火曜日, 6月 01, 2021

神樹

第1放牧場の一隅に聳える大木。

フェンスの際々に突っ立ってどっちかって言うと貧相な木だったのに、いつの間にか放牧地の主のようになってしまった。ここまで大きくなると訳もなく畏敬の念が湧いてくる。

本当は木の葉のざわめきを動画で伝えたかったのだが、この日はまったくの無風で断念、朝日の中の静止画で我慢することにした。

ネットで調べるとニワウルシとか神樹と呼ばれる外来種らしい。やたら成長が早くて、注意して見ているとあちこちの道路脇で見かける。もう10年もすると日本の道路風景が変わってしまうかもしれない。

実は昨日、この木の根元に犬の遺骨の一片を埋めた。みわファームを始めた頃、まだ背の低かった木の下で走り回っていた子犬たちの1頭。今の飼い主さんが、幼い日を忍んで遺骨持参で訪ねてきてくださった。

飛び抜けた才能は無いけれど、とても気が優しくて駆けっこが大好きだった女の子。これまでどんな景色を見てきたんだろう?

これからはこの木と一緒に、後輩たちの走りを見守っててください。 

水曜日, 5月 26, 2021

春の青草だ!

 養生していた放牧地を羊たちに開放する、、、の図。

どんなに極悪非道な人間でも、羊の飼い主ならこの瞬間だけは顔に笑みが浮かんでいるに違いない。なんかそれくらい嬉しくなる。



火曜日, 5月 18, 2021

教訓

5月中旬だというのにもう梅雨の気配が漂っていて、ちょっと動くと汗ばんでしまう。このまま季節がズレてくと、なんで梅雨の真っ只中にGWなんだよ!と毒づく日も遠くないかもしれない。気候変動速すぎくね?

こうなってくると焦るのが毛刈りだが、今年も複数の人の手を借りながら、残すはあと2頭というところまでこぎつけた。

毎年そうだけど、刈り始めた頃は終わりが見えずに絶望的な気分になるのだが、1頭1頭刈っていくうちにいつの間にか終わりが近づいている。なんかすごく良いことが言えそうな気がするのに思いつかない。 

木曜日, 5月 13, 2021

風が吹いている

おからをいただきに近所の豆腐屋さんに向かう途中のカーラジオから、昭和歌謡の「魅せられて」が流れてきた。

ジュディ・オング氏が「南に向いてる窓を開っけ〜♪」と可愛らしく歌い出すアレである。そのちょっと先に「美〜しすぎ〜るとこは困る」という歌詞があって、いつも変やなぁと引っかかっていたのだが、今日歌詞を検索してみたら「美しすぎると怖い」であることが判明した。なるほど〜それやったら話はわかる!

昔は今みたいに歌詞が気軽に検索できなくて、怪しいところは怪しいままで適当に聴き流していた気がする。ヒアリング能力が低いことは痛いほど自覚していて、中森明菜なんかほぼ全ての曲にわからんところがあったけど平気でスルーしていた。こーゆーのをおろそかにせず、一々確認するような性格だったらもうちょっと大成していたのに。

実は「魅せられて」にはもう一箇所恥ずかしいところがある。サビの「Wind is blowing from the Aegean」のところで、AegeanをAsianと聞き間違えてたのだ。「風はアジア人から吹いている」って、こんなところには書けない変なイメージが頭に浮かんでいるのだが、それで自分を納得させていた。

(ところで、こんな引用にも著作権料は発生するんだろうか?)

 

ようこそなすびさん

某所から先週の金曜日に連れてこられた茄子によく似たなすびさん。

もうすぐ2週間になろうというのに、なかなか群に馴染もうとしません。

それでもだいぶ距離が近くなってきてはいるんですが、今朝も畜舎の入り口の外側という微妙なところで休んでました。人が近寄るとサッサと畜舎の裏に隠れます。


身体能力も高いらしく「毛刈りに3時間もかかってしまった」と元の飼い主さんがボヤいてました。

こういうクセの強い子は結構好物だし、これからみわファームでどう変わっていくかも楽しみです。


木曜日, 5月 06, 2021

たまご3つ

週刊たくボ: ツバメ で紹介したツバメの巣にカメラだけ突っ込んで撮影したら卵が3つ入っていた(屋根が近いから目視できない)。この写真を撮ってからもう10日以上経つから、そろそろヒナたちの顔が見れるかもしれない。


水曜日, 5月 05, 2021

うきうきひつじ

天気の良い日、畜舎に入れていた羊たちを放牧場に放してやると、走り回って喜ぶもんだからこれは!と思って動画を撮ろうとしたが、タイミングを逸してしまった。でもスマホを構えたら何を勘違いしたのかワラワラ集まってきた。なんか浮ついてるんですわー

こういうのを見てるときが幸せ。



日曜日, 5月 02, 2021

発見

あらためてじっくり見るとヤギの顔って結構インパクトある。

写真のモデルは生まれて2ヶ月のたろう君。


 

金曜日, 4月 30, 2021

猫の真理

猫のもなかくんのフードはドライタイプ主体にウェットフードをちょっぴりトッピングしたものと決まっていた。ウェットフードは割高だし栄養も偏るので、できるだけドライフードを食べて欲しいのだが、残すことがあるので仕方なしのトッピングだった。

でもやっぱりもったいないので一缶を一週間くらいかけてチビチビやっていたら、たぶん彼にはそれが不満だったのだろう、トッピングだけ食べ散らかしてプイといなくなる、なんてことが度々あった。そんな時はしょうがなくウェットを追加(ほんのちょっぴりだけど)して機嫌を取ったりしてきた。

そんな駆け引きを10年ほど続けてきたわけだ。

それがこの1ヶ月ほど、パタリと食欲が無くなってしまった。

まずドライフードを食べなくなり、それでもしばらくはウェットフードは食べてたのだが、すぐにそれもダメになり、水以外は一切口にしなくなった。

しょうがないので、ちゃおチュールなどという普段は絶対買わない嗜好品を買ってきて与えた。それですら自分からは食べようとしないので、口の周りにこすりつけて無理やり舐めさせていた。

これは流石におかしいと検査してもらったら腎不全との診断。猫の持病と言えるくらい多いらしいが、慢性の場合は元には戻らないからこりゃ大変だ。

何が大変って、薬を混ぜたちゃおチュールを1日2回も嫌がる猫の口に突っ込まないといけない生活が続くわけで、羊ヤギ鴨ニワトリ犬たちとエサ待ちの行列ができているファームでは、猫一頭にそんな手間暇をかけてられない(こともないのだけれど、正直煩わしい)。

ただでさえ拘束の多いファーム生活がますます不自由になるなぁと、ユーウツな気分になっていた。

ところが、2日ほど前からまた唐突に食欲が復活した。

昨日なんか朝からもう5回も催促され、その都度ウェットフードを与えた。

獣医さんには「症状が落ち着いたんでしょう」と言われたが、本当かなぁ?なんか釈然としない。ともかく今は以前にも増してよく食べている。こちらとしても自分から食べてくれるだけで嬉しくて、ケチケチせずにウェットフードをふんだんに与えている。

こうして、人からしたらどーでもいいことをなぜ延々と書き連ねてきたかというと、それが3日かかるか10年かかるかはわからないけれど、物事は結局は猫の思い通りになる、という真理を伝えたかったからだ。

今回のことも猫からしたら「この10年間ずっとウェットフードが食べたいゆーてきたやん、やっとわかったんか」というところだろう。


この無力感、他でもあったなぁ〜と考えてたら、すぐに思い当たった。ヤギだ。例え柵を作ろうがフェンスを強化しようが、最終的には彼らは行きたいところに到達する。

そう私たち人類は決して猫とヤギには勝てないのだ。

抵抗してもムダだよ。


日曜日, 4月 25, 2021

感激

羊毛一筋で、モンゴル始め世界の羊を見て回ったような人から「ここは羊が羊らしく、犬が犬らしく暮らしてていいですね」的なことを言われて、ちょっと泣きそうになるくらい嬉しかった。

所詮仕事じゃなく道楽だから、、、という面もあるだろうけど、道楽も15年以上続けるにはそれなりの苦労もあるし、色んなことが積もり積もってくる。

動物たちにも、もう少し道楽につき合ってもらおうかな。



月曜日, 4月 19, 2021

兄弟

容姿も性格も人望もまるで違うジェイ君(左)とブレイド君ですが、フとした拍子にやることがシンクロすることあって、そんなところはやっぱり兄弟やなぁと思う。

写真を撮ろうとした時も2人が全く同じ姿勢でいたのだけれど、シャッターを切る瞬間、ジェイが居住まいを正してしまった。

右側のブレイド君の左右に足を投げ出した伏せは「ほんまやったらそっち行きたいんやけどぉ行かれへんからちょっとおもんないわ」的な時によくやるポーズ(だと思う)。

金曜日, 4月 16, 2021

ケガと街

誰かに自慢したくて、先に牧草フィーダのことを書いたが、実は名誉の負傷が伴っている。利き手の人差し指を捻挫してしまったのだ。2×4材に直径3cmの穴を開けないといけなくて、慣れないドリルを扱っていたのだが、木材に刃が噛んだ拍子にドリル本体がグワンと回り、指を巻き込まれてしまったのだ。

おかげで関節が1.5倍くらいに膨れ上がってしまった。日常、注意していてもつい曲げたりぶつけたりしてしまうので、指にポストイットを巻きつけその上からスポーツ用のテーピングテープ(っていうの?)をぐるぐる巻きにした。簡易ギプスのつもりだが、ポストイットの上からというのが天才的なところで、つけっぱなしでも不快感がない(また自慢してる・・・)。 

で先日、用事があって街に出て何人かの人にあったのだけれど、みなさん決まって「どうしたんですか!?」とびっくりしていた。おかげでカクカクシカジカとまた一から自慢できたのだが、そいえば田舎では何も言われなかったなぁ、ということに思い至った。

田舎ではそれほどだけど、街中では包帯みたいなものの存在感が際立つ、あるいは人々の意識がそういう小さな差異に敏感になっている、ということかも知れない。なんか、おもしろい。


日曜日, 4月 11, 2021

ツバメ

今年もツバメたちが巣作りに励んでいる。

去年と同じ親か、それとも去年巣立ったやつか、どちらかはわからないけれどやっぱり犬小屋の中というややこしいところを選んだ。

しかも今年はよりによって出入り口の上で、犬の給餌タイムの時には、トレイを持って外に出ようとする人間と、外から帰ってきたツバメが鉢合わせすることが頻繁に起こる。

たぶん、こういうややこしいところが、他の鳥やキツネやヘビの襲撃を防ぐのに都合がいいんだろうけど、犬や人間に襲われるかも、、、とは思わないんだろうか?

いつも、手を伸ばせば触れそうなところにいるわけだけれど、絶対に触れないんだろうな。

金曜日, 4月 09, 2021

牧草フィーダ1号2号3号

これまで、牧草はエサ箱(トロ箱で代用)に小分けにして与えていたが、配るのが面倒臭い→できるだけ独り占めしようと羊が押し合う→身体中に牧草がひっついて羊毛作業に差し支える→その対策としてエサ箱を増やして羊の分散を図る→配草がさらに面倒になる→羊の移動が増えてやっぱり草がひっつく、という負のループに陥っていた。

なので、他の農場の写真をヒントに、倉庫に転がっていた2×4材とイレクターパイプを組み合わせて牧草フィーダを作ることにした。パイプの間から顔を突っ込む方式にすれば、不毛な押し合いが無くなり羊毛も汚れないだろうという思惑である。

羊が突進しても壊れない強度を確保しつつ、たぶん結構頻繁に移動させることになるので、全体を軽くして簡単に分解・組み立てができるようにした。

こんなやつ↓


羊も20頭以上いるので、一気に3つ試作した。

大体、動物のために良かれと思ってしたことは、思い通り機能しなかったり毛嫌いされたりスルーされたり壊されたりと、ほぼ100%残念な結果になるのだが、これは奇跡的にうまくいっている。一度、「パイプが1本外れたところに身体の小さいPinoが挟まって動けなくなる」事件が発生したが、それも対策を施した。こうやって小さな改良・補修を加えながら2ヶ月も保てば、あとは大丈夫やろうと踏んでいる。

ただ、身体にくっつく牧草は減ってない気がする。。。


 

水曜日, 4月 07, 2021

海と山に吠える

海と山といえば、感動&感傷部門の不動のツートップとしてその実力は甲乙つけがたいが、こと掛け声に関しては山は「ヤッホー」海は「バカヤロー!」と、あからさまな大差がついてしまっている。これは納得いかないと大泉洋と安田顕がラジオで語っていて、確かにその通りだと思った。

ちなみにヤッホーの語源を検索すると、ドイツ語のjohooから来てるとか、英語の歓声yoo-hooからの変形とか、ヨーデルに由来するとか諸説あるのだが、どれもそこはかとなくグローバルで格調も高い。バカヤローなんか、調べるまでもなく日本ローカルのしかも罵倒語だもんね。

なぜか?を考えると、山ではこだまになって自分に返ってくるからという「天に向かってツバ」説や、男性的な山と違って母を感じさせる海にはつい胸の内をさらけ出してしまうというジェンダー的にどうなん?な説がありえるが、どちらも納得感は少ない。ま、どーでもいっか。

そういえば私たちは夕日に向かってもバカヤローと叫ぶ。よっぽど何か溜めこんでるのだな。


月曜日, 4月 05, 2021

作業の脇に犬

少しずつ薪割りを進めて、原木の山が前の投稿時に比べて2/3くらいになった。このペースだと4月中には終わりそうだが、この先、タケノコがバンバン生えてきたり暑くなって何にもする気が無くなったり毛刈りシーズンが迫ってきたりと、ペースが落ちるのは目に見えている。梅雨までに終わってればいいか。

写真は薪割り作業の横で佇むLouさん。こういう絵面が大好き。

金曜日, 4月 02, 2021

畑エリアを開放

かなり草が生えてきたので、羊の母娘組16頭を畑エリアに開放したところ。

通れるように柵をずらしてやると、どどどどどっと地響きを立てながらなだれ込んできました。

羊たちは大喜びで、、、かどうかはわからないけれど、一斉に草を頬張っています。長い間、乾牧草しか口にしてなかったからね。それを眺めている人間は確実に幸せになれます。

羊たちの動きが普段の5倍くらいキビキビしてるんですが、写真では伝わらないですね。

 


火曜日, 3月 30, 2021

オトコって、、、

会社時代の縁で、週に一度だけ、某女子大で講師のアルバイトをしている。

この前、授業が終わって教室でグズグズしてたら、学生の一人から突然「先生の服、かわいいですよ」と言われた。その瞬間、脳天から爪先まで電流が走り「ああ、俺はこのために生きてきたんだ!」と強く思った。

ただ、その時はすっかり舞い上がってしまって「ああこれ、ユニクロやで」なんて阿呆な返しをしてしまったことが悔やまれてならない。なぜ「あなたこそステキですよ」とか爽やかにキメて教室を後にしなかったのだろう!?

もし一生に一度だけ過去に戻れるとしたら、その時を選んでしまいそうで怖い。

いや、しかしほんと、オトコってどーしようもないなって自分でも思う。てゆーか、人間の中のどーしようもない部分をオトコと呼んでるだけかな。

 

月曜日, 3月 29, 2021

竹に挑む姿勢

 ちなみに、投げた竹に群がる羊たちはこんな感じです。

ブチブチシャクシャクと葉っぱを千切って喰む音を聴きながら、この光景を眺めてるのが大好物です



土曜日, 3月 27, 2021

タケノコ出た!

 今年はいつもより早いよな気がする〜












その年に最初に見かけたタケノコを食べると、その年は病気知らずという古くからの言い伝えを今作りました。






金曜日, 3月 26, 2021

2才になったブレイドくん

繋がれて、つまんねーオレ


 












放されて、ウキウキのオレ









ケガして3週間くらい家にいた時のオレ













水曜日, 3月 24, 2021

竹置き場

草が無くなる秋から冬にかけては、羊たちには乾牧草と補助的な濃厚飼料で乗り切ってもらっている。

だから青い物(なぜ「青」!?)が恋しいのか、たまに野菜や常緑樹の葉っぱなどを与えるとことのほか喜ぶ。意外にウケるのが竹で、根元の方で切ったやつを敷地内に倒しておくと、あっという間に裸にしてしまう。放牧地は二方を竹林に囲まれてるから、敷地に侵入してくる分だけでも羊に与えるくらいは事欠かない。

実は羊だけじゃなく、これまで飼った草食動物は皆、揃いも揃って竹の葉が好物だった。なんでかな?とウィキってみると、竹というのはなんとイネ科なんだそうだ。だからどうという訳でもないが、何となく納得させられてしまう。イネ科恐るべし!!

写真は、裸になった竹を積み上げたもの(の一部)。今冬だけのものではないけれど、いつの間にか結構な量になってしまった。燃やすなり何なりして処分しないとなぁと思いつつ、手をつけかねて呆然としている。

何か良い手はないだろうか?



月曜日, 3月 22, 2021

役に立たない!

ほら、松坂桃李クンが庭で稲作したり牛を買ったりして「自給自足、最っ高」ってほくそ笑むCMがあるでしょ? あれ結局、彼は途中で挫折するわけだけれど、なぜだかわかります?

私はね、「何でもやろうと欲張りすぎた」からじゃないと思うんです。 


















重要なヒントが、2つ目のシーンに隠されてました。

そう、、、彼は ヤギを飼ってしまった から力尽きたんですね、きっと!

土曜日, 3月 20, 2021

そういえば

去年の毛刈り後に撮ったちぇび男の写真が残ってた。

まだツノがちっちゃい!

1年足らずの間にグングン伸びたんやね!!



木曜日, 3月 18, 2021

TOEICっぽい日記

PART1

For each question in this part, you will hear four statements about a picture. When you hear the statements, you must select the one statement that best describes what you see in the picture. The statements will be spoken only one time.

A) She’s feeding the goats in the barn.

B) She's drawing water with the plastic bucket.

C) She’s fighting against a pack of sheep.

D) She’s bending her upper body to pick up vegetables.

Mark your answer on your answer sheet. 





火曜日, 3月 16, 2021

彼の名は

ちぇび男w

チェビオットのオスだからちぇび男ww

でかくなったら改名してやろうと思ってたけど、いまだにちぇび男www

人が近寄ると一番前にしゃしゃり出てくるよ。

エサ箱だって一人で独占するよ。


最近、ちょっとグレかけてるけど、ジッと見てるとなんか笑える。

ちぇび男くん、ええ感じやわ〜


月曜日, 3月 15, 2021

インテンショナルな犬たち

申し訳ないが、みわファームの犬たちには散歩はない。その代わりと言っては何だが、朝と夕方の作業の時間に、犬エリアのゲートを開放して敷地の中を自由にさせている。

この間、人は家畜の世話で手が離せないから、犬は好きなところで好きなことをしていればいいのだが、実際にはクソ真面目な顔で倉庫に入り込んでネズミを追っかけたり、飼料の周りをウロついたり、フェンスに貼りついて鳥やヤギを見張ったり、、、つまり一緒に作業してるつもりなんじゃないかと思う(約1名、拾い食いに忙しいペグばあさんを除いて)。


ま、どんなつもりで何をしてもかまわないけれど、せっかくフリーなんだからのんびりしてればいいのにと、隙あらば怠けていたい人間は思ってしまう。

作業が片付いた後は、全員で放牧地に行くことが多い。さすがにそこでは犬たちも気分を変え、走り回ったりして遊んでいるように見える。ただ、やっぱり犬同士で見張ったり見張られたりして、そこはかとなく険しいムードも漂っている。

なんかこう、ほわほわ〜と時を過ごせないタチなんだろうか!?



金曜日, 3月 12, 2021

ジッとしてられっか!

 ヤギっ子つーのは呆れるほど元気で、生まれて1, 2日で母ヤギの周りを走り出します。

チャコとりじ男(仮称)が生まれたのが2月の24, 25だから、まだ生後2週間なんですけど、もうこんな感じです。


里親さんの希望もあって、今朝はりじ男に去勢処置(タマタマの付け根をゴムで縛る)をしたので、少しおとなしくしてましたが、午後にはすっかり回復しました。生まれてしばらくは動きが少なかったちゃこも、負けじと跳ね回ってます。

頼もしい子たちです。


木曜日, 3月 11, 2021

ロビー・ザ・ロボット

 

何歳くらいだったかなー、子供の頃、おもちゃ売り場には決まってこのロボットが並んでた。もう欲しくて欲しくてねぇ、きっと親にもしつこくねだったと思うけど、玩具箱に収まることはなかった。ま、縁が無かったんやね。

今でも、当時の身を捩るような憧れ感を思い出すことができる。

このロボットが登場するのが名作の誉高い「禁断の惑星」という映画で、今までずっと観る機会がなかったのだけれど、先日、たまたまBSで放映されているのに遭遇した。

いや〜さすが不朽の名作、、、と言いたいところだけど、実はそうでもなくて、正直、え゛!?という感じだった。全体として古臭い感じや特撮がアレなのは公開年(1956)からしてしょうがないとして、芯となるストーリーや恐怖を募る演出などもすごくチープに感じた。

つまりなんだ、世の中って技術だけでなく、物語も進化してるということなんかな?もしかしたら今、ホームズやポアロを読み返しても、全然ドキドキしないのかも知れない。

人の世は同じことの繰り返しと言いつつ、実は不可逆的に前に進んでいるんでしょう。


水曜日, 3月 10, 2021

来シーズン用の薪

 原木がだいぶ集まってきて、屋根付きスペースを圧迫するくらいになってきた。

毎年、薪の調達には苦労するが、ここにあるのは一昨年の大風で倒れたり折れたりした敷地内外の広葉樹である。ここ数年は寒さがそれほどでもないので、これくらいあれば何とか賄えるんじゃないかと踏んでいる。

今シーズンの分を使い切って薪置き場が空けば、薪割りして積んでいくというとことんジミ〜な作業が待っている。

これからイベントシーズンになるので、早く片付けないといけないのだけれど。




月曜日, 3月 08, 2021

明日のために

 なんかー、やっぱり、このブログ復活しよかなーって思った。

カスみたいな内容になるかもしれないけど、その日の出来事をわりと頻繁に更新していきたい。

でないと、、、全部忘れる!


木曜日, 3月 05, 2020

口下手な男前

無差別殺人の容疑(たぶん冤罪)で逮捕された男の息子が、タイムスリップして若き日の父に会い、何とか事件が起きないように奮闘するが、不自然な言動のせいでその時代の警察や当の父親から疑われてしまう。
「おまえ、本当は何を企んでるんだ!?」
ここで主人公の竹内涼真は、視線を逸らして黙ってしまう。

あー、また。
いぃっっっつもそお。
竹内涼真も向井理も松下奈緒も佐藤健も天海祐希も、ここでもうちょっと説明したら解決するのに!という場面で決まって黙る。
これはもう日本のTVドラマに深く根付いたお作法で、どれくらい深いかというとそうじゃないとドラマが成り立たないくらい深い。
言い淀んだときの悩ましく切ない表情が、歌舞伎の「見得」みたいな演技の見せどころになってるし、最後には「言わなくても真心が通じる」シーンがお約束のカタルシスとして用意されている。

なぜ説明しないのかと問えば、「大切な人を傷つけてしまうから」とか「きっと○○はこの事実に耐えられない」とか言うに決まってるんだ、どーせ。
相手は子供じゃないんだから、いやたとえ子供だとしても、そういう決めつけは相手への敬意を欠くと思うのだが、ドラマでは逆にそれが優しさや、誠実さや、思慮深さを表すアイコンになっていて、大いに肯定される。
他人を気遣うというのは確かに麗しい態度だけれど、見方を変えれば、それを言い訳にして説明から逃げていることにもなる。
脚本家や演出家はそーゆーもんと割り切ってるのかもしれないが、それを自然に受け入れてしまう観る側の意識が問題だ。

自分もその一員という強い自覚とともに言うけど、日本人は大体において口下手だ。
それも、男。
それも、おやじ、おっさん、おじん。
どーでもいいことは結構喋るのに、気持ちをことばにするとか、筋道立てて理由を説明するとか、悩みを打ち明けるとか、肝心な時に口ごもってしまう。
「男は黙って札幌ビール」とか「俺の目を見ろ何にも言うな~♪」とか「説明せんとわからんのか!?」とか「何にも言うな、まぁいいから一杯飲もうや」みたいな決まり文句が一杯あって、世間も口下手の肩を持つことになっている。
だから説明しないことを、自身の怠慢とも努力/能力不足とも思わないし、逆に口数の多い奴(この言い方にもう負のバイアスがかかっている)を軽侮してたりする。

日産の会長解任劇については何の知識もないから、ゴーン氏、検察、日産の誰の肩も持てないが、一つ感心したのは、ゴーン氏が逃亡先のレバノンで2時間を越える会談を行ったことだ。
ほとんどが当人のスピーチだったらしいが、あのハイテンションを保ったまま2時間!
内容があるかどうかはともかく、同じことができる日本人が何人いるだろうか?
自分には絶対ムリ。
きっと彼は、小さい頃から「男のくせに言い訳すんな」とか「口答えするな」とか「子供は余計な口を挟むな」とか言われたこと無いんだろうな、、、知らんけど。

全然分野が違うが、どうしても較べたくなってしまうのが、去年目立ったスポーツ指導者たちの記者会見。
アメフトの内田監督、ボクシングの山根会長、テコンドーの金原会長、、、さすがにどの仁も押し出しが強そうで、頼り甲斐のある親分という風情だが、不正が指摘されていざ記者会見となると揃ってムッツリしていた。
そんなことやる人間かどうか、オレを見んかい!!、、、本当ならそう一喝したかったところだろうけど、あいにく相手は組織内の人間ではなく、記者やその後ろに控える世間だ。
そういう外部の人に対しては、結婚式の挨拶以外、特に語る言葉を持ち合わせていない。
橋本治氏が言うところの、農村の家父長制度の意識を引きずった典型的な「都市おやじ」だ。
(非を決めつけて謝罪する/しないにしか興味が無いような、質問する側の姿勢にも問題あるとは思うけど)

もう一つどうしても触れたくなるのが永田町の「説明」。
特に今の政権で目立つのだけど、官房長官の定例会見なんかもう芸の域に達している。
ちょっと答えづらい質問になると「適正に処理している」「その指摘は当たらない」「〇〇に聞け」と言い放つだけで、どう適正なのか、なぜ当たらないのか、なぜ説明を差し控えるのか、などの説明は一切しない。
あとは、あー世界で一番つまらん仕事や、みたいな顔で突っ立っている。
たぶん、まともに答える気はないけど、周囲にマウンティングして自分と政権の威厳を保つにはどうしたらいいか?を考えたらあーゆー態度になるんだろう。
その他にも、口を開けば暴言の財務大臣とか、措辞を整えようとして無残に噛んでしまう首相とか、歯切れよく煙に巻こうとして炎上する環境大臣とか、もうどうしちゃったの?とゆーくらい説明が拙い。
日本人が口数の少なさを何で補ってきたかというと、たぶんそれは、少ない言葉一つ一つに対する思い入れであったり、発言に対する誠実さや責任感や覚悟だったりしたと思うのだが、それらを国民の先頭に立って片っ端から粉砕しつつあるのが、現政権の隠れた一面だ。言葉への信頼を踏みにじることで「国会で何を議論したってムダだよ、大事なことは全部閣議決定で決めるから」と言いたいのだろうか。

ただ、一口に説明といってもそんなに簡単にできるもんではない。
少なくとも、①考える、②考えを共有可能な意見にまとめる、③意見を相手に伝えるためのロジックや筋道を立てる、④発言のための言葉を選ぶ、という4ステップを踏む必要がある。
前半は「自分の意見を持つ」こと、後半は「相手に伝える」ことがテーマだが、両方とも結構テクニカルな作業だ。
であるからして、この辺を学校教育の一環として小中学校でのカリキュラムに組み込むべきだと思う。
、、、というのはウソで、何でもそうだけど、本当に子供を教育したいと思うなら、まず大人が進んで取り組めばいいんだ、きっと。

土曜日, 2月 08, 2020

うれぴー

石窯の残りのレンガでかまど兼ゴミ焼却場作った~♪


木曜日, 11月 14, 2019

モチベーション

おもしろい記事めっけ♪


子供の教育やしつけが思うようにいかないのはなぜ?というテーマで、前半の内容はざっくりこんな感じ。
・モチベーションは、外因性と内因性の2つに分けて考えられる。
・外因性は、行動に対して外部から報酬や罰則が与えられることで形成される。
・罰則も正の強化も、「結果に基づく」強化(という意味では一緒)。
・これはこれでパワフルな動機付けになる(例えば、罰金を取られるから税金を払うなど)。
・これに対し内因性は、達成感や行動への興味そのものから形成される(←勉強などではこれが望ましい)。
・つまり結果ではなく、行動すること自体が報酬となる。

と、ここまでは、なるほどふんふんというお話。
おもしろい(と思った)のは、すでに内因性の動機付けが存在する行動に外的な報酬を与えると、プラスアルファになるどころかマイナスに作用するという指摘。「もともと好きでやっていたことが急に仕事のように感じられ、内因性動機付けが低下してしまう現象」があるらしい。
つまり、新しいことを学んだり、問題を解く喜びを感じている子供に対して、通り一遍に褒めたり、成績の向上を称えたりする「教育」が、本来の学習意欲を削いでいるかもしれないということだ。

お、ここからまろの教育論が展開されるのか?というと全然そんなことはなくて、話は突然シープドッグに飛ぶ。(人と犬を一緒にすな!という声も聞こえてきそうだが、そんな人は犬のフンを踏んでしまえばいい)
実は、シープドッグの世界でよく言われるフレーズに、「トレーニングにご褒美は必要無い」とか「仕事をする(続けさせる)こと自体がご褒美」というのがあって、ああ、なるほどこのことか、と妙に合点がいってしまったのだ。

羊を追うという行動には、明らかに内因性のモチベーションが存在する。
犬は内なる衝動によって羊を追い、追うことによって快感という報酬を得る(知らんけど)。
だから「ご褒美は必要ない」のだろう。

これで羊仕事は成立するのだが、人というのはセッカチなもので、より早く、より望ましい方向に「導こう」として、罰則や報酬を与えてしまう。
これが、まぁ効果が薄いくらいだったらいいのだが、本来のモチベーションが損なわれるかもしれないとなると、放っておくわけにはいかない(誰?)。
「褒美は必要ない」というより「与えてはいけない」とか「有害」と言うべきなのかもしれない。慣れ親しんだ叱責やコマンドでさえも、使う状況やタイミングにはそれなりの注意が必要ということだ。
まぁ生き物のことだから何がなんでも絶対ダメ!ということはないだろうけど、少なくともそこにモチベーションの低下というデリケートな問題が潜むことは自覚しとかないといけない。

でわ、内的モチベーションを強化するにはどうしたらいいのか?
残念ながら、これに関する方法論や言い伝えは目にしたことがない。
たぶん、どうしようもないのだ。
内因性のモチベーションは、生得のものを自分で強化してもらうしかない。
つまり、シープドッグにはせっせと羊を追いかけてもらうしかないのだ。
このとき、人の介在がマイナスに作用するというなら、唯一できることは「放っておく」ことで、あとはせいぜい、追い終わってから「おつかれさま」とねぎらうくらいだ。

いや、わかってます。
わかってはいるけれど、難しいんですよね、これが。
どうしても犬を「操りたく」なって、口を出してしまう。
きっと人にとって、口を出すという行為には(さんざん強化されてきた)強固な内因性のモチベーションが存在するのだろう。

火曜日, 11月 12, 2019

Bladeの安静

このところ、7ヶ月の子犬を安静にさせておくという、およそこの世で最も困難なミッションに挑んでいる。
現場は見ていないが、おそらく、羊柵の上部のワイヤに引っかかり、そのままオラァ!と皮膚を破りながら飛び越えてしまったのだ。特に痛そうな素振りは無かったのだが、脇下に手を回したときに、にゅるりと4本の指がめり込んで、十字形の大怪我が発覚した。

動物病院でヤケクソみたいに厳重に縫ってもらってから、外飼いだった犬をリビングに上げ、リードを持って常に静かにさせておくという、神経をすり減らすような生活がもう3週間も続いている。

本来なら、エリザベスカラー付きでクレートにぶち込んでおけばいいのかもしれないが、羊仕事の気配で外犬たちがソワソワしだすと、中で大暴れするのが目に見えている。見るからに危うい傷口がすぐに開いてしまいそうだ(実際、できるだけ静かにさせたつもりなのに、合計4回も縫い直す羽目になった)。

そうやって一日中犬と顔突き合わせていると、つくづく人の生活って窮屈だと思う。
それ齧っちゃダメ、代わりに骨を齧ってな、傷口なめちゃダメだって、ああ、そこに手をかけないで、頼むからちょっと黙っててくんないかな、走るな!、シッコすんな!、飛んだら傷開くやんけ!、、、四六時中声をかけずにはいられない。
それでも犬の適応力は大したもので、癇癪を起こすことも、人を毛嫌いすることもなく、数日で室内暮らしが板についてくる。

実は、昨日獣医に行き、無事に抜糸してもらうことができた。
あと3日ほど安静にさせたら、外に放せるだろう。
犬を置いて近くの温泉と散髪に行くことが、小さいけれど切実な、今の望みである。

水曜日, 10月 23, 2019

ケツの穴

「ケツの穴が小さい」というのは気が小さいとか度量が狭いことを言うレトリックだが、最近、そーでもないかも?と疑り始めている。
つまり、単なる修辞的な表現ではなく、ケツの穴と気質の間には、のっぴきならない関係があるんじゃないかと。

とゆーのも、犬のウンチについて思うところがあったからだ。
犬のウンチの大きさは、各個体によって大体一定している。
その一定度はかなりのもので、本来個性などという言葉は、こーゆーときに使うべきだと思うくらいだ。
そして、ぶっといウンチをする奴は、大体において神経も図太い。
逆に細っこいウンチをする犬は、たとえ見かけはゴツくても、案外神経質だったり刺激に敏感だったりする。

たとえばファームの大御所カイラさんは、誰もが認めるおチビだが、モノはこちらが赤面するくらいでかい。そして性格はというと、(チャカチャカした見かけや行動とは裏腹に)周りに影響されないタフな面を持っている。

一方、身体の割にチマチマしたウンチのるぢ男くん。
彼はファームでは向かうところ敵なしの風で堂々としているが、たまに大人気なく子犬からおもちゃを取り上げたり、誰かが叱られたら真っ先に部屋に帰ってしまうといった、器の小さいところも見せてしまう。
サンプルが少ないからアレだが、これまでファームで見てきた犬たちには、大体、そんな傾向があるように思える。

ウンチの太さが肛門の大きさ(緩さ)と直結しているとすると、この傾向は「ケツの穴が小さい=気が小さい」説の有力な裏づけだと思う。
それに「ケツの穴が小さい」という現象が、心身の緊張状態とか胃腸のつくりとか腸内細菌の分布なんてことまで反映しているとすれば、性格や気質と密な関係があっても不思議ではない。あるいは、肛門というのは外界に対してどれだけオープンなのかを示す、身体のメッセージなのかもしれない、、、とか?

ここまで妄想を膨らませて、そーいう自分はどーなんだ?と振り返ろうとして、軽いショックを受けてしまった。
なんと自分のウンチの太さがわからないのだ!

もちろん、結構目にはしているけれど、他のモノを見る機会が無いので、それが太いのか細いのか、まるで判断できない。友人に拝み倒せば見せてくれるかもしれないし、ググればいくらでも画像が出てくるだろうが、どちらも実行に移す勇気はない。

人(てゆーか脳)は、自分の見たくないものを見事なまでに見えなくしてきたが、そのおかげで、貴重な情報源まで失ってしまったのかもしれない。

犬がお尻の匂いをとるのは、ケツの穴を観るのも目的なんじゃないだろうか?

月曜日, 9月 16, 2019

人類の叡智と自然との闘い

動物を養っている方には、だいたい同意していただけると思うが、彼らのために何か工夫した(例えば日除けを作ってやるとか、水遊び場を新調したとか)として、それを動物がこちらの意図した通りに使ってくれたりすると、自分でも意外なほど幸せな気持ちになる。

裏を返せばこれは、せっかく気を利かせてやったのに完全にスルーされたり、時には無残に破壊されたりといったガッカリなケースが、イヤになるくらい頻繁に起きるという証左でもある。

つまり、人がアタマで考えるような賢しらな知恵は、生き物という自然に対しては完全に無力、、、とまでは言えないにしても、十中八九は的外れということだ。

そう考えると、人類が気候変動を制御できないのも、子犬どもが苦労して作ったフェンスを楽々とくぐり抜けていくのも、見方によっては同レベルの現象だと言える。

だから、それほど気落ちする必要はないんだよ、自分。

水曜日, 9月 11, 2019

夏の試練

温泉に浸かってアァ気持ちエエ~ってなるのは、忙しない日常の中で温泉にでも行くかという気持ちになって、それじゃあと日程と目的地を決め、煩わしい準備や調整を乗り越えるという、そーゆー時間と気持ちの余裕がすでに気持ちエエからじゃないか?と思った。
(どーでもエエけど、一文の中に「気持ち」が4つも入ってて心持ち気持ち悪い)

この夏は動物たちが次々と体調を崩し、ほんとうに気持ちの晴れない日々だった。
起きている間ず~と、頭に蓋をされているような感じ。
まさか炎天下で行き倒れてないか?とか気になって、食事も喉を通らない・・・というのは大げさだけど、何を食べても味気ない気がした。もし温泉に行ったとしても、たぶん全然愉しめなかったと思う。


そして、悪夢のような夏はまだ終わってないのだ。

火曜日, 8月 20, 2019

子犬あるある

小屋の中のンこを掃除してやってるのに、子犬に背中をど~んってされて、顔からンこに突っ込みそうになって、慌ててのけぞった拍子に天井で頭を強打する件

水曜日, 8月 07, 2019

偽装記憶

(去年の暮くらいに書いて、放ったらかしになっていたテキストです)

なんか、世間から脅迫されてるような気がして、ボヘミアン・ラプソディを観た。

若い頃はラジオ少年だったから、Queenの楽曲も山ほど聴いてはいたけど、「ノリの良い(という表現は無かったかも)ちょっとナンパなロック」くらいの印象で、特に入れこむこともなかった。
その後、リードボーカルがAIDSで亡くなったと聞いた時も、どこか人ごとで、それほど大きな衝撃は無かった。
それが、映画を観終わった後は、思春期にQueenを聴きまくってて、何なら「オレの青春はQueenで始まりフレディの死で終わった」くらいのセリフを娘に言えるような気分になっていた。

で、話代わって今朝、たまたまYoutubeでマッケンローvsボルグの試合を観たのだが、これがまた結構衝撃だった。プレイそのものもそうだが、クセの強いフォームやラケットをいじるしぐさ、フィラとセルジオタッキーニのウェア、悲しげなボルグの眼差しと神経質なマッケンローの表情、いやもうカッコ良すぎるやんと、見惚れてしまった。

こーゆーの、三丁目の夕日効果とでも言えば良いのかな?
なんか自分の若い頃の記憶って、良かったよなぁスゴかったよなぁの方向に、少しずつバイアスがかかっている。
若い人からしたらウザいだろうなと思う。

昔より今の方が良い!と感じればもっと長生きしたくなってしまうから、そういう執着を少しでも減殺するための防御機構みたいなものかもしれない。

木曜日, 8月 01, 2019

駆け引き

これ、どこからどう見ても⚪︎ンチだが、実は単なる木片である。

これがよく犬エリアにポトンと落ちているのだ。
しかも、なぜか濡れて黒光りしているので、見るたびにドキッとさせられる。

もしかしたら犬ども、この「効果」を知っていて、ワザとやってるんじゃなかろうか?、、、と、最近疑っている。
だって、わざわざしがんで濡らしたやつを、わざわざ目につきやすい場所に落としてあるからね。

ドキッとした瞬間の表情を、隅の方からのぞき見して、観察しているのかもしれない。

だからこちらも、目一杯平静を装ってスルーしている。
うろたえたら負けだ。


日曜日, 7月 28, 2019

地獄絵図

いや、だから、恥を忍んで「ヘビが嫌い」「ヘビが怖い」ってあれほど連呼してきたのに、なんで性懲りも無く出てくるかなぁ?

朝の給餌作業を始めようと倉庫のシャッターを開けたら、頭の上3mくらいの天井で不吉な影が視界をよぎった。
薄暗くてよくわからなかったが、目を凝らすとやっぱりだよ~、天井からぶら下がったヘビ。え、でも待って、なんか不自然にグネグネしてるやん、もしかして二匹いるんちゃう?って、自我が崩壊しないようにあえて関西弁で独り言してると、やがて状況が見えてきた。
どうもネズミを絞め殺しているらしい。
ちょうど、悪者に捕まったカウボーイが、ロープでぐるぐる巻きにされて天井から吊るされてるような体勢だ。

え、どゆこと!?
ヘビ嫌いに加えてネズミ嫌いでもある私に、今、世界で考えうる一番おぞましい絵面を見せつけてくるとわ。。。天の意図のあまりの邪悪さに恐れおののくばかり。

それから10分くらいそのまま絞め続けて、やがて息の根が止まったことを確認したのか、トグロを解き、だらんとなったネズミの死骸を咥えて、見えないところに引きずっていった。

、、、という一部始終を知っているということは、なんだかんだ言いながらずっと見守っていたということだ。どんどん暑くなる中、エサを心待ちにしている家畜たちや、作業に出たくてうずうずしてる犬たちを放ったらかしにして、だ。

もしかして、ヘビ愛?

木曜日, 5月 09, 2019

子供相談室

わたしは てす っていいます
うまれて ひとつきはん たちました

わたしは ぼおだぁこりぃなので しょーらい しぷどっぐに なります
おとさんも おかさんも ぼぉだぁこりで しぷどっぐ だからです
でも しんぱいが ひとつあります

わたしには 4にんのきょーだいが います
みんな ばかです
ぶれえずが ないから だとおもいます

これまで あーあ みんなかわいそうに と おもってたのですが きのう ふと わたしはどーなんだろ? とおもいました
ぶれえずは ひたいにあるから じぶんでは みえないんです

じぇいおじさんは じぶんのをみせびらかして ぶれえずがないと しぷどっぐには なれないよ~ っていいます
わたしは なきそうに なりました
もし わたしにも なかったら どうしよう?

こわくて こわくて おかさんにも きけません
わたしは どしたら いいでしょう?



金曜日, 3月 15, 2019

犬への思い(つけたし)

なんとなく回想風に書き流してしまったけれど、本当に言いたかったことはちょっと違うところにあって、それは、ルールや良識に従って犬を飼うという行為そのものが、彼らから成熟の機会を奪ってんじゃねーの?という危惧だ。

そもそも犬というのは、群としてそこそこ自由に暮らして(自分の意思と責任で行動して)いれば、そこそこ自然にオトナになっていくもんだと思う。
だから、野良犬の群や放ったらかしの飼犬たちのオトナ度が高く感じられたんだと思うが、今では彼らの存在は社会的に許されない。
つまり、「そこそこの自由」が、ここ日本では結構難しいことになってるんじゃないかと。

犬たちはどんどん家庭に入り、人の世話も手厚くなってきた。
人が動物を世話するとき、手持ちの参照モデルは人間の子育てということになるが、それは、動物界の中で見ると圧倒的に長くてしかも濃密だ。
犬と子供が別物ということは頭ではわかっていても、無意識的な部分も含めれば、どーしても干渉が過剰になってしまう。
しかも、ちゃんと犬に関わろうとすればするほど、彼らから自由意志を発揮する時間と場所を奪ってしまうことになる。

それに、どちらかというと個を尊重することが苦手な日本の風土もある。
私たちは子育て様式の多くを欧米から輸入してきたが、「自立を促す」空気圧のようなものは抜け落ちてしまっている。
(例えば、子供部屋を設ける理由の多くは勉強のためであって、自立のためにプライバシーを確保するためではない)
空気圧は言葉ほど鋭くはないものの、四六時中ジワジワと攻めてくるので、深く相手に浸透していく。
日本人は無意識のうちに子供っぽい子供、仔犬っぽい犬を求めてしまっているのかもしれない。

別にオトナな犬がエラいとは思ってないし、そうあるべきだとも思っていない。
むしろ仔犬っぽい犬の方が可愛いから、ペットには向いてるだろうし、犬だってそう扱われる方が嬉しいかもしれない。
ただ「可愛い」は、こと生き物に対しては上から目線の感覚であって、そこから相手に対する敬意は生まれにくい。

そこはどーなん?と思うのだが、一緒に悩んでくれる人はあまりいない。

火曜日, 3月 05, 2019

犬への思い(続き)

次に思い出したのは、その20年後くらいに出会った、ホームレスのおじさんと暮らしていた犬。

転勤の関係で、一時、天満橋あたりのアパートに住んだことがあって、引っ越して間がない頃によく付近を散策した。
ある日、大川の川べりをフラついていると、いつの間にかブルーシート小屋が並ぶ一角に紛れ込んでしまった。長居してはいけない気がして、歩調を早めてそこを離れようとした時、ある小屋の前に陣取った犬に目が行った。
どこという特徴の無い犬だったが、佇まいが堂々としていて、あぁここを「シマ」にされているんですね?という感じだった。

犬は、不審者の私に気づいてこちらを見たが、すぐにすぅっと視線を逸らした。
それが見事でしたね。
咎めるでも詮索するでも怯えるでも威嚇するでも媚びるでも好きでも嫌いでもない、感動するくらい自然でイーブンな目配り。
とても礼儀正しく遇された気がして、こちらまで背筋が伸びる思いがした。
その日にどこをどう歩いたか、今となっては思い出せないが、犬がまとっていたピッとした空気感はよく覚えている。

この2頭は見た目も境遇もまったく違うのに、自分の中では同じイメージで括られている。
何というか、とてもオトナな感じなのだ。
多分、適当な距離と節度を保って周囲と関わろうとする態度が、そう感じさせるのだろう。
これを犬の心の成熟と捉えるのは私の偏見に違いないが、内心、そんなに悪くない偏見だと思っている。

子供の頃には、そんな犬が身の回りにも結構いたように思う(野良犬の群とか、庭先で番をしてた犬とか、学校に住み着いた犬とか)が、この頃は出会う機会がめっきり減った。
たぶん、犬を取り巻く環境が変わったからだろう。

オトナな感じの犬なんてのはあまり一般ウケしないと思う。
基本的に素っ気ないし、素直じゃないし、遊びに行ってもはしゃがないし、他の犬ともツルまない、、、つまり「可愛くない」のだ。

でも、そんな犬だからこそ、一緒にいてくれると嬉しくなるのだが、共感してくれる人はあまりいない。

月曜日, 3月 04, 2019

犬への思い

まったく個人的な好みでしかないけれど、何となく一緒にいるような犬が好きだ。
この「何となく」というところがキモで、遊ぶとか、芸をするとか、トレーニングするとか、見つめあうとか触れあうとか、そういうのじゃなく、つかず離れずのところで、それこそ何するわけでなく、でも確かに自分の意思でそこにいるような犬がいい。

なぜかはわからない。
人は自分の好き嫌いの理由を説明できないものだそうだから、わからなくてもしょーがないのだが、ちょっと無責任すぎる気もする。
というわけで、原体験らしきものはないかと記憶を辿っていたら、2頭の犬が思い浮かんだ。

最初の記憶は、小学校3~4年の頃。
当時、実家ではチコというメス犬を飼っていた。
何の特技も無い、寸胴短足の、いつも困ったような顔をした、どーにも冴えない雑種犬だった。
放し飼いだったのに、狭い庭を自分の居所と決めたのか、どこにも出ていこうとはせず、日がな一日、犬小屋の屋根上でぐーたらしていた。。
ただ、学校から帰った私が遊びに出かけようとすると、声をかけてもいないのに、当然のように着いてきた。

その頃の自分には、リードを使う習慣が無かったから、一緒に歩きながら彼女は勝手にその辺の匂いをとったりしていた。普段はただ歩くだけだったが、道すがら、建築中の家に忍び込んだり、稲刈りの終わった田んぼで鳥を蹴散らしたりもした。
たまに、自然発生的に近所のガキ連中と野球やテンチョ(4人でやるボール遊び)に興じることもあったが、そんなとき彼女は暇そうに子供たちを眺めたり、隣の雑木林を探索したり、外野に転がったボールを追いかけたりしていた。

そんないい加減なつきあいでも、不思議と、二人がはぐれることはなかった。
帰り道は決まって一緒だったし、珍しく姿が見えないなぁと思ったら、先に家に帰って門のところで尻尾を振ってたりした。
当時はそれを特別なこととも思わず、犬ってそういうもん、くらいに思っていた。
だから親友とか、かけがえの無いパートナーとか、家族の一員といった、ウェットで重たい感覚は無かった。

ただ、彼女が病気で死んで数日後、いつもの道を一人で辿っていると、突然、喪失感に圧倒されてその場から動けなくなったことを覚えている。

日曜日, 1月 06, 2019

低い庇に頭ぶつけて

「頭頂部を擦りむく」という体験は、とても哀しいものだ。

金曜日, 11月 23, 2018

書き出し

助手席に犬を載っけて、真夜中の高速をドライブするのが好きだったりする。
狭くて孤独な空間を共有していると、友情のようなものまで感じる。

でも、こっちが眠気に襲われている時に、横でぐあ~と寝てられると、無性に腹が立ってくる。
じゃあ、眠いのをこらえて愛想振りまいてくれたら嬉しいのかというと、そーでもない。
やっぱりムカつく。
いったい、私は犬に何を求めているんだろう?

・・・という書き出しだけ思いついた。

本文さえあれば、面白いエッセイになりそうなのに。。。


火曜日, 10月 30, 2018

粉もんドラマ「見られてる」

(暗がりで)

小林:よう古賀、久しぶり。相談って何だよ。
古賀:うわ、びっくりした、何だ、小林か。
小林:何だって何だよ、お前が悩んでるっていうから、オレたちここにいるんじゃねぇか。
古賀:え!? オレたちって、他にも誰かいるの?
小林:おいおい、何言ってんだよ、さっきからここにいるだろ、ふくもっちゃんが。
福本:大丈夫か?、古賀、ボケてんじゃねーの? ま、いいや、で、悩みって何だよ。
古賀:ん~、それがさぁ、、、よくわかんないんだけど、最近、ずっと見られてる気がするんだ。
小林:はぁ?気のせいだろ! だれがお前のことなんか気にするかよ。
古賀:だよなぁ、、俺、ジミだし、モテねーし、、、でも、なんかすっげー視線感じるんだよ。
   さっきなんか、空から監視されてる気がしたし。。。
小林:お前さぁ、ちょっとそれ、ヤバいんちゃう? 医者行った方がいいって!
福本:いや、古賀の言うこと、わかる気がする。。。
古賀:えっ!?
小林:えっ!?
福本:実はオレも、誰かに狙われてるんじゃないかって感じてた。
   それに、いきなり棒でツツかれたこともあるんだよ。ついさっきなんだけど。。。
小林:も~、ちょっと、やめろよ~。キミ悪いじゃん~。
古賀:ゴメン、ゴメン、やっぱ気のせいだよな!? バイトしすぎて疲れてんのかなぁ。。。

(食卓で)

母:セリちゃん、グズグズしないで、早く食べちゃいなさい!
娘:え~、でも、どれ食べるか、迷っちゃう~。
母:バカねぇ、たこ焼きなんか、どれも一緒よ!
  あと行儀悪いから、爪楊枝でツンツンするの、やめなさい。
娘:は~い、ママ。
  ど、れ、に、し、よ、う、か、な、、、
  よし! キミに決めた!!

(プスッ)

古賀:あ~~~!
小林:あ、待てよ、古賀! どこ行くんだ!? お~い!!!
福本:あーあ、行っちゃった。ま、しょうがないか、オレらたこ焼きだし。

土曜日, 10月 06, 2018

腕時計の怪

昨日、久しぶりに銭湯に行って帰ってきたら腕時計を無くしていた。
そういやロッカーの奥に置いたままだったことを思い出し、慌てて受付に電話して、ロッカーの中を探してもらうようお願いした。
どこかのおっさんがパチってたら見つからんよなぁ、、、ちょっと悲しくなりながらベッドに行くと、何と枕元に置いてあった。
どうやら、朝から時計をしていなかったようだ。。。

そして今朝、目覚めたらその時計が止まっていた。
そういや、前回電池を交換してから、もう2年以上も経っている。
慌てて時計店を探したが、田舎の悲しさ、なかなか見つからない。
ようやく、食料品スーパーの中に小さな店があったのを思い出し、車を走らせた。

「すみませんっ、この時計の電池交換できますか?」
「え~っと、これは太陽電池ですねぇ。光に当ててやってください」
「・・・」

情けない。
まぁ、忘れっぽくなったのはしょうがないとして、「ロッカー奥に時計を置いた」「2年前に電池交換した」などとウソの記憶を作ってしまうのはどーゆーこと?

その場しのぎのいい加減な人生を送ってきたツケが回ってきたのかも。

日曜日, 9月 30, 2018

へへへ

リトグリちゃんがラジオに投稿したメール読んでくれた!
嬉しすぎてしんどい。
ラジオネーム、もうちょっと考えたら良かった。。。







木曜日, 8月 30, 2018

暑すぎる

柵に突っ込んだ首が抜けなくなったと、べぇべぇ羊が喚くもんだから、救出のため外に出たんだけど、いやもう、ほんと暑い。たった5分で汗まみれ。
動物たちの様子は普段とそれほど変わらないが、運動量は明らかに少ない。
実際にはすっげーストレスなんだと思う。

脳の適応力は大したもので、異常気象をもうそれほど異常とも感じなくなってきたけれど、身体の方はそうはいかない。
この変動の早さはほんとにヤバイと思う。
まずは教育プログラムを抜本的に改編して、地球規模の自然を考える人材を組織的に育成すべきだ。
今すぐにでも。

月曜日, 7月 30, 2018

もう勘弁してください

一瞬、軽く心臓が止まったと思う。

刈り払い機にガソリンを入れようと、いつものように倉庫でゴソゴソしてたら、ふと視界の隅に黒い影がよぎった。不吉なものを感じて目を凝らすと、太くて黒いゴム管のようなものが、顔の高さから床のすぐ上まで、縦一文字にブラ下がっている。
まさかぁ!?とは思ったが、そのまさかだった。
両手を広げたくらいの青大将。
ヒュッと喉が鳴って、全身が総毛立って、おしっこ漏らした(ウソ)。

棚に丸めてあった防鳥ネットに潜ろうとして、そのまま絡まって動けなくなってしまったようだ。
これで、「ネットに絡まって自殺した蛇」を目撃するのは6匹目だ。
ラベル付けて包装したらヘビ捕獲器として売れるかも。グロいけど。

そーいえばここしばらく、倉庫で作業していると、ときどき磯の香のようなツンとした刺激臭を感じていた。その臭いには覚えがあって嫌な予感もしたが、ま、いろんな生き物いるからしょーがないかと、あまり深刻に考えないようにしていた。
あ、そーいえば最近、乾いてるはずの床に黒々としたシミを見つけて、首を傾げたこともあった。
あれ、ヘビの体液だったんだ!
10cmほど視線を上にずらしてたら、濡れた尻尾があったはず。。。

え、ちょ、そしたらさぁ、ネットに絡まってまだグネグネしていた時にも、真横で作業してたかもしんないじゃん!
や〜だ〜!!
1日1回は倉庫に入るし、その辺に置いてある工具は使用頻度が高いから、可能性は極めて高い。

想像しただけで気が狂いそうになるが、どうかトラウマになりませんようにと、今、必死の思いで文章に書き起こしている。

日曜日, 7月 01, 2018

耳タコ

とりあえず、いんでぃどとはずきるぅぺととりばごは、おれのテレビから出て行ってくれないか?
話はそれからだ。

土曜日, 6月 30, 2018

分離不安

まだ幼かった頃、知らない場所や人混みで親の姿が見えなくなると、それまでの上機嫌がウソのように泣き喚いたものだ。

今でも記憶に残る、どこかのデパートの売り場。
プレゼントを買ってもらえるというので、有頂天になって駆け回っていて、親がいない!と気づいた瞬間に世界が暗転した。
わーわー泣いても周りの大人たちが知らん顔なのがまた怖くて、ますます大声で泣き叫んだ。
買ってもらったはずのプレゼントは思い出せないが、生まれて初めて店内放送のお世話になるという痛恨の失態とともに、売り場で感じた不安や無力感は、今でもハッキリ覚えている。

なぜそんな羽目に陥るかというと、調子こいて辺りに気を取られて、親の居場所確認をサボっていたからだ。逆にいうと、親に頼っていたせいで、アウェイな場所なのに油断できるくらい安心していた、とも言える。
「あんまり離れなさんな」という親の注意なんか、まるで耳に入っていなかった。
ま、子供なんてそんなもんだし、むしろそうやってすぐに油断できるから、いろんなものを吸収できるのだろう。

犬の問題行動とされるものの一つに分離不安というのがあるが、これなんか同じだと思う。
しつけやトレーニングをどうこう言うより、要は犬が幼いということじゃないかと。

ファームに来る犬たちの中にも、それまで機嫌良く敷地をブラついていたのに、飼い主がちょっと姿を消した途端、急に騒ぎ出す犬がいる。飼い主が消えたドアの前に陣取り、抗議するように、あるいは哀訴するかのように、脇目も振らず吠え続ける。
飼い主が戻ってくると、再会を喜んで甘えまくるかというと、そうでもなくて、すぅっと平静に戻ってまた辺りをフラフラしだす。
安心と不安、万能感と劣等感、高揚と抑うつなど、気分が極端から極端に振れやすいのが未成熟な心の特徴の一つだが、分離不安な犬というのは、まさにそういう心の状態にあるのだと思う。

犬を飼うという行為は、大なり小なり、相手に子犬(の役割)を求めることでもあるから、それが分離不安という形で現れるのかもしれない。
「問題行動」と仰々しくラベリングしてしまうのは、ちょっと気の毒な気がする。

ただ気になるのは、そうやって騒ぐ犬ほど、飼い主の呼びかけへの反応が鈍いように感じられることだ。
呼んでもなかなか寄ってこない、、、くらいだったらまだいい方で、飼い主の方を見たり、あるいは耳をピクリと動かしたりといった、僅かな応答すら返さない犬もいる。
これも、まぁ子供だからと苦笑いでやり過ごすこともアリだが、呼びが効かないというのは現実的な不都合が多い。それに、幼かろうが年寄りだろうが、呼びかけをスルーするという態度は、ちょっとヨロしくない気がする。これは何とかしたい。

以前テレビで、分離不安の対処法として、犬が陣取るドアの前に敷物を置いて、吠えたタイミングで思いっきり引っ張るという方法を紹介していた。
いわゆる天罰方式というやつだが、映像を観ていて、ええ、そんなあ!?とのけぞってしまった。
もちろん、それで鳴き止む犬もいるだろうけど(TVに出演した犬には見事に効いた)、例えば不安に陥っている子供に対して、いきなり足払いをかけてひっくり返すようなことをするだろうか?

手っ取り早い対処を求める気持ちはわかる。
特に集合住宅なんかで隣近所から苦情が、、、といった事情では、即効性のあるやり方に頼らざるを得ないだろう。
ただその場合でも(問題行動が収まったとしても)、成熟やコミュニケーションに関わる課題が残っていることは頭に留めておくべきだ。

いや、たとえ目に見える問題が無くても、私たち犬飼いは「飼い犬をどうしたら成熟させられるか?」ということに、もうちょっと心を砕くべきじゃないかと思っている。犬の成熟とは何か?それを促すにはどうするのがいいか?といったことについて、犬の個性や置かれた環境に照らし合わせ、各自が少しずつ考えるのである。「心の成長」みたいなワードを意識するだけでもいいかもしれない。

そうすれば、犬との関係性が変わる、、、ことはないかもしれないけれど、自分や人社会の未熟なところに気づくことはできる。

土曜日, 6月 09, 2018

ファームあるある怖い話

3日ほど前だったかな、倉庫の中でネズミが死んでいた。

まだ、なまなましかったから、たぶんシャッターを開けたときにどこかに挟まれたんだろう。
忙しかったから、申し訳ないけど埋めずにコンポストに捨てた。

で、今日、Hiroさんがゴミを捨てようとコンポストを開けると、、、
そのネズミがまだ動いていて、こちらを睨んでいた!、、、そうだ。

どんよりした梅雨空の今朝の話。

土曜日, 5月 26, 2018

信頼関係

よく「犬と信頼関係を築こう」なんてことが言われて、それがまた耳触りが良いもんだからつい激しく頷いてしまうわけだけれど、フと立ち止まると、どーゆーことかよくわからなかったりする。もうちょい噛み砕いて言ってもらわないと困ります、と当局に苦情の一つも言いたくなるが、その当局の所在がまたよくわからないときている。
こうなったら、自己流で解釈するしかない。

信頼関係は双方向の作用だ。
自分から相手、相手から自分への信頼があってこその関係である。
そして単純に字面を追えば、信頼とは「信じ」て「頼る」ことだから、その第一歩はまず相手を「信じる」ことになる。

実はここで引っかかってしまう。
人が犬を信じるのはまぁ信じればいいとして、犬が人を信じるとはどういうことか?
「信じる」は、相手がウソをついたり裏切ったりする可能性があるからこそ成り立つ行為だ。いや、別に本当にウソついてくれなくてもいいのだが、少なくともウソという概念がないと、それを乗り越えたところにある「信じる」も成立しない。

何だかわざわざ話をややこしくしているようだけれど、言ってみればウソも裏切りも、わざわざ話をややこしくするのが大好きな生き物特有の技だ。犬の住む世界はそうではないだろう。
だからことさら言わなくてもいーじゃんという意味で、「犬が人を信じる」という言い方には違和感をおぼえる。

では、犬はどんな心理を経て、人を信頼するようになるのか?
それは「安心」ではないかと思う。

動物の欲求は、基本的には生存確率を高める方向に向いているから、特に群動物の場合、メンバーから受ける安心感は、何物にも代え難い魅力に違いない。
だから犬は真っ先に、一緒にいて安心できる存在を求めるようになる。
エサくれるとか、遊んでくれるとか、褒めてくれるとかもポイントにはなるが、それよりも何よりも、安心を与えてくれる人を求める。
そして人から安心を得た犬は、その人の意を汲み取ろうとするし、周りの世界に向けて自発的に行動しようとする。

だとすると、当面の問題は、どうすれば犬に安心感を与えられるのか?に移る。
人間同士だと、相手の財力や権力も安心の源になるだろうが、もちろん犬にはそんなものは通用しない。言葉も無力。
たぶん動物としての安定感みたいなもの、、、落ち着いた態度、穏やかで力強い声、安定した姿勢、揺るがない自信、心身の健康、、、そういうもろもろを全身をアンテナにして感じているに違いない。ノンバーバル言語とか無意識の所作と言ってもいい。

これは頭で考えたりコントロールするものではないから、できる人は最初からできるし、できない人はなかなかできない。
そう言ってしまうとミもフタも無いが、それでも、自分の様子が犬を安心させるかどうか、ということは頭の片隅に置いておいてもいいと思う。
犬が人を信頼するようになるのは、そういう僅かなことの積み重ねだと思うし、それにきっと、人の動物的な部分に対しても同じような効果があるからだ。

では逆に、人から犬に対する信頼とは何か?
私見ではそれは、「この状況でこの犬はこういう風に振る舞うだろう」という予想のことだ。
予想が確信に近いものになり、かつ予想された振舞いが人にとって不快でも問題でもない場合に、私たちは「犬が信頼できる」と言っている。
その意味ではリードで街中を散歩するのも、クレートに入れずに留守にできることのも、信頼の賜物と言えるのだが、普通はそこまで大仰には言わない。
ここでポイントになるのが、自由意思と人との関わりだ。

ファームでは、朝と夕の2回、犬たちをフィールド内に放している。
頭数が多くて散歩に連れていけない(こともないけど、面倒臭い)からだ。
その間、人間は家畜の世話に忙しいので、犬たちはフリーで敷地内をうろついている。
本当はもっとかまってやりたいのだが、あいにく、そんな暇は無い(こともないけど、面倒臭い)。

羊を見張るやつ、鳥を睨みつけるやつ、ひたすら放牧地を駆けるやつ、人の傍を離れないやつ、、、犬たちのやることは見事にバラバラだ。個性ってすげーといつも感心している。
ただ、暇そうにするやつがおらず、揃いも揃って何やら忙しげなところは、さすがボーダーコリーと言うべきか。
こっそり柵の中に忍び込み、羊を追いつめる不届き者もいないではないが、まあ事故は起きないやろと多寡をくくっている。

最初からこうしようと決めたわけではない。
毎日の暮らしの中で、人と犬が試行錯誤を重ねてきた結果だ。
仔犬の時、自由にしてやれるのは狭いサークルの中だけだったのが、やがて庭や作業場に広がり、大人になる頃にはほぼ敷地全体になる。
その中で犬たちは、色んなことと折り合いをつけながら、自分の居場所を見つけ、わきまえた行動を身につけてきた。
ざっとまぁ、そういうこと(=そういう風に思えること)が、人から犬への信頼ではないかと思う。

と、いうことで強引にまとめると、人と犬の信頼関係というのは、犬がまず安心できることであり、その安心感を糧に人と犬が互いの意思を尊重しながら暮らしを築いていくことだと思う。
異論は多々あるだろうが、大事なことは、双方が相手(の意思)を欲望することだ。


犬と暮らすということは、イコール犬の自発的な行動を制限することでもある。
しかし信頼関係という見えない秩序のもとで、自由意思を発揮する場面を増やすことはできる。
それは人にとって煩わしいことだし、リスクも伴う。
ただ、世の中の多くのことがそうであるように、それは一見犬のためのようであって、実は人がよりよく生きるためのものだったりする。


木曜日, 4月 26, 2018

毛蟹ツアーがあるんやから毛刈りツアーとかあってもえーんちゃう?

今年もこの季節がやってきた。

例年、4月なんてまだ余裕をかましてたのだが、今年はお尻に火がついたような感じだ。
暑い日が尋常でなく暑いことと、刈る頭数が増えたからだ。

Hiroさんの努力もあって、羊は13+5(子羊)頭にまで増えた。
毎年、毛刈りのテクニックは少しずつ向上していると思うが、それと同じくらいのペースで頭数も増えている。だから、負担感はなかなか軽減しない。
そりゃー、何百頭もいるような牧場からすれば、ほとんど誤差範囲みたいなもんでしょーけどー

それに去年からは飼育委託されたアルパカも加わった。
彼らも暑さには弱いし、毛は伸び続けるので、やっぱり刈ってやらないといけない。

羊は原則、保定と剪毛が1人でできるように、手順と道具が美しいまでに確立されているが、パカはそうでもない。ようつべを検索すると、紐で縛ったり壁に押しつけたり大勢で押さえ込んだりと、お前らみんな勝手にやってるやろ!状態である。まだまだ世界的にも試行錯誤なのかもしれない。

去年はアルパカ自体が珍しいこともあって、委託元にも協力いただきワーッと作業して乗り切ったが、今後定常的にやって行くためには、そこまで力をかけるわけにはいかない。
ああ、今日は燃やさないゴミ出す日やからちょっと捨ててくるわ、くらいのノリでないと続かない。
目を血走らせた鼻息荒い男たちにとり囲まれるパカも気の毒だし。

あーあ、それにしても気が重い。
ある日突然、広瀬すずがやってきて「毛刈りお手伝いさせてもらえませんか?お金払いますから」って言ってくれないかな?

日曜日, 4月 22, 2018

俺にまかせとけ

「よく知ってるけど、口にしたことがない」セリフというのが誰にでもあると思う。

この前、何かの拍子に「オレにまかせとけ」と口にしたことがあって、その時、あれ?何かうまく言えてへん、みたいな微妙な違和感を感じた。
なぜと自問してみると、要は「言い慣れてない」からで、そう言えば、生まれて一度も言ったことないかも!?ということに思い至った。

つまり、ある仕事なり課題なりを引き受けて、実行から結果責任までまるっと背負うという言動を避けてきたわけだ、自分という人間は。
なんという無責任な男なんだろう。

いやいや考えようによっては、安請け合いをしないという意味で、逆に責任感が強いのかもしれない。
ネプチューンの原田泰造みたいに、オレにまかせとけを乱発する人間にあまり頼りたくないと思うのは、自分だけではないと思う。

まぁその辺はどっちでもいいとして、自分にはこんな未使用ワードがまだまだ一杯あるような気がする。
頭の中に、「そんなバカなっ!」とか「お前に俺の何がわかるんだ!?」とか「前の車を追ってください」といったドラマや映画の定型セリフが、未開封状態で大量にストックされている。
そういうのってちょっと可哀想じゃないかと思う。
言ったことがないセリフを使ってみたい、ということがモチベーションになって、行動を起こすことだってアリだと思う。

筒井康隆氏の小説に、登場人物の社会属性(主婦とかサラリーマンとか女子高生とかヤクザとか)と言葉遣いをミスマッチさせた話があって、強烈な異化効果に驚いたことがある。
自由に会話している気でいても、がんじがらめと言っていいくらい、言葉が限定されているのが現代人なんだと、思い知らされる。

そういえば最近、セクハラやパワハラ、暴力沙汰などの報道が多い。
そのたびに「意識を変える」必要性が叫ばれるが、それこそ表層的な意識ならいざ知らず、内面化した意識を変えるなんてことが、そう簡単にできるはずがない。
セクハラ研修でいくらケーススタディを積み重ねても、ガハハ親父の性根は変わらない。

本心は話の内容ではなく口調にあらわれる、みたいなことをどこかの学者さんが言ってたが、ならば、意識を変えるのにまず言葉遣いを変える、というソリューションもあるかもしれない。
国会なんか杓子定規な官庁語を使うから、建前しか言えないのであって、答弁は飲み会用語を使うこと、というルールにしてしまえば、ぶっちゃけオレら小役人なんかさぁ、おエライさんの顔色伺うしかないわけよ、みたいな本音が、10回に1回くらいは聞けるかもしれない。
どーしようもないガハハ上司には、とりあえず主婦の井戸端会議か、女子大生の恋バナ用語くらいをマスターしてもらおう。
もう少し、相手の気持ちを斟酌できるようになるかも。

まぁそれは難しいとしても、一人称を替えるくらいだったらできそうだ。
相手との関係で一人称が変わるのが日本語の難しいところだが、それを逆手にとるのである。

実はこんなしょうもない文章でも、しっくりくる一人称が無くて、ずっと悩んでいる。
ワタシはリーマン時代の感覚が蘇るようだし、かといってオレは強がってるみたいだし、ワシはおっさんだし、ボクは年齢的に気がひける。
だから、できるだけ一人称は使わないようにしているのだが、どうしようもないときは「ジブンは」とか「コジンテキには」などを使っている。
はっきりいって苦しまぎれだ。

あれ、何の話をしてたんだっけ?
というのも、言ってみたかったセリフの一つです。

木曜日, 4月 12, 2018

輝かしい朝に

ファームの1日は、外飼い犬のうんち掃除から始まる。

犬が一晩にする量なんてたかが知れてるが、5頭分ともなるとかなり手強い。
人間と一緒で、仕事しないやつに限って大量にうんこする、、、気がする。
掃除しながら「もう、うんこすんなっ!」と毒づいてる自分は、あんまり好きじゃない。
    
最近はそれに、アルパカのうんち拾いが加わった。
日課にされてる方には賛同いただけると思うが、これは結講悩ましい作業なのだ。
ヒツジやヤギだと、フンはフィールド中に散らばってしまうので、そもそも拾い集めようなどという気も起きない。

アルパカはフン場を決めて、決まった箇所でする習性があるようで(タイミングが重なると、一列に並んで順番待ちしてたりする)、黒々と盛り上がった塊が、嫌でも目に入ってくる。
これは掃除せなアカンか~、という空気に追い込まれる。

実は見た目だけじゃなく、寄生虫予防の意味もあるから、せっせとうんち拾いしている。
両手にチリトリと熊手を持って、中腰をキープしたまま、ウサギの糞みたいなやつを集めて回るのは、かなりの重労働である。

いや、うそ、実はそれほどでもない。
そりゃ愉しかぁないけど、気候さえ良ければ、鼻歌が交じることだってある。
問題があるとすれば1日もサボれないことで(丸一日溜めてしまうと、見ただけで心が折れる)、朝夕の2回、できれば昼頃にもう1囘、雨が降ろうが槍が降ろうが、ジミすぎる作業を重ねないといけない。

自分のペースで適当にやれればいいのだけど、動物相手だとまったくそうはいかない。
このフラストレーションが文明発展の原動力なのだろうけれど、それにしても、アルパカのうんちって・・・