金曜日, 3月 15, 2019

犬への思い(つけたし)

なんとなく回想風に書き流してしまったけれど、本当に言いたかったことはちょっと違うところにあって、それは、ルールや良識に従って犬を飼うという行為そのものが、彼らから成熟の機会を奪ってんじゃねーの?という危惧だ。

そもそも犬というのは、群としてそこそこ自由に暮らして(自分の意思と責任で行動して)いれば、そこそこ自然にオトナになっていくもんだと思う。
だから、野良犬の群や放ったらかしの飼犬たちのオトナ度が高く感じられたんだと思うが、今では彼らの存在は社会的に許されない。
つまり、「そこそこの自由」が、ここ日本では結構難しいことになってるんじゃないかと。

犬たちはどんどん家庭に入り、人の世話も手厚くなってきた。
人が動物を世話するとき、手持ちの参照モデルは人間の子育てということになるが、それは、動物界の中で見ると圧倒的に長くてしかも濃密だ。
犬と子供が別物ということは頭ではわかっていても、無意識的な部分も含めれば、どーしても干渉が過剰になってしまう。
しかも、ちゃんと犬に関わろうとすればするほど、彼らから自由意志を発揮する時間と場所を奪ってしまうことになる。

それに、どちらかというと個を尊重することが苦手な日本の風土もある。
私たちは子育て様式の多くを欧米から輸入してきたが、「自立を促す」空気圧のようなものは抜け落ちてしまっている。
(例えば、子供部屋を設ける理由の多くは勉強のためであって、自立のためにプライバシーを確保するためではない)
空気圧は言葉ほど鋭くはないものの、四六時中ジワジワと攻めてくるので、深く相手に浸透していく。
日本人は無意識のうちに子供っぽい子供、仔犬っぽい犬を求めてしまっているのかもしれない。

別にオトナな犬がエラいとは思ってないし、そうあるべきだとも思っていない。
むしろ仔犬っぽい犬の方が可愛いから、ペットには向いてるだろうし、犬だってそう扱われる方が嬉しいかもしれない。
ただ「可愛い」は、こと生き物に対しては上から目線の感覚であって、そこから相手に対する敬意は生まれにくい。

そこはどーなん?と思うのだが、一緒に悩んでくれる人はあまりいない。

火曜日, 3月 05, 2019

犬への思い(続き)

次に思い出したのは、その20年後くらいに出会った、ホームレスのおじさんと暮らしていた犬。

転勤の関係で、一時、天満橋あたりのアパートに住んだことがあって、引っ越して間がない頃によく付近を散策した。
ある日、大川の川べりをフラついていると、いつの間にかブルーシート小屋が並ぶ一角に紛れ込んでしまった。長居してはいけない気がして、歩調を早めてそこを離れようとした時、ある小屋の前に陣取った犬に目が行った。
どこという特徴の無い犬だったが、佇まいが堂々としていて、あぁここを「シマ」にされているんですね?という感じだった。

犬は、不審者の私に気づいてこちらを見たが、すぐにすぅっと視線を逸らした。
それが見事でしたね。
咎めるでも詮索するでも怯えるでも威嚇するでも媚びるでも好きでも嫌いでもない、感動するくらい自然でイーブンな目配り。
とても礼儀正しく遇された気がして、こちらまで背筋が伸びる思いがした。
その日にどこをどう歩いたか、今となっては思い出せないが、犬がまとっていたピッとした空気感はよく覚えている。

この2頭は見た目も境遇もまったく違うのに、自分の中では同じイメージで括られている。
何というか、とてもオトナな感じなのだ。
多分、適当な距離と節度を保って周囲と関わろうとする態度が、そう感じさせるのだろう。
これを犬の心の成熟と捉えるのは私の偏見に違いないが、内心、そんなに悪くない偏見だと思っている。

子供の頃には、そんな犬が身の回りにも結構いたように思う(野良犬の群とか、庭先で番をしてた犬とか、学校に住み着いた犬とか)が、この頃は出会う機会がめっきり減った。
たぶん、犬を取り巻く環境が変わったからだろう。

オトナな感じの犬なんてのはあまり一般ウケしないと思う。
基本的に素っ気ないし、素直じゃないし、遊びに行ってもはしゃがないし、他の犬ともツルまない、、、つまり「可愛くない」のだ。

でも、そんな犬だからこそ、一緒にいてくれると嬉しくなるのだが、共感してくれる人はあまりいない。

月曜日, 3月 04, 2019

犬への思い

まったく個人的な好みでしかないけれど、何となく一緒にいるような犬が好きだ。
この「何となく」というところがキモで、遊ぶとか、芸をするとか、トレーニングするとか、見つめあうとか触れあうとか、そういうのじゃなく、つかず離れずのところで、それこそ何するわけでなく、でも確かに自分の意思でそこにいるような犬がいい。

なぜかはわからない。
人は自分の好き嫌いの理由を説明できないものだそうだから、わからなくてもしょーがないのだが、ちょっと無責任すぎる気もする。
というわけで、原体験らしきものはないかと記憶を辿っていたら、2頭の犬が思い浮かんだ。

最初の記憶は、小学校3~4年の頃。
当時、実家ではチコというメス犬を飼っていた。
何の特技も無い、寸胴短足の、いつも困ったような顔をした、どーにも冴えない雑種犬だった。
放し飼いだったのに、狭い庭を自分の居所と決めたのか、どこにも出ていこうとはせず、日がな一日、犬小屋の屋根上でぐーたらしていた。。
ただ、学校から帰った私が遊びに出かけようとすると、声をかけてもいないのに、当然のように着いてきた。

その頃の自分には、リードを使う習慣が無かったから、一緒に歩きながら彼女は勝手にその辺の匂いをとったりしていた。普段はただ歩くだけだったが、道すがら、建築中の家に忍び込んだり、稲刈りの終わった田んぼで鳥を蹴散らしたりもした。
たまに、自然発生的に近所のガキ連中と野球やテンチョ(4人でやるボール遊び)に興じることもあったが、そんなとき彼女は暇そうに子供たちを眺めたり、隣の雑木林を探索したり、外野に転がったボールを追いかけたりしていた。

そんないい加減なつきあいでも、不思議と、二人がはぐれることはなかった。
帰り道は決まって一緒だったし、珍しく姿が見えないなぁと思ったら、先に家に帰って門のところで尻尾を振ってたりした。
当時はそれを特別なこととも思わず、犬ってそういうもん、くらいに思っていた。
だから親友とか、かけがえの無いパートナーとか、家族の一員といった、ウェットで重たい感覚は無かった。

ただ、彼女が病気で死んで数日後、いつもの道を一人で辿っていると、突然、喪失感に圧倒されてその場から動けなくなったことを覚えている。

日曜日, 1月 06, 2019

低い庇に頭ぶつけて

「頭頂部を擦りむく」という体験は、とても哀しいものだ。

金曜日, 11月 23, 2018

書き出し

助手席に犬を載っけて、真夜中の高速をドライブするのが好きだったりする。
狭くて孤独な空間を共有していると、友情のようなものまで感じる。

でも、こっちが眠気に襲われている時に、横でぐあ~と寝てられると、無性に腹が立ってくる。
じゃあ、眠いのをこらえて愛想振りまいてくれたら嬉しいのかというと、そーでもない。
やっぱりムカつく。
いったい、私は犬に何を求めているんだろう?

・・・という書き出しだけ思いついた。

本文さえあれば、面白いエッセイになりそうなのに。。。


火曜日, 10月 30, 2018

粉もんドラマ「見られてる」

(暗がりで)

小林:よう古賀、久しぶり。相談って何だよ。
古賀:うわ、びっくりした、何だ、小林か。
小林:何だって何だよ、お前が悩んでるっていうから、オレたちここにいるんじゃねぇか。
古賀:え!? オレたちって、他にも誰かいるの?
小林:おいおい、何言ってんだよ、さっきからここにいるだろ、ふくもっちゃんが。
福本:大丈夫か?、古賀、ボケてんじゃねーの? ま、いいや、で、悩みって何だよ。
古賀:ん~、それがさぁ、、、よくわかんないんだけど、最近、ずっと見られてる気がするんだ。
小林:はぁ?気のせいだろ! だれがお前のことなんか気にするかよ。
古賀:だよなぁ、、俺、ジミだし、モテねーし、、、でも、なんかすっげー視線感じるんだよ。
   さっきなんか、空から監視されてる気がしたし。。。
小林:お前さぁ、ちょっとそれ、ヤバいんちゃう? 医者行った方がいいって!
福本:いや、古賀の言うこと、わかる気がする。。。
古賀:えっ!?
小林:えっ!?
福本:実はオレも、誰かに狙われてるんじゃないかって感じてた。
   それに、いきなり棒でツツかれたこともあるんだよ。ついさっきなんだけど。。。
小林:も~、ちょっと、やめろよ~。キミ悪いじゃん~。
古賀:ゴメン、ゴメン、やっぱ気のせいだよな!? バイトしすぎて疲れてんのかなぁ。。。

(食卓で)

母:セリちゃん、グズグズしないで、早く食べちゃいなさい!
娘:え~、でも、どれ食べるか、迷っちゃう~。
母:バカねぇ、たこ焼きなんか、どれも一緒よ!
  あと行儀悪いから、爪楊枝でツンツンするの、やめなさい。
娘:は~い、ママ。
  ど、れ、に、し、よ、う、か、な、、、
  よし! キミに決めた!!

(プスッ)

古賀:あ~~~!
小林:あ、待てよ、古賀! どこ行くんだ!? お~い!!!
福本:あーあ、行っちゃった。ま、しょうがないか、オレらたこ焼きだし。

土曜日, 10月 06, 2018

腕時計の怪

昨日、久しぶりに銭湯に行って帰ってきたら腕時計を無くしていた。
そういやロッカーの奥に置いたままだったことを思い出し、慌てて受付に電話して、ロッカーの中を探してもらうようお願いした。
どこかのおっさんがパチってたら見つからんよなぁ、、、ちょっと悲しくなりながらベッドに行くと、何と枕元に置いてあった。
どうやら、朝から時計をしていなかったようだ。。。

そして今朝、目覚めたらその時計が止まっていた。
そういや、前回電池を交換してから、もう2年以上も経っている。
慌てて時計店を探したが、田舎の悲しさ、なかなか見つからない。
ようやく、食料品スーパーの中に小さな店があったのを思い出し、車を走らせた。

「すみませんっ、この時計の電池交換できますか?」
「え~っと、これは太陽電池ですねぇ。光に当ててやってください」
「・・・」

情けない。
まぁ、忘れっぽくなったのはしょうがないとして、「ロッカー奥に時計を置いた」「2年前に電池交換した」などとウソの記憶を作ってしまうのはどーゆーこと?

その場しのぎのいい加減な人生を送ってきたツケが回ってきたのかも。

日曜日, 9月 30, 2018

へへへ

リトグリちゃんがラジオに投稿したメール読んでくれた!
嬉しすぎてしんどい。
ラジオネーム、もうちょっと考えたら良かった。。。







木曜日, 8月 30, 2018

暑すぎる

柵に突っ込んだ首が抜けなくなったと、べぇべぇ羊が喚くもんだから、救出のため外に出たんだけど、いやもう、ほんと暑い。たった5分で汗まみれ。
動物たちの様子は普段とそれほど変わらないが、運動量は明らかに少ない。
実際にはすっげーストレスなんだと思う。

脳の適応力は大したもので、異常気象をもうそれほど異常とも感じなくなってきたけれど、身体の方はそうはいかない。
この変動の早さはほんとにヤバイと思う。
まずは教育プログラムを抜本的に改編して、地球規模の自然を考える人材を組織的に育成すべきだ。
今すぐにでも。

月曜日, 7月 30, 2018

もう勘弁してください

一瞬、軽く心臓が止まったと思う。

刈り払い機にガソリンを入れようと、いつものように倉庫でゴソゴソしてたら、ふと視界の隅に黒い影がよぎった。不吉なものを感じて目を凝らすと、太くて黒いゴム管のようなものが、顔の高さから床のすぐ上まで、縦一文字にブラ下がっている。
まさかぁ!?とは思ったが、そのまさかだった。
両手を広げたくらいの青大将。
ヒュッと喉が鳴って、全身が総毛立って、おしっこ漏らした(ウソ)。

棚に丸めてあった防鳥ネットに潜ろうとして、そのまま絡まって動けなくなってしまったようだ。
これで、「ネットに絡まって自殺した蛇」を目撃するのは6匹目だ。
ラベル付けて包装したらヘビ捕獲器として売れるかも。グロいけど。

そーいえばここしばらく、倉庫で作業していると、ときどき磯の香のようなツンとした刺激臭を感じていた。その臭いには覚えがあって嫌な予感もしたが、ま、いろんな生き物いるからしょーがないかと、あまり深刻に考えないようにしていた。
あ、そーいえば最近、乾いてるはずの床に黒々としたシミを見つけて、首を傾げたこともあった。
あれ、ヘビの体液だったんだ!
10cmほど視線を上にずらしてたら、濡れた尻尾があったはず。。。

え、ちょ、そしたらさぁ、ネットに絡まってまだグネグネしていた時にも、真横で作業してたかもしんないじゃん!
や〜だ〜!!
1日1回は倉庫に入るし、その辺に置いてある工具は使用頻度が高いから、可能性は極めて高い。

想像しただけで気が狂いそうになるが、どうかトラウマになりませんようにと、今、必死の思いで文章に書き起こしている。

日曜日, 7月 01, 2018

耳タコ

とりあえず、いんでぃどとはずきるぅぺととりばごは、おれのテレビから出て行ってくれないか?
話はそれからだ。

土曜日, 6月 30, 2018

分離不安

まだ幼かった頃、知らない場所や人混みで親の姿が見えなくなると、それまでの上機嫌がウソのように泣き喚いたものだ。

今でも記憶に残る、どこかのデパートの売り場。
プレゼントを買ってもらえるというので、有頂天になって駆け回っていて、親がいない!と気づいた瞬間に世界が暗転した。
わーわー泣いても周りの大人たちが知らん顔なのがまた怖くて、ますます大声で泣き叫んだ。
買ってもらったはずのプレゼントは思い出せないが、生まれて初めて店内放送のお世話になるという痛恨の失態とともに、売り場で感じた不安や無力感は、今でもハッキリ覚えている。

なぜそんな羽目に陥るかというと、調子こいて辺りに気を取られて、親の居場所確認をサボっていたからだ。逆にいうと、親に頼っていたせいで、アウェイな場所なのに油断できるくらい安心していた、とも言える。
「あんまり離れなさんな」という親の注意なんか、まるで耳に入っていなかった。
ま、子供なんてそんなもんだし、むしろそうやってすぐに油断できるから、いろんなものを吸収できるのだろう。

犬の問題行動とされるものの一つに分離不安というのがあるが、これなんか同じだと思う。
しつけやトレーニングをどうこう言うより、要は犬が幼いということじゃないかと。

ファームに来る犬たちの中にも、それまで機嫌良く敷地をブラついていたのに、飼い主がちょっと姿を消した途端、急に騒ぎ出す犬がいる。飼い主が消えたドアの前に陣取り、抗議するように、あるいは哀訴するかのように、脇目も振らず吠え続ける。
飼い主が戻ってくると、再会を喜んで甘えまくるかというと、そうでもなくて、すぅっと平静に戻ってまた辺りをフラフラしだす。
安心と不安、万能感と劣等感、高揚と抑うつなど、気分が極端から極端に振れやすいのが未成熟な心の特徴の一つだが、分離不安な犬というのは、まさにそういう心の状態にあるのだと思う。

犬を飼うという行為は、大なり小なり、相手に子犬(の役割)を求めることでもあるから、それが分離不安という形で現れるのかもしれない。
「問題行動」と仰々しくラベリングしてしまうのは、ちょっと気の毒な気がする。

ただ気になるのは、そうやって騒ぐ犬ほど、飼い主の呼びかけへの反応が鈍いように感じられることだ。
呼んでもなかなか寄ってこない、、、くらいだったらまだいい方で、飼い主の方を見たり、あるいは耳をピクリと動かしたりといった、僅かな応答すら返さない犬もいる。
これも、まぁ子供だからと苦笑いでやり過ごすこともアリだが、呼びが効かないというのは現実的な不都合が多い。それに、幼かろうが年寄りだろうが、呼びかけをスルーするという態度は、ちょっとヨロしくない気がする。これは何とかしたい。

以前テレビで、分離不安の対処法として、犬が陣取るドアの前に敷物を置いて、吠えたタイミングで思いっきり引っ張るという方法を紹介していた。
いわゆる天罰方式というやつだが、映像を観ていて、ええ、そんなあ!?とのけぞってしまった。
もちろん、それで鳴き止む犬もいるだろうけど(TVに出演した犬には見事に効いた)、例えば不安に陥っている子供に対して、いきなり足払いをかけてひっくり返すようなことをするだろうか?

手っ取り早い対処を求める気持ちはわかる。
特に集合住宅なんかで隣近所から苦情が、、、といった事情では、即効性のあるやり方に頼らざるを得ないだろう。
ただその場合でも(問題行動が収まったとしても)、成熟やコミュニケーションに関わる課題が残っていることは頭に留めておくべきだ。

いや、たとえ目に見える問題が無くても、私たち犬飼いは「飼い犬をどうしたら成熟させられるか?」ということに、もうちょっと心を砕くべきじゃないかと思っている。犬の成熟とは何か?それを促すにはどうするのがいいか?といったことについて、犬の個性や置かれた環境に照らし合わせ、各自が少しずつ考えるのである。「心の成長」みたいなワードを意識するだけでもいいかもしれない。

そうすれば、犬との関係性が変わる、、、ことはないかもしれないけれど、自分や人社会の未熟なところに気づくことはできる。

土曜日, 6月 09, 2018

ファームあるある怖い話

3日ほど前だったかな、倉庫の中でネズミが死んでいた。

まだ、なまなましかったから、たぶんシャッターを開けたときにどこかに挟まれたんだろう。
忙しかったから、申し訳ないけど埋めずにコンポストに捨てた。

で、今日、Hiroさんがゴミを捨てようとコンポストを開けると、、、
そのネズミがまだ動いていて、こちらを睨んでいた!、、、そうだ。

どんよりした梅雨空の今朝の話。

土曜日, 5月 26, 2018

信頼関係

よく「犬と信頼関係を築こう」なんてことが言われて、それがまた耳触りが良いもんだからつい激しく頷いてしまうわけだけれど、フと立ち止まると、どーゆーことかよくわからなかったりする。もうちょい噛み砕いて言ってもらわないと困ります、と当局に苦情の一つも言いたくなるが、その当局の所在がまたよくわからないときている。
こうなったら、自己流で解釈するしかない。

信頼関係は双方向の作用だ。
自分から相手、相手から自分への信頼があってこその関係である。
そして単純に字面を追えば、信頼とは「信じ」て「頼る」ことだから、その第一歩はまず相手を「信じる」ことになる。

実はここで引っかかってしまう。
人が犬を信じるのはまぁ信じればいいとして、犬が人を信じるとはどういうことか?
「信じる」は、相手がウソをついたり裏切ったりする可能性があるからこそ成り立つ行為だ。いや、別に本当にウソついてくれなくてもいいのだが、少なくともウソという概念がないと、それを乗り越えたところにある「信じる」も成立しない。

何だかわざわざ話をややこしくしているようだけれど、言ってみればウソも裏切りも、わざわざ話をややこしくするのが大好きな生き物特有の技だ。犬の住む世界はそうではないだろう。
だからことさら言わなくてもいーじゃんという意味で、「犬が人を信じる」という言い方には違和感をおぼえる。

では、犬はどんな心理を経て、人を信頼するようになるのか?
それは「安心」ではないかと思う。

動物の欲求は、基本的には生存確率を高める方向に向いているから、特に群動物の場合、メンバーから受ける安心感は、何物にも代え難い魅力に違いない。
だから犬は真っ先に、一緒にいて安心できる存在を求めるようになる。
エサくれるとか、遊んでくれるとか、褒めてくれるとかもポイントにはなるが、それよりも何よりも、安心を与えてくれる人を求める。
そして人から安心を得た犬は、その人の意を汲み取ろうとするし、周りの世界に向けて自発的に行動しようとする。

だとすると、当面の問題は、どうすれば犬に安心感を与えられるのか?に移る。
人間同士だと、相手の財力や権力も安心の源になるだろうが、もちろん犬にはそんなものは通用しない。言葉も無力。
たぶん動物としての安定感みたいなもの、、、落ち着いた態度、穏やかで力強い声、安定した姿勢、揺るがない自信、心身の健康、、、そういうもろもろを全身をアンテナにして感じているに違いない。ノンバーバル言語とか無意識の所作と言ってもいい。

これは頭で考えたりコントロールするものではないから、できる人は最初からできるし、できない人はなかなかできない。
そう言ってしまうとミもフタも無いが、それでも、自分の様子が犬を安心させるかどうか、ということは頭の片隅に置いておいてもいいと思う。
犬が人を信頼するようになるのは、そういう僅かなことの積み重ねだと思うし、それにきっと、人の動物的な部分に対しても同じような効果があるからだ。

では逆に、人から犬に対する信頼とは何か?
私見ではそれは、「この状況でこの犬はこういう風に振る舞うだろう」という予想のことだ。
予想が確信に近いものになり、かつ予想された振舞いが人にとって不快でも問題でもない場合に、私たちは「犬が信頼できる」と言っている。
その意味ではリードで街中を散歩するのも、クレートに入れずに留守にできることのも、信頼の賜物と言えるのだが、普通はそこまで大仰には言わない。
ここでポイントになるのが、自由意思と人との関わりだ。

ファームでは、朝と夕の2回、犬たちをフィールド内に放している。
頭数が多くて散歩に連れていけない(こともないけど、面倒臭い)からだ。
その間、人間は家畜の世話に忙しいので、犬たちはフリーで敷地内をうろついている。
本当はもっとかまってやりたいのだが、あいにく、そんな暇は無い(こともないけど、面倒臭い)。

羊を見張るやつ、鳥を睨みつけるやつ、ひたすら放牧地を駆けるやつ、人の傍を離れないやつ、、、犬たちのやることは見事にバラバラだ。個性ってすげーといつも感心している。
ただ、暇そうにするやつがおらず、揃いも揃って何やら忙しげなところは、さすがボーダーコリーと言うべきか。
こっそり柵の中に忍び込み、羊を追いつめる不届き者もいないではないが、まあ事故は起きないやろと多寡をくくっている。

最初からこうしようと決めたわけではない。
毎日の暮らしの中で、人と犬が試行錯誤を重ねてきた結果だ。
仔犬の時、自由にしてやれるのは狭いサークルの中だけだったのが、やがて庭や作業場に広がり、大人になる頃にはほぼ敷地全体になる。
その中で犬たちは、色んなことと折り合いをつけながら、自分の居場所を見つけ、わきまえた行動を身につけてきた。
ざっとまぁ、そういうこと(=そういう風に思えること)が、人から犬への信頼ではないかと思う。

と、いうことで強引にまとめると、人と犬の信頼関係というのは、犬がまず安心できることであり、その安心感を糧に人と犬が互いの意思を尊重しながら暮らしを築いていくことだと思う。
異論は多々あるだろうが、大事なことは、双方が相手(の意思)を欲望することだ。


犬と暮らすということは、イコール犬の自発的な行動を制限することでもある。
しかし信頼関係という見えない秩序のもとで、自由意思を発揮する場面を増やすことはできる。
それは人にとって煩わしいことだし、リスクも伴う。
ただ、世の中の多くのことがそうであるように、それは一見犬のためのようであって、実は人がよりよく生きるためのものだったりする。


木曜日, 4月 26, 2018

毛蟹ツアーがあるんやから毛刈りツアーとかあってもえーんちゃう?

今年もこの季節がやってきた。

例年、4月なんてまだ余裕をかましてたのだが、今年はお尻に火がついたような感じだ。
暑い日が尋常でなく暑いことと、刈る頭数が増えたからだ。

Hiroさんの努力もあって、羊は13+5(子羊)頭にまで増えた。
毎年、毛刈りのテクニックは少しずつ向上していると思うが、それと同じくらいのペースで頭数も増えている。だから、負担感はなかなか軽減しない。
そりゃー、何百頭もいるような牧場からすれば、ほとんど誤差範囲みたいなもんでしょーけどー

それに去年からは飼育委託されたアルパカも加わった。
彼らも暑さには弱いし、毛は伸び続けるので、やっぱり刈ってやらないといけない。

羊は原則、保定と剪毛が1人でできるように、手順と道具が美しいまでに確立されているが、パカはそうでもない。ようつべを検索すると、紐で縛ったり壁に押しつけたり大勢で押さえ込んだりと、お前らみんな勝手にやってるやろ!状態である。まだまだ世界的にも試行錯誤なのかもしれない。

去年はアルパカ自体が珍しいこともあって、委託元にも協力いただきワーッと作業して乗り切ったが、今後定常的にやって行くためには、そこまで力をかけるわけにはいかない。
ああ、今日は燃やさないゴミ出す日やからちょっと捨ててくるわ、くらいのノリでないと続かない。
目を血走らせた鼻息荒い男たちにとり囲まれるパカも気の毒だし。

あーあ、それにしても気が重い。
ある日突然、広瀬すずがやってきて「毛刈りお手伝いさせてもらえませんか?お金払いますから」って言ってくれないかな?

日曜日, 4月 22, 2018

俺にまかせとけ

「よく知ってるけど、口にしたことがない」セリフというのが誰にでもあると思う。

この前、何かの拍子に「オレにまかせとけ」と口にしたことがあって、その時、あれ?何かうまく言えてへん、みたいな微妙な違和感を感じた。
なぜと自問してみると、要は「言い慣れてない」からで、そう言えば、生まれて一度も言ったことないかも!?ということに思い至った。

つまり、ある仕事なり課題なりを引き受けて、実行から結果責任までまるっと背負うという言動を避けてきたわけだ、自分という人間は。
なんという無責任な男なんだろう。

いやいや考えようによっては、安請け合いをしないという意味で、逆に責任感が強いのかもしれない。
ネプチューンの原田泰造みたいに、オレにまかせとけを乱発する人間にあまり頼りたくないと思うのは、自分だけではないと思う。

まぁその辺はどっちでもいいとして、自分にはこんな未使用ワードがまだまだ一杯あるような気がする。
頭の中に、「そんなバカなっ!」とか「お前に俺の何がわかるんだ!?」とか「前の車を追ってください」といったドラマや映画の定型セリフが、未開封状態で大量にストックされている。
そういうのってちょっと可哀想じゃないかと思う。
言ったことがないセリフを使ってみたい、ということがモチベーションになって、行動を起こすことだってアリだと思う。

筒井康隆氏の小説に、登場人物の社会属性(主婦とかサラリーマンとか女子高生とかヤクザとか)と言葉遣いをミスマッチさせた話があって、強烈な異化効果に驚いたことがある。
自由に会話している気でいても、がんじがらめと言っていいくらい、言葉が限定されているのが現代人なんだと、思い知らされる。

そういえば最近、セクハラやパワハラ、暴力沙汰などの報道が多い。
そのたびに「意識を変える」必要性が叫ばれるが、それこそ表層的な意識ならいざ知らず、内面化した意識を変えるなんてことが、そう簡単にできるはずがない。
セクハラ研修でいくらケーススタディを積み重ねても、ガハハ親父の性根は変わらない。

本心は話の内容ではなく口調にあらわれる、みたいなことをどこかの学者さんが言ってたが、ならば、意識を変えるのにまず言葉遣いを変える、というソリューションもあるかもしれない。
国会なんか杓子定規な官庁語を使うから、建前しか言えないのであって、答弁は飲み会用語を使うこと、というルールにしてしまえば、ぶっちゃけオレら小役人なんかさぁ、おエライさんの顔色伺うしかないわけよ、みたいな本音が、10回に1回くらいは聞けるかもしれない。
どーしようもないガハハ上司には、とりあえず主婦の井戸端会議か、女子大生の恋バナ用語くらいをマスターしてもらおう。
もう少し、相手の気持ちを斟酌できるようになるかも。

まぁそれは難しいとしても、一人称を替えるくらいだったらできそうだ。
相手との関係で一人称が変わるのが日本語の難しいところだが、それを逆手にとるのである。

実はこんなしょうもない文章でも、しっくりくる一人称が無くて、ずっと悩んでいる。
ワタシはリーマン時代の感覚が蘇るようだし、かといってオレは強がってるみたいだし、ワシはおっさんだし、ボクは年齢的に気がひける。
だから、できるだけ一人称は使わないようにしているのだが、どうしようもないときは「ジブンは」とか「コジンテキには」などを使っている。
はっきりいって苦しまぎれだ。

あれ、何の話をしてたんだっけ?
というのも、言ってみたかったセリフの一つです。

木曜日, 4月 12, 2018

輝かしい朝に

ファームの1日は、外飼い犬のうんち掃除から始まる。

犬が一晩にする量なんてたかが知れてるが、5頭分ともなるとかなり手強い。
人間と一緒で、仕事しないやつに限って大量にうんこする、、、気がする。
掃除しながら「もう、うんこすんなっ!」と毒づいてる自分は、あんまり好きじゃない。
    
最近はそれに、アルパカのうんち拾いが加わった。
日課にされてる方には賛同いただけると思うが、これは結講悩ましい作業なのだ。
ヒツジやヤギだと、フンはフィールド中に散らばってしまうので、そもそも拾い集めようなどという気も起きない。

アルパカはフン場を決めて、決まった箇所でする習性があるようで(タイミングが重なると、一列に並んで順番待ちしてたりする)、黒々と盛り上がった塊が、嫌でも目に入ってくる。
これは掃除せなアカンか~、という空気に追い込まれる。

実は見た目だけじゃなく、寄生虫予防の意味もあるから、せっせとうんち拾いしている。
両手にチリトリと熊手を持って、中腰をキープしたまま、ウサギの糞みたいなやつを集めて回るのは、かなりの重労働である。

いや、うそ、実はそれほどでもない。
そりゃ愉しかぁないけど、気候さえ良ければ、鼻歌が交じることだってある。
問題があるとすれば1日もサボれないことで(丸一日溜めてしまうと、見ただけで心が折れる)、朝夕の2回、できれば昼頃にもう1囘、雨が降ろうが槍が降ろうが、ジミすぎる作業を重ねないといけない。

自分のペースで適当にやれればいいのだけど、動物相手だとまったくそうはいかない。
このフラストレーションが文明発展の原動力なのだろうけれど、それにしても、アルパカのうんちって・・・

金曜日, 3月 09, 2018

勉強しません

ここに書いても詮ないことだが、あんまりメディアが書かないから書くのだけれど、今、高校教育がエライことになっている。
もう、信じられないくらい学力が低い、勉強もしない、だけど大学には行く、、、のだそうだ。
ある私立高校に勤める知人がいて、トンデモな実態を教えてくれた。

その高校には進学と普通の2コースがある。
勉学できる子は進学コース、そうでない子は普通コースという、私立ではわりとよくあるパターンである。

進学コースでは、難関大学を目指してひたすら受験対策に勤んでいる。
それが良いか悪いかは別にして、まぁ見慣れた光景ではある。

問題は普通コースだ。
クラブに賭けてる連中はしょうがないとして、そうでない生徒たちがもう完全に勉強のモチベーションを失っているという。
成績が悪くて進学を諦めたからではない。
そうではなくて、誰でも大学に行けてしまうからだ。

最近では多くの(いや、たぶん全ての)私立大学が、AO入試や指定校推薦と呼ばれる推薦入学枠を用意している。私大合格者の40%が推薦枠という数字もあるから、入学者の過半数が推薦という大学も珍しくないだろう。
しかも大学の数がこれまた多いものだから、こんな地方のパッとしない高校にも山のような推薦依頼が届く。

本来、推薦入学というのは、特定の分野で高い能力を持った生徒に対して、一般試験以外の門戸を開くことが主旨だと思うが、はっきりいって公募の推薦以外は、学生の頭数を確保する手段以外の何物でもない。
これは、授業料のためならなりふり構わないというか、かなり恥ずかしい実態だと思うのだが、声を大にして言う人はあまりいない(言論人の多くが、何らかの形で大学に関わっているからだろうか?)。

もちろん、各大学の推薦枠は限りがあるから、誰もが希望通りに応募できるわけではないが、大学さえ選ばなければ、志願者はほぼ全員が推薦を受けられる。しかも、一旦推薦が得られれば、よほどのことがない限り取り消されることはない。
学費の心配さえ無ければ、あとは大学生活の開始を余裕で待つばかりである(先の高校は、裕福なご家庭が多いらしい)。

しかも、さっき「大学さえ選ばなければ」と言ったが、実は、推薦依頼を出してくる大学の中には難関と言われる有名どころ(関西で言えば、関関同立みたいな)まで含まれている。
希望枠は成績順で埋まるから、そういう大学の推薦を狙って、わざとランク下の高校に入ってくる生徒もいるらしい。
入試で落ちた優秀な学生を尻目に、な~んも勉強しなかった◯カ学生が面接だけで入学するという、アンフェアな逆転現象も生じている

わずか数年とはいえ、将来の安楽が保証されている若者がいかに傲慢で怠惰になるか、知人は授業をしながら日々実感しているそうである。
「マジメなやつはカッコ悪い」という伝統的な風潮もあるだろうが、もう教師なんかそこにいないかのような態度で授業を邪魔する。
だったら学校に来なきゃ良いのに、と思うが、そーゆーやつに限って毎日せっせと通ってくる。
出席が不足すると推薦に響くからだろう。

で、高三にもなって、My father (am are is) an English teacher. レベルの問題に首をひねっている。
いや、問題を解く前に、問題文の意味が理解できているのかどうかすら怪しい。
こーゆーのが大学に行って、一体何をするというのだろう?

水曜日, 2月 28, 2018

胸焼けしないんですか?

第一胃にある未消化物を口中に戻し、再び咀嚼する行為を反芻という。
ウシが有名だが、ヒツジやヤギも反芻する。
アルパカもする。

陽だまりで箱座りしながら、喉のあたりがぐびぐびっと動いたかと思うと、ゆっくりと咀嚼が始まる。
残った固形物をすりつぶすように、下顎が左右に動く。

最近フと思ったのだが、これってもしかして、ものすごく幸せなんじゃないだろーか?
飢えを凌ぐとか敵から逃げるといった差し迫った用事もなく、もうすぐ栄養になろうかという柔らかな未消化物を、口中に戻したりまた飲み込んだり、、、
味はもちろん、香りや喉ごしも思う存分楽しめる。

その間、思い出に耽るのもいいし、嫌いな群仲間をdisってもいい。
2年前に食べた、最高の出来の最高の青草を思い浮かべるのもいいかもしれない。
「充足」とか「至福」という言葉は、こういうときのためにあるのだと思う。

実のところ、反芻がどんな感覚なのか、人間には想像することもできない(少なくとも、ゲロがこみ上げてくるのとは違うと思う)。
ただ、リラックスしまくりの姿勢と目を細めた表情からは、「満ち足りた」感が濃厚に漂っている。

充実した仕事の後の、あるいは重い緊張から解放されたときの、薫り高いコーヒーの一服に似た感じじゃないかと、勝手に思っている。


木曜日, 2月 08, 2018

観察日誌

2月8日(木)晴れ

アルパカさんのうんちはね、ウサギさんみたいにコロコロなの。
でも、まん丸じゃないの。
しいの実みたいにちょっと細長い。

朝にはね、黒~いうんちのお山が、あっちこっちにできるの。
あっちにひと山、こっちにひと山、そっちにひと山、向こうにひと山・・・。

それを熊手で集めて、ちりとりに入れて堆肥置き場に捨てるのが、まろさんの大切なお仕事。
アルパカさんたちは、ちょっと遠巻きにしながら、不思議そうに眺めてる。

でもこの頃は寒くって、うんちがカチコチに凍ってる。
だから熊手が跳ね返って、なかなか集められないのね。

しょうがないからガリガリ引っかいてると、ちょっとずつ剥がれて、地面の上をコロコロ転がっていく。
熊手を持ったまろさんは、転がるうんちを目で追いながら、口の中で「もーいや」とか「ばかやろう」って呟いてる。

それを見ていた私は、地球人って意気地がないなぁって思いました。


金曜日, 2月 02, 2018

ロイコクロリディウム

宇宙人のことを考えていて、「カタツムリを操る寄生虫」のことを思い出した。

この寄生虫は鳥の体内でないと成熟できないので、中間宿主であるカタツムリが捕食されやすいよう、アレやコレやの策を労する。
まず、宿主を目立たたせるために、ツノとかヤリと言われる触覚のあたりに移動し、プロジェクトマッピングよろしくギラギラ動く模様を浮き上がらせる。

どう見ても散髪屋のサインポールだが、せっかくのサインも、空から見えないと意味がない。
そこでこいつは、どこにどう作用するのやら(たぶんカタツムリの神経系に働きかけて)、葉っぱの表側など、普段は避けるような位置に宿主を誘導する。

この何重もの努力により、首尾よく鳥に捕食されると、めでたく子孫繁栄できるのである。
なんとなく、自分の墓穴を掘らせる捕虜収容所の強制労働を連想させるが、暴力や権力を介さない分、より洗練されているとも言える。

ロイコクロリディウム

この気色悪さは、そのままSFネタに使える。

ある考古学者が人類の歴史を調べていて、類人猿からホモ・サピエンスに至る進化のどこかに、DNAレベルの干渉があった証拠を発見する。
すわっ地球外生物か!?というわけで世界中が興奮し、考古学、生物学、宇宙学、物理、化学、心理、宗教、哲学など、多方面の専門家が参加する調査プロジェクトがスタートする。

やがて考古学&生物学の混成チームから、重大な発見が発表される。
なんと、件の生物が類人猿の脳内に寄生していたらしいこと、さらには宿主の行動をコントロールしていた可能性があるというのだ。

勢いづいた研究チームは、二足歩行、言葉、道具、火の利用、群生活やサバンナへの大移動など、人類が人類たる所以となった行動を始めた時期には、常に寄生虫が存在していたことを突き止める。
この時点で、研究は世界的なブームとなり、一部は熱狂レベルにまで達する。

しかし、大脳新皮質の急速な発達そのものが寄生虫の共生作用によるもの、という仮説が立てられるに及び、研究ブームは一気に終焉に向かう。
「人は主体的・自律的に考えて行動する」という一神教的な人間観と、どうにも相性が悪くなってきたからだ。文明推進のエンジンでもあった「人としての尊厳とプライド」が、それ以上の真相究明を阻む皮肉な結果となったのである。

ただ、研究ブームが下火になってからも、自分そのものと信じて疑わなかった理性や思考が、他生物のものだったかもしれないという疑念は、人々の潜在意識に強い影を落とすことになった。
有名なコギト命題「我思う、ゆえに我あり」は、「我思う、ゆえに我あるんやと思う」と歯切れが悪くなってしまった。
少なくとも、「脳は脳の欲望に従って行動するのであって、必ずしも自分自身や、ましてや隣人や世界のためではない」ことは、誰もが意識するところとなった。

人はなぜ働く?
人はなぜ争う?
人はなぜ愛する?
人はなぜ挑戦する?
人はなぜ宇宙を目指す?
人はなぜ頑張る?
人はなぜ夢みる?
人はなぜ・・・?

これら人の成り立ちや行動原理に関わる問には、模範回答が無く、一生かけて各自が自問し続けるものと相場が決まっていたが、「もしかしたら寄生虫のせいかも~」という安直な回答が可能になってしまった。

まったくもって困ったことである。

木曜日, 1月 18, 2018

脚立から落ちた

生まれて初めて気を失った。

ドラマで山ほど気絶シーンを見かけるので、すっかり身近に感じていたが、考えてみたら自分で経験するのは初めてだ(そういう人は案外多いと思う)。

状況はシンプルで、脚立に乗って木を刈っていて、そこから落下したらしい。
記憶にあるのは、枝を切り落とした瞬間までで、その直後から意識が途切れている。
だから、枝が倒れかかってきたのか、脚立が倒れたのか、自分で足を踏み外したのか、はたまた先に失神して落下したのか、何が原因かはわからない。
誰かに殴られたのでないことだけは確か、、、とも断言できないか。なんせ知らないんだから。

身体は冷え切ってなかったので、意識が無かったのは数分か、せいぜい10分以内だと思う。
意識が戻ったときの感覚は、居眠りから目覚めたときと変わらない。
ただ、何が起こったのかわからないだけだ。

最初に感じたのは、辺りの静けさと柔らかな冬の日差し、頬の下の乾いた落ち葉と芳ばしい匂い、などである。地面に伸びた右手の先に、チェンソーが転がっているのが見えた。
近くにいた犬たちが、心配そうにこちらを覗き込んでいた、、、のなら可愛いのだが、みな知らん顔で寝そべっていた。

辺りの情景をこんな印象で記憶しているということは、心の方もまぁまぁ平穏だった、ということだろう。
「気を失う」ことには、パニックを防ぐ安全装置みたいな機能があるのかもしれない。
たまたま大事に至らなかったから、のん気なことが言えるのだけれど。

それからのことも、もやがかかったように記憶があいまいだ。
家に誰もいなかったので、自分で部屋に戻り、作業服を着替え、コタツをセットして横になった。
そういう行動を記号的には覚えているが、どんな気分でどうやったかなどが判然とせず、どこかリアリティが無い。
もっともらしい記憶を、後づけで作ったのかもしれない。

どこかが痛いというより、とにかく身体が動かし辛く、何をするにもひどく時間がかかった。救急車を呼ぶことも考えたが、自分で動けるのになんか申し訳ないような気がして、結局やめた。
頭に外傷が無いことだけは、何度も確認した。

それが、木曜の午前中だったから、これを書いている時点でもう一週間が経っている。
今はどうかというと、まだ腰が痛くて寝返りも打ち辛いが、それでも日常生活にはほとんど支障が無い程度になった。
土曜日にはHiroさんに引っ張られて病院にも行ったが、まったく異常無しという診断であった。

あとは月日が笑い話に変えてくれるだろう。
それにしても、自分に何が起こったかわからないというのは、もどかしく、また不安でもあるけれど、考えてみればこうして生きているのだって、似たような状況なのかもしれない。
ということは、今のあり様を感謝して、目一杯それを享受するしかないわけやね。
りょーかい。

火曜日, 1月 09, 2018

宇宙人ふたたび

宇宙人のアイデア、思い出した!
「遺伝子を持たない」ことだ。

つまり個体ごとに姿形や性質が異なっていて、これといって似たところが無い生物。
強いて言えば、特徴らしい特徴が無いことが特徴だ。

見た目はもちろん、知能も言語も異なるから、本人たちでさえ仲間かどうかわからない。
唯一の手がかりは、太古から連なる深層的な記憶(集合的無意識とゆーやつ)を共有していること。
だから普段はとりとめなく暮らしているが、何か事があって心の深いところで共感すると、初めて種としてのアイデンティティに目覚めて団結するという、面倒臭い生物である。

思いついた時は、これ、スゲーじゃん?って思ったけど、書いてしまえばそれほどでもない。
忘れてしまうだけのことはある。

ただ負け惜しみすると、このアイデアの本当の狙いは「目新しい宇宙人像の提案」ではなくて、これを読んだり聞いたりした側が、この宇宙人を宇宙人として認知できるか?という挑戦的な問を投げかけるところにある。
カテゴライズできないものを物語の主題に据えたらどうなるんやろ?という思考実験でもある。(どーにもならない気もするけど)
森羅万象を分類してラベル付けし、それでもって世界を理解しようとするのが、人間的な知性の「型」だと思うからだ。
まぁそれが不発に終わったとしても、国籍とか民族とかLGBTとか男女とか老若とか貧富とか、自分たちのことですらやたら分断したがる昨今の風潮の批判にはなりそうな気がする。

と、ここまで書いてきて、新しい宇宙人像を思いついた。
知性の型が人間とまるで異なる、というのもアリじゃないかと。

「感情が無い」くらいだったらミスター・スポックが近いけど、彼にしたってエンタープライズ号のスタッフになるくらいだから、考え方は人間そのものだ。
そんなんじゃなくて、もう論理やら認識やら感覚やら記憶やら、一切合財がヘンテコなの。
それはさすがにまだ考案されてないと思う。
自分と違う「知性の型」を発想したり説明したりすることは、絶望的に難しいからだ。

言語は人間的知性そのものだから、小説や物語の形式で表現することはまず不可能だ。
可能性があるとしたら、映像や音くらいか。
ただし、受け手が何か解釈できたり納得できたりしたら、それは知性の型が異なることにはならないから、全く意味不明だけど心がザワつくような「作品」が必要かもしれない。
あるいは逆に、いくら見ても何の印象も残さない像とか。

挑戦してみる価値はあると思う。

日曜日, 1月 07, 2018

ひつじのにく

羊を飼い始めて13年、初めて肉にした。

「飼育した家畜を食べる」ことは、ファーム開設の当初から漠然と頭にあった。
畜産農家じゃないし、エコや自給自足や自然食にこだわるタチでもないから、敢えてする必要も無かったのだが、できるだけ身の周りのものを口にしたい、くらいの気持ちはあった。
最初に羊を分けてもらったとき、牧場にいたおっさんに不要になった羊の後始末について尋ねたところ、「どうか食べてやってください」と言われたことが、ずっと心に引っかかっていた、、、というのもある。
ただ、実際には何やかやと壁があって、なかなか実行には至らなかった。

一番のネックは「自分でできない」こと。
四つ脚はもちろん、鶏やカモですら、どうしたらいいかわからず、考えただけで途方にくれてしまう。たぶん、できるかどうかではなくて、やるかやらないかだけの問題なのだが、その一歩がなかなか踏み出せない。

移住した当初、鶏を捌くくらいは近所の人ができるやろと軽く考えていたが、誰に聞いても「おじいちゃんくらいまでは、自分らでやってたんやけどねぇ・・・」と、同じ回答が返ってきた。
こんな田舎でも、ここ1~2世代の間に、その手の知恵やスキルが綺麗に一掃されてしまったということだ。
しかも、食卓には、昔も今も変わらず鶏肉があるのだから、その変化は極めて巧妙かつスムーズだったことになる。
環境変化というと、どうしてもスマホなどの先端技術に目が行ってしまうが、実は「自然から遠ざかる」変化の方が、ずっとドラスティックなのかもしれない。

それは、さておき、、、
仮に自分で肉におろせたとしても、許可が無くては、販売することも食事として客に出すこともできない。
屠殺して肉を販売するためには食肉処理業と食肉販売業、加工するためには食肉製品製造業、食事として提供するためには飲食店営業の許可がいる。
もちろん、どの許可にもそれなりの施設と知識が必要で、一個人にはハードルが高い。

次善の策は業者や専門機関に依頼することだが、このやり方がまたわかりにくい。
手続き自体は複雑でもなんでもない。
ただ、情報が少ない。
ネットを調べても、法令や規則などは出てきても、具体的にどう動けばいいかという情報は皆無に等しい。
人に尋ねようにも、誰に聞けばいいのかわからないし、ようやく聞けたとしても、その回答がまたステキなほど要領を得ない。
どうやらこの業界、一般人や個人の利用は想定されていないらしい。
日本では古来、食肉やそれに絡むプロセスを忌み嫌い、人目から隠そうとする風儀があったが、その名残があるのかもしれない。

そうこうするうち、たまたま同じ市内に屠殺→枝肉(骨付きのでっかい肉塊)処理をやってくれる、公的な施設があることがわかった。
これは結構ラッキーなことで、家畜は生きたまま持ち込まないと処理できないので、近ければ近い方がありがたい。
ただ、やっぱり手順はわかりにくい。
何日前に申し込んだらいいか、1頭からでも引き受けてもらえるのか、家畜は何時どんな状態で持ち込めばいいのか、どれくらい時間がかかるか、枝肉はどれくらいの大きさでどんな状態で渡されるのか、、、
確認したいことが山ほどあって、できるだけ役所や施設で聞いて回ったが、それでもわからないところは見切り発車することにした。

残ったのは枝肉を小分けする作業で、これは自分たちで何とかしようと覚悟を決めていた。
しかし保健所に相談に行くと、みわファームでは施設の要件を満たさないという判断で、待ったがかかってしまった。
またもや心が折れかけたが、結局、そこも他の業者(近所の焼肉屋さん)にお願いすることになり、これでようやく、か細い道が一本つながった。
ふぅ。

で、羊を送り届けて5日後、返ってきたのは、骨を外され、血抜きもされた綺麗なお肉。
見た目で言えば、スーパーに並ぶブロック肉と変わらない(かなりでかいけど)。
これなら小分けして冷凍しておいて、少しずついただくことができそうだ。

そこまでが一ヶ月ほど前のこと。
以来、煮込んだり焼いたりBBQにしたりオーブンに突っ込んだりと、いろんな調理法で食べた。
量が半端じゃないので、親や知り合いにも声をかけ、協力してもらった。
なかには、生前の羊をよく知っていて、変わり果てた姿を見てボロボロと涙を流す人もいた。
そういうことも、大事かもしれない。

問題は味で、もういい歳のオス(去勢)だし、食肉用に肥育したわけでもないから、めちゃ固かったり臭かったりする可能性は大いにあった。
そうなると、あとは犬の餌にするくらいしか、利用法を思いつかないが、それでは羊に申し訳ない気もする。

幸い、覚悟していた臭みもなく、むしろ「美味しい肉」の部類に入る味であった。
少し固かったけれど、個人的にはその方が好みだし、しっかり煮込めばトロトロになる。
ありがとう、○○くん。
これなら、定常的にサイクルを回していくことができそうだ。
でも、羊に名前をつけるのは、もうやめた方がいいかもしれない。

土曜日, 12月 23, 2017

まだ誰も考えたことのない宇宙人

「新しい宇宙人を思いついた」という書き出しの、自作のメモを発見した。

ファイル作成日が今年の11月15日だから、ほんの1ヶ月とちょっと前だ。
そう言えば、フとそんなことを思いついて、ああ、オレ天才ちゃうか!?、と勢い込んでメモしたような気がする。
ただ、すぐに飽きてしまったようで、途中でぶった切れている。
メモの内容がこれ↓

―メモ―

新しい宇宙人を思いついた。
これまで、小説や映画でものすごいバリエーションの宇宙人が造形されてきた。
人間型、動物型、魚型、イカ型、昆虫型、寄生虫型などはもちろんのこと、基本元素が炭素ではなくケイ素や鉱物であるものや流動体まで創造されてきた。
生身の身体という概念を越えようと、惑星や星雲自体が生きている、という発想もあった。


スタートレックは実はあまり観たことがないのだが、なんとなく意識だけとか、スピリチュアルなのが得意そうな気がする。
時間軸を合わせた4次元空間に棲む生物というSFも読んだことがあるが、これは頭の中にまるでイメージできなくて困った記憶がある。


でも、どの宇宙人も、

―メモ終わり―

最後に「でも、どの宇宙人も、」と書かれているから、これまでの宇宙人イメージの共通点を挙げて(あるのか?そんなもん)、「しかし、○○のような宇宙人は誰も発想してこなかった」と続けるつもりだったに違いない。
残念ながら、肝心なところをすっかり忘れてしまっている。

何を思いついたんだろう、、、1ヶ月前の自分。
ありとあらゆる宇宙人の共通点って何だ?
それを踏まえた新しい宇宙人像って?

うぅ、すっげー気になる。
まぁ忘れるくらいだから、大したアイデアでもなかったんだろうけど。

水曜日, 12月 20, 2017

手袋の陸王が欲しい

手がじっとりしてきたら、テンションダダ下がり...
冬の朝の作業。
どんな手袋をしても、魔法のように水が侵入してきて、すぐに指先がジンジンしてくる。
その状態でウンコ掃除なんかしてたら、東海林さだおの漫画みたいな情けな~い気分になってくる。
上着や長靴にも気を遣うけれど、冬の装備で一番苦労するのが手袋だ。

たぶん、中途半端な寒冷地というのがアカンのやと思う。
日が昇ると霜や氷が溶けて、地面、フェンス、餌箱、その他手に触れるもの全てがぐちょぐちょになる。
もっと寒かったら、凍ったものは凍ったままなわけで、あとは正々堂々と寒さに挑むだけだ。
なんか潔い。
それがちょいとでも温むと、途端に泥仕合になって、悲哀とか恨みとかが水と一緒に忍び込ん
でくる。

これまでありとあらゆる手袋を試してきたが、いくら防水が謳われてても、縫い目から入ってくる湿り気は防げない。
じゃあと言って外作業用のゴム手袋も着けてみたけど、結構ごつくて飼料袋の開封など細かい作業ができない。
結局、コスパも考えると軍手が一番という結論になり、ここ数年はそれで通してきた。防水性は0に近いけれど、できるだけ物に触れないようにしながら、濡れたらさっさと取り替えるという作戦で、なんとか乗り切ってきた。
もちろん、満足とは程遠い状態だ。

そんなこんなで、手袋問題はほとんど諦めかけていたところ、最近、え、これ最強ちゃうん!?と思える方法に出会った。
それが軍手と台所用ゴム手袋の重ね履き。軍手をはめた上から、ちょっと大きめのゴム手袋をつけるだけだ。
これが、結構いける。

優れポイントは、
・湿気が完璧に防げる。
・思ったより暖かい。
・軍手だと絡みついてくる干し草も、気にせず触れる。
・ゴムが薄いから細かい作業もこなせる。
・案外、丈夫(最近のゴム手って良くできてるんやね~)。
などなど。

おかげで、朝作業のユーウツ度が3割方改善した。
台所の神様に感謝。
ついでに、軍手インナー付ゴム手袋を商品化してくれたらうれしい。

それにしても、身体の末端の、しかも体表面積にして1%にも満たない指先が濡れただけで、なぜこんなにも気が滅入るのか?
掘り下げないといけないテーマやと思う。

木曜日, 12月 07, 2017

祝福と戒め

神は、人々が神のしもべであることの証に、髪の毛(神の子)を授けることとされた。
また神は、人々が神のしもべに過ぎないことの証に、その髪を少しずつ奪うこととされた。


・・・要するに、


神様っていぢわる.


火曜日, 12月 05, 2017

絶対音感と犬

養老孟司が新しい本を出したと聞いて、久しぶりに本屋に行った。
別に熱心な読者ではないけれど、「遺言。」なんてタイトルをつけられたら、スルーするのも申し訳ないかなぁ、、、とうっかり思ってしまったのだ。
で、殊勝な心持ちで読み始めたら、いきなり「当面死ぬ予定はない」とか「この本も『遺言1.0』とでも呼んだ方がよい」などと書いておる。
"まんまとじーさんに一杯食わされた"感が強い。ちっ

でも、本文冒頭にはおもしろいことが書いてあった。
犬猫の聴覚は絶対音感だと。
つまり彼らは、たとえ同じ声符であっても、音の高低によって、違うメッセージとして捉えている可能性があるということだ。

え、そ、そうなの!?
知らなかった...
そーゆー大事なことは、早く教えてくれないと困る.

そうと知ってたら、「コマンドわかってるくせに無視しやがって!」とムカつかずに済んだかもしれないのに。犬は音の違いに混乱しただけかもしれないのだから。

そういえば、いろいろと思い当たる節がある。
例えば、一般にかけ声よりも笛やクリッカーの方が犬の反応が良いと言われているけど、音程の安定度を考えると、なるほどそーゆーことだったのね、と思える。
(もしかしたら犬笛より、音階のあるチャルメラの方がええんちゃうん!?)
また、「訓練士の指示には従うのに、飼い主は無視する」という類の話は、単に指示が指示として聴こえてないだけかもしれない。飼い主がナメられてるのでは!?といきり立つ前に、検討してみる価値はある。

あと、しつけの心得の一つに「叱るのはいいが、腹を立ててはダメ」というのがあるが、これも怒りで犬が萎縮するから、という他に、声色の変化で何言ってるのかわからなくなる、という理由もありそうだ。
絶対音感を想定しただけで、いろんな気づきやヒントが得られる。

ただ、じーさんの言うことだから、ホントかどうかはわからない。
でも実のところ、そこはどっちでもいいと思っている。

コトバを操ることが息をするくらいフツーの私たちには、自分の「マテ」と他人の「マテ」が違って聴こえてるかも、、、なんてことはまず想像できない。
「いや、ウチの犬はよくコトバを聞き分けるよ」と言う人は、それが犬の努力の賜物であって、人よりも大きな負荷がかかっているかもしれない、という可能性には思いが至らない。
この種の想像力の欠如こそ、「擬人化」と呼ぶべきだと思う。
絶対音感を考えてみることで、想像の裾野が少しでも広がるなら、それはそれで充分”アリ”だと思う。

ちなみに人間はどうかというと、なななんと、やっぱり絶対音感なんだそうだ。
解剖生理的にはそうなるらしい(耳の感覚器は、周波数によって違った部位が共振するようにできている)。ただ、コトバを学習する過程で、その能力が邪魔になるので、あえて使わないようにしているとのこと。
確かに、「あ」は誰が発声しても「あ」と聞こえるべきで、声の高低によって「い」や「う」に聞こえるようではマズい。

要は、動物界では絶対音感が普通で、例外的にその能力を抑制した動物が人間、という見方が実態に近いようだ。
人は、微妙な音を聞き分けて危険を察知することより、コトバによるコミュニケーションを優先した、ということだろう。

この文章も、コトバによって失われたものをコトバで補おうとするあたり、いかにも人間らしい営みだなぁと思う。
我ながら健気。

木曜日, 11月 30, 2017

テレビ壊れたし(3)

てな風にものを考えていると、この先、いくら解析的なアプローチを積み重ねても生命の実態に迫ることはできないんじゃないか、という気がしてくる。個人をいくら調べても、歴史や社会は見えてこないように。
ただ、私たちにとって「わかる」というのは、イコール「言葉に還元できる」ということであって、これは人類全体の叡智というよりは、西洋ローカルなドグマに過ぎない、ともいえる。
何か別の仕方で「わかる」ことができれば、案外すんなりと事は前進するのかもしれない。

いや、それとも・・・

もしかしたら今でも、私たちが何かとんでもなく大きな思い違いをしている可能性だってある。
例えば、生命というのは、ロボットを作るように複雑な仕組みを精緻に積み上げるのではなく、何か重要なポイントさえ押さえておけば、まぁ妥当なところに全体が落ち着いてくるような現象だったりするとか。
いや、さすがにこれはあまりに安直だけれど、まだ私たちの知らない重要な概念の2つや3つは、案外近くに転がっているような気もする。
この痒いところに後ろ肢が届かない感じを文章にするのは、本当に難しい・・・


ところで全然関係無いけど、TVといえばドクターXこと大門未知子が嫌い、ということは以前も書いた。

なぜって、単にあの仏頂面キャラがムカつく(米倉涼子は好きな役者さんだけど)というのもあるけど、一番ヤなのは、生命に対する畏れと敬意が感じられないところだ。
キメ台詞「私、失敗しないので」は、まぁ好意的に解釈すれば「絶対に患者を治すという決意の表明」なんだろうけど、一歩間違えば「失敗さえしなけりゃ何でも治せる」という思い上がりにつながる。
医学の権威には反抗するくせに、医学そのものは過信している。

何でそこに思い至らないかなぁ。
他の誰でもない医師こそが、医療の未熟や限界に自覚的であるべきちゃうん?
「手術が三度の飯より好き」って、ざけんなよっ、何でも切ったらええっちゅうもんやないやろ!!

すみません、興奮してしまって...
嫌なら観なきゃいーんだもんね。
ただ、いくら視聴率が稼げるからといって、「スーパー外科医」みたいな幻想を世の中に振りまくのだけは、もうヤメにしてほしい。
お願いしましたからね。

水曜日, 11月 29, 2017

テレビ壊れたし(2)

ちょうど今、NHKのドキュメンタリー「人体」シリーズが始まっていて、たまたま、第1,2回の「腎臓」と「脂肪と筋肉」を観た。

シリーズ全体を通じたテーマは、これまで中枢神経や心臓によってトップダウンにコントロールされると考えられてきた人体イメージを、各臓器が直接連携するネットワーク型で捉えなおすというもの。
例えば、「血中の酸素濃度が低下すると、腎臓がEPOという物質を出し、それが骨髄に作用して赤血球が増産される」みたいな仕組み。
脳や神経を介さず、臓器同士が「ダイレクト」に、「メッセージを交換」するところがミソ。
多くの臓器がネットワークに参加しており、同定されたメッセージ物質は数百種にも及んでいる。
その機構を解明し治療や創薬に応用することが、現代医学の最先端研究領域なんだそうだ。

この手の話に触れるたび、いつも2重の絶望感に見舞われる。
一つは、生命の仕組みがあまりに精妙なことによるものだが、もう一つは、私たち人類は一体いつまで新発見すればいいんだろう?という絶望だ。

人類はその歴史が始まって以来、かれこれ何千年も心身を研究してきて、相変わらず「驚異の新発見」に驚き続けている。このシンプルな事実にまず打ちのめされる。
研究が収束に向かっているならまだしも、むしろ謎は深まりつつある。この先、いつ「もう大体この辺でええやろ」的な状態になるのかわからないし、そもそもそんな境位が存在するのかどうかすらわからない。

今、急に宇宙人が訪ねて来て「あなた方の身体ってどうなってるんですか?」と聞いてきたら、どう答えたらいいんだろう?
「いや、その話はまた今度・・・」なんて口ごもってたら、実はイラチだった宇宙人に解剖されてしまうかもしれない。
心配のタネは尽きない。

仕組みの精妙さに対する絶望感も深い。
遺伝、代謝、免疫、老化、運動、知覚、、、どんなトピックを持ってきても、ちょー複雑だし、しかも気が遠くなるくらいうまくできている。

その複雑さゆえか、身体機能の説明には、「白血球が細菌を攻撃する」とか「悪玉コレステロールで血液がドロドロに」みたいな比喩的な表現がよく使われる。おかげで、私たちはとりあえず知った気になれるけれど、それが実際にはどんな現象なのかを理解しているわけではない。
「身体の設計情報は遺伝子に書き込まれている」ことは、今なら小学生でも知ってるが、じゃあ誰がどんな風に情報を読み取って、それがどう作用して必要なタンパク質が合成されるのか?と聞かれて、答えられる人はまずいないだろうし、そもそも、そこまできちんと解明されているんだろうか?

様々な性質の有機物が寄り集まってるだけなのに、何でこんなにうまく連携して機能しているのか?
別に正確じゃなくてもいいから、実感として生命の営みを把握してみたいと、一年に二回くらいは思う。

火曜日, 11月 28, 2017

テレビ壊れたし(1)

8年間苦楽を共にしたTVモニタが壊れた。
あと10年くらい働いてもらおうと思っていたのに、一月ほど前、画面の一番下にノイズラインが出るようになったかと思うと、それがちょっとずつ上に侵食してきて、最後にはちゃんと映ってる部分が5cmくらいになってしまった。
さすがに我慢できなくなって、ヤマダ電器に持っていった。

店員の回答は芳しくない。
7年の保証期間は超えてますねぇ、、、画像センサが壊れてます、、、修理はメインボードを取り替えるしかない、、、ざっと10万は覚悟してください、、、買い換えた方がお得かと、、、まぁTVの寿命は5,6年と思っといてください、、、みたいなことを、立て板に水のごとく説明される。
画像センサって何?とか、寿命が5,6年とか誰が決めたん!?とか、言い返したいことは山ほどあったが、ここでゴネて事態が好転するとも思えず、大人の態度で引き下がった。

たぶん原因は、どこか一箇所が断線したとか、ICチップが不調になったとか、ほんのちょっとしたことだ。でも、それを突き止めたり修理するようなシステムが、もうメーカには残っていないのだろう。
店員が言うように、ボードを丸ごと交換するしかないのかもしれない。

で、TVの話が広がるかというとそうでもない。
実は、こういうことがあるたびに生き物ってスゴいと思っていて、そっちの話を書きたかったわけです。

どこがスゴいかというと、例えば、キカイだと部品が1個壊れただけでダウンしたりするけれど、生き物は、一部(とゆーよりアチコチ)が具合悪くなっても、どうにか平衡を保って動き続けたりするところ。
懐の深さが全然違う。
部品と細胞を比べたら、前者の方が圧倒的に堅固なのに、全体で見ると生物の方が丈夫だったりする。
(壊れやすいことを前提にして)細胞は常にスクラップ&ビルドされていることや、欠陥が出ても他の細胞がカバーしたりするからだろう。
これを人工で実現するのは大変だ。
100年近くも機能し続けるロボットなんて人間には作れないし、作れそうな見込みも無い。

金曜日, 10月 20, 2017

かけ声

犬の美点は数々あるけれど、その第一番は、立ち上がる時に「ヨッコラショ」と言わないことだと思う。
どれだけオッサン臭い犬でも、これはしない。
なぜって、それ言ったら飼い主に殴られるからだろう。

子供の頃、周りの大人たちが、腰を上げるたびに声を上げ、湯船に浸かって「ア゛~」と呻り、グラスを干して「ハァァァ」と嘆息するのを聞くにつけ、こういう空疎で定型的な発話をする大人にだけはなるまいと心に誓ったのに、気がつけば言いまくっている自分がいる。

、、、というようなことを書こうとしたのは、10年ほど前の話。
残念ながら、没ネタとして封印された。
きっと、心のどこかにまだ若いという衒いがあって書けなかったのだと思うが、今はその辺はもーどーでもよくなってきている。

それに今回はオチもついた。
いつのまにか、「ヨッコラショ」が「アイテテテ」に変化していたのだ。

別に本当にどこかが痛むわけではない。
「痛むかも」という予感だけで声が出てしまっている。
身体各部に警報を発するとともに、周囲に対してスローな動作の言い訳をしているのだろうか。
どーでもいいけど。

いや、これじゃあオチにもなってないですね。
やっぱ、書くんじゃなかった。

日曜日, 9月 17, 2017

むしのはなし

捻転胃虫(ねんてんいちゅう)という、椎名誠や筒井康隆のSFに登場しそうな、ふざけた名前の虫がいる。

虫は虫でも、反芻する草食動物の第四胃に棲みつく寄生虫である。
名前の語感とは裏腹に結構怖いヤツで、繁殖力が強く母体の致死率も高い。
なぜ、寄生虫のくせに宿主まで殺めてしまうかというと、成虫が産卵のために盛んに吸血するため、重篤な貧血と、それに伴う臓器不全や衰弱をもたらすからだ。

ちなみに英語圏では、Barber pole(理髪店の縞々サインのこと)という、これまたこジャレた名前で呼ばれている。成虫の体表にらせん状の赤い縞が表れるからだ。
その正体は吸い取った血が透けて見えたもので、そうと知ってから写真を見るとかなりグロい。重症患畜の胃を切開すると、2cm程度の成虫が「うじゃうじゃ」と喰らいついているのが見えるんだそうだ。
げろげろ。

成虫が産んだ卵は宿主のフンとともに排出される。
濃厚感染の場合、その数はグラム当たり数千~数万個にも上る。
体外に出た卵は、適当な水分と温度(10度以上)があれば、3~7日で孵化する。
孵化した幼虫は熱や乾燥にも強く、草などに潜みながら再び宿主の体内に取り込まれるのを待つ。
胃に帰り着いた幼虫はすぐに成虫になり、2週間程度で繁殖を始める。
3~4週間という短い世代交代サイクルによって、早い増殖スピードと高い環境適応能力を有する。

「胃壁に喰らいつく」と聞くと、人間の場合アニサキスを思い出すけれど、あれは高々2~3匹で七転八倒の痛みを伴う。その伝で行くと、念転胃虫の痛みも相当ではないかと思うが、動物が辛抱強いのか、あるいは痛みは感じないのか、そんな素振りは見られない。
ただ、何となく覇気がなくなり、食欲が落ち、ちょっと具合悪いかな?と首を傾げていると、そのうち立てなくなって逝ってしまう。

もともと草食動物は我慢強い(弱みを見せると襲われる?)ので、目に見える症状が現れた頃にはかなり弱っている。「しばらく様子を見ましょう」とか「検査の結果を見てから」などと悠長なことを言っていると、すぐに手遅れになってしまう。

もっとも効果的とされる治療は、抗寄生虫薬(イベルメクチン)による駆虫だ。
手遅れでなければ(母体の回復力があれば)、病状は劇的に改善する。
ただし最近は、薬剤耐性を獲得する虫体も増えているらしい。また、動物によっても効き方がまちまちで、規定量の倍を投与しないと効かないケースもある。
投薬した、あるいは症状が改善したからといって、安心はできない。

実は、みわファームも開設当初に苦い思いをしている。
その後の駆虫プログラムが功を奏したのか、長らく事無きを得ていたのだが、今年、久しぶりに患畜を出してしまった。
メチャクチャ不快だった今年の長雨と高温が、幼虫たちには最適だったのかもしれない。
気候変動の影響を真っ先に受けるのは、たぶんこういった微生物の世界だ。

ところでこの記事を書いていて、捻転胃虫がアナグラムの宝庫だということを発見した。
年中移転、天然注意、中年転移、威年天誅、、、
「意中やねんて!」という惜しいのもある。
どうでもいいことだけれど、そうでもしてないとやりきれない、というのもある。


土曜日, 4月 08, 2017

歓喜

来たー!
武道館ライブ映像DVD(初回限定MV集付き)!

これでまた、リトグリちゃんたちとの妄想会話が楽しめるっと!!

日曜日, 4月 02, 2017

犬らしい犬

小学生の頃、野良犬、飼い犬を問わず近所中の犬を「煮干し」で手なずけるほど犬好きだった自分が、ボーダーコリーを見て最初に持った印象が「犬らしい犬」だった。

真っ白でも真っ黒でもなく、小さ過ぎず大き過ぎず、短足でも足長でもなく、フワフワでもツルツルでもなく、つまり見た目にはこれといった特徴が無いけれども、オオカミのような怖そうな顔と思慮深そうな眼、、、これが、色んな犬と接してきて、何となく心の中に抱いていた「代表的な犬」のイメージだった。

だから、大人になって初めてボーダーコリーを見た時、最初に書いたような印象を持ったのかもしれない。
その時点では、犬を飼育できる環境ではなく、またボーダーコリーという犬種名すら知らなかったけれど、どーしてもその犬のことが頭から去らず、手当たり次第に調べ物をする羽目になった。
そうこうするうちに、自分の中で「犬らしい犬」が「特別な犬」に変わるのに、それほど時間はかからなかった。
かれこれ、もう、20年以上も前の話である。

、、、とゆー前フリから、新しく来たLouを見て改めて「犬らしさ」を感じた、みたいなことを言いつつ、実のところは彼女のノロケ話をしたかったのだが、ここまで読み返してみて、なんか文章が軽いなぁ~、ウソ臭いなぁ~と感じてしまったので、ここで筆を置くことにする。
残念です。

ま、人が遠い目をして語るような話は、大抵がウソと相場が決まってて、ウソというのがアレなら物語と言ってもいいけど、人は物語と無縁に語ることも生きることもできないのだから、全然気にすることは無いのだけれど。


媚びを売るLouとソッコー落ちるRudi

火曜日, 3月 21, 2017

くだらない話(後編)

下町エリアに一歩足を踏み入れると、そこはもう立派なスラムでした。

荒れ果てた辺りの様子にビクついていると、向こうから悪党ヅラの女が近づいてきます。
あぷらんど姫でした。
長く離れて暮らしていた両者は、下町エリアで思わぬ再会を果たしたのです。
でも、それは幸せなものにはなりませんでした。

「うっ」
「うっ」

そうです、いきなりの対面に慌てた二人は、平常心の「あ」ではなく、緊張を煽る「う」を使ってしまったのです。
それがお互いの反感に火を着けたのか、ハデな取っ組み合いになってしまいました。

「ガルルルル」

怖ろしい唸り声を上げ、互いに相手の首を抱え込みます。
双方とも、頑として放しません。
どちらかが降参すれば決着がつくのですが、互いの意地もあるのでしょう、簡単には引き下がれないのです。

でも、意地の張り合いなら、下町育ちに一日の長があります。
もしし姫が「ひぃ」と声を漏らし、最初で最後の争いは終わりを迎えました。

やがて冷静になった二人は、それぞれの居場所に戻り、それぞれの暮らしを続けました。
And they lived happily ever after.


-- よーするに、くだらない話はどんな書き方をしてもくだらない、
-- とゆーお話でした。

月曜日, 3月 20, 2017

くだらない話(前編)

むかしむかし、ある小さな王国に、もししとあぷらんどという2人の王女が住んでいました。

もしし姫は色が黒くて小心者でしたが、王室に取り入り、母屋でぬくぬくと暮らしていました。
色の白いあぷらんどは働き者でしたが、見た目がヤボったかったせいか、けっこう雑に扱われ、普段は下町で寝起きしていました。

もしし姫はあぷらんどの才気溢れる様子が妬ましく、また、あぷらんど姫はもししの調子の良いところが嫌いでした。
つまり、お互いに相手のことを良く思っていなかったのです。

ポカポカ陽気のある日、もしし姫は一人で裏庭に出てみることにしました。
いつもは、用心してすぐに室内に入る姫でしたが、その日はヘラヘラと調子に乗ってしまい、出入り口が閉められたことにも気がつきませんでした。
そのことを知ったのは、昼寝に帰ろうとして出入り口の前に立った時でした。

「ひっ!」

急に不安になってパニクった姫は、なぜか横手にあった塀をよじ登ってしまいました。
塀の向こうは、、、禁断の下町エリアだったのです。


--宿命づけられた二人の運命!
--以下、怒涛の後半へつづく!!

月曜日, 2月 27, 2017

強者と弱者

ポイントゲットのテクニックとしては、「話題を変える」とか「キレてみせる」とか「言葉尻をとらえる」とか、いくらでも考えられるけど、案外効果的なのが「笑わせる」ことだ。
笑いが起こった瞬間、仕掛けた側にはシテヤッタリ感があり、笑わされた方はちょっと悔しかったりする。
つまりポイントのやりとりが発生する。

このテクニックのアドバンテージは、一方的にポイントを加算していっても、場の空気や人間関係が悪くならないところにある。
テレビを賑わしているお笑い芸人たちは、これを駆使できるという意味で、実は圧倒的な強者じゃないかと、わりと最近気づいた。
彼らには、たとえ相手が一国の総理大臣だろうが大会社の社長だろうが、一対一の会話であればまず負けないくらいの自信があるにちがいない。

だから彼らは、本来のバラエティだけでなく、アウェイなはずの司会やインタビューでも、相手に臆するということがない。
その余裕は、制作サイドや視聴する側の安心感につながる。
お笑い芸人があらゆるジャンルの番組に進出できるのは、ここが大きいと思う。

そういえば先日、NHKで「洞窟おじさん」というドラマをやっていた。
中学の時に家出をし、そのまま40年を山奥の洞窟で暮らした男の「ほぼ実話」だ。

前半のサバイバルの場面は、わりと平常心で観ていられたのだが、後半、他人との葛藤によって少しずつ「人間らしく」なってくるあたりから、ぐいぐい引き込まれてしまった。(しかし、リリー・フランキーってホームレス役がほんとハマるなぁ)

ドラマを見ていると、普通の人が普通に交わす会話が、慣れない男にとってはヒリヒリするような緊張を伴う体験であることがわかる。
だから彼は、人里に降りては山奥に逃げ帰ることを繰り返すのだが、他者や死者との関わりを通じて、最終的には人の世で生きることを選択する。

嫌な思いをすることがわかっていても人と関わって生きるしかない、、、そう覚悟を決めたのだろうか?
この辺に、人間性の本質的な何かが表現されているようにも思える。

ポイント判定アプリ


「会話が弾む」相手というのは、たぶん、ポイントのやりとりが頻繁で、かつトータルの勝ち負けが拮抗するような人だ(その逆は必ずしも成り立たないけど)。
ポイントの出入りが少なかったり流れが一方的だったりすると、内容が充実していても、イマイチ盛り上がりに欠けたり、ノリが悪かったりする。

最近のIT技術であれば、会話内容を認識するだけでなく、ポイント判定までできそうだ。
そうすれば、会話の「弾み度」をリアルタイムで判定したり、ロボットの会話能力を向上させたり、「気の合う相手」推薦アプリを開発できたりしそうである。

あ、これ結構良いかも!?って、こんなとこに書いてしもたら、もう特許取られへんやん!

パワーゲーム

どれだけ和やかで他愛の無い内容であっても、人対人の会話には、刹那のポイントを競うパワーゲームという側面がある。
ま、そう思ったってだけで何の根拠もないですけど。

例えば・・・

A 「なぁ、山本が結婚してたの知ってる?」
B 「え、そうなん!?」

 → 新情報を提供したAが1ポイントゲット。

A 「そうなんよー、ビックリやろ?」
B 「へぇ~、そうなんや。それで相手は?」

 → 質問したBは1ポイント減点。

A 「それがさー、なんと、経理のたま子ちゃん!」
B 「え゛~、うそやろ!」

 → と叫ばせたら高得点、Aに2ポイント追加!

A 「オレも最初に聞いた時、腰抜かしたわ。なんせデラックスたま子やからなぁ」
B 「いやいや、経理にお世話なってて、それはアウトやろ」

 → 軽くたしなめたBが1ポイント挽回!

・・・みたいな感じ。

これに表情とか態度とか地位とか年齢とかホームとかアウェイとかいろんなファクターが加わって、複雑でデリケートなゲームになる。
だから会話はおもしろいし、同時にしんどくもある。

どっちに傾くかは状況次第だけど、一つ言えるのは、人にとって「競う」ということが、息をするのと同じくらいフツーのことだとゆーこと。
ここは押さえとかないといけない。

いや、もしかしたらこれは順序が逆で、そもそもコミュニケーションというのは、わかり合うとか意思を伝えるためじゃなく、上下や順番を決めるものだったのかもしれない。

犬たちを見ていても、日がな一日、「そーゆーこと」にしのぎを削っている(ように見える)。
犬のことだったら、「くっだらねぇ!」と切って捨てられるのになぁ~。

土曜日, 2月 25, 2017

ゆく河の流れは絶えないの?

つい数年前まで、羊のフンを片づけたり柵を修理したりしていると、自分は一体何やってるんだろう?という感覚だったけど、今は逆に、オフィスで働いていたことが夢か幻のように思える。

そのうち、生きてるのか死んでるのかわかんなくなるんだろう。

鴨長明さんは、きっとこういうときに方丈記を書きたくなったんだと思う。

金曜日, 2月 17, 2017

雪が白いとは限らない

やまない雨も、明けない夜も、今まで一度も無かった〜と、さだまさしがカン高い声で歌っていたけれど、ファームで暮らしていると、雪やみぞれが一度も降らない日はもう永遠に来ないんじゃないかと、深い絶望にとらわれるときがある。

太平洋側に住んでた頃は想像もしなかったが、この時期の日本海側気候というのは信じられないくらいwetだ。
お、晴れてるやん!と外作業に出ようとしても、服を着替えてる間にもう暗〜くなってきて、倉庫に辿り着く頃には白いものがチラチラしている。
雪が犬遊びが結びついていた頃は、ちょっとは愉しみな面もあったが、ここまで生活と密着してくると、もう後ろ向きの気分にしかならない。

ただ福知山は確かに雪はよく降るけれど、めちゃくちゃ寒いというほどでもない。
だから雪は降ったそばから融ける。
その上を動物たちが歩き回って、地面はぐちゃぐちゃのドロドロになる。

実はこれが辛い。
気力とか覇気とか、そういう希少なものが全部泥に吸い取られてしまう。

毎年のことで、いい加減慣れてもよさそうなものなのに、その気配もない。
しかも今年は新参者のアルパカと仔犬たちがいて、そいつらが体中を泥だらけにするので、なんかもう気が狂いそうな状況になっている。

もし3日間の晴天が約束されたら、悪魔に魂を売り渡してしまうかもしれない。


月曜日, 1月 23, 2017

自分が2人いる

人は誰でも、最低2人の自分を持っている。
自分が知っている自分と、知らない自分。
2人の自分に引き裂かれながら、何とか折り合いをつけて生きているのが、今の進化段階の人という生き物だ。

人はオギャアと生まれた時は100%受動的な存在で、自分を自分とも思わず、ましてや「自分らしさ」とか「生きる目的」てなことに悩むこともなく、ただ充足して生きている。
これが知らない自分(の原型)である。

それが、いつしか自分と自分以外を区別するようになり、行きたい場所に行き、目的らしきものまで持って生きるようになる。
この自分が、自分の知っている自分になって、それ以外の自分は知らない自分として、舞台裏に押しやられる。もちろん消えて無くなるわけではなくて、知っている自分が知らないだけだ。
そのうち、これに「他人が知っている自分」というのも加わって、話はもっとややこしくなるけれど、これはまぁ知っている自分の分身みたいなもんだからスルーしちゃおう。

例えば人はいろんな理由で恋に落ちるけれど、職業とか年収とか背が高いとか、もっともらしい理由がスッと言える時は知っている自分が主役になっていて、そうでないときは知らない自分が働いている。後者の場合は、たぶん、声の響きとか体臭とか細胞の形とか、(知っている自分が)意識しないところでグッときてしまったのだ。

とまぁ、今良いこと言いましたヨ、みたいにもったいつけて書いてるけど、考えてみれば当たり前の話で、人が自分のことを完全には理解できない以上、残った部分は自動的に知らない自分になる。
問題は、両者の行動原理がまるで違うために葛藤や悩みが生まれることと、それらが基本的には解消できないことにある。

前者を意識とすれば後者は無意識、前者を理性とすれば後者は感性、前者が脳なら後者は身体、前者が個の生存欲求なら後者は種の保存欲求、前者が現実なら後者は夢、、、と、いろんな切り口で解釈できるのだが、どれにしても、そう言い切った途端ウソっぽくなってしまう。
実際には、二項対立のような簡単な構造ではないだろう。

そいえば世間では、スカートの中を隠し撮りしてた犯人を捕まえたら学校の先生でした、みたいな恥ずかしい事件が後を絶たない。
ニュースを見聞きするたび、地位も名誉も良識もある人が、すっげぇリスク冒してまで何でそれするかなぁ?と首を傾げるが、これは人格が1つという前提で考えるから変なんであって、彼の知らない彼の仕業だと思えば不思議ではない。
知ってる自分に知らない自分のことがわからないのと同じように、知らない自分には、知ってる自分の世界のリスクなど知るよしもない。

昔から、自分(まろ)には持てあまし気味の性癖があって、それは、ラジオ番組やTVドラマでどこか琴線に触れるところがあると、ヘビーローテーションしていつも心を一杯にしておきたい、という欲求を抑えられないことだ。

受験勉強の頃には、深夜放送のMBSヤングタウンを欠かさず聴いただけでなく、録音までして昼間もずっと聴いていた。半年ほど冬ソナにドップリ浸かったこともあって、そこから抜け出した頃には、心の中のアニマが活性化されたのか、性格まで変わってしまった気がする。

いわば嗜癖や依存の一種なんだろう。
生活が崩壊するところまではいかないけれど、論理的な思考や現実問題に向き合う意欲は明らかに減退する。
傍から見れば幸せなヤツかもしれないが、本人は結構苦にしている。
災難と同じで「ハマる」のはいつも突然なので、知ってる自分はただオロオロ見守ることしかできない。
予知とまでは行かなくても、せめて傾向だけでもつかめれば、心の準備ができるのに・・・

土曜日, 1月 21, 2017

雪ねぇ

鳥小屋崩壊した〜
アンテナ曲がった〜
雨どい折れた〜
ヤギ小屋歪んだ〜
鹿柵死んだ〜
地面ぐちゃぐちゃ〜
犬ドロドロ〜
子犬逃げる〜
人間ヘロヘロ〜

日曜日, 1月 01, 2017

新発見

犬は身体を小さくすることがある、とゆーことを発見した。
「小さく見せる」ではなくて、「小さくする」だ。

今回、初めて母犬になったLouさんは、元の農場にいたときはずいぶんと大きかったのだが、出産前後は小さくなっていた。
子育てが終盤に差し掛かった今は、また元のサイズに戻りつつある。

理由など知る由もないが、もしかしたら、外敵から身を守るのに都合が良いとか、子犬に威圧感を与えないためとか、群から反感を買わないように身を慎んでいたとか、何かそんなふうなことがあるのかもしれない。

どうやって?というのもナゾだ。ただ、全身の関節の隙間を少しずつ縮めるとか、皮膚を収縮させて身体を引き締めるとか、何かしらの手はあるのだろう。
耳を自由に動かせる連中の身体能力なんか、人間にわかるはずがない。

そういえば、オオカミの母親は子供が口をなめると胃の中のものを吐き戻して子に与えると言うが、Louにもそういう習性が残っていて、何度もそういうシーンを目撃した。
今さらながら、犬の潜在(でもないけど)能力には驚かされる。

とゆーことで、犬と暮らしているといつまで経っても新しい発見がある。
Louの場合、単に毛が抜けてまた生えそろってきただけ、という説もあるが、それじゃあつまらないから、そーゆーのは却下。

日曜日, 12月 18, 2016

サプライズ!ゲスト

「どうですか?」

「かわいい」「癒され〜!」

「ね!?羊と一緒にバーベキューって悪くないでしょう?」

「サイコー!」

「うわっ、もうハモってるし!!ガンガン食べてってくださいネ」
「しかし、武道館の前によく時間取れましたね〜、今めちゃくちゃ忙しいんでしょ?世界が一変したんちゃう?」

「ええ、すごく忙しいですけど、でも自分らが変わったという実感は全然無くて、ただガムシャラに突っ走ってる感じです」

「さすがmanakaさん、100点のリプやね。でも、ぶっちゃけ、これでイケる!って感じ掴んだでしょ?」

「いえいえ、まだまだです。それに私たち若くて人生経験少ないし...」

「いや、そんなことないわ。だってほら、情熱とか才能とか恋とか、年齢と関係無いことっていっぱいあるやん?」
「そん中でも、一番関係無いのが、人生経験やと思うで」

「え、そーかなぁ?」

「だって、みんな、フツーの人ができないことしてきたし、誰も見られないシーン見てきてるやん。経験なんてもんは絶対、量より中身やわ」

「でも、やっぱり勉強とかクラブもやりたいし、恋もしてみたいなぁって・・・」
「わたし、勉強はヤだよ」

「はは、まじゅはそーやろね。まぁ嫌なもんはやらんでもえーけど、好きになる努力はせなあかんと思うよ」

「え゛〜ヤだ」

「まぁええけど」(笑)
「でもホント、人って年取ったから言うて、そんな成長せんからね。デキたやつは若い頃からデキてるし、イタい奴はイタいままやし、スケベェは死ぬまで治らない」
「ま、こういうエーことは年取らんと言えんけどね」

(一同笑)

・・・って、妄想でリトグリと会話するおっさんってだけで充分ハズいのに、それをまたブログに載せるのって、ほんとどーかしてるゼ。

木曜日, 12月 08, 2016

肉食系ヤギ、草食系イヌ

白ヤギの白玉タマ子さんの様子がおかしい。
フェンスを乗り越えて第一放牧地に侵入し、その隣にある第二放牧地に向かってぎぃぇぇぇ〜と咆哮している。

そういえば、タマ子さんもお年頃。
もしかしたら、第二放牧地にいるオスの茶色君がお目当てなのかもしれない。
そーか、オトコが欲しいか!?
いや、気持ちはわからんでもないが、茶色君は羊だから。。。

ぐれぐもおかしい。
そろそろ隠居させてやろうと、部屋に上げたのが間違いだった。
ずっとごろごろしてるから、どんどん太ってきた。

ちょっと引退は早すぎか、というわけで、また外暮らしに戻ってもらったのだが、
腹が減るのか草を食べまくっている。
今朝も、ご近所さんが持ってきてくれたくず野菜を、口いっぱいに頬張っていた。

君の食性はどうなってる?

土曜日, 11月 19, 2016

わらの犬

仔犬たちが生まれて2か月経った。
ここまで7頭全員これといった問題もなく、健やかに育ってくれている。
Louさん、初出産と慣れない子育て、ご苦労様です。

もともとイギリスの農家に憧れて始めたファームだから、できれば古い石造りの納屋の片隅で、藁にまみれて出産&子育てしてもらいたかったのだが、それはさすがに無理!とゆーわけで、今回は犬エリアにある離れの一角を使ってもらっている。
ただちょっとでもそれらしく、、、せめて藁だけでも敷いてやることにした。

これが、思いの外、良い感じ。
おしっこしても上は乾いているし、ウンチも藁と絡みあうので身体にはくっつかない(匂いは隠せないけど)。ペットシーツに勝るとも劣らない、優れものだと思う。
何より、藁と仔犬という絵面がハマるというか、とても似つかわしく、また微笑ましく見えるのだ。
もちろん、7頭もいるからアッという間にドロドロになって、毎日替えてやらないといけないけど。

仔犬たちはいたって呑気に暮らしている。
本当のところはわからないけど、何と言うか、、、とても安心している感じ。
母犬もそんなにかまってるように見えないのに、キュウキュウ鳴くような場面はほとんどない。外からそっと覗くと、大抵、ダンゴになって一心不乱に寝入っている。
人の姿が近くに無いのが、逆に良かったんじゃないかと思っている。
どんな犬に育つのかはわからないけれど、きっとピリピリした犬にはならないだろう。

なんとなく薄ボンヤリしていたそれまでと違って、ここ1週間ほどは、日に日に意志や表情がハッキリしてきている。心が育ってるんやなぁ、と思う。
もうあとホンの1か月ほどで、世界を認識して生きるための作法をあらかた身につけないといけないのだから、それこそ爆発的なスピードで、神経ネットワークが構築されているのだろう。
母犬もようやく、絡みついてくる仔犬を転がしていなすようになってきた。
ここ数週間が、一生のうちで一番大切な時期なんだろう。

考えてみると、こうやって育てていると、人と会うのは食餌のときか、遊びに出るときだけである。これで人が嫌いになるわけがない!と思う。
何かを止めさせられたり、叱られたり、呼んでるのに無視される、、、なんてことはまず起こらない。
「犬は(人の手でなく)藁で育てる」というのが、今週の標語だ。

月曜日, 10月 17, 2016

犬の小説

それまで本といえばマンガと課題図書くらいしか読んだことのない、立派な本嫌い少年だったのに、友だちが薦めてくれた一冊がきっかけで、わざわざ自分で買ってまで読むようになった。ユリくんというその友だちはちょっと変わっていて、小学校の頃にはいじめ・いじめられの微妙な関係だったこともあるのに、どこか気が合うとゆーか、一緒にいると気が楽みたいなところがあって、何だかんだとずっと付き合っていた(ちなみに今になって思い返してみると、ユリくんをはじめとして、自分の人生の節目節目で関わってきた人は、ほとんどB型だったような気がする。良くも悪くも。。。)。

それはまぁいーとして、ユリくんが「これ、めっちゃ(という副詞は当時無かったが)おもしろいで」と、半ば押し付けるように貸してくれたのが、北杜夫の「怪盗ジバゴ」だった。
最後まで読んだとき、小説がこんなにおもしろくていいのか?と思った。
それが中学一年の頃で、そこから高校を卒業するまで、SFとか推理小説も含めて、軽~い小説を中心に本を読み漁るようになった。北杜夫も、手に入る本は片っ端から読んだ。

よくできた軽い小説が罪深いのは、「これくらいやったら、自分でも書けるんちゃう?」と読者に勘違いさせるところで、大体において勘違い野郎だった自分も、案の定、勘違いした。
若いって恐ろしい・・・。
勘違いが極まった高2のある日、クラスメートを主人公にした小説を書き始めた。もう恥ずかしいくらい世の中を舐めきっていて、あらすじも決めず、ストーリーやセリフくらい書いてるうちにどんどん湧いてくるやろう、くらいの気持ちだった。

なぜか時代小説仕立てになっていて、富田靖男之助は姿をくらました悪代官、清水膳之丈の行方を追い、夜更けの江戸の町を駆けるのであった、、、みたいな、知り合いの名前をなぞっただけの箸にも棒にもかからぬシロモノで、案の定、登場人物が出そろったらもう書くことが無くなって、B5ノート2ページくらいで終わってしまった。
オレやっぱり小説書くわと、書き始める前から周りに吹聴していた自分を激しく呪った。

それで完全に懲りたはずなのに、それから40年経った今、またぞろ小説を書きたい気になっている。構想はある。徹底的に擬人化されたシープドッグと、それに関わる人間の勝手な思惑が織りなす愛憎劇、、、つまりはリアル・ストーリーだ。
筋書きはまだだが書き出しだけは決まっていて、それは「僕はやっぱり誰も許すことができない。その最たるものが自分だ」である。スリルもどんでん返しも無いけれど、良識の衣に隠された狂気を浮き彫りにした問題作になるはずだ。
まだ、どろどろした情念が自分の中にあって、それが十分発酵して栄養分になるまで、もう30年くらいかかると思うけど。

月曜日, 10月 03, 2016

天中殺って死語かな?

何をやってもうまくいかない日というのはいうのは確かにある。
それも結構頻繁に。

細かいのも含めて用事は一杯あるのに、ダメなことがわかったり、納得いかなかったり、一部がペンディングになったり、、、「よ~し、これで一件片付いた」というのがまるで無い。

ま、自分の場合、それであまり人様にご迷惑をおかけするということが無い(と信じてる)からいいんだろうけど、これが会社の役員とか国を代表するの外交官だったりしたら、大変だろうな~。
「今日は何やってもムダ!」とふて寝してテレビ見るわけにもいかない。

余計なお世話だけど。

火曜日, 9月 20, 2016

おいしいコーヒーにたどり着けない

コーヒーってキリマンジャロとかブルーマウンテンとか、山系の名前が多いじゃないですか?

だからこの前、コンビニに立ち寄って、せっかくだから香りが良さそうなのをと考えて、なんちゃらモンブランとかゆーやつを買ったら、めっちゃ甘い。
奥さんには「モンブランというコーヒーは無い!」とびしっと言われた。
まぁ、これは勘違いした自分が悪い。

で、もう同じ失敗はしないゾと決意して、三田のぐろりあ・じーんずとかいう店で、カフェ・モカというのを頼んだら、げえって声に出して唸るほど甘い。モカっちゅーくらいやからコーヒーのモカちゃうんかー?と思ったが、どーもその辺の認識が甘かったらしい。

世の中は自分中心に回ってると思っていたが、もしかしたら違うのか?

木曜日, 9月 08, 2016

でぃーぷ・らーにんぐ

うら若き女子×120名を前に講義することになった。し・あ・わ・せ。。。
本当は人生とか恋愛とかを熱く語りたかったのだけれど、テーマはIT技術とのこと。
新しい話題に乏しいので、付け焼刃で人工知能の現況について調べてたら、これがなかなかおもしろい。
筋立てメモがわりにブログに書くことにした。ただ、ネタ元はネット情報だし、難しいところはすっ飛ばしてるから、内容はとても怪しい。

コンピュータが囲碁チャンピオンに勝ったとか、小説や楽曲を創作したとか、レンブラントみたいな絵を描いたとか、音楽のヒットや犯罪発生を予測するシステムができたとか、一昔前には「絶対ムリやろ!」と思われたことが、ここにきて次々と実現してしまった。画像や音声などのパタン認識系のコンテストでは、軒並みトップの成績で、しかも2位以下を大きく引き離しているらしい。
マイコン時代からコンピュータ業界の隅っこにいた自分にとっては、何だか夢のような話に感じられる。

先の例で使われた技術が、Deep Learning(深層学習)だ。
IBMのCognitiveなんちゃらや、Googleの音声認識も同じ。これまでニューロ・コンピューティング、あるいはニューラルネットと呼ばれてきた技術の進化形。

理論や数式はチンプンカンプンだが、原理はわかりやすい(言ったな!?)。脳の情報処理をモデルとし、シナプスで相互接続された多数のニューロンをコンピュータ上に構築する。
あるニューロンに入ってくる刺激の総量が閾値を超えるとそのニューロンは”発火”する。その興奮は、シナプスを介して別のニューロンに伝達される。それを繰り返すことで、特定の入力パターンに反応するニューロンを作り出していく。

例えば、「見た目で男か女かを判定する」装置を作るとする。
まず画像から髪の長さ、体形、衣装の形、靴の種類・・・などの特徴量を抽出する。ルールベースと言われる従来型の方式では、これら特徴に対する判定ルールを、「もし “髪の毛が長い” ならば 女子である確度を ”高く” する」のようなif-then形式で構築しておく。得られた特徴量に対して複数のルールを起動し、総合点を求めるような形で、元の画像が男か女であるかを判定する。

一方ニューラルネットでは、特徴量を抽出するステップは同じだが、それらを割り当てられたニューロンに入力する。各ニューロンは特徴量に応じて発火し、それが次々と別のニューロンに伝えられ、最終的に「男ニューロン」と「女ニューロン」のどちらが発火しているかで男女が判定される。最初から判定基準が設定されているわけではない。

大事なのは「学習」の過程で、テスト画像に対するシステムの判定結果を人が判定し、その正否をフィードバックする。システムは結果がより望ましい状態になるように、閾値やシナプスの感度を調整する。
これは、正解が外から与えられるという意味で「教師付き学習」と呼ばれる。
テスト画像を大量に用意すれば、確かに、うまくやればうまくいきそうな気がする。

ただ、今活躍しているDeep Learningの主役は、正解が与えられない「教師無し学習」だ。
これは何かを判定するというより、まぁざっくり言って、ビッグデータをクラスタリングする手法と考えていい。
例えば、古今東西の楽曲をニューラルネットに入力してガシガシ回していると、反応するニューロンの違いでいくつかのグループに分かれてくる。そのグループの一つを取り出して調べてみると、やたらとヒットした曲が多かったりする。そのグループを特徴づけるニューロンが、「ヒット曲判定ニューロン」となるわけだ。

つまり未知の曲を入力した時、このニューロンが反応すれば、その曲は過去のヒット曲が共通的に有していた何らかの特徴を備えていたと解釈できる。占いみたいでおもろいシステムやなぁと思っていたら、プロデューサ向けの新人発掘サービスとして、すでに実用に供されているらしい。世の中、冗談みたいなことが本当になる。

人間の神経システムでは、感覚器で知覚された生の情報は、いくつかの中間的な処理を施され、やがて言語野など高次領域で処理されるようになる。同じように、ニューラル・ネットのニューロンもいくつかの層で構成される。Deep Learningの ”Deep” は、この層が「深く」て複雑なことを示唆している。

これらのシステムでは、ある結果が得られたとしても、もはや人間はその理由を知ることができない。ルールベースなど、判定理由を人がトレースできる(つまりは、判定アルゴリズムを人が設計した)他のAI手法とは、その点が大きく異なる。

「理由がわからない」なんて気味が悪いような気もするが、もしかしたら、そのことが本質的に重要なのかもしれない。
それは、(人が下す判断の理由は、当人しか(あるいは当人にも)わからないという)リアルな知性の性質を備えているとも言えるし、だからこそ、大きな期待を抱かせるのかもしれない。

流行の火付け役とも言われる、Googleの面白い実験がある。
Youtube動画からランダムに1000万枚の画像を取り出し、これを1万6千個のニューロンと10億個のシナプスを持つニューラルネットに入力し、1000台のコンピュータを3日3晩(一説によると2週間)動かしたところ、「人間の顔」「猫の顔」「人間の身体」に選択的に反応するニューロンが「自然に」できてきたらしい。

最下層のニューロンには、人為的にあつらえた特徴量ではなく、画像のビット情報をそのまま入力しただけだから、これはまさに生き物が外界の情報を理解していく過程(の第一歩)の再現ではないか?とワクワクさせてくれる。

この研究のおもしろい(うまい)ところは、単にいろんな画像で反応を試すだけでなく、得られたニューロンが最もよく反応する画像を人工的に作り出してみせたところだ。その画像にはなかなかのインパクトがある。

Googleの猫認識」から拝借

この実験がきっかけの一つとなって、AIブームが再燃した。
それにしても解せないというか悔しいなぁと思うのは、第五世代コンピュータとかぶち上げて世界をリードしていたはずの日本のAI業界からは、とんと音沙汰が聞かれないことだ。

かつて90年前後にニューラルネットが流行ったころ、日本にも専門の研究者がゴロゴロいたように記憶している。その後、熱が冷めて研究が下火になったのは仕方ないとして、今、どこからも声が上がらないというのは、どうしたことか。変わり身の早さは研究者にとって美徳でもあるし、結果の出やすいテーマに乗り換えたくなるのもわかるけど、あまりといえばあまりという気もする。日本の研究文化には、「実用レベルにまで持ち上げる」ビジョンというか、執念みたいなものが足りないのかもしれない。応用や商用化はホントうまいんだけどね。

ところでさっき、「生き物が外界の情報を理解していく過程(の第一歩)の再現になっているかも」と書いた。この中には、意識や自我や感情の原型らしきものまでできないか、という個人的な夢も込められている。
もちろん今でも、それらの正体は、少なくとも生理学的なレベルでは解明されていない。しかしもしそれらが、記憶や判断と同じように神経組織の相互作用の効果だとしたら、人工のニューラルネットでも、似たものが生まれる可能性があるんじゃないだろうか?

コンピュータ資源を潤沢に使えるGoogleの実験でも、ニューロンの総数は1万6千個に過ぎない。ヒトのニューロンが140億個だとすると、まだ6桁もの開きがある。気の遠くなる差ではあるけれど、それがスケールだけの問題であれば、いずれ解決される。
実際、今この瞬間にも、効率良くニューラルネットを構築するための専用チップが、世界中で研究されている。
もし、ヒト並みの規模のニューラルネットが出来れば、説明のつかない変な現象が起きるかもしれない。米国防省とNASAが秘密裏に人工人格(AP)の実験を始めたらしい...そんな噂を聞く日が来るまでは、生きていたいなぁと思う。

ただ、自分で言っといて何ですが、個人的な予想としてはかなりネガティブだ。
ヒトの神経組織はデジタルで動いているわけではない。他の臓器や感覚器とも有機的に繋がっているし、「代謝」や「遺伝」や「死滅」といった生命由来の機質も備えている。意識と無意識の関係も重要だろう。それらはある意味、ヒト型知性にとって「制約」や「拘束」かもしれないけれど、同時に、意識や自我を生む源泉なのかもしれない。
結局、生命36億年の謎を解き明かさないと意識はできないのではないか?−−そんな風に思える。


水曜日, 7月 27, 2016

はじめまして、これからよろしく

ファームに新入り犬を迎えるときは、大抵、フェンスのある裏庭に放して様子を窺う。
相手のことが何一つわからないので、何をするでもなく、ボォーっとした感じでただ一緒にいる。
退屈なようでいて、この時間は結構愉しい。

犬の態度は本当に個性的だ。
カイラは庭の隅でじとっ固まってた(らしい)し、ぐれぐはケージから出したとたん、バネ仕掛けみたいに飛びはねた。

今回迎えたLou嬢は、たぶんこんな態度が一番多いと思うのだけど、人から離れたフェンス際をふらふらし、ひたすら匂いを嗅ぎまわっている。
でも、視界の隅ではこちらを捉えていて、しっかり意識している。

それはこちらも同じ。
「別にあんたなんか興味無いしー」的態度を装いつつ、最大感度で相手の動きを追っている。
傍目にはまったく無為な、でも当事者にとってはドキドキするような時間が、10分、20分と過ぎていく。
いやー、やっぱ、おもしろい。
もしかして犬飼い醍醐味のベストスリーに入るんとちゃうやろか。

そのうち、手を伸ばせば触れるようなところを歩いてみたりして、犬の方から少しずつ距離を詰めてくる。
それでもまだ、こちらから手は出さない。
まぁ大丈夫なんだろうけど、もしかしたら警戒してちょっと身を引いたりするかもしれない。
そういうことはあまりさせたくない。

そして、たぶんこの辺が犬の悲しい習性なんだろうけど、やがて、どーしても匂いを取りたくなってきて、腕のあたりにツンと鼻をつけてきたりする。
このときに、ふざけて「ウッ」と唸ってみたら、きっと5mくらい飛びすさるだろうな。
やってみたい誘惑にかられつつ、もちろんそんなことはしない。
彼女が満足するまで放っておく。

1時間くらい過ぎると、少し気を許した感じになった。
身体も撫でさせてくれた。
態度はずいぶん落ち着いているけど、性格的には「明るい」子のようだ。
先住犬たちとも、問題無くやっていけるだろう。

輸入に手間取ったこともあって、一番不快な時期に迎えることになってしまった。
大変申し訳なかったです。
日本の夏にめげないでくださいね。

土曜日, 4月 02, 2016

しんくろにしてぃ

生まれて初めて読んだ橋本治氏の著書(人はなぜ「美しい」がわかるのか)に、前の記事にシンクロする文章があって、ちょっとびっくり。
せっかくだから引用させてもらおっと。

でも、こーゆーことって本当に多い。
何か変なこと考えてるときに限って、思いがけないところで関連する情報に行き当たる。
そんなことが2回3回と起きると、「これはもう絶対そうだわ」と確信する。

…って、そんな風に人は適当に情報をフィルタリングして、何か「見えない力が働いた」的な物語を作って、どんどん自分の考えに凝り固まっていくのかもしれないね。

それはともかく、

筆者は、黄金比やら石器時代やら夕焼けやら徒然草やらを引き合いに、人がなぜ美しいがわかるかを縦横無尽に考察し、その根底にあるものがどうやら「人間関係に由来する感情=愛情」らしいことに辿り着く。そして最終章、(筆者の場合)その感情がどうやら幼少期の経験から来ていることを突きとめる。
引用はそのくだりの一節。

私はその初めからボーッとした子供で、大人と出掛けると、必ず「さっさと歩け!」と怒られます。何かが目の端に引っかかると、ボーッとなってそれを見ているから、そういうことになるのです。ところが祖母はそうなっても怒りません。私にとって、祖母と出掛けることは、一番リラックス出来ることなのです。

祖母に手を引かれて歩いていて、でもボーッとなった私はすぐにその手を離して、一人で何やら分からないものを見ています。「見ていてもいい」を実感させるのが祖母で、「自分でなにかを発見する」という力を与えるのだとしたら、その彼女の愛情以外にはありえません。「そうか……」と思って私が驚くのは、意外な結論です。

「愛情というのは、介入しないことか……」です。介入せずに保護して、その相手の中に何かが育つのを待つというのが愛情か――と思いました。あまりにもそっけない結論ですが、それが一番私を安心させ、納得させる結論でした。

(中略)

愛情というのは素っ気ないもので、もしかして一番重要なのは「根本における素っ気なさ」かな、とも思います。それがないと、「自」と「他」の区別がつかなくなって、癒着が起こります。また、素っ気ないだけだと、あまり「愛情」として機能しません。だからこそ、愛情と素っ気なさの配合は重要だなと思うのです。

そっか、犬飼いに足りないのは愛情で、それも、「犬の中で何かが育つのを待つ」愛情だったんだ。
そういう言い方もアリかもしれない。


日曜日, 3月 20, 2016

チームワーク(3)

ただ、残念なのは、人間は生き物として「自然でない」ところが多々あることである。そこは自覚してコントロールしないといけない。
現代生活では、ここが難しいと言えば言えるかもしれない。
幸いなことに、自然でないことの多くは、「コトバのコミュニケーションに頼る」ということに集約される。

例えば、
  • 相手の正面から(小さい相手にはかがみこむように)語りかける。
  • 感情を声のトーンで表現する。
  • 逆に声を発することで、感情を増幅してしまう。
  • すぐに、ほめたりけなしたりしたくなる。
  • コトバ以外のメッセージに鈍感になる。
などである。

たぶん犬にとって、これらはすでに過剰なプレッシャーなのだ。
もちろん、犬はこれらを受け止め、慣れ、人との暮らしに順応していく。
それで何か不都合があるかといえば、別にない。
あとは生活ルールを根気強く伝えていけば、すばらしい家庭犬になる。

ただ、、、双方向の「共感」と「安心」は育まれにくい。
どうしても、「人から犬」へのコミュニケーションが優勢になってしまう。
犬は人の指示に応えるように、顔色を窺うように、行動するようになる。
先の記事に倣えば、犬が「仮面を被って」役割を演じている状態だ。

繰り返すけれども、それでも日常生活には何の問題もない。
でも、共感にドライブされるような共同作業は難しい。
そういうことだと思う。

じゃあ共感と安心を醸成するためには、何をすればいいのか?
たぶんシープドッグなら、(納屋などの)つかず離れずの場所で気ままに過ごすような、農家の暮らしが一番なのだろう。
人から過度の干渉を受けず、犬は犬として自分の人生を生きることで、個としての成熟が促される。
飼い主と仕事を共有することで、誇りを持ってパートナーになることができる...

さすがに、それは日本では難しいかもしれないけれど、普通の家庭でもできることはある。
例えば、
  • 必要のない時は、かまわない。
  • できるだけ穏やかに接する。
  • 誰にも干渉されずに、犬が安心して過ごせる場所を確保する。
  • 人も犬もリラックスできる場所で、お互いの存在を意識しながら何もせずただ静かに過ごす時間を確保する。
  • むやみに名前を呼ばない。
  • 「No」を宣言する前に、環境を変える余地がないか考える。
などなど。

要は人から犬に働きかけるのでなく、その逆の機会を増やすのだ。それは同時に、犬へのプレッシャーを減らすことでもある。
それだけで、犬との関係が変わってくる。
羊作業を楽しみたいのであれば、まずそういう下地を作る必要がある。

もちろん、「一から十まで人が指図する」ことでも羊仕事は可能だ。しかし本来の意味での共同作業を望むのであれば、心や気持ちの交流は不可欠だと思う。

それに、、、さっきは日常生活に何の問題も無いと書いたけれど、実は内心ではそう思っていない。
一緒に暮らすこともチーム作業だと思えば、やはり共感や安心があった方が、モチベーションもパフォーマンスも上がる。
何より、犬が遠慮をせず、それぞれの個性を最大限発揮して暮らすのを眺めるのが、犬と暮らすことの醍醐味だとさえ思っている。(余計なお世話だけど。。。)
それで起こってくる日常の不都合は、実は驚くほど少ない。
そこが犬という動物の凄みなのだからして。

あーでもでも、上のようなことを文章にするのって本当に難しい。
なぜって、コトバにすると1か0になってしまって、なかなか「さじ加減」が伝わらないから。
自然や生き物相手のことって、大抵はその「さじ加減」こそが本質だというのに。
ま、テキトーにいきましょう、テキトーに。



チームワーク(2)

実は、犬の話がしたかったのです。

先の記事を読んだ時、これって犬との関係にもそのまま当てはまるんじゃないかと思えたのだ。
大げさに言うと、これまで考えてきた「犬との共同作業」や「犬の成熟」などのテーマを思い返したときに、パズルのピースがカチカチッとはまるような気がした。

羊仕事に本当に重要なこと、人との暮らしの中で犬が成熟すること、、、それらの中心にあるキーワードが「共感と安心」ではないかと。

みわファームがお世話になったBarbara Sykes氏は、ビジネスパーソンや管理職を対象にして、「チームワークとは何か?」をシープドッグ体験を通じて学ぶサービスメニューを提供していた。
正直なところ、当時は彼女の意図がよくわからなかったのだが、もしかしたらこういうことだったのかもしれない。
(もしそうだとしたら、天下のグーグルが苦労して得た知見を、彼女はたった一人で見出していたことになる。Barbaraさん、あなた本当にすごい人だ)
本当に察しの悪い弟子ですみません。

「共感」を辞書的に記述すれば、「他人の意見や感情にその通りだと感じること、またはその気持ち」とそっけない感じになるのだが、ここではそれに加えて、情感とか「心身レベルの共鳴」みたいなものも含めたい。

あ、またわけのわからない言い回しで煙に巻こうとしてる、と構えないでください。
簡単に言うと、犬と人の双方が、褒美や快感や欲求充足のためではなく、ましてや勝利や名声や見栄のためでもなく、作業の遂行と「相手の役に立ちたい」気持ちで最善を尽くす、、、そんな心のあり方を共感という言葉に託したかったのです。
あんまり簡単じゃなかったですけど。

口には出さないまでも、オレは犬の気持ちくらいわかるよ、と内心思ってる人は多いと思う。でもそれは、犬と一つ屋根の下で暮らすことで、彼らの行動が掌握できているように感じることからくる錯覚だと言いたい。
仮に本当に犬の気持ちがわかったとしても(そんなことは原理的にはありえないが)、それは共感にはならない。
理解が一方通行だからだ。
それが錯覚や擬人化に過ぎないにしても、人が犬の気持ちをわかったように感じることはある。しかし、犬の側からそういう回路が開く機会は、現実にはほとんど無い。

実は親子のような上下関係のあるところでは、共感は生まれにくい。
どうしても、子供は親の顔色をうかがってしまうし、親は子供に過度に干渉する。
それが、親子というチームにおける両者の役割であり、また必要な仕事でもある。
問題は、人は大人になってからも、いろんな場面でこの関係を再現してしまうところにある。

共感を育むのは、難しいことではない。
てゆーか、こういうことは難しくしてはいけないのだと思う。
犬も人も基本的には群になりたいのだから、生き物として自然に接するだけでいいはずだ。
(自然に、ということは「時間はかかる」ということでもあるけど)

チームワーク(1)

巷(ってどこやねん!)でちょっと話題になっている記事がおもしろい。

グーグルが突きとめた!社員の「生産性」を高める唯一の方法はこうだ

グーグル社内には数百のチームがあるが、生産性の高いチームもあればそうでないところもある。メンバーは入れ替わるのに、成功するチームは何をやっても成功し、そうでないチームは失敗を繰り返す。
なぜそのような違いが出るのか?
このわかったようでわからない問に答えるため、統計分析や心理学や社会学の専門家チームによる社内プロジェクトが企画された。ワークモニタリングとお得意のデータ分析手法を駆使して、生産性の高いグループの共通的な特徴を見出そうとしたわけである。

当初の仮説が次々と否定される悪戦苦闘ぶりも面白いが、そこは元記事に譲るとして、チームが出した結論は意外なものだった。

チームの生産性を左右するのは、チームのあり方(メンバー間の親密度やリーダーシップの強さやコミュニケーション密度など)や規範(行動ルールやチーム・カルチャーのようなもの)ではなく、他者に対する心遣いや同情、配慮や共感であり、それらから生じるメンバーの「心理的安定性」である。

うんうん。
まぁちょっと話としてよく出来すぎてるし、この手の調査研究ってどうしてもその時代のイデオロギーに阿ってしまう(例えば現代なら「個性を尊重した教育のほうが学習効果が上がる」みたいな)し、そもそも苦労して出した結論をなんで社外に公表するのか?という疑問も残るが、この結論には直感的に頷ける。個人的には「共感」と「安心」というキーワードに強く惹かれた。

それほど意外でも、難しい話でもないと思う。

どれだけ周到に設計された共同作業でも、ちょっとした個人間の配慮や「みんなのために良かれと思って」動く気持ちがあってこそ、全体としてうまく機能する。またそのような場でこそ、メンバーの不安や緊張が軽減し、個々のパフォーマンスが向上する。
要は個々のメンバーが、「自分を守る」ことよりも、作業の遂行に心身のリソースを優先的に注げるような場を作る。
そういうことじゃないだろうか?

それって、外乱に対して柔軟に対応できるとか、様々な障害の芽を摘むといった具体的な効果もあるだろうし、もう少し深いところでは、贈与とか敬意といった、その辺の根源的な欲求をドライブするという意味もありそう。だからこれは、職場だけでなく、家族、夫婦、自治会、スポーツチーム、友達・・・すべてのチームに当てはまることだと思う。
それを「共感」ということばで括るのもアリだろうと思うのだが、問題は、じゃあその「共感」って一体何?ということだ。

え~い、もったいぶるのはやめれ!本題にたどり着けんじゃないか!!
はい、すみません、やめます。

日曜日, 2月 14, 2016

記憶の中の少女

最近、ぼーっとしているとふと女の子のイメージが頭に浮かぶことがある。
いや、服は着てるから。

別に誰というわけでもないし、好きでも嫌いでもないのだが、何となく懐かしいような気分になる。
なんでだろう?これがアニマってやつ?

どんなイメージかっていうと、

・たぶん、中学生か高校1年くらい。
・サラサラの髪をショートにまとめている。
・なぜか、絵を書くのが上手ということになっている。
・よく1人でいるが、別に仲間はずれというんじゃなくて、1人が好きなんだろう。
・目がパッチリしてて、びっくりすると真ん丸になる。
・スタイルが良いんだなぁ。足もすらっとしててカッコいい。
・集中すると他のことが眼に入らなくなる。
・愛想は良いんだけど、何考えてるんだかわかんない。
・恰好には無頓着だな。てゆーかはっきり言って汚い。
・穴掘りが大好き。もぐらの匂いがするらしい。

あれ?途中から"ぺぐ"になってる。
ちゃんちゃん

水曜日, 2月 10, 2016

オレらの会社(2)

例えば、総合商社。
あれって大勢の社員が忙しげに世界中を駆け回ってて、それでいて全体として何やってるのかよくわからないという、たぶん海外から見たらかなり怪しい集団だと思う。
そういうのが自然に成立するだけじゃなく、堂々とした大企業になってしまうあたりが、いかにも日本の不思議という感じだが、それも、(事業目的は明確でなくても)要はおじさんたちの群を作ることが目的だったと考えれば合点はいく。

あれだけ掛け声が上がってるのに、多くの職場で女性進出が進まないのも、そもそもカイシャの実態がおっさんがいちゃつく場だったとすれば、むしろ当然のことかもしれない。
安富氏の言い方だと、「女性が活躍する社会っていうのは、男のホモマゾ社会の中に、女も一緒に入れって言ってるようなものだからね。ますますおかしくなるよ。女性は二級国民として活躍しなさいってことだからね」となる。
もちろん社会の成り立ちは複雑であなろぐだから、そんなシンプルには説明できないだろうけど、かなり芯に近い切り口ではあると思う。

あ、あと、「仕事中毒」というのもあった。
日本の仕事中毒って、毎日終電まで働いて、退社後とたまの休日は家でグッタリ、というイメージなのに対し、欧米のそれはベッドにまで書類を持ち込んで、電話を首に挟みながら腕まくりしてパソコン叩いて、、、みたいなのが典型的。かなり様子が違う。

つまり日本のはヤラサレ感が強いわけで、仕事中毒というより過労と言った方がピンとくる。
しかもその過剰な労働は、上司や会社が明示的に指示したというケースは案外少なくて、ほとんどは強力な「一緒に我慢しようね」圧力がそうさせている。
この辺が過労死問題のややこしいところでもある。

自分自身、3年前に会社を辞め、いくつかの職場を渡り歩いて、今も別の会社に勤めている。
会社勤めが長い人には共感してもらえると思うが、「意識高い系」の企業文化(コトバにすると年俸制とかベストプラクティスとかワークライフバランスとかステークホルダーとかコンプライアンスとか結果にコミットとか・・・)って、建前では肯定できても、肌になじまないというか、どこか他人事のような気がしてるんじゃないだろうか?

そういうのは、うわべだけ取り繕ってもあまり良いことはないと思う。
だってカイシャを奪ってしまったら、寂しいおじさんたちは泣いちゃうかもしれない。

火曜日, 2月 09, 2016

オレらの会社(1)

昭和世代の新聞マンガといえば「サザエさん」だろうけど、同紙の夕刊に掲載された「フジ三太郎」も忘れがたい。
サザエさんの舞台は磯野家という家庭だが、三太郎は「会社」だった。
おばさん目線とおっさん目線の違いと言えるかもしれない。

だからなのかどうなのか、子供だった自分には、フジ三太郎は何がおもしろいのかさっぱりわからなかった。それでも、アイロニカルでペーソス溢れる作風(なんとゆー陳腐な表現!)は何となく印象に残っている。
表情豊かなサザエさんと違って、三太郎はきれいなおネエちゃんにでれっとする以外、ほとんど無表情だった。
自らもサラリーマン経験のある筒井康隆は、フジ三太郎はサラリーマン賛歌ではなく、強烈な差別マンガだ!と吠えていたが、あるいはそうだったのかもしれない。

この頃は高度成長期で、日本的な「カイシャ」文化が花開いた時期でもある(もしかしたら、「三丁目・・・」にキュンとする人って、この文化が好きなんじゃなかろーか)。
みんなちょっとくたびれてて、ほろ苦くて、タバコ臭くて、屋台で肩寄せ合っては「お互いつらいよな」とグチって、でも暮らし向きは少しずつ良くなって、、、みたいな。
あまりパッとはしないけど、カイシャはおじさんたちの大切な「居場所」だった。

時代は代わったけれど、今でもこの遺伝子はしぶとく生き残っている。
長時間勤務、終身雇用、社員旅行、宴会、勤勉、年功序列、根回し、サービス残業、企業戦士、滅私奉公、フーテン社員、お局様、福利厚生・・・、「日本のカイシャ」を彩るコトバは山ほどあって、それぞれの意味は全く違うけれど、どこか似たような空気感がある。
この感じって海外には伝わりにくいだろうなぁと、ぼんやり思っていた。

なんでこんなこと言いだしたかというと、あるサイトで、女装の東大教授として有名(らしい)な安冨歩氏のインタビュー記事を見かけたから。

「日本の社会って、基本的にホモソーシャルでマゾヒスティックじゃない。」
「たとえば会社組織って、おっさんが集まっていちゃいちゃしてるでしょ、昼も夜も休日も。ずっと一緒にいて、それでいて集団マゾなの。一緒に我慢しようね、みたいな。」

いや、座布団一枚ですね。
こんだけの短い言葉で、もやっとしていた違和感のアレコレが、串刺しにされたような感じ。
そうか、カイシャって仕事っつーよりも、おっさんたちがいちゃつく場だったのね!?って。

ま、言い過ぎかもしれないけど、そう考えれば、うなづけることがいくつかある。

月曜日, 2月 08, 2016

悲しい習性

久しぶりの海外からのお客さん。
いろいろと話したかったのに思うように英語が出てこない。
なんでかな~と考えてみたら、「おもしろいこと」「気の利いたこと」をしゃべろうと力
んでる自分に気がついた。
これって日本人の習い性?、関西人の業?、それともA型乙女座の性格? 
たぶん、全部「アリ」やね。
 

日曜日, 2月 07, 2016

権力の横暴に断固反対する!

前回、「警察の味方」と言ったはずだよな。

なのに、なぜ善良な市民を「一旦停止違反」みたいな些細な違反で陥れる?
それも、狭っくるしいところで10人もの警官で張り込んで。。。

生まれて初めて手にしたゴールド免許証なのに、結局、これが最初で最後になりそう。

くっそ~、むかつく!




土曜日, 1月 30, 2016

命拾い

「フクメンッ!」って隣のHiroが言うからバックミラーを覗くと、いつの間にか怪しい車が迫ってた。
フロントパネルで赤いライトがチカチカしている。
慌ててスピードを緩めると、ライトが消え、やがて横道に逸れていった。

あれって警告やったんやね。
「これに気づいたら見逃してやるよ」みたいな。

よかったぁぁぁぁぁ!

これから先どんな不祥事が起きようと、私は警察の味方です。

水曜日, 1月 27, 2016

さぶっ!

近所の銭湯がやけに混んでた。
しかも浴場の空気が普段と違った。
「暖まるのだ」という男たちの気合がひしひしと伝わってくる。
湯船に浸かると、みな気難しい顔でうぅとかあーとか呻いている。
真剣そのもの。

羊が元気。真っ白になった放牧地で気持ち良さげに寝転んでる。

鶏たちは一箇所にかたまって羽を膨らましてジッとしている。
君たちは寒かろう。
頑張れ~。

朝に張った氷が一日中融けないでやんの。

その氷をぐれぐが食った。
食ってから、ぶるぶる震えてた。
あほか。

水道管が破裂した。
気がついたときには噴水みたいに水が吹き上げてたらしい。
どれくらいそのままだったのかわからない。
来月の水道料金が怖い。

「このまま世界中が凍ってしまえばいいのに...」と呟いてみる。

薪ストーブの煙突が真っ赤になって、「ピシピシ」という音までした。
煙道火災を起こしたらしい。
慌てて火を落としたら、寒くてかなわん~。

木曜日, 12月 31, 2015

頭がよくならない話(2)

ここまで読んで、自分、けっこう誰とでもオープンにつき合うし、情報通やから大丈夫や~んって思った人、たぶん、ぶっぶーです。
「オープンである」というのは、たぶん、ある達成された境地を指すのではなく、そういう状態になろうとする運動、あるいは、現状から脱しようとする推力のことだからだ。

それって精神的には随分と「キツイ」ことだし、そういうことにフツーに耐えられるというのは、もしかしたら努力や心がけで何とかなるものではなく、背が高いとか駆けっこが早いのと同じような持って生まれた才能かもしれない。

例えば、世の中には「勉強熱心」で「進んで習いたがる」人がいる。
彼らは一見勤勉で、努力家で、枠組みも柔軟なように見えるが、実はその逆のケースが多かったりする。自分を変えるというよりも、むしろ自分(の枠組み)を守るための情報を「身にまとって」いるのである。
意見を表明しているようで、いつのまにか誰かの受け売りになっている。
情報を得ることに満足して、その情報を吟味し、自分にとってどんな意味があるのかを問うことをサボっている。

そんな人がよく使う決まり文句の一つが「目からウロコ」だったりする。
何度も聞かされてると、おまえは半魚人か!?とツッコミたくなるが、実はこれはこれで、言い得て妙なのかもしれない、と、たった今、これ書いてて思った。
ウロコはあくまでウロコであって、目でも肉でも皮膚でもない。
いくら落ちても痛くも痒くもない。
モノゴトを本当に理解するということは、自分が変わる、あるいはそれ以前の自分には戻れない、という不可逆的な経験なのだから、多少なりとも「痛み」を伴うはずなのに。

--

それに枠組みは、制服や鎧のようなものでもあって、それを解体するということは、一時的に裸の無防備になるようなもの。
そのスキに変な考えに取り憑かれたり、悪意や呪いに侵入されないとも限らない。
その危険を冒しながらも、外界に向き合うのだから、結局のところ、アタマがいいことの性格属性は、「勇気」とか「覚悟」とか、あるいは「腹が据わってる」的なことになるのかもしれない。

ちなみに、知の枠組みは頭の中の話だから、ここでいう「外」には自分の身体(と心)も含まれる。(もっと言えば、自分の頭の中の「他人」も)
身体の声に対してオープンであることも「アタマがいい」ことの重要案件なのだが、脳化社会ともいわれる現代ではこれも難しくなりつつある。
無理なダイエットや超清潔志向や過労自慢や健康オタクなど(こーゆーのは明らかに、頭による身体の過剰支配だろう)を見聞きすると、反射的にアタマわるっ!と思ってしまうのだが、そういう人間はすでに少数派かもしれない。

ところで、最後に全然関係ないけどボーダーコリーの話。
そういえば彼らもよく「アタマがいい」と評される。

普通は物覚えが良いとか、指示によく従う、などの意味で使われるけれど、個人的には、ここで書いてきた意味でも「アタマがいい」のではないかと思う。
あらゆる作業で高いパフォーマンスを発揮し、様々な環境で暮らす彼らの適応力を見るにつけ、よほど枠組みが柔軟なんだろうなぁと。

彼らの頭の中はわからないが、少なくとも人間よりは、身体の声にオープンであるはず。
その一方で、人に対するオープンな姿勢をギリギリまで崩そうとしない。
人というのは「自然の理」みたいなものからすれば、狂ってるとしか思えない存在だから、この2つの整合性をとるというのはかなりの苦行に違いない。
そういうアクロバティクスをあの小さな身体で引き受けているかと思うと、何だかたまらない気持ちになる。

アタマがいいことの性格属性をもう一つ付け加えるとすれば、それは「度量」とか「寛容」になるのかもしれない。

おわり

水曜日, 12月 30, 2015

頭がよくならない話(1)

もう、言いたい放題。

一口に「アタマがいい」といっても、いろんな意味がある。
知識が豊富とか、話がおもしろいとか、機転が利くとか、アイデア豊富とか、物覚えがいいとか、要領良いとか、、、人によっては、相手の話をよく聴くとか、礼儀正しいとか、はたまた動きにムダが無いとか、手先が器用なんてのも含まれるかもしれない。

素直な好青年だった自分も、齢を重ねるとヒネてくるもんで、例えばすっげー物識りな人に出会っても、すっげー、とは思うけれど、アッタマいい~、とは思わなくなった。
けど、自分の知識や考え方をちょっと上から眺めて、客観的に批評できちゃったりする、って要は「自分がわかってる」ってことかもしれないけど、そんな人に出会うと、あ、この人、アタマいいっ!と素直に思ってしまう。

「知識に関する知識」とか、「メタ知識」という人もいるけど、まぁそんなもん。
かの内田せんせーも「何かを知っている人より、何を知らないかを知っている人の方がエライ」的なことを仰ってたから、この感覚もまったくのマト外れではないと思う。

人間はもっぱら頭で、しかもコトバを使って考える。だから、どんな考えも多かれ少なかれ偏向するし、それはそれでどうしようもないことだけど、問題はそれが自覚できているかどうかだ。
個人的にはこのことを「アタマがいい」リストの上位に据えたい。

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以前、このブログの中で「知の枠組み」というコトバを使った。
ざっくり言うと、物事を本当に理解しようとするなら、慣れ親しんだ枠組みを一旦壊して再構築する必要がある、ということで、アタマがいい人というのは枠組み自体が柔軟なんじゃないか、という趣旨である。

ということはつまり、「自分を知る」ことと「枠組みが柔軟」というのは、自分の中ではほとんど同じことになっている。
枠組みとは、常識や既定の概念みたいなものでもあるから、その中にどっぷり浸かってしまうと、枠組みの存在自体が見えなくなる。
だから、それを建て直すとなると、どうしても一段高い視座が必要になる。つまり枠組み再構築の第一歩、あるいは前提条件が「自分を知る」ことではないかと。

じゃあ次の一歩は何かというと、それはたぶん、「外部に対してオープンであること」だ。
既存の枠組みを一旦緩め、センサ感度を高めて外からの情報を取り込むイメージ。
取り込んだ情報を咀嚼し、栄養分を取り出し、それをうまく消化することができれば、新しい肉や骨格ができてくる。
なんか、食事のワーディングになってきてるけど、言いたかったことは、身体と同じように頭も「代謝」がキーワード、、、とまぁ、そんなところかもしれない。



水曜日, 12月 02, 2015

人間の器

更新間隔が開きに開いて、もう週刊たくボじゃなくて月刊じゃん、と思う今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか?

話は変わりますが、ファームでは犬ウンチを火ばさみで拾っている。
庭には小石が撒いてあるから、ブツが柔らかいと、かなりゆーうつな作業なんです、これが。

今朝、寝ぼけ眼のまま庭に出ると、たっぷりの軟便を発見して心底ゲンナリした。
犬どもめ~!

しかしよく見ると、下に枯葉が積もっていて、取りやすい態勢になってるじゃないすか!?
ラッキー!と心の中で叫びながら、どんどん枯葉ごとウンチ箱に放り込んでいく。 
 
 
・・・という夢を見て目が覚めた。

あまりの夢の「小ささ」に、しばしボー然として起き上がれなくなった、12月2日の朝でした。
 

土曜日, 11月 28, 2015

あろ男とるぢ男と茶色君

一括りにしちゃいけないんだろうけど、大体において男というやつは、始末に悪いというか、小骨がのどに刺さるというか、薬指の逆むけが気になるというか、なんかこうス~っと行かないところがある。

表題の3名はその代表として出てもらったが、ほかの男たち(ぐれぐ、ふりーと(犬)、もなか(猫)、きぃちゃん(バリケン)、白うこ(鶏)、レイ君、おれんぢ耳ばん(羊)・・・)もそんなところがある。
どこがどうというほどでもないけれど、全員例外なく面倒臭い。

あろ男。最近入ってきたアローカナの雑種鶏。
鶏舎だけで暮らしてたらしく、最初はビクついてたけど、最近は環境にも慣れ、元気にメス鶏を追い回している。
それはいいのだがこの男、朝、他の鶏と一緒に鶏エリアに入れても、すぐに網を飛び越え、そのまま夕方までフラフラしている。

先日、裏庭にいた女性ゲストが「この鳥、どうしたんですか~!?」と声を上げる事件があった。
ああ、また、あろ男がうろついてると思い、肩越しに「そいつ、人懐っこいんですよ~」と返答したのだが、どうも妙な緊張感が伝わってくる。
振り返って見てみると、あろ男のやつ、そっくりかえってジャンプしながら、ゲストに蹴りを入れてやがる!何度も何度も。。。
何が気に入らなかったんだ!?

るぢ男君、朝夕の仕事タイムには、鳥追い羊追いに精を出しているが、それ以外の時間は自分の場所でちんまりして、翁のような静かな日常を送っている。
だからその話を聞いたときは意外だったのだが、先日、Hiroが九州遠征したとき、待たせておいた車の中で大暴れしたらしい。
少し開けておいた窓から顔を出し、風除けのバイザーを再起不能にした他、シートベルトをボロボロにしやがった。シートベルトは「切れるまでこのまま使う」と決心して修理費を節約したが、それでも2万円超の臨時出費。
やってくれるわ~。

茶色君はファーム唯一のcolored羊として、熱い期待を一身に集めている。
若いし身体が小さいこともあって、比較的ひっそりと群の中で暮らしてきたのだが、最近、少しずつ自信が出てきたらしく、不穏な行動がチラホラ見える。
部外者にメンチ切ったり、他のオスにゴンしたりはまあいいとして、人間に対しても頭突きの真似事をするようになった。
今のところ控えめに、偶然を装ってでこを押しつけてくる感じで、「なんやねん」と睨んだら「ああ、こらすんまへんな」と謝ってくれそうだが、これから、エスカレートしていきそうな気もする。
レイ君みたいなDV羊になったらどうしよう。

...というわけで、何かと世話の焼ける男組だが、人間みたいに「だる~」とか「ちょーうぜぇ」とか「おやぢぃ~、金くれ」とか言わないからまだい-か。

土曜日, 11月 21, 2015

ねこのしゃーわせ

もなかの寝場所は季節ごとに変わる。

最近、つまり2015年の秋は、掛け布団の上に決めたようだ。
別にいーんだけど、足元とか、腹の横とか、股下とか、布団と首の間とか、顔の上とか、、、あっちでぐりぐり、こっちでもみもみ、一晩中動き回るから寝苦しくてしかたがない。
で、こちらも頻繁に寝返りを打つから、それがやつには寝苦しいのだろう。
夜が明けるころには、二人ともどことなく不機嫌になっている。

眠気をこらえて布団から這い出ると、もなかは布団の上で「ぎうっ」と丸まる。
占拠したベッドで本格的に寝直すつもりだ。
「やれやれ」という声まで聞こえてきそうだ。
その様子を見ると、日によって微笑ましく感じたり、苦々しく思ったり、時には軽い殺意を覚えたりもするけれど、基本的には「あんた、幸せやね~」と思う。

これが人という動物のおそろしいところだと思う。
猫の幸せなんてわかるはずないのに、勝手に決めつけている。
心の底のどこかで、「感謝しろよな」と思っている。。。

1日中うつらうつらしてる猫は、確かに幸せそうではあるけれど、実は単調な日常とそれを打開できない己の無力に絶望して、鬱になってる可能性だってないとは言えない。
痩せこけて惨めったらしい野良猫でも、実は猫界で一目置かれる存在で、その境遇に至上の喜びを感じているのかもしれない。
そうじゃないとは誰にも断言できない。
そもそも「幸せ」っつーのも人間が勝手に作った物語に過ぎないわけで、それを猫に当てはめようなんておこがましいかぎりだ。

人間の本当の恐ろしさは、内に秘めた攻撃性や残虐性よりも、実はこのハンパな共感性にあると思う。
相手の気持ちが生半可に「わかった気に」なるから、あるいは「自分には相手の気持ちがわかる」と思い込むから、相手を軽んじたり、疑心や憎しみを培養してしまうんじゃないかと。

阪神が負けて一番やりきれないのは、相手チームファンの哄笑が頭をよぎってるときだ。
犬や猫に対して逆上するのは、決まって「言ったことを無視した」とか「俺をコケにしやがった」と感じたときだ。
どちらも想像の産物、、、って言ったら「想像」に申し訳ないくらいの、つまらない邪念に過ぎないのに。

もちろん、共感性というのは人の稀少な美質でもあるわけで、それそのものを否定することはできない。
「どうせわからんのだから相手の気持ちなんか考えてもムダ」と言いたいのでもない。
そうではなくて、「本当のところは金輪際わからない」という絶望を出発点にしながら、それでも相手の気持ちに迫りたいという、切ない願望について書いている。

永遠の苦役を強いられるシジフォスの神話は、「そういうこと」の尊さを言ってるんだと思う。
てゆーか、わからないからわかろうとする、あるいは「知ったかぶりはNG」というだけの、単純な話かもしれないな。。。

月曜日, 11月 09, 2015

ヤギとかヒツジとか

いわゆる「ヒツジとヤギではどっちがイケてる?」論争というのが昔からあって、未だに総括的な合意は得られていないものの、こと「なごみ度」に関していえば、ヤギが若干優位に立ちつつあるのではないか、というのが最近の感触である。

これ、やっぱり弱点やろ!?と危惧されていた容姿にしても、確かに冬毛を蓄えた丸ヒツジの完成度には遠く及ばないものの、エサを詰め込んででっぷり膨らんだ腹は、枯れ木みたいな足とのコントラストもあって、なかなか捨てがたい味がある。

しかし容姿はあくまで容姿であって、実はそれほど重要ではない。
問題はやはり内面だ。

もちろん草食動物だから、基本的には両者とも人を警戒する。
ヒツジにしてもヤギにしても、いかにも迷惑気に横目で睨まれたりすると、せっかく世話してやろうとしてるこちらとしては、鼻白むことが多い。
それでもたっぷり人手をかけて育てたヤギは、たまに、、ごくたまに、ごくごくたま~に、コミュニケーションが成立するように感じることもある。

今年の虫下しの注射のときには、両者の違いが際立った。
ヒツジはスルーを決めこむか、身体をよじって痛みを表現するだけで、自分の番さえ過ぎてしまえば、いつものように人から遠いところでじとっと固まっている。そんだけ。
だから、こちらとしても特にねぎらう気にならず、粛々と作業を終え、粛々と畜舎を後にするしかない。

これに対してヤギ。
こちらもびっくりしたのだが、注射が終わって一瞬の間を置いた後、「ぎいあああああ~!」と喚きやがった。

これがまた信じられない大音響。
たぶん集落中に響き渡ったと思う。
人の顔を睨みつけ、眼を剥いて唇を突き出したその表情は、明らかに抗議の意思を表明していた。

それで人間嫌いになるかというとそうでもなくて、当座の痛みさえ退けば、こちらへの態度は全然変わらないのである。
白衣を着た獣医さんは、1年経ってもしっかり敬遠されるけれど。

いや~、なんかすっげー癒されるわ。