念なわけで、それだけで十分奇跡に値すると思うのだけど、身の回りでわりと普通に見られるせいか、なかなかそうは受け取られない。

ま、それはいいとして、、、
人にとって、犬が「言うことを聞く」ことは悦ばしいことだし、犬を飼うことの醍醐味の一つに違いない。

もっと関係が深まると、犬は人の意図まで理解し、指図以上のことをやって見せるようになる。
例えば、ロクに教えてもいないのにお遣いをするようになるとか、、、あんまりいい例は思いつかないけど、ほら、犬ってすぐ気を利かそうとするじゃないですか。
この体験がまた、一部の犬好きにはたまらない。
「犬と暮らす悦び」ランキングがあれば、間違いなく上位にランクインする。
(健全な市民感覚からすれば、こういう人は微妙にヘンタイに属するのかもしれないけれど)

つまり人は、犬といることで「理解される」悦びを享受している、ということ。
しかし、その逆方向、つまり「意図通りに人が動いた」とか「人から理解された」ことを、犬の側が悦ぶような場面は、日常生活の中にほとんど見当たらない。

だから不公平だ、などと言うつもりはない。
そもそも人と犬の関係は対等ではないし、犬は理解されることなんか望んでいないかもしれない。
だからそんな場面はありえない、、、かと言えば、そうでもない。
例えばシープドッグの世界では、逆方向の回路が開くことがある。

一緒に羊を追っていると、ある時を境に、犬の動きがガラリと変わることがある。
それはたぶん、「こんな風に羊を動かしたい」という犬が持っているイメージを人が理解し、それを尊重して行動したときだ。

このとき、犬は驚きとともに、深い悦びに包まれる、、、んじゃないかと思う。
それまで、自発的な動きは無視されるか否定されるだけだったのに、指示に従うしか人と関わる術が無かったのに、突如、生来の能力が認められ、頼られ、尊重されるのだから。
あるいは、思いがけないところで、気の合う同志に出会った感じかもしれない。
あえてコトバにすると、「ああ、やっとわかってくれた!」とか「何だ、お前もやるじゃん!」というところか。

ま、本当のところはわからないけど。
しかし、「人に理解されたことを犬が悦ぶ」ことを察して悦ぶシープドッグ・ハンドラーは少なからずいる。
彼らは、「犬に教わる」とか「犬の群に入れてもらう」という言い方を、レトリックでも何でもなく、まさにコトバ通りの意味で使っている(と思う)。

ここまでくると、もう、真性のヘンタイと言うべきですね。
犬を悦ばしたって、それこそ一文の得にもならないのだから。
それでも、この悦びは案外深いし、「いかに最大限の愉悦を犬から引き出すか」という観点からすれば、人にとっても損な取引ではないと思うのだけれど。

カイラの親父の晩年

金曜日, 7月 10, 2015

ふりーと、うざい

犬が人を歓迎するとき、前手ドン("飛びつき"とも言う)するでしょ?

ぺぐとかうちの他の犬たちは、前から走ってきて「タタン・タン」とくるのに、ふりーとはそこに「タタン・ン・タン」と余分な1拍が入る。

これが、すっげーうざい。

拍子抜けしながら犬を受け止めるのは辛いし、やつの前手がキョンシーみたいにす~~~っと伸びてきて、鳩尾に食い込んでくるのは、もっと気持ち悪い。

あと、羊は見ないくせに、それ以外のことには何でも首を突っ込んでくるし、身体をぐりぐりこすり付けてくるし、抜け毛は豪快だし、いっつもうれしそうだし・・・

もう、どっか行け!

月曜日, 6月 29, 2015

草刈りしようよ

先日、相方Hiroが「草を刈る」と言い残して、エンジン式の刈払い機を担いで畑に入っていった。
普通、畑の草むしりに刈払い機を持ち出す人はいないと思うが、ファームの畑は「畑」と書くのが照れるくらい、茂りまくった草で藪のようになっている。

私たちは、そもそも畑仕事が嫌いなのかもしれない。

堆肥を撒いて、地面を耕し、畝を作って種を撒くところまでは、もう一日も待てないというギリギリの時期にかろうじてやった。
そして力尽きた。
そこから先の世話が、からっきしできない。
毎年、梅雨時になると、雑草の中に野菜が埋没し、生きてるのか死んでるのか不安になってくる。
そういう状態に追い込まれて、やっと重い腰が上がる。

放ったらかしのことを「自然」というなら、もう大威張りで自然農法と言える。
肥料は家畜の堆肥だけで、農薬の類も一切無し。虫や雑草とも仲良く共生している。ときどき、ヤギに齧られたり、にわとりの襲撃を受けたり、それを追って乱入した犬に踏み荒らされたり。。。
なので、収穫量と見てくれは良くない(味は良いんだけど)。
この野菜たちを食いつなぎ、かろうじて夏を乗り切るのも例年のことになった。

突然ですが、拓郎の替え歌。

「草刈りしようよ」

草の丈が 肩まで伸びて
藪と同じに なったら
約束どおり 刈払い機で
草刈りしようよ mmm

古いエンジンを ブルンと鳴らそう
畑が藪に 見えたら
仲間を呼んで 野菜を救おう
草刈りしようよ mmm

 ・・・

必死で刈った 緑の草を
裏の倉庫の 軒下に並べて干そう
草刈りしようよ
草の丈は もうすぐ肩までとどくよ

月曜日, 6月 22, 2015

褒めて育てて感謝する

最近、「犬の成熟」なんてことをよく考える。
もちろん、身体ではなくて心の話。

人と犬の関係って、基本、上下関係ですよね?
大人と子供のような。

例えば躾のとき、「正しい行動を褒める」とか「悪い行動を叱る」とか言うけど、そもそも褒めたり叱ったりは上下関係を前提にしないとできない(何が正しくて何がそうでないかは、人間しか知らないし)。
実際は躾だけでなく、あらゆる生活シーンで上下関係は再現・強化される(食餌の供給、撫で撫で、ブラッシング、声掛け、体高の違い、目線、態度、姿勢、歩く位置、etc, etc)。
犬が人と関わるということは、子供役を担うことと等しい。

羊仕事では、この関係が流動的になる。
もちろん、羊仕事でも大きな目的は人間が決めるけれど、そのサブタスク(「羊を集める」とか「動かす」とか「止める」とか)では、上下関係は弱まる、、、と言うより、状況によって刻一刻と変化するようになる。
人から教わる前に、犬は自身のやり方を持っているからだ。

そこでは、人と犬との関係性が質的に変化する。
役割の固定した縦型から、その都度最適な分担を求める水平型のチームワークへ。
”指示”から”協働”へ、”服従”から”自律”へ、”愛情”から”敬意”へ、”褒める”から”感謝する”へ・・・

この関係は、犬が子供のままでは難しい。
子供はつい親の指示を待ってしまうし、その指示に「反抗する」ことはできても「対案を出して主導する」ことはできない。
というわけで、羊仕事を考えていると、犬の成熟というテーマに至る。

考えてみれば妙な話で、人にとって「大人になる」ことは間違いなく人生の大命題なのに、犬のそれは話題にすらならない。訓練やしつけのノウハウは世に溢れてるのに、大人になること=情緒的な成熟の問題をきちんと取り扱ったものは聞いたことがない。
(犬は子供のままでいてくれた方が、いろいろと都合がいいのかもしれない)

自分を振り返ると、子供の頃は親や先生から褒められると無条件にうれしかったけれど、いつのまにかそうじゃなくなってたし、逆に「バカにされた」ように感じることさえあった。
そこに「お前はまだ子供だ」というメッセージを嗅ぎ取ったからだろう。

犬に「そういうこと」は起こらないのだろうか?
「大人になれずに不安や生き辛さを抱える」のは人間だけだろうか?
そもそも、犬にとって大人とは何なのだろうか?
・・・

世に「褒めて躾ける」方法論が定着して久しい。
そろそろ、「犬を成熟に導く」あるいは「成熟を妨げない」ためにどうすればいいかを、マジメに考えてもいい頃じゃないかと思ったりする。

目一杯、子供を演じる犬・・・

日曜日, 6月 14, 2015

今年の薪

冬の間、限界集落の伐採ボランティアに参加したり、チェンソー片手に山に入ったり(刃が取られて泣きそうになったゼ)、ホダ木の伐り出し作業を手伝ったり、木材フェスティバルの薪割り体験に顔出して余ったのをもらってきたり、、、あの手この手で木材を集めておいた。

うず高く積まれた原木を見ると心が折れそうになったが、無理せず、心技体の充実した日を選んで少しずつ玉切と薪割りを繰り返してきた。
そして今日、できた薪を倉庫に積み終えた。

ふっふっふ。
来るなら来い、冬。


木曜日, 6月 04, 2015

エア・リード

夜逃げした繁殖業者宅で保護された気の毒な犬、、、ではありません。
昼下がりのるぢ男。
リード(てゆーか単なる虎ロープだけど)が糸みたいに細くなってます。

これじゃあ用をなさないじゃないか!?とお思いでしょうが、いーんです、これで。
彼にとってリードとは、論理的に繋がっているかどうかであって、どう繋がっているかは問題ではない。
どうせ「行かねばならぬ!」ときは行ってしまうのだから、多少ロープを丈夫にしたって同じだし、繋がってさえいれば、普段はおとなしくじっとしている。
別に言われたからそうするわけじゃなく、彼が自分で決めて、それを律儀に守っているだけだけど。

ただフリーにしておくと、どんなフェンスも「ヒョイと」飛び越え、ファームの内外をブラブラするので、形だけでも繋いでおかないといけない。
本当は「農家の犬」らしくフリーにしておきたいのだが、たとえドのつく田舎でも、それは許されない。

世の中は理不尽と建前でできている。。。

水曜日, 5月 20, 2015

ちょっと見直したよ、るぢ男くん

上司でも家族でも恋人でも何でもいいけど、自分に関心を持ってほしいと願うような人がいたとして、そういう人の力になれるというのは、きっと誰にとっても心躍る経験に違いない。
このとき、指示された作業をこなす場合と、そうでなくて自発的な行動が相手の役に立つ場合があるが、同じ感謝されるなら後者の方がうれしかったりする。相手に信頼された(に違いない)という思いが、大きな報酬になるのだろう。
昨日のるぢ男を見ていて、犬もそうじゃないかと思った。

昨日は恒例の予防注射&虫下しの日。
獣医さんにファームまで往診してもらい、羊(とヤギ)に注射をしてもらった。

子供と一緒で、羊たちもお医者さんが苦手だ。
ボーーーーッと生きてるようで、嫌なことをされたことはちゃんと覚えている。
いつもならサッサと小屋に入るくせに、白衣が見えただけで警戒して近寄ってこないし、やっとこさ捕まえても、最後まで悪あがきをする。
そんな小さな抵抗も相まって、羊を小屋に入れる→一頭ずつ識別する→捕まえる→保定して注射→ノートに記録、という一連の作業は、結構大変だったりする。

昨日は、るぢ男もずっと一緒だった。
羊を集めるときは集めてくれるし、捕獲するときに逃げ道を塞いだり、捕まえた羊が動かないように睨んだりと、いろいろと助けてくれた。
以前は小屋の中でも羊を追いまわし、正直、手伝ってるのか邪魔してるのかわからない感じだったけど、今回は一息ついたときに、あ、何だ、お前そこにいたのか、と思ったくらい、自然に立ち回っていた。
こちらも忙しくて、いちいち指図する暇も無かったから、きっと彼なりに作業の流れを覚えていて、率先して動いてくれたのだろう。
好意的に解釈すれば、だけど。

小屋の中が片付いても終わりではない。
頭突き羊のレイ君ともう一頭は、草刈り要員として、近所の農家の栗園に貸し出している。
そこまで車で移動しようとすると、当然のようにるぢ男が乗り込んでくる。

栗園はアップダウンのきつい傾斜地にあるし、レイの頭突きは怖いしで、捕まえに行くのが憂鬱だったのだが、るぢを放したとたん、あっという間に連れてきてくれた。
そのまま柵に押さえつけて、外から注射してもらって、一丁上がり。
おかげで、スムーズに作業を終えることができた。
るぢ男は?と見れば、またサッサと自分から車に乗り込んでいる。
うぐぐ、こ・の・や・ろ~・・・

練習だろうが毎日の用事だろうが、羊追い/鳥追いは何でも好きなるぢ男だが、昨日はもっとイキイキして、ほとんど得意気にさえ見えた。
勝手な擬人化かもしれないが、人の助けになったという実感が、もともと舞い上がりやすい彼を、一層高揚させていたのだろう。

犬の自主性なんて人間にとっては99%迷惑かもしれないが、それでも、少しでもそういう機会が作れたら、、、と思わずにはいられなかった。



月曜日, 5月 11, 2015

みっしょんこんぷりーと

ふぅ、今年も何とか毛刈り・だん!
最後まで残っていた10頭目と11頭目をようやく刈り終えた。

いつものことだけど、なかなか思ったように刈れず、羊たちには負担をかけてます。
相変わらず、流血もあるし。
来年こそは、「そうなんっすよ、いきなり毛を掴まれて座らされたかと思うと、クルクル回されて、あれ、あれっ、何だよこれ!?と動転してる間に、気が付けば丸裸にされてたんっすよ」とコメントが出るくらい、流れるように刈ってあげるからね。

でも、年々頭数は増えるし、こちらも体力が衰えるしで、本当にそうしないともうやっていけないわけです。
今、一番切実に知りたいのは、お金の稼ぎ方でも若さの保ち方でもなく、バリカンの刃の研ぎ方です。

土曜日, 5月 02, 2015

存在感0の男

今朝、ほぼ2年ぶりに、たくわえていたヒゲを剃った。
特に理由は無くて、発作的に剃りたくなっただけ。

だから「何で剃ったの?」って聞かれたら困るなぁと思ってたんだけど、今日1日、一緒に居たHiroさんや3人の友人たちの誰一人として気がつかなかった。。。

明日は気付いてもらえるかなぁ?

火曜日, 4月 28, 2015

シアリング・ハイ

羊の毛刈りシーズン=死のロードに突入した。
昔より随分慣れたけれど、それでも、ビデオのようにクルクル羊を回して、シャシャシャーとバリカン動かしてハイ一丁あがり!という風にはいかない。

それにしても、人の営みって何でもそうだけど、細かいコツとか手順とかノウハウがびっくりするほど蓄積されてて、いつも感心させられる。

 曰く、毛が無いところからあるところに刃を入れろ
 曰く、刃が入らないときは無理せずに入れ直せ
 曰く、できるだけ横に刈れ
 曰く、毛を引っ張らずスキンを伸ばせ
 曰く、なんちゃらかんちゃら・・・

今回、例年より腰が辛くなってきたことに加えて、刈り終わった後になぜかハイになっている自分を発見した。
刈ってる時はよくわからないけど、たぶん、すでに高揚気味なんだと思う。

実は毛刈りってバリカンをどう動かすかというより、羊をちゃんと保定することの方が大事だったりする。
保定というのは、言ってしまえばレスリングのような(危うく「〇ッ〇〇のような」と書くところだった)、生き物同士の密なボディ・インタラクションでもあるわけで、それが心身の活動レベルを自動的にアップするんじゃないかと思う。
もしかしたら、類人猿の時代から獣と格闘してきた記憶の名残なのかもしれない。

この文章も、その余韻で書いている。
羊にはいい迷惑だろうけど、もうちょっとつき合ってくださいネ。


木曜日, 4月 23, 2015

もなかの冒険

うっかり庭に出すと、決まってウッドデッキの下に潜り込んで長時間籠城するので、とても面倒臭かったのだけれど、入り口になる隙間をびしっと塞いでやったので、わりと気軽に出してやれるようになった。


最初は周りを警戒して、それこそ地面にへばりつくように動いてたのに、今は中腰くらいで歩けるようになった。
たまに羽虫を狙ってジャンプするような余裕までかましてるし。

放っとけば、そのうち、柵の外まで冒険しに行くようになるだろう。
まぁそれでも別にかまわないけど・・・誰に会うかわからないから、もうちょっとダイエットしといた方が良いと思うよ。

月曜日, 4月 20, 2015

やりきれん

若い頃、昼寝をすると、夜眠れなくなって困ったけれど、今は昼寝をしても、夜にはいつも通り眠くなってしまう。
困ったもんだ。
もっと困るのは、ただでさえ早く目覚める朝が、さらに早くなってしまうことだ。
ああ、でも、そうでもないと1日が短くなって困るけど。。。

更新してないからって、こんなこと書くのもどうかと思うけど。

水曜日, 1月 28, 2015

The last day of SUN

Our dearest old buddie SUN has gone on Jan 25th.
He seemed quite well until noon on that day but his condition changed so suddenly at arround 14:00.
These years he had suffered from stomach torsion attacks and this time it was lethal.

He gave us a lot of gentle memories (and scratch as well).
Thank you SUN, sleep in peace.
That'l do...