月曜日, 4月 08, 2013

金融資本は癌か?

某ネットコミュで話題になっていた、中沢新一氏の評論(「赤から緑へ④」月刊スバル4月号)を読んでみた。
経済どころか社会常識にもズブのシロートですが、結構感銘を受けてしまったので感想文を書きます。

今日の国際社会における金融資本のふるまいが、無規律に自己増殖を続けるガン細胞に酷似しているという説。
本来、社会の諸活動を円滑に動かすための血液であるべき貨幣経済が、それ自体で無節操な増殖をはじめ、経済だけでなく政治や国家まで飲み込み、宿主である人間社会に機能不全をもたらしつつある、というのが氏の現状認識である。

不都合や障壁を「癌」と呼称するのはありふれた手法だが、現在の金融問題に当てはめて考えたとき、単なるレトリックを超えた迫真性を帯てくる。少なくとも、仮想敵(禿鷹ファンドとか悪徳資本家とか。そういえばオバマ大統領も「強欲なウォール街の連中」とか言ってましたね)を仕立て上げ、それらを攻撃すれば万事うまく行く的な、古典的な政治的言説よりは説得力がある。
朝日新聞が「カオスの深淵」という特集を組んだことからもわかるように、たぶん大多数の人が「どこがどうとは言えんが絶対どっかおかしいやろ」と感じている金融問題の不気味さが、少しクリアになったような気がした。

確かに金融界における最前線のプレイヤーは投資家だったり、ファンドだったり、金融機関だったり、グローバル企業だったりするわけだけれど、それらの背後にはおびただしい数の小さな欲望、「庶民のささやかな夢」や「慎ましい老後の備え」が隠れているわけで、結局誰が戦犯かと言えば現代に生きる我々全員と答える他ないところに、この問題の深刻さがあると思う。

癌の厄介さは、それが外部からの異物や毒ではなく、もともとは生体を構成する正常な細胞というところにある。
つまり病原菌を退治すれば治る類の病ではないし、そもそも癌が「病気」かどうかも疑わしい(実際、ガンを老化現象と見なす専門家もいるし、細胞には最初からガン化がプログラムされているという説もある)。同じように、金融問題は特定のプレーヤを排除したり制度を手直しして解決するほど単純ではないし、実はそれは問題ですらなく、資本主義が目指してきた一つのゴールなのかもしれない。

この潮流の思想的後ろ盾は、規制という規制を撤廃し、すべてを市場に委ねることを理想とする新自由主義と呼ばれる社会理論である。サッチャー、小泉純一郎、橋本徹など、本人が自覚しているかどうかは別にして、新自由主義を標榜する政治家は多い。ただし、これを提唱した当の経済学者たちは、現在のような社会状況を予想したわけではなく、むしろ計画主義で不調に陥った社会を賦活し、自由公平で開かれた社会が形成されることを望んだ。それがなぜ、巨大な格差を生み、投資マネーが市民生活や国家の命運さえ左右するような危機的状況を招いてしまったのだろうか?

中沢氏はその原因を、位相変化ともいえる経済構造の変化に求めている。
人間社会の諸制度は、異質の価値を何らかの理路で関連付けできる人間固有の能力を通じて構築されてきた(ありとあらゆる商材を交換対象にする市場経済がその端的な例)。そしてどんな迂回路を通ることになろうと、あらゆる制度や価値は最終的には自然環境と生命に根を下ろし、その「大地」との関係によって自生的秩序がビルトインされてきた(おおっ、そうだったのですか!)。
ところが貨幣の役割が、単なる交換の手段から信用の手段、さらには利殖の手段へと変遷するにしたがい、その結びつきが薄れ、ついには実世界が介在しないゲーム的な結界が形成されてしまった。そこにはもはや自然摂理に基づく秩序は存在せず、論理と記号だけで構成された無限のゲーム空間があるだけである(例えば、大食は胃袋の制約を受けるが、美食を求める欲望はキリが無いのと似ている)。
この結果、抽象的な貨幣価値の運動だけで経済が成り立つようになり、さらには社会的免疫機能ともいうべき様々な規制や制度や文化的制約が新自由主義の名のもとに弱体化させられ、金融資本のアンコントローラブルな増殖を招いてしまったというわけである。

(自生的秩序の件は、正常細胞には全体の秩序を保つための自死機能=アトポーシスがプログラミングされているのに対し、それを欠く癌細胞が暴走的に増殖することのアナロジーが有効かもしれない。あ、でも、そうか、ガンを老化現象と言うなら、資本主義という制度のアトポーシスが金融資本で、それによって資本主義が滅ぶのも自然な営み、と言えるのかもしれない。奥深い。。。)

新自由主義はあらゆる規制を攻撃することで、それらの持っていた免疫機能を弱め、結果として金融資本の増殖を助けることになった。その行きつく先は、従来の社会的/文化的制度が機能不全に陥った「社会の死」だという。
そこではほとんど全ての人間が労働価値という記号に還元され、ゲーム的な経済機構の中に組み込まれ、単純に利潤との対立関係に置かれる。

果たして人間が、生体圏外の論理的世界に生身をさらすことに耐えられるのだろうか?
少なくとも、強烈な痛みは伴うだろう(そういえば、新自由主義の政治家はよく「構造改革の痛みに耐えよ」と言う)。
でも本当に怖いのは、人間がそれに耐えられるように「進化」してしまうことかもしれない。

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