月曜日, 1月 06, 2014

日出ずる国でシープドッグを思う (2)

もともと人間というのは、頭の中に独自の「枠組み」を持っていて、それを通してでないと、出来事を認識したり、行動を選択したり、社会生活を営むことができない(つまり、何もできない)ことになっている。
それは子供とて同じで、彼らなりの枠組みで親/先生/友人たちとつき合い、学校/家庭生活を送っている。そして教科の内容も、知識や考え方という、知の枠組みの重要な構成部品である。

新しい単元に入るとき、B君は精一杯、理解しようと努めてくれている(と思う)。ただ、あくまで手持ちの枠組みで済ませようとするため、それで手に負えないような新しい概念が提示されると、反射的にストッパー回路が働らく。それが、矢継ぎ早の合いの手という形で表現されるのだろう。

もう言うことの予想がついたと思うが、A君はたぶん、その枠組み自体が柔軟なのだ。新しいことが入ってくると、一時的に手持ちの枠組みを緩めたり、( )に入れたりできる。口を半開きにしたヌエのような表情は、無防備な心の状態が表出したものだろう。
そして、わからないなりに説明を鵜呑みし、しばらく反芻していると、やがてどこかで「腑に落ちる」時が来る。たぶん、この時に出てくるのが、場違いな「あ、そっか」だ。
同時にそれは、知の枠組みが再構築されたことの合図でもある。
根拠は無いけど、そんな風に思っている。

B君はよく「要するにどういうこと?」と説明を求めるのに対し、A君は「それって〇〇ということでしょ?」と自分で要約できたりする。
この差は大きい。
ちょっと応用問題になると、B君はまた一から説明し直しですからね。

(ちなみにB君は普段から腰が低い。旅行のお土産を手渡す際に、いつも出来が悪くてスミマセンねぇと言い添えるその姿には、中学生にしてすでに苦労人の風情がにじみ出ている。彼は、人とのネットワークで枠組みを大きくするタイプなんだろう。安心しろB君、君は絶対出世するから)

(続く)


0 件のコメント: