土曜日, 11月 21, 2015

ねこのしゃーわせ

もなかの寝場所は季節ごとに変わる。

最近、つまり2015年の秋は、掛け布団の上に決めたようだ。
別にいーんだけど、足元とか、腹の横とか、股下とか、布団と首の間とか、顔の上とか、、、あっちでぐりぐり、こっちでもみもみ、一晩中動き回るから寝苦しくてしかたがない。
で、こちらも頻繁に寝返りを打つから、それがやつには寝苦しいのだろう。
夜が明けるころには、二人ともどことなく不機嫌になっている。

眠気をこらえて布団から這い出ると、もなかは布団の上で「ぎうっ」と丸まる。
占拠したベッドで本格的に寝直すつもりだ。
「やれやれ」という声まで聞こえてきそうだ。
その様子を見ると、日によって微笑ましく感じたり、苦々しく思ったり、時には軽い殺意を覚えたりもするけれど、基本的には「あんた、幸せやね~」と思う。

これが人という動物のおそろしいところだと思う。
猫の幸せなんてわかるはずないのに、勝手に決めつけている。
心の底のどこかで、「感謝しろよな」と思っている。。。

1日中うつらうつらしてる猫は、確かに幸せそうではあるけれど、実は単調な日常とそれを打開できない己の無力に絶望して、鬱になってる可能性だってないとは言えない。
痩せこけて惨めったらしい野良猫でも、実は猫界で一目置かれる存在で、その境遇に至上の喜びを感じているのかもしれない。
そうじゃないとは誰にも断言できない。
そもそも「幸せ」っつーのも人間が勝手に作った物語に過ぎないわけで、それを猫に当てはめようなんておこがましいかぎりだ。

人間の本当の恐ろしさは、内に秘めた攻撃性や残虐性よりも、実はこのハンパな共感性にあると思う。
相手の気持ちが生半可に「わかった気に」なるから、あるいは「自分には相手の気持ちがわかる」と思い込むから、相手を軽んじたり、疑心や憎しみを培養してしまうんじゃないかと。

阪神が負けて一番やりきれないのは、相手チームファンの哄笑が頭をよぎってるときだ。
犬や猫に対して逆上するのは、決まって「言ったことを無視した」とか「俺をコケにしやがった」と感じたときだ。
どちらも想像の産物、、、って言ったら「想像」に申し訳ないくらいの、つまらない邪念に過ぎないのに。

もちろん、共感性というのは人の稀少な美質でもあるわけで、それそのものを否定することはできない。
「どうせわからんのだから相手の気持ちなんか考えてもムダ」と言いたいのでもない。
そうではなくて、「本当のところは金輪際わからない」という絶望を出発点にしながら、それでも相手の気持ちに迫りたいという、切ない願望について書いている。

永遠の苦役を強いられるシジフォスの神話は、「そういうこと」の尊さを言ってるんだと思う。
てゆーか、わからないからわかろうとする、あるいは「知ったかぶりはNG」というだけの、単純な話かもしれないな。。。

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