木曜日, 12月 31, 2015

頭がよくならない話(2)

ここまで読んで、自分、けっこう誰とでもオープンにつき合うし、情報通やから大丈夫や~んって思った人、たぶん、ぶっぶーです。
「オープンである」というのは、たぶん、ある達成された境地を指すのではなく、そういう状態になろうとする運動、あるいは、現状から脱しようとする推力のことだからだ。

それって精神的には随分と「キツイ」ことだし、そういうことにフツーに耐えられるというのは、もしかしたら努力や心がけで何とかなるものではなく、背が高いとか駆けっこが早いのと同じような持って生まれた才能かもしれない。

例えば、世の中には「勉強熱心」で「進んで習いたがる」人がいる。
彼らは一見勤勉で、努力家で、枠組みも柔軟なように見えるが、実はその逆のケースが多かったりする。自分を変えるというよりも、むしろ自分(の枠組み)を守るための情報を「身にまとって」いるのである。
意見を表明しているようで、いつのまにか誰かの受け売りになっている。
情報を得ることに満足して、その情報を吟味し、自分にとってどんな意味があるのかを問うことをサボっている。

そんな人がよく使う決まり文句の一つが「目からウロコ」だったりする。
何度も聞かされてると、おまえは半魚人か!?とツッコミたくなるが、実はこれはこれで、言い得て妙なのかもしれない、と、たった今、これ書いてて思った。
ウロコはあくまでウロコであって、目でも肉でも皮膚でもない。
いくら落ちても痛くも痒くもない。
モノゴトを本当に理解するということは、自分が変わる、あるいはそれ以前の自分には戻れない、という不可逆的な経験なのだから、多少なりとも「痛み」を伴うはずなのに。

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それに枠組みは、制服や鎧のようなものでもあって、それを解体するということは、一時的に裸の無防備になるようなもの。
そのスキに変な考えに取り憑かれたり、悪意や呪いに侵入されないとも限らない。
その危険を冒しながらも、外界に向き合うのだから、結局のところ、アタマがいいことの性格属性は、「勇気」とか「覚悟」とか、あるいは「腹が据わってる」的なことになるのかもしれない。

ちなみに、知の枠組みは頭の中の話だから、ここでいう「外」には自分の身体(と心)も含まれる。(もっと言えば、自分の頭の中の「他人」も)
身体の声に対してオープンであることも「アタマがいい」ことの重要案件なのだが、脳化社会ともいわれる現代ではこれも難しくなりつつある。
無理なダイエットや超清潔志向や過労自慢や健康オタクなど(こーゆーのは明らかに、頭による身体の過剰支配だろう)を見聞きすると、反射的にアタマわるっ!と思ってしまうのだが、そういう人間はすでに少数派かもしれない。

ところで、最後に全然関係ないけどボーダーコリーの話。
そういえば彼らもよく「アタマがいい」と評される。

普通は物覚えが良いとか、指示によく従う、などの意味で使われるけれど、個人的には、ここで書いてきた意味でも「アタマがいい」のではないかと思う。
あらゆる作業で高いパフォーマンスを発揮し、様々な環境で暮らす彼らの適応力を見るにつけ、よほど枠組みが柔軟なんだろうなぁと。

彼らの頭の中はわからないが、少なくとも人間よりは、身体の声にオープンであるはず。
その一方で、人に対するオープンな姿勢をギリギリまで崩そうとしない。
人というのは「自然の理」みたいなものからすれば、狂ってるとしか思えない存在だから、この2つの整合性をとるというのはかなりの苦行に違いない。
そういうアクロバティクスをあの小さな身体で引き受けているかと思うと、何だかたまらない気持ちになる。

アタマがいいことの性格属性をもう一つ付け加えるとすれば、それは「度量」とか「寛容」になるのかもしれない。

おわり

3 件のコメント:

kuro さんのコメント...
このコメントは投稿者によって削除されました。
kuro さんのコメント...

思わずウロコとは何ぞや、っと調べてしまった。。。
ウロコがとれた時って、痛くないのかしら?なんて。

あけましておめでとうございます。
本年も、よろしくお願いいたします。
今年は、年1ではなく、もう少し、頻繁にお邪魔したいなぁ、,、っと思っています。
あ、来るなって、今、心に思った?

思う事と起きる事は違うから。

まろ さんのコメント...

あ、コメント見逃してた!ごめんなさい。

こちらこそ~、今年もよろしくお願いします。
いっそのこと関西に引っ越しちゃえばどうでしょう?

あ、心にも無いこと言ってる、、って思った?