金曜日, 10月 16, 2015

ドラマと家族(1)

恥ずかしながら、連続もののTVドラマをよく観ている。

会社を辞めてから自由時間も増えたのだが、阪神戦以外は見たい番組がほとんど見当たらない。最近はその阪神戦も、ドキがムネムネして正視できず、リアルタイムで観戦することができなくなってしまった(じゃあ結果のわかった試合を観ようって録画してみたら、ドキドキしないから全然おもしろくない。一体どうしたらいいんだろう?)。

いきおい、ドラマにチャンネルを合わせることが多いのだが、各局をはしごしていると、傾向みたいなものが見えてくる。
最近では、やたら「家族」がしゃしゃり出てくるのが気になっている。
昔ながらの「恋」とか「人情」が影をひそめ、その代りが「家族」ということかもしれない。

でも本当にすごいんですよ、これが。
デートの仕方がわからないKY女子も、リスクマネジメントの凄腕マネージャも、息子と入れ替わった首相も、コーラス部を立て直す女子高生も、総務で働く新入女子社員も、変顔の病児保育士も、吉田松陰の妹も、書店員も精神分析医もタレントマネージャも子育てママも、あれもこれもどれもそれも、主人公の行動の原点が「家族」という設定。

平和と言えばそうかもしれないけど、ちょっとやりすぎじゃないかと思う。
消防団員やホテルのコンシェルジェのように、たまにそうでないのもあるけど、その場合は職場が「疑似家族」として描かれる。
他の国、例えば欧米人なんかから見たら、ちょっと気色悪いくらいじゃないだろうか?
それを飽きもせずに観てる自分も相当アレですけど。


ドラマの企画担当者は、一般人の関心のマトについて、たぶん日本で一番真剣に考えている人たちだろうから、人々の共通心理の中で家族に対する何かが動き出しているのかもしれない。

安直に考えると、戦後ずっと続いた核家族化や個人主義の流れの中で、ここにきてちょっとした違和感というか、長年の無理がたたったお疲れモードみたいになっていることが想像できる。古来の家族システムへの回帰願望とか。

家族システムは確かに一つの擬制に過ぎないが、民族が相応の年月をかけて作り上げてきた擬制はバカにはできない。
本人の意識にはほとんど上らないが、他人には丸わかりで、ときに大いに鼻につく、、、という点で、体臭のようなものかもしれない。
外面は取り繕うことはできても、底の方にある感覚や情念は、ちょっとやそっとでは変わらない。




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