土曜日, 4月 08, 2017

歓喜

来たー!
武道館ライブ映像DVD(初回限定MV集付き)!

これでまた、リトグリちゃんたちとの妄想会話が楽しめるっと!!

日曜日, 4月 02, 2017

犬らしい犬

小学生の頃、野良犬、飼い犬を問わず近所中の犬を「煮干し」で手なずけるほど犬好きだった自分が、ボーダーコリーを見て最初に持った印象が「犬らしい犬」だった。

真っ白でも真っ黒でもなく、小さ過ぎず大き過ぎず、短足でも足長でもなく、フワフワでもツルツルでもなく、つまり見た目にはこれといった特徴が無いけれども、オオカミのような怖そうな顔と思慮深そうな眼、、、これが、色んな犬と接してきて、何となく心の中に抱いていた「代表的な犬」のイメージだった。

だから、大人になって初めてボーダーコリーを見た時、最初に書いたような印象を持ったのかもしれない。
その時点では、犬を飼育できる環境ではなく、またボーダーコリーという犬種名すら知らなかったけれど、どーしてもその犬のことが頭から去らず、手当たり次第に調べ物をする羽目になった。
そうこうするうちに、自分の中で「犬らしい犬」が「特別な犬」に変わるのに、それほど時間はかからなかった。
かれこれ、もう、20年以上も前の話である。

、、、とゆー前フリから、新しく来たLouを見て改めて「犬らしさ」を感じた、みたいなことを言いつつ、実のところは彼女のノロケ話をしたかったのだが、ここまで読み返してみて、なんか文章が軽いなぁ~、ウソ臭いなぁ~と感じてしまったので、ここで筆を置くことにする。
残念です。

ま、人が遠い目をして語るような話は、大抵がウソと相場が決まってて、ウソというのがアレなら物語と言ってもいいけど、人は物語と無縁に語ることも生きることもできないのだから、全然気にすることは無いのだけれど。


媚びを売るLouとソッコー落ちるRudi

火曜日, 3月 21, 2017

くだらない話(後編)

下町エリアに一歩足を踏み入れると、そこはもう立派なスラムでした。

荒れ果てた辺りの様子にビクついていると、向こうから悪党ヅラの女が近づいてきます。
あぷらんど姫でした。
長く離れて暮らしていた両者は、下町エリアで思わぬ再会を果たしたのです。
でも、それは幸せなものにはなりませんでした。

「うっ」
「うっ」

そうです、いきなりの対面に慌てた二人は、平常心の「あ」ではなく、緊張を煽る「う」を使ってしまったのです。
それがお互いの反感に火を着けたのか、ハデな取っ組み合いになってしまいました。

「ガルルルル」

怖ろしい唸り声を上げ、互いに相手の首を抱え込みます。
双方とも、頑として放しません。
どちらかが降参すれば決着がつくのですが、互いの意地もあるのでしょう、簡単には引き下がれないのです。

でも、意地の張り合いなら、下町育ちに一日の長があります。
もしし姫が「ひぃ」と声を漏らし、最初で最後の争いは終わりを迎えました。

やがて冷静になった二人は、それぞれの居場所に戻り、それぞれの暮らしを続けました。
And they lived happily ever after.


-- よーするに、くだらない話はどんな書き方をしてもくだらない、
-- とゆーお話でした。

月曜日, 3月 20, 2017

くだらない話(前編)

むかしむかし、ある小さな王国に、もししとあぷらんどという2人の王女が住んでいました。

もしし姫は色が黒くて小心者でしたが、王室に取り入り、母屋でぬくぬくと暮らしていました。
色の白いあぷらんどは働き者でしたが、見た目がヤボったかったせいか、けっこう雑に扱われ、普段は下町で寝起きしていました。

もしし姫はあぷらんどの才気溢れる様子が妬ましく、また、あぷらんど姫はもししの調子の良いところが嫌いでした。
つまり、お互いに相手のことを良く思っていなかったのです。

ポカポカ陽気のある日、もしし姫は一人で裏庭に出てみることにしました。
いつもは、用心してすぐに室内に入る姫でしたが、その日はヘラヘラと調子に乗ってしまい、出入り口が閉められたことにも気がつきませんでした。
そのことを知ったのは、昼寝に帰ろうとして出入り口の前に立った時でした。

「ひっ!」

急に不安になってパニクった姫は、なぜか横手にあった塀をよじ登ってしまいました。
塀の向こうは、、、禁断の下町エリアだったのです。


--宿命づけられた二人の運命!
--以下、怒涛の後半へつづく!!

月曜日, 2月 27, 2017

強者と弱者

ポイントゲットのテクニックとしては、「話題を変える」とか「キレてみせる」とか「言葉尻をとらえる」とか、いくらでも考えられるけど、案外効果的なのが「笑わせる」ことだ。
笑いが起こった瞬間、仕掛けた側にはシテヤッタリ感があり、笑わされた方はちょっと悔しかったりする。
つまりポイントのやりとりが発生する。

このテクニックのアドバンテージは、一方的にポイントを加算していっても、場の空気や人間関係が悪くならないところにある。
テレビを賑わしているお笑い芸人たちは、これを駆使できるという意味で、実は圧倒的な強者じゃないかと、わりと最近気づいた。
彼らには、たとえ相手が一国の総理大臣だろうが大会社の社長だろうが、一対一の会話であればまず負けないくらいの自信があるにちがいない。

だから彼らは、本来のバラエティだけでなく、アウェイなはずの司会やインタビューでも、相手に臆するということがない。
その余裕は、制作サイドや視聴する側の安心感につながる。
お笑い芸人があらゆるジャンルの番組に進出できるのは、ここが大きいと思う。

そういえば先日、NHKで「洞窟おじさん」というドラマをやっていた。
中学の時に家出をし、そのまま40年を山奥の洞窟で暮らした男の「ほぼ実話」だ。

前半のサバイバルの場面は、わりと平常心で観ていられたのだが、後半、他人との葛藤によって少しずつ「人間らしく」なってくるあたりから、ぐいぐい引き込まれてしまった。(しかし、リリー・フランキーってホームレス役がほんとハマるなぁ)

ドラマを見ていると、普通の人が普通に交わす会話が、慣れない男にとってはヒリヒリするような緊張を伴う体験であることがわかる。
だから彼は、人里に降りては山奥に逃げ帰ることを繰り返すのだが、他者や死者との関わりを通じて、最終的には人の世で生きることを選択する。

嫌な思いをすることがわかっていても人と関わって生きるしかない、、、そう覚悟を決めたのだろうか?
この辺に、人間性の本質的な何かが表現されているようにも思える。

ポイント判定アプリ


「会話が弾む」相手というのは、たぶん、ポイントのやりとりが頻繁で、かつトータルの勝ち負けが拮抗するような人だ(その逆は必ずしも成り立たないけど)。
ポイントの出入りが少なかったり流れが一方的だったりすると、内容が充実していても、イマイチ盛り上がりに欠けたり、ノリが悪かったりする。

最近のIT技術であれば、会話内容を認識するだけでなく、ポイント判定までできそうだ。
そうすれば、会話の「弾み度」をリアルタイムで判定したり、ロボットの会話能力を向上させたり、「気の合う相手」推薦アプリを開発できたりしそうである。

あ、これ結構良いかも!?って、こんなとこに書いてしもたら、もう特許取られへんやん!

パワーゲーム

どれだけ和やかで他愛の無い内容であっても、人対人の会話には、刹那のポイントを競うパワーゲームという側面がある。
ま、そう思ったってだけで何の根拠もないですけど。

例えば・・・

A 「なぁ、山本が結婚してたの知ってる?」
B 「え、そうなん!?」

 → 新情報を提供したAが1ポイントゲット。

A 「そうなんよー、ビックリやろ?」
B 「へぇ~、そうなんや。それで相手は?」

 → 質問したBは1ポイント減点。

A 「それがさー、なんと、経理のたま子ちゃん!」
B 「え゛~、うそやろ!」

 → と叫ばせたら高得点、Aに2ポイント追加!

A 「オレも最初に聞いた時、腰抜かしたわ。なんせデラックスたま子やからなぁ」
B 「いやいや、経理にお世話なってて、それはアウトやろ」

 → 軽くたしなめたBが1ポイント挽回!

・・・みたいな感じ。

これに表情とか態度とか地位とか年齢とかホームとかアウェイとかいろんなファクターが加わって、複雑でデリケートなゲームになる。
だから会話はおもしろいし、同時にしんどくもある。

どっちに傾くかは状況次第だけど、一つ言えるのは、人にとって「競う」ということが、息をするのと同じくらいフツーのことだとゆーこと。
ここは押さえとかないといけない。

いや、もしかしたらこれは順序が逆で、そもそもコミュニケーションというのは、わかり合うとか意思を伝えるためじゃなく、上下や順番を決めるものだったのかもしれない。

犬たちを見ていても、日がな一日、「そーゆーこと」にしのぎを削っている(ように見える)。
犬のことだったら、「くっだらねぇ!」と切って捨てられるのになぁ~。

土曜日, 2月 25, 2017

ゆく河の流れは絶えないの?

つい数年前まで、羊のフンを片づけたり柵を修理したりしていると、自分は一体何やってるんだろう?という感覚だったけど、今は逆に、オフィスで働いていたことが夢か幻のように思える。

そのうち、生きてるのか死んでるのかわかんなくなるんだろう。

鴨長明さんは、きっとこういうときに方丈記を書きたくなったんだと思う。

金曜日, 2月 17, 2017

雪が白いとは限らない

やまない雨も、明けない夜も、今まで一度も無かった〜と、さだまさしがカン高い声で歌っていたけれど、ファームで暮らしていると、雪やみぞれが一度も降らない日はもう永遠に来ないんじゃないかと、深い絶望にとらわれるときがある。

太平洋側に住んでた頃は想像もしなかったが、この時期の日本海側気候というのは信じられないくらいwetだ。
お、晴れてるやん!と外作業に出ようとしても、服を着替えてる間にもう暗〜くなってきて、倉庫に辿り着く頃には白いものがチラチラしている。
雪が犬遊びが結びついていた頃は、ちょっとは愉しみな面もあったが、ここまで生活と密着してくると、もう後ろ向きの気分にしかならない。

ただ福知山は確かに雪はよく降るけれど、めちゃくちゃ寒いというほどでもない。
だから雪は降ったそばから融ける。
その上を動物たちが歩き回って、地面はぐちゃぐちゃのドロドロになる。

実はこれが辛い。
気力とか覇気とか、そういう希少なものが全部泥に吸い取られてしまう。

毎年のことで、いい加減慣れてもよさそうなものなのに、その気配もない。
しかも今年は新参者のアルパカと仔犬たちがいて、そいつらが体中を泥だらけにするので、なんかもう気が狂いそうな状況になっている。

もし3日間の晴天が約束されたら、悪魔に魂を売り渡してしまうかもしれない。


月曜日, 1月 23, 2017

自分が2人いる

人は誰でも、最低2人の自分を持っている。
自分が知っている自分と、知らない自分。
2人の自分に引き裂かれながら、何とか折り合いをつけて生きているのが、今の進化段階の人という生き物だ。

人はオギャアと生まれた時は100%受動的な存在で、自分を自分とも思わず、ましてや「自分らしさ」とか「生きる目的」てなことに悩むこともなく、ただ充足して生きている。
これが知らない自分(の原型)である。

それが、いつしか自分と自分以外を区別するようになり、行きたい場所に行き、目的らしきものまで持って生きるようになる。
この自分が、自分の知っている自分になって、それ以外の自分は知らない自分として、舞台裏に押しやられる。もちろん消えて無くなるわけではなくて、知っている自分が知らないだけだ。
そのうち、これに「他人が知っている自分」というのも加わって、話はもっとややこしくなるけれど、これはまぁ知っている自分の分身みたいなもんだからスルーしちゃおう。

例えば人はいろんな理由で恋に落ちるけれど、職業とか年収とか背が高いとか、もっともらしい理由がスッと言える時は知っている自分が主役になっていて、そうでないときは知らない自分が働いている。後者の場合は、たぶん、声の響きとか体臭とか細胞の形とか、(知っている自分が)意識しないところでグッときてしまったのだ。

とまぁ、今良いこと言いましたヨ、みたいにもったいつけて書いてるけど、考えてみれば当たり前の話で、人が自分のことを完全には理解できない以上、残った部分は自動的に知らない自分になる。
問題は、両者の行動原理がまるで違うために葛藤や悩みが生まれることと、それらが基本的には解消できないことにある。

前者を意識とすれば後者は無意識、前者を理性とすれば後者は感性、前者が脳なら後者は身体、前者が個の生存欲求なら後者は種の保存欲求、前者が現実なら後者は夢、、、と、いろんな切り口で解釈できるのだが、どれにしても、そう言い切った途端ウソっぽくなってしまう。
実際には、二項対立のような簡単な構造ではないだろう。

そいえば世間では、スカートの中を隠し撮りしてた犯人を捕まえたら学校の先生でした、みたいな恥ずかしい事件が後を絶たない。
ニュースを見聞きするたび、地位も名誉も良識もある人が、すっげぇリスク冒してまで何でそれするかなぁ?と首を傾げるが、これは人格が1つという前提で考えるから変なんであって、彼の知らない彼の仕業だと思えば不思議ではない。
知ってる自分に知らない自分のことがわからないのと同じように、知らない自分には、知ってる自分の世界のリスクなど知るよしもない。

昔から、自分(まろ)には持てあまし気味の性癖があって、それは、ラジオ番組やTVドラマでどこか琴線に触れるところがあると、ヘビーローテーションしていつも心を一杯にしておきたい、という欲求を抑えられないことだ。

受験勉強の頃には、深夜放送のMBSヤングタウンを欠かさず聴いただけでなく、録音までして昼間もずっと聴いていた。半年ほど冬ソナにドップリ浸かったこともあって、そこから抜け出した頃には、心の中のアニマが活性化されたのか、性格まで変わってしまった気がする。

いわば嗜癖や依存の一種なんだろう。
生活が崩壊するところまではいかないけれど、論理的な思考や現実問題に向き合う意欲は明らかに減退する。
傍から見れば幸せなヤツかもしれないが、本人は結構苦にしている。
災難と同じで「ハマる」のはいつも突然なので、知ってる自分はただオロオロ見守ることしかできない。
予知とまでは行かなくても、せめて傾向だけでもつかめれば、心の準備ができるのに・・・

土曜日, 1月 21, 2017

雪ねぇ

鳥小屋崩壊した〜
アンテナ曲がった〜
雨どい折れた〜
ヤギ小屋歪んだ〜
鹿柵死んだ〜
地面ぐちゃぐちゃ〜
犬ドロドロ〜
子犬逃げる〜
人間ヘロヘロ〜

日曜日, 1月 01, 2017

新発見

犬は身体を小さくすることがある、とゆーことを発見した。
「小さく見せる」ではなくて、「小さくする」だ。

今回、初めて母犬になったLouさんは、元の農場にいたときはずいぶんと大きかったのだが、出産前後は小さくなっていた。
子育てが終盤に差し掛かった今は、また元のサイズに戻りつつある。

理由など知る由もないが、もしかしたら、外敵から身を守るのに都合が良いとか、子犬に威圧感を与えないためとか、群から反感を買わないように身を慎んでいたとか、何かそんなふうなことがあるのかもしれない。

どうやって?というのもナゾだ。ただ、全身の関節の隙間を少しずつ縮めるとか、皮膚を収縮させて身体を引き締めるとか、何かしらの手はあるのだろう。
耳を自由に動かせる連中の身体能力なんか、人間にわかるはずがない。

そういえば、オオカミの母親は子供が口をなめると胃の中のものを吐き戻して子に与えると言うが、Louにもそういう習性が残っていて、何度もそういうシーンを目撃した。
今さらながら、犬の潜在(でもないけど)能力には驚かされる。

とゆーことで、犬と暮らしているといつまで経っても新しい発見がある。
Louの場合、単に毛が抜けてまた生えそろってきただけ、という説もあるが、それじゃあつまらないから、そーゆーのは却下。

日曜日, 12月 18, 2016

サプライズ!ゲスト

「どうですか?」

「かわいい」「癒され〜!」

「ね!?羊と一緒にバーベキューって悪くないでしょう?」

「サイコー!」

「うわっ、もうハモってるし!!ガンガン食べてってくださいネ」
「しかし、武道館の前によく時間取れましたね〜、今めちゃくちゃ忙しいんでしょ?世界が一変したんちゃう?」

「ええ、すごく忙しいですけど、でも自分らが変わったという実感は全然無くて、ただガムシャラに突っ走ってる感じです」

「さすがmanakaさん、100点のリプやね。でも、ぶっちゃけ、これでイケる!って感じ掴んだでしょ?」

「いえいえ、まだまだです。それに私たち若くて人生経験少ないし...」

「いや、そんなことないわ。だってほら、情熱とか才能とか恋とか、年齢と関係無いことっていっぱいあるやん?」
「そん中でも、一番関係無いのが、人生経験やと思うで」

「え、そーかなぁ?」

「だって、みんな、フツーの人ができないことしてきたし、誰も見られないシーン見てきてるやん。経験なんてもんは絶対、量より中身やわ」

「でも、やっぱり勉強とかクラブもやりたいし、恋もしてみたいなぁって・・・」
「わたし、勉強はヤだよ」

「はは、まじゅはそーやろね。まぁ嫌なもんはやらんでもえーけど、好きになる努力はせなあかんと思うよ」

「え゛〜ヤだ」

「まぁええけど」(笑)
「でもホント、人って年取ったから言うて、そんな成長せんからね。デキたやつは若い頃からデキてるし、イタい奴はイタいままやし、スケベェは死ぬまで治らない」
「ま、こういうエーことは年取らんと言えんけどね」

(一同笑)

・・・って、妄想でリトグリと会話するおっさんってだけで充分ハズいのに、それをまたブログに載せるのって、ほんとどーかしてるゼ。

木曜日, 12月 08, 2016

肉食系ヤギ、草食系イヌ

白ヤギの白玉タマ子さんの様子がおかしい。
フェンスを乗り越えて第一放牧地に侵入し、その隣にある第二放牧地に向かってぎぃぇぇぇ〜と咆哮している。

そういえば、タマ子さんもお年頃。
もしかしたら、第二放牧地にいるオスの茶色君がお目当てなのかもしれない。
そーか、オトコが欲しいか!?
いや、気持ちはわからんでもないが、茶色君は羊だから。。。

ぐれぐもおかしい。
そろそろ隠居させてやろうと、部屋に上げたのが間違いだった。
ずっとごろごろしてるから、どんどん太ってきた。

ちょっと引退は早すぎか、というわけで、また外暮らしに戻ってもらったのだが、
腹が減るのか草を食べまくっている。
今朝も、ご近所さんが持ってきてくれたくず野菜を、口いっぱいに頬張っていた。

君の食性はどうなってる?

土曜日, 11月 19, 2016

わらの犬

仔犬たちが生まれて2か月経った。
ここまで7頭全員これといった問題もなく、健やかに育ってくれている。
Louさん、初出産と慣れない子育て、ご苦労様です。

もともとイギリスの農家に憧れて始めたファームだから、できれば古い石造りの納屋の片隅で、藁にまみれて出産&子育てしてもらいたかったのだが、それはさすがに無理!とゆーわけで、今回は犬エリアにある離れの一角を使ってもらっている。
ただちょっとでもそれらしく、、、せめて藁だけでも敷いてやることにした。

これが、思いの外、良い感じ。
おしっこしても上は乾いているし、ウンチも藁と絡みあうので身体にはくっつかない(匂いは隠せないけど)。ペットシーツに勝るとも劣らない、優れものだと思う。
何より、藁と仔犬という絵面がハマるというか、とても似つかわしく、また微笑ましく見えるのだ。
もちろん、7頭もいるからアッという間にドロドロになって、毎日替えてやらないといけないけど。

仔犬たちはいたって呑気に暮らしている。
本当のところはわからないけど、何と言うか、、、とても安心している感じ。
母犬もそんなにかまってるように見えないのに、キュウキュウ鳴くような場面はほとんどない。外からそっと覗くと、大抵、ダンゴになって一心不乱に寝入っている。
人の姿が近くに無いのが、逆に良かったんじゃないかと思っている。
どんな犬に育つのかはわからないけれど、きっとピリピリした犬にはならないだろう。

なんとなく薄ボンヤリしていたそれまでと違って、ここ1週間ほどは、日に日に意志や表情がハッキリしてきている。心が育ってるんやなぁ、と思う。
もうあとホンの1か月ほどで、世界を認識して生きるための作法をあらかた身につけないといけないのだから、それこそ爆発的なスピードで、神経ネットワークが構築されているのだろう。
母犬もようやく、絡みついてくる仔犬を転がしていなすようになってきた。
ここ数週間が、一生のうちで一番大切な時期なんだろう。

考えてみると、こうやって育てていると、人と会うのは食餌のときか、遊びに出るときだけである。これで人が嫌いになるわけがない!と思う。
何かを止めさせられたり、叱られたり、呼んでるのに無視される、、、なんてことはまず起こらない。
「犬は(人の手でなく)藁で育てる」というのが、今週の標語だ。

月曜日, 10月 17, 2016

犬の小説

それまで本といえばマンガと課題図書くらいしか読んだことのない、立派な本嫌い少年だったのに、友だちが薦めてくれた一冊がきっかけで、わざわざ自分で買ってまで読むようになった。ユリくんというその友だちはちょっと変わっていて、小学校の頃にはいじめ・いじめられの微妙な関係だったこともあるのに、どこか気が合うとゆーか、一緒にいると気が楽みたいなところがあって、何だかんだとずっと付き合っていた(ちなみに今になって思い返してみると、ユリくんをはじめとして、自分の人生の節目節目で関わってきた人は、ほとんどB型だったような気がする。良くも悪くも。。。)。

それはまぁいーとして、ユリくんが「これ、めっちゃ(という副詞は当時無かったが)おもしろいで」と、半ば押し付けるように貸してくれたのが、北杜夫の「怪盗ジバゴ」だった。
最後まで読んだとき、小説がこんなにおもしろくていいのか?と思った。
それが中学一年の頃で、そこから高校を卒業するまで、SFとか推理小説も含めて、軽~い小説を中心に本を読み漁るようになった。北杜夫も、手に入る本は片っ端から読んだ。

よくできた軽い小説が罪深いのは、「これくらいやったら、自分でも書けるんちゃう?」と読者に勘違いさせるところで、大体において勘違い野郎だった自分も、案の定、勘違いした。
若いって恐ろしい・・・。
勘違いが極まった高2のある日、クラスメートを主人公にした小説を書き始めた。もう恥ずかしいくらい世の中を舐めきっていて、あらすじも決めず、ストーリーやセリフくらい書いてるうちにどんどん湧いてくるやろう、くらいの気持ちだった。

なぜか時代小説仕立てになっていて、富田靖男之助は姿をくらました悪代官、清水膳之丈の行方を追い、夜更けの江戸の町を駆けるのであった、、、みたいな、知り合いの名前をなぞっただけの箸にも棒にもかからぬシロモノで、案の定、登場人物が出そろったらもう書くことが無くなって、B5ノート2ページくらいで終わってしまった。
オレやっぱり小説書くわと、書き始める前から周りに吹聴していた自分を激しく呪った。

それで完全に懲りたはずなのに、それから40年経った今、またぞろ小説を書きたい気になっている。構想はある。徹底的に擬人化されたシープドッグと、それに関わる人間の勝手な思惑が織りなす愛憎劇、、、つまりはリアル・ストーリーだ。
筋書きはまだだが書き出しだけは決まっていて、それは「僕はやっぱり誰も許すことができない。その最たるものが自分だ」である。スリルもどんでん返しも無いけれど、良識の衣に隠された狂気を浮き彫りにした問題作になるはずだ。
まだ、どろどろした情念が自分の中にあって、それが十分発酵して栄養分になるまで、もう30年くらいかかると思うけど。

月曜日, 10月 03, 2016

天中殺って死語かな?

何をやってもうまくいかない日というのはいうのは確かにある。
それも結構頻繁に。

細かいのも含めて用事は一杯あるのに、ダメなことがわかったり、納得いかなかったり、一部がペンディングになったり、、、「よ~し、これで一件片付いた」というのがまるで無い。

ま、自分の場合、それであまり人様にご迷惑をおかけするということが無い(と信じてる)からいいんだろうけど、これが会社の役員とか国を代表するの外交官だったりしたら、大変だろうな~。
「今日は何やってもムダ!」とふて寝してテレビ見るわけにもいかない。

余計なお世話だけど。

火曜日, 9月 20, 2016

おいしいコーヒーにたどり着けない

コーヒーってキリマンジャロとかブルーマウンテンとか、山系の名前が多いじゃないですか?

だからこの前、コンビニに立ち寄って、せっかくだから香りが良さそうなのをと考えて、なんちゃらモンブランとかゆーやつを買ったら、めっちゃ甘い。
奥さんには「モンブランというコーヒーは無い!」とびしっと言われた。
まぁ、これは勘違いした自分が悪い。

で、もう同じ失敗はしないゾと決意して、三田のぐろりあ・じーんずとかいう店で、カフェ・モカというのを頼んだら、げえって声に出して唸るほど甘い。モカっちゅーくらいやからコーヒーのモカちゃうんかー?と思ったが、どーもその辺の認識が甘かったらしい。

世の中は自分中心に回ってると思っていたが、もしかしたら違うのか?

木曜日, 9月 08, 2016

でぃーぷ・らーにんぐ

うら若き女子×120名を前に講義することになった。し・あ・わ・せ。。。
本当は人生とか恋愛とかを熱く語りたかったのだけれど、テーマはIT技術とのこと。
新しい話題に乏しいので、付け焼刃で人工知能の現況について調べてたら、これがなかなかおもしろい。
筋立てメモがわりにブログに書くことにした。ただ、ネタ元はネット情報だし、難しいところはすっ飛ばしてるから、内容はとても怪しい。

コンピュータが囲碁チャンピオンに勝ったとか、小説や楽曲を創作したとか、レンブラントみたいな絵を描いたとか、音楽のヒットや犯罪発生を予測するシステムができたとか、一昔前には「絶対ムリやろ!」と思われたことが、ここにきて次々と実現してしまった。画像や音声などのパタン認識系のコンテストでは、軒並みトップの成績で、しかも2位以下を大きく引き離しているらしい。
マイコン時代からコンピュータ業界の隅っこにいた自分にとっては、何だか夢のような話に感じられる。

先の例で使われた技術が、Deep Learning(深層学習)だ。
IBMのCognitiveなんちゃらや、Googleの音声認識も同じ。これまでニューロ・コンピューティング、あるいはニューラルネットと呼ばれてきた技術の進化形。

理論や数式はチンプンカンプンだが、原理はわかりやすい(言ったな!?)。脳の情報処理をモデルとし、シナプスで相互接続された多数のニューロンをコンピュータ上に構築する。
あるニューロンに入ってくる刺激の総量が閾値を超えるとそのニューロンは”発火”する。その興奮は、シナプスを介して別のニューロンに伝達される。それを繰り返すことで、特定の入力パターンに反応するニューロンを作り出していく。

例えば、「見た目で男か女かを判定する」装置を作るとする。
まず画像から髪の長さ、体形、衣装の形、靴の種類・・・などの特徴量を抽出する。ルールベースと言われる従来型の方式では、これら特徴に対する判定ルールを、「もし “髪の毛が長い” ならば 女子である確度を ”高く” する」のようなif-then形式で構築しておく。得られた特徴量に対して複数のルールを起動し、総合点を求めるような形で、元の画像が男か女であるかを判定する。

一方ニューラルネットでは、特徴量を抽出するステップは同じだが、それらを割り当てられたニューロンに入力する。各ニューロンは特徴量に応じて発火し、それが次々と別のニューロンに伝えられ、最終的に「男ニューロン」と「女ニューロン」のどちらが発火しているかで男女が判定される。最初から判定基準が設定されているわけではない。

大事なのは「学習」の過程で、テスト画像に対するシステムの判定結果を人が判定し、その正否をフィードバックする。システムは結果がより望ましい状態になるように、閾値やシナプスの感度を調整する。
これは、正解が外から与えられるという意味で「教師付き学習」と呼ばれる。
テスト画像を大量に用意すれば、確かに、うまくやればうまくいきそうな気がする。

ただ、今活躍しているDeep Learningの主役は、正解が与えられない「教師無し学習」だ。
これは何かを判定するというより、まぁざっくり言って、ビッグデータをクラスタリングする手法と考えていい。
例えば、古今東西の楽曲をニューラルネットに入力してガシガシ回していると、反応するニューロンの違いでいくつかのグループに分かれてくる。そのグループの一つを取り出して調べてみると、やたらとヒットした曲が多かったりする。そのグループを特徴づけるニューロンが、「ヒット曲判定ニューロン」となるわけだ。

つまり未知の曲を入力した時、このニューロンが反応すれば、その曲は過去のヒット曲が共通的に有していた何らかの特徴を備えていたと解釈できる。占いみたいでおもろいシステムやなぁと思っていたら、プロデューサ向けの新人発掘サービスとして、すでに実用に供されているらしい。世の中、冗談みたいなことが本当になる。

人間の神経システムでは、感覚器で知覚された生の情報は、いくつかの中間的な処理を施され、やがて言語野など高次領域で処理されるようになる。同じように、ニューラル・ネットのニューロンもいくつかの層で構成される。Deep Learningの ”Deep” は、この層が「深く」て複雑なことを示唆している。

これらのシステムでは、ある結果が得られたとしても、もはや人間はその理由を知ることができない。ルールベースなど、判定理由を人がトレースできる(つまりは、判定アルゴリズムを人が設計した)他のAI手法とは、その点が大きく異なる。

「理由がわからない」なんて気味が悪いような気もするが、もしかしたら、そのことが本質的に重要なのかもしれない。
それは、(人が下す判断の理由は、当人しか(あるいは当人にも)わからないという)リアルな知性の性質を備えているとも言えるし、だからこそ、大きな期待を抱かせるのかもしれない。

流行の火付け役とも言われる、Googleの面白い実験がある。
Youtube動画からランダムに1000万枚の画像を取り出し、これを1万6千個のニューロンと10億個のシナプスを持つニューラルネットに入力し、1000台のコンピュータを3日3晩(一説によると2週間)動かしたところ、「人間の顔」「猫の顔」「人間の身体」に選択的に反応するニューロンが「自然に」できてきたらしい。

最下層のニューロンには、人為的にあつらえた特徴量ではなく、画像のビット情報をそのまま入力しただけだから、これはまさに生き物が外界の情報を理解していく過程(の第一歩)の再現ではないか?とワクワクさせてくれる。

この研究のおもしろい(うまい)ところは、単にいろんな画像で反応を試すだけでなく、得られたニューロンが最もよく反応する画像を人工的に作り出してみせたところだ。その画像にはなかなかのインパクトがある。

Googleの猫認識」から拝借

この実験がきっかけの一つとなって、AIブームが再燃した。
それにしても解せないというか悔しいなぁと思うのは、第五世代コンピュータとかぶち上げて世界をリードしていたはずの日本のAI業界からは、とんと音沙汰が聞かれないことだ。

かつて90年前後にニューラルネットが流行ったころ、日本にも専門の研究者がゴロゴロいたように記憶している。その後、熱が冷めて研究が下火になったのは仕方ないとして、今、どこからも声が上がらないというのは、どうしたことか。変わり身の早さは研究者にとって美徳でもあるし、結果の出やすいテーマに乗り換えたくなるのもわかるけど、あまりといえばあまりという気もする。日本の研究文化には、「実用レベルにまで持ち上げる」ビジョンというか、執念みたいなものが足りないのかもしれない。応用や商用化はホントうまいんだけどね。

ところでさっき、「生き物が外界の情報を理解していく過程(の第一歩)の再現になっているかも」と書いた。この中には、意識や自我や感情の原型らしきものまでできないか、という個人的な夢も込められている。
もちろん今でも、それらの正体は、少なくとも生理学的なレベルでは解明されていない。しかしもしそれらが、記憶や判断と同じように神経組織の相互作用の効果だとしたら、人工のニューラルネットでも、似たものが生まれる可能性があるんじゃないだろうか?

コンピュータ資源を潤沢に使えるGoogleの実験でも、ニューロンの総数は1万6千個に過ぎない。ヒトのニューロンが140億個だとすると、まだ6桁もの開きがある。気の遠くなる差ではあるけれど、それがスケールだけの問題であれば、いずれ解決される。
実際、今この瞬間にも、効率良くニューラルネットを構築するための専用チップが、世界中で研究されている。
もし、ヒト並みの規模のニューラルネットが出来れば、説明のつかない変な現象が起きるかもしれない。米国防省とNASAが秘密裏に人工人格(AP)の実験を始めたらしい...そんな噂を聞く日が来るまでは、生きていたいなぁと思う。

ただ、自分で言っといて何ですが、個人的な予想としてはかなりネガティブだ。
ヒトの神経組織はデジタルで動いているわけではない。他の臓器や感覚器とも有機的に繋がっているし、「代謝」や「遺伝」や「死滅」といった生命由来の機質も備えている。意識と無意識の関係も重要だろう。それらはある意味、ヒト型知性にとって「制約」や「拘束」かもしれないけれど、同時に、意識や自我を生む源泉なのかもしれない。
結局、生命36億年の謎を解き明かさないと意識はできないのではないか?−−そんな風に思える。


水曜日, 7月 27, 2016

はじめまして、これからよろしく

ファームに新入り犬を迎えるときは、大抵、フェンスのある裏庭に放して様子を窺う。
相手のことが何一つわからないので、何をするでもなく、ボォーっとした感じでただ一緒にいる。
退屈なようでいて、この時間は結構愉しい。

犬の態度は本当に個性的だ。
カイラは庭の隅でじとっ固まってた(らしい)し、ぐれぐはケージから出したとたん、バネ仕掛けみたいに飛びはねた。

今回迎えたLou嬢は、たぶんこんな態度が一番多いと思うのだけど、人から離れたフェンス際をふらふらし、ひたすら匂いを嗅ぎまわっている。
でも、視界の隅ではこちらを捉えていて、しっかり意識している。

それはこちらも同じ。
「別にあんたなんか興味無いしー」的態度を装いつつ、最大感度で相手の動きを追っている。
傍目にはまったく無為な、でも当事者にとってはドキドキするような時間が、10分、20分と過ぎていく。
いやー、やっぱ、おもしろい。
もしかして犬飼い醍醐味のベストスリーに入るんとちゃうやろか。

そのうち、手を伸ばせば触れるようなところを歩いてみたりして、犬の方から少しずつ距離を詰めてくる。
それでもまだ、こちらから手は出さない。
まぁ大丈夫なんだろうけど、もしかしたら警戒してちょっと身を引いたりするかもしれない。
そういうことはあまりさせたくない。

そして、たぶんこの辺が犬の悲しい習性なんだろうけど、やがて、どーしても匂いを取りたくなってきて、腕のあたりにツンと鼻をつけてきたりする。
このときに、ふざけて「ウッ」と唸ってみたら、きっと5mくらい飛びすさるだろうな。
やってみたい誘惑にかられつつ、もちろんそんなことはしない。
彼女が満足するまで放っておく。

1時間くらい過ぎると、少し気を許した感じになった。
身体も撫でさせてくれた。
態度はずいぶん落ち着いているけど、性格的には「明るい」子のようだ。
先住犬たちとも、問題無くやっていけるだろう。

輸入に手間取ったこともあって、一番不快な時期に迎えることになってしまった。
大変申し訳なかったです。
日本の夏にめげないでくださいね。