火曜日, 1月 07, 2014

日出ずる国でシープドッグを思う (4)

もちろん、シープドッグがお座敷犬でもスポーツ犬でもペットでも家族の一員でもなく、もともと農家で羊仕事を手伝ってきた犬だということは、誰でも知っている。しかし、この「誰でも知っている」というのが案外曲者で、それは「知ってるから誰もそれ以上突っ込んで考えない」ことでもある。
実際のところ、彼らが生活してきた世界を体感レベルで生々しく想像できる人は、この国にはほとんどいない(自分にはできない)。

なぜ、そこにこだわるかというと、もし「シープドッグとはどんな犬か」ということを少しでも掘り下げようとすれば、結局それは、「〇〇××の状況で、□□△△な振る舞いをする犬」という表現にならざるを得ないからだ。そして厄介なことに、この「〇〇××」には彼らが暮らしてきた世界そのものが含まれている。

例えば、羊に対する動き一つとってみても、それが地形や羊の気質や気候によって異なるのは、いかにもありそうだし、人の生活圏との距離や群との関係や自由時間の過ごし方なんかも関係ありそうだし、もしかしたら、食べ物や寝床の作りやトイレの作法でさえも、無縁ではないかもしれない。
結局、彼らを理解するためには、まず彼らのいた世界を理解する必要がある、、、とまぁそういうことになる。
当たり前だけど。

じゃーそーすりゃいーじゃん、と突き放されてしまいそうだが、それがそう一筋縄ではいかないのが、「枠組み」の面倒臭いところ。

そもそも「犬と暮らす」「犬と遊ぶ」「犬を躾ける」・・・ここ日本では常識(良識?)と言っていいような概念が、ことごとく当てはまらないのが彼らのいた世界だ。社会化とか散歩とか脚側とか、競技とか演技とかショーとか順位とか、車追いとか無駄吠えとか拾い食いとか、検査とか遺伝疾患とか毛吹きとかブリーダーの良心とか、、、そんなこんなとは無縁でいられたのが彼らの一生だ。
それを本当にリアルに思い描くことが、果たして私たちにできるだろうか?

あ、いや、それはさすがに言い過ぎだったかもしれない。
少し頭を冷やそう。

(続く)






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