月曜日, 10月 17, 2016

犬の小説

それまで本といえばマンガと課題図書くらいしか読んだことのない、立派な本嫌い少年だったのに、友だちが薦めてくれた一冊がきっかけで、わざわざ自分で買ってまで読むようになった。ユリくんというその友だちはちょっと変わっていて、小学校の頃にはいじめ・いじめられの微妙な関係だったこともあるのに、どこか気が合うとゆーか、一緒にいると気が楽みたいなところがあって、何だかんだとずっと付き合っていた(ちなみに今になって思い返してみると、ユリくんをはじめとして、自分の人生の節目節目で関わってきた人は、ほとんどB型だったような気がする。良くも悪くも。。。)。

それはまぁいーとして、ユリくんが「これ、めっちゃ(という副詞は当時無かったが)おもしろいで」と、半ば押し付けるように貸してくれたのが、北杜夫の「怪盗ジバゴ」だった。
最後まで読んだとき、小説がこんなにおもしろくていいのか?と思った。
それが中学一年の頃で、そこから高校を卒業するまで、SFとか推理小説も含めて、軽~い小説を中心に本を読み漁るようになった。北杜夫も、手に入る本は片っ端から読んだ。

よくできた軽い小説が罪深いのは、「これくらいやったら、自分でも書けるんちゃう?」と読者に勘違いさせるところで、大体において勘違い野郎だった自分も、案の定、勘違いした。
若いって恐ろしい・・・。
勘違いが極まった高2のある日、クラスメートを主人公にした小説を書き始めた。もう恥ずかしいくらい世の中を舐めきっていて、あらすじも決めず、ストーリーやセリフくらい書いてるうちにどんどん湧いてくるやろう、くらいの気持ちだった。

なぜか時代小説仕立てになっていて、富田靖男之助は姿をくらました悪代官、清水膳之丈の行方を追い、夜更けの江戸の町を駆けるのであった、、、みたいな、知り合いの名前をなぞっただけの箸にも棒にもかからぬシロモノで、案の定、登場人物が出そろったらもう書くことが無くなって、B5ノート2ページくらいで終わってしまった。
オレやっぱり小説書くわと、書き始める前から周りに吹聴していた自分を激しく呪った。

それで完全に懲りたはずなのに、それから40年経った今、またぞろ小説を書きたい気になっている。構想はある。徹底的に擬人化されたシープドッグと、それに関わる人間の勝手な思惑が織りなす愛憎劇、、、つまりはリアル・ストーリーだ。
筋書きはまだだが書き出しだけは決まっていて、それは「僕はやっぱり誰も許すことができない。その最たるものが自分だ」である。スリルもどんでん返しも無いけれど、良識の衣に隠された狂気を浮き彫りにした問題作になるはずだ。
まだ、どろどろした情念が自分の中にあって、それが十分発酵して栄養分になるまで、もう30年くらいかかると思うけど。

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