木曜日, 11月 14, 2019

モチベーション

おもしろい記事めっけ♪


子供の教育やしつけが思うようにいかないのはなぜ?というテーマで、前半の内容はざっくりこんな感じ。
・モチベーションは、外因性と内因性の2つに分けて考えられる。
・外因性は、行動に対して外部から報酬や罰則が与えられることで形成される。
・罰則も正の強化も、「結果に基づく」強化(という意味では一緒)。
・これはこれでパワフルな動機付けになる(例えば、罰金を取られるから税金を払うなど)。
・これに対し内因性は、達成感や行動への興味そのものから形成される(←勉強などではこれが望ましい)。
・つまり結果ではなく、行動すること自体が報酬となる。

と、ここまでは、なるほどふんふんというお話。
おもしろい(と思った)のは、すでに内因性の動機付けが存在する行動に外的な報酬を与えると、プラスアルファになるどころかマイナスに作用するという指摘。「もともと好きでやっていたことが急に仕事のように感じられ、内因性動機付けが低下してしまう現象」があるらしい。
つまり、新しいことを学んだり、問題を解く喜びを感じている子供に対して、通り一遍に褒めたり、成績の向上を称えたりする「教育」が、本来の学習意欲を削いでいるかもしれないということだ。

お、ここからまろの教育論が展開されるのか?というと全然そんなことはなくて、話は突然シープドッグに飛ぶ。(人と犬を一緒にすな!という声も聞こえてきそうだが、そんな人は犬のフンを踏んでしまえばいい)
実は、シープドッグの世界でよく言われるフレーズに、「トレーニングにご褒美は必要無い」とか「仕事をする(続けさせる)こと自体がご褒美」というのがあって、ああ、なるほどこのことか、と妙に合点がいってしまったのだ。

羊を追うという行動には、明らかに内因性のモチベーションが存在する。
犬は内なる衝動によって羊を追い、追うことによって快感という報酬を得る(知らんけど)。
だから「ご褒美は必要ない」のだろう。

これで羊仕事は成立するのだが、人というのはセッカチなもので、より早く、より望ましい方向に「導こう」として、罰則や報酬を与えてしまう。
これが、まぁ効果が薄いくらいだったらいいのだが、本来のモチベーションが損なわれるかもしれないとなると、放っておくわけにはいかない(誰?)。
「褒美は必要ない」というより「与えてはいけない」とか「有害」と言うべきなのかもしれない。慣れ親しんだ叱責やコマンドでさえも、使う状況やタイミングにはそれなりの注意が必要ということだ。
まぁ生き物のことだから何がなんでも絶対ダメ!ということはないだろうけど、少なくともそこにモチベーションの低下というデリケートな問題が潜むことは自覚しとかないといけない。

でわ、内的モチベーションを強化するにはどうしたらいいのか?
残念ながら、これに関する方法論や言い伝えは目にしたことがない。
たぶん、どうしようもないのだ。
内因性のモチベーションは、生得のものを自分で強化してもらうしかない。
つまり、シープドッグにはせっせと羊を追いかけてもらうしかないのだ。
このとき、人の介在がマイナスに作用するというなら、唯一できることは「放っておく」ことで、あとはせいぜい、追い終わってから「おつかれさま」とねぎらうくらいだ。

いや、わかってます。
わかってはいるけれど、難しいんですよね、これが。
どうしても犬を「操りたく」なって、口を出してしまう。
きっと人にとって、口を出すという行為には(さんざん強化されてきた)強固な内因性のモチベーションが存在するのだろう。

火曜日, 11月 12, 2019

Bladeの安静

このところ、7ヶ月の子犬を安静にさせておくという、およそこの世で最も困難なミッションに挑んでいる。
現場は見ていないが、おそらく、羊柵の上部のワイヤに引っかかり、そのままオラァ!と皮膚を破りながら飛び越えてしまったのだ。特に痛そうな素振りは無かったのだが、脇下に手を回したときに、にゅるりと4本の指がめり込んで、十字形の大怪我が発覚した。

動物病院でヤケクソみたいに厳重に縫ってもらってから、外飼いだった犬をリビングに上げ、リードを持って常に静かにさせておくという、神経をすり減らすような生活がもう3週間も続いている。

本来なら、エリザベスカラー付きでクレートにぶち込んでおけばいいのかもしれないが、羊仕事の気配で外犬たちがソワソワしだすと、中で大暴れするのが目に見えている。見るからに危うい傷口がすぐに開いてしまいそうだ(実際、できるだけ静かにさせたつもりなのに、合計4回も縫い直す羽目になった)。

そうやって一日中犬と顔突き合わせていると、つくづく人の生活って窮屈だと思う。
それ齧っちゃダメ、代わりに骨を齧ってな、傷口なめちゃダメだって、ああ、そこに手をかけないで、頼むからちょっと黙っててくんないかな、走るな!、シッコすんな!、飛んだら傷開くやんけ!、、、四六時中声をかけずにはいられない。
それでも犬の適応力は大したもので、癇癪を起こすことも、人を毛嫌いすることもなく、数日で室内暮らしが板についてくる。

実は、昨日獣医に行き、無事に抜糸してもらうことができた。
あと3日ほど安静にさせたら、外に放せるだろう。
犬を置いて近くの温泉と散髪に行くことが、小さいけれど切実な、今の望みである。

水曜日, 10月 23, 2019

ケツの穴

「ケツの穴が小さい」というのは気が小さいとか度量が狭いことを言うレトリックだが、最近、そーでもないかも?と疑り始めている。
つまり、単なる修辞的な表現ではなく、ケツの穴と気質の間には、のっぴきならない関係があるんじゃないかと。

とゆーのも、犬のウンチについて思うところがあったからだ。
犬のウンチの大きさは、各個体によって大体一定している。
その一定度はかなりのもので、本来個性などという言葉は、こーゆーときに使うべきだと思うくらいだ。
そして、ぶっといウンチをする奴は、大体において神経も図太い。
逆に細っこいウンチをする犬は、たとえ見かけはゴツくても、案外神経質だったり刺激に敏感だったりする。

たとえばファームの大御所カイラさんは、誰もが認めるおチビだが、モノはこちらが赤面するくらいでかい。そして性格はというと、(チャカチャカした見かけや行動とは裏腹に)周りに影響されないタフな面を持っている。

一方、身体の割にチマチマしたウンチのるぢ男くん。
彼はファームでは向かうところ敵なしの風で堂々としているが、たまに大人気なく子犬からおもちゃを取り上げたり、誰かが叱られたら真っ先に部屋に帰ってしまうといった、器の小さいところも見せてしまう。
サンプルが少ないからアレだが、これまでファームで見てきた犬たちには、大体、そんな傾向があるように思える。

ウンチの太さが肛門の大きさ(緩さ)と直結しているとすると、この傾向は「ケツの穴が小さい=気が小さい」説の有力な裏づけだと思う。
それに「ケツの穴が小さい」という現象が、心身の緊張状態とか胃腸のつくりとか腸内細菌の分布なんてことまで反映しているとすれば、性格や気質と密な関係があっても不思議ではない。あるいは、肛門というのは外界に対してどれだけオープンなのかを示す、身体のメッセージなのかもしれない、、、とか?

ここまで妄想を膨らませて、そーいう自分はどーなんだ?と振り返ろうとして、軽いショックを受けてしまった。
なんと自分のウンチの太さがわからないのだ!

もちろん、結構目にはしているけれど、他のモノを見る機会が無いので、それが太いのか細いのか、まるで判断できない。友人に拝み倒せば見せてくれるかもしれないし、ググればいくらでも画像が出てくるだろうが、どちらも実行に移す勇気はない。

人(てゆーか脳)は、自分の見たくないものを見事なまでに見えなくしてきたが、そのおかげで、貴重な情報源まで失ってしまったのかもしれない。

犬がお尻の匂いをとるのは、ケツの穴を観るのも目的なんじゃないだろうか?

月曜日, 9月 16, 2019

人類の叡智と自然との闘い

動物を養っている方には、だいたい同意していただけると思うが、彼らのために何か工夫した(例えば日除けを作ってやるとか、水遊び場を新調したとか)として、それを動物がこちらの意図した通りに使ってくれたりすると、自分でも意外なほど幸せな気持ちになる。

裏を返せばこれは、せっかく気を利かせてやったのに完全にスルーされたり、時には無残に破壊されたりといったガッカリなケースが、イヤになるくらい頻繁に起きるという証左でもある。

つまり、人がアタマで考えるような賢しらな知恵は、生き物という自然に対しては完全に無力、、、とまでは言えないにしても、十中八九は的外れということだ。

そう考えると、人類が気候変動を制御できないのも、子犬どもが苦労して作ったフェンスを楽々とくぐり抜けていくのも、見方によっては同レベルの現象だと言える。

だから、それほど気落ちする必要はないんだよ、自分。

水曜日, 9月 11, 2019

夏の試練

温泉に浸かってアァ気持ちエエ~ってなるのは、忙しない日常の中で温泉にでも行くかという気持ちになって、それじゃあと日程と目的地を決め、煩わしい準備や調整を乗り越えるという、そーゆー時間と気持ちの余裕がすでに気持ちエエからじゃないか?と思った。
(どーでもエエけど、一文の中に「気持ち」が4つも入ってて心持ち気持ち悪い)

この夏は動物たちが次々と体調を崩し、ほんとうに気持ちの晴れない日々だった。
起きている間ず~と、頭に蓋をされているような感じ。
まさか炎天下で行き倒れてないか?とか気になって、食事も喉を通らない・・・というのは大げさだけど、何を食べても味気ない気がした。もし温泉に行ったとしても、たぶん全然愉しめなかったと思う。


そして、悪夢のような夏はまだ終わってないのだ。

火曜日, 8月 20, 2019

子犬あるある

小屋の中のンこを掃除してやってるのに、子犬に背中をど~んってされて、顔からンこに突っ込みそうになって、慌ててのけぞった拍子に天井で頭を強打する件

水曜日, 8月 07, 2019

偽装記憶

(去年の暮くらいに書いて、放ったらかしになっていたテキストです)

なんか、世間から脅迫されてるような気がして、ボヘミアン・ラプソディを観た。

若い頃はラジオ少年だったから、Queenの楽曲も山ほど聴いてはいたけど、「ノリの良い(という表現は無かったかも)ちょっとナンパなロック」くらいの印象で、特に入れこむこともなかった。
その後、リードボーカルがAIDSで亡くなったと聞いた時も、どこか人ごとで、それほど大きな衝撃は無かった。
それが、映画を観終わった後は、思春期にQueenを聴きまくってて、何なら「オレの青春はQueenで始まりフレディの死で終わった」くらいのセリフを娘に言えるような気分になっていた。

で、話代わって今朝、たまたまYoutubeでマッケンローvsボルグの試合を観たのだが、これがまた結構衝撃だった。プレイそのものもそうだが、クセの強いフォームやラケットをいじるしぐさ、フィラとセルジオタッキーニのウェア、悲しげなボルグの眼差しと神経質なマッケンローの表情、いやもうカッコ良すぎるやんと、見惚れてしまった。

こーゆーの、三丁目の夕日効果とでも言えば良いのかな?
なんか自分の若い頃の記憶って、良かったよなぁスゴかったよなぁの方向に、少しずつバイアスがかかっている。
若い人からしたらウザいだろうなと思う。

昔より今の方が良い!と感じればもっと長生きしたくなってしまうから、そういう執着を少しでも減殺するための防御機構みたいなものかもしれない。

木曜日, 8月 01, 2019

駆け引き

これ、どこからどう見ても⚪︎ンチだが、実は単なる木片である。

これがよく犬エリアにポトンと落ちているのだ。
しかも、なぜか濡れて黒光りしているので、見るたびにドキッとさせられる。

もしかしたら犬ども、この「効果」を知っていて、ワザとやってるんじゃなかろうか?、、、と、最近疑っている。
だって、わざわざしがんで濡らしたやつを、わざわざ目につきやすい場所に落としてあるからね。

ドキッとした瞬間の表情を、隅の方からのぞき見して、観察しているのかもしれない。

だからこちらも、目一杯平静を装ってスルーしている。
うろたえたら負けだ。


日曜日, 7月 28, 2019

地獄絵図

いや、だから、恥を忍んで「ヘビが嫌い」「ヘビが怖い」ってあれほど連呼してきたのに、なんで性懲りも無く出てくるかなぁ?

朝の給餌作業を始めようと倉庫のシャッターを開けたら、頭の上3mくらいの天井で不吉な影が視界をよぎった。
薄暗くてよくわからなかったが、目を凝らすとやっぱりだよ~、天井からぶら下がったヘビ。え、でも待って、なんか不自然にグネグネしてるやん、もしかして二匹いるんちゃう?って、自我が崩壊しないようにあえて関西弁で独り言してると、やがて状況が見えてきた。
どうもネズミを絞め殺しているらしい。
ちょうど、悪者に捕まったカウボーイが、ロープでぐるぐる巻きにされて天井から吊るされてるような体勢だ。

え、どゆこと!?
ヘビ嫌いに加えてネズミ嫌いでもある私に、今、世界で考えうる一番おぞましい絵面を見せつけてくるとわ。。。天の意図のあまりの邪悪さに恐れおののくばかり。

それから10分くらいそのまま絞め続けて、やがて息の根が止まったことを確認したのか、トグロを解き、だらんとなったネズミの死骸を咥えて、見えないところに引きずっていった。

、、、という一部始終を知っているということは、なんだかんだ言いながらずっと見守っていたということだ。どんどん暑くなる中、エサを心待ちにしている家畜たちや、作業に出たくてうずうずしてる犬たちを放ったらかしにして、だ。

もしかして、ヘビ愛?

木曜日, 5月 09, 2019

子供相談室

わたしは てす っていいます
うまれて ひとつきはん たちました

わたしは ぼおだぁこりぃなので しょーらい しぷどっぐに なります
おとさんも おかさんも ぼぉだぁこりで しぷどっぐ だからです
でも しんぱいが ひとつあります

わたしには 4にんのきょーだいが います
みんな ばかです
ぶれえずが ないから だとおもいます

これまで あーあ みんなかわいそうに と おもってたのですが きのう ふと わたしはどーなんだろ? とおもいました
ぶれえずは ひたいにあるから じぶんでは みえないんです

じぇいおじさんは じぶんのをみせびらかして ぶれえずがないと しぷどっぐには なれないよ~ っていいます
わたしは なきそうに なりました
もし わたしにも なかったら どうしよう?

こわくて こわくて おかさんにも きけません
わたしは どしたら いいでしょう?



金曜日, 3月 15, 2019

犬への思い(つけたし)

なんとなく回想風に書き流してしまったけれど、本当に言いたかったことはちょっと違うところにあって、それは、ルールや良識に従って犬を飼うという行為そのものが、彼らから成熟の機会を奪ってんじゃねーの?という危惧だ。

そもそも犬というのは、群としてそこそこ自由に暮らして(自分の意思と責任で行動して)いれば、そこそこ自然にオトナになっていくもんだと思う。
だから、野良犬の群や放ったらかしの飼犬たちのオトナ度が高く感じられたんだと思うが、今では彼らの存在は社会的に許されない。
つまり、「そこそこの自由」が、ここ日本では結構難しいことになってるんじゃないかと。

犬たちはどんどん家庭に入り、人の世話も手厚くなってきた。
人が動物を世話するとき、手持ちの参照モデルは人間の子育てということになるが、それは、動物界の中で見ると圧倒的に長くてしかも濃密だ。
犬と子供が別物ということは頭ではわかっていても、無意識的な部分も含めれば、どーしても干渉が過剰になってしまう。
しかも、ちゃんと犬に関わろうとすればするほど、彼らから自由意志を発揮する時間と場所を奪ってしまうことになる。

それに、どちらかというと個を尊重することが苦手な日本の風土もある。
私たちは子育て様式の多くを欧米から輸入してきたが、「自立を促す」空気圧のようなものは抜け落ちてしまっている。
(例えば、子供部屋を設ける理由の多くは勉強のためであって、自立のためにプライバシーを確保するためではない)
空気圧は言葉ほど鋭くはないものの、四六時中ジワジワと攻めてくるので、深く相手に浸透していく。
日本人は無意識のうちに子供っぽい子供、仔犬っぽい犬を求めてしまっているのかもしれない。

別にオトナな犬がエラいとは思ってないし、そうあるべきだとも思っていない。
むしろ仔犬っぽい犬の方が可愛いから、ペットには向いてるだろうし、犬だってそう扱われる方が嬉しいかもしれない。
ただ「可愛い」は、こと生き物に対しては上から目線の感覚であって、そこから相手に対する敬意は生まれにくい。

そこはどーなん?と思うのだが、一緒に悩んでくれる人はあまりいない。

火曜日, 3月 05, 2019

犬への思い(続き)

次に思い出したのは、その20年後くらいに出会った、ホームレスのおじさんと暮らしていた犬。

転勤の関係で、一時、天満橋あたりのアパートに住んだことがあって、引っ越して間がない頃によく付近を散策した。
ある日、大川の川べりをフラついていると、いつの間にかブルーシート小屋が並ぶ一角に紛れ込んでしまった。長居してはいけない気がして、歩調を早めてそこを離れようとした時、ある小屋の前に陣取った犬に目が行った。
どこという特徴の無い犬だったが、佇まいが堂々としていて、あぁここを「シマ」にされているんですね?という感じだった。

犬は、不審者の私に気づいてこちらを見たが、すぐにすぅっと視線を逸らした。
それが見事でしたね。
咎めるでも詮索するでも怯えるでも威嚇するでも媚びるでも好きでも嫌いでもない、感動するくらい自然でイーブンな目配り。
とても礼儀正しく遇された気がして、こちらまで背筋が伸びる思いがした。
その日にどこをどう歩いたか、今となっては思い出せないが、犬がまとっていたピッとした空気感はよく覚えている。

この2頭は見た目も境遇もまったく違うのに、自分の中では同じイメージで括られている。
何というか、とてもオトナな感じなのだ。
多分、適当な距離と節度を保って周囲と関わろうとする態度が、そう感じさせるのだろう。
これを犬の心の成熟と捉えるのは私の偏見に違いないが、内心、そんなに悪くない偏見だと思っている。

子供の頃には、そんな犬が身の回りにも結構いたように思う(野良犬の群とか、庭先で番をしてた犬とか、学校に住み着いた犬とか)が、この頃は出会う機会がめっきり減った。
たぶん、犬を取り巻く環境が変わったからだろう。

オトナな感じの犬なんてのはあまり一般ウケしないと思う。
基本的に素っ気ないし、素直じゃないし、遊びに行ってもはしゃがないし、他の犬ともツルまない、、、つまり「可愛くない」のだ。

でも、そんな犬だからこそ、一緒にいてくれると嬉しくなるのだが、共感してくれる人はあまりいない。

月曜日, 3月 04, 2019

犬への思い

まったく個人的な好みでしかないけれど、何となく一緒にいるような犬が好きだ。
この「何となく」というところがキモで、遊ぶとか、芸をするとか、トレーニングするとか、見つめあうとか触れあうとか、そういうのじゃなく、つかず離れずのところで、それこそ何するわけでなく、でも確かに自分の意思でそこにいるような犬がいい。

なぜかはわからない。
人は自分の好き嫌いの理由を説明できないものだそうだから、わからなくてもしょーがないのだが、ちょっと無責任すぎる気もする。
というわけで、原体験らしきものはないかと記憶を辿っていたら、2頭の犬が思い浮かんだ。

最初の記憶は、小学校3~4年の頃。
当時、実家ではチコというメス犬を飼っていた。
何の特技も無い、寸胴短足の、いつも困ったような顔をした、どーにも冴えない雑種犬だった。
放し飼いだったのに、狭い庭を自分の居所と決めたのか、どこにも出ていこうとはせず、日がな一日、犬小屋の屋根上でぐーたらしていた。。
ただ、学校から帰った私が遊びに出かけようとすると、声をかけてもいないのに、当然のように着いてきた。

その頃の自分には、リードを使う習慣が無かったから、一緒に歩きながら彼女は勝手にその辺の匂いをとったりしていた。普段はただ歩くだけだったが、道すがら、建築中の家に忍び込んだり、稲刈りの終わった田んぼで鳥を蹴散らしたりもした。
たまに、自然発生的に近所のガキ連中と野球やテンチョ(4人でやるボール遊び)に興じることもあったが、そんなとき彼女は暇そうに子供たちを眺めたり、隣の雑木林を探索したり、外野に転がったボールを追いかけたりしていた。

そんないい加減なつきあいでも、不思議と、二人がはぐれることはなかった。
帰り道は決まって一緒だったし、珍しく姿が見えないなぁと思ったら、先に家に帰って門のところで尻尾を振ってたりした。
当時はそれを特別なこととも思わず、犬ってそういうもん、くらいに思っていた。
だから親友とか、かけがえの無いパートナーとか、家族の一員といった、ウェットで重たい感覚は無かった。

ただ、彼女が病気で死んで数日後、いつもの道を一人で辿っていると、突然、喪失感に圧倒されてその場から動けなくなったことを覚えている。

日曜日, 1月 06, 2019