日曜日, 7月 28, 2019

地獄絵図

いや、だから、恥を忍んで「ヘビが嫌い」「ヘビが怖い」ってあれほど連呼してきたのに、なんで性懲りも無く出てくるかなぁ?

朝の給餌作業を始めようと倉庫のシャッターを開けたら、頭の上3mくらいの天井で不吉な影が視界をよぎった。
薄暗くてよくわからなかったが、目を凝らすとやっぱりだよ~、天井からぶら下がったヘビ。え、でも待って、なんか不自然にグネグネしてるやん、もしかして二匹いるんちゃう?って、自我が崩壊しないようにあえて関西弁で独り言してると、やがて状況が見えてきた。
どうもネズミを絞め殺しているらしい。
ちょうど、悪者に捕まったカウボーイが、ロープでぐるぐる巻きにされて天井から吊るされてるような体勢だ。

え、どゆこと!?
ヘビ嫌いに加えてネズミ嫌いでもある私に、今、世界で考えうる一番おぞましい絵面を見せつけてくるとわ。。。天の意図のあまりの邪悪さに恐れおののくばかり。

それから10分くらいそのまま絞め続けて、やがて息の根が止まったことを確認したのか、トグロを解き、だらんとなったネズミの死骸を咥えて、見えないところに引きずっていった。

、、、という一部始終を知っているということは、なんだかんだ言いながらずっと見守っていたということだ。どんどん暑くなる中、エサを心待ちにしている家畜たちや、作業に出たくてうずうずしてる犬たちを放ったらかしにして、だ。

もしかして、ヘビ愛?

木曜日, 5月 09, 2019

子供相談室

わたしは てす っていいます
うまれて ひとつきはん たちました

わたしは ぼおだぁこりぃなので しょーらい しぷどっぐに なります
おとさんも おかさんも ぼぉだぁこりで しぷどっぐ だからです
でも しんぱいが ひとつあります

わたしには 4にんのきょーだいが います
みんな ばかです
ぶれえずが ないから だとおもいます

これまで あーあ みんなかわいそうに と おもってたのですが きのう ふと わたしはどーなんだろ? とおもいました
ぶれえずは ひたいにあるから じぶんでは みえないんです

じぇいおじさんは じぶんのをみせびらかして ぶれえずがないと しぷどっぐには なれないよ~ っていいます
わたしは なきそうに なりました
もし わたしにも なかったら どうしよう?

こわくて こわくて おかさんにも きけません
わたしは どしたら いいでしょう?



金曜日, 3月 15, 2019

犬への思い(つけたし)

なんとなく回想風に書き流してしまったけれど、本当に言いたかったことはちょっと違うところにあって、それは、ルールや良識に従って犬を飼うという行為そのものが、彼らから成熟の機会を奪ってんじゃねーの?という危惧だ。

そもそも犬というのは、群としてそこそこ自由に暮らして(自分の意思と責任で行動して)いれば、そこそこ自然にオトナになっていくもんだと思う。
だから、野良犬の群や放ったらかしの飼犬たちのオトナ度が高く感じられたんだと思うが、今では彼らの存在は社会的に許されない。
つまり、「そこそこの自由」が、ここ日本では結構難しいことになってるんじゃないかと。

犬たちはどんどん家庭に入り、人の世話も手厚くなってきた。
人が動物を世話するとき、手持ちの参照モデルは人間の子育てということになるが、それは、動物界の中で見ると圧倒的に長くてしかも濃密だ。
犬と子供が別物ということは頭ではわかっていても、無意識的な部分も含めれば、どーしても干渉が過剰になってしまう。
しかも、ちゃんと犬に関わろうとすればするほど、彼らから自由意志を発揮する時間と場所を奪ってしまうことになる。

それに、どちらかというと個を尊重することが苦手な日本の風土もある。
私たちは子育て様式の多くを欧米から輸入してきたが、「自立を促す」空気圧のようなものは抜け落ちてしまっている。
(例えば、子供部屋を設ける理由の多くは勉強のためであって、自立のためにプライバシーを確保するためではない)
空気圧は言葉ほど鋭くはないものの、四六時中ジワジワと攻めてくるので、深く相手に浸透していく。
日本人は無意識のうちに子供っぽい子供、仔犬っぽい犬を求めてしまっているのかもしれない。

別にオトナな犬がエラいとは思ってないし、そうあるべきだとも思っていない。
むしろ仔犬っぽい犬の方が可愛いから、ペットには向いてるだろうし、犬だってそう扱われる方が嬉しいかもしれない。
ただ「可愛い」は、こと生き物に対しては上から目線の感覚であって、そこから相手に対する敬意は生まれにくい。

そこはどーなん?と思うのだが、一緒に悩んでくれる人はあまりいない。

火曜日, 3月 05, 2019

犬への思い(続き)

次に思い出したのは、その20年後くらいに出会った、ホームレスのおじさんと暮らしていた犬。

転勤の関係で、一時、天満橋あたりのアパートに住んだことがあって、引っ越して間がない頃によく付近を散策した。
ある日、大川の川べりをフラついていると、いつの間にかブルーシート小屋が並ぶ一角に紛れ込んでしまった。長居してはいけない気がして、歩調を早めてそこを離れようとした時、ある小屋の前に陣取った犬に目が行った。
どこという特徴の無い犬だったが、佇まいが堂々としていて、あぁここを「シマ」にされているんですね?という感じだった。

犬は、不審者の私に気づいてこちらを見たが、すぐにすぅっと視線を逸らした。
それが見事でしたね。
咎めるでも詮索するでも怯えるでも威嚇するでも媚びるでも好きでも嫌いでもない、感動するくらい自然でイーブンな目配り。
とても礼儀正しく遇された気がして、こちらまで背筋が伸びる思いがした。
その日にどこをどう歩いたか、今となっては思い出せないが、犬がまとっていたピッとした空気感はよく覚えている。

この2頭は見た目も境遇もまったく違うのに、自分の中では同じイメージで括られている。
何というか、とてもオトナな感じなのだ。
多分、適当な距離と節度を保って周囲と関わろうとする態度が、そう感じさせるのだろう。
これを犬の心の成熟と捉えるのは私の偏見に違いないが、内心、そんなに悪くない偏見だと思っている。

子供の頃には、そんな犬が身の回りにも結構いたように思う(野良犬の群とか、庭先で番をしてた犬とか、学校に住み着いた犬とか)が、この頃は出会う機会がめっきり減った。
たぶん、犬を取り巻く環境が変わったからだろう。

オトナな感じの犬なんてのはあまり一般ウケしないと思う。
基本的に素っ気ないし、素直じゃないし、遊びに行ってもはしゃがないし、他の犬ともツルまない、、、つまり「可愛くない」のだ。

でも、そんな犬だからこそ、一緒にいてくれると嬉しくなるのだが、共感してくれる人はあまりいない。

月曜日, 3月 04, 2019

犬への思い

まったく個人的な好みでしかないけれど、何となく一緒にいるような犬が好きだ。
この「何となく」というところがキモで、遊ぶとか、芸をするとか、トレーニングするとか、見つめあうとか触れあうとか、そういうのじゃなく、つかず離れずのところで、それこそ何するわけでなく、でも確かに自分の意思でそこにいるような犬がいい。

なぜかはわからない。
人は自分の好き嫌いの理由を説明できないものだそうだから、わからなくてもしょーがないのだが、ちょっと無責任すぎる気もする。
というわけで、原体験らしきものはないかと記憶を辿っていたら、2頭の犬が思い浮かんだ。

最初の記憶は、小学校3~4年の頃。
当時、実家ではチコというメス犬を飼っていた。
何の特技も無い、寸胴短足の、いつも困ったような顔をした、どーにも冴えない雑種犬だった。
放し飼いだったのに、狭い庭を自分の居所と決めたのか、どこにも出ていこうとはせず、日がな一日、犬小屋の屋根上でぐーたらしていた。。
ただ、学校から帰った私が遊びに出かけようとすると、声をかけてもいないのに、当然のように着いてきた。

その頃の自分には、リードを使う習慣が無かったから、一緒に歩きながら彼女は勝手にその辺の匂いをとったりしていた。普段はただ歩くだけだったが、道すがら、建築中の家に忍び込んだり、稲刈りの終わった田んぼで鳥を蹴散らしたりもした。
たまに、自然発生的に近所のガキ連中と野球やテンチョ(4人でやるボール遊び)に興じることもあったが、そんなとき彼女は暇そうに子供たちを眺めたり、隣の雑木林を探索したり、外野に転がったボールを追いかけたりしていた。

そんないい加減なつきあいでも、不思議と、二人がはぐれることはなかった。
帰り道は決まって一緒だったし、珍しく姿が見えないなぁと思ったら、先に家に帰って門のところで尻尾を振ってたりした。
当時はそれを特別なこととも思わず、犬ってそういうもん、くらいに思っていた。
だから親友とか、かけがえの無いパートナーとか、家族の一員といった、ウェットで重たい感覚は無かった。

ただ、彼女が病気で死んで数日後、いつもの道を一人で辿っていると、突然、喪失感に圧倒されてその場から動けなくなったことを覚えている。

日曜日, 1月 06, 2019

低い庇に頭ぶつけて

「頭頂部を擦りむく」という体験は、とても哀しいものだ。

金曜日, 11月 23, 2018

書き出し

助手席に犬を載っけて、真夜中の高速をドライブするのが好きだったりする。
狭くて孤独な空間を共有していると、友情のようなものまで感じる。

でも、こっちが眠気に襲われている時に、横でぐあ~と寝てられると、無性に腹が立ってくる。
じゃあ、眠いのをこらえて愛想振りまいてくれたら嬉しいのかというと、そーでもない。
やっぱりムカつく。
いったい、私は犬に何を求めているんだろう?

・・・という書き出しだけ思いついた。

本文さえあれば、面白いエッセイになりそうなのに。。。


火曜日, 10月 30, 2018

粉もんドラマ「見られてる」

(暗がりで)

小林:よう古賀、久しぶり。相談って何だよ。
古賀:うわ、びっくりした、何だ、小林か。
小林:何だって何だよ、お前が悩んでるっていうから、オレたちここにいるんじゃねぇか。
古賀:え!? オレたちって、他にも誰かいるの?
小林:おいおい、何言ってんだよ、さっきからここにいるだろ、ふくもっちゃんが。
福本:大丈夫か?、古賀、ボケてんじゃねーの? ま、いいや、で、悩みって何だよ。
古賀:ん~、それがさぁ、、、よくわかんないんだけど、最近、ずっと見られてる気がするんだ。
小林:はぁ?気のせいだろ! だれがお前のことなんか気にするかよ。
古賀:だよなぁ、、俺、ジミだし、モテねーし、、、でも、なんかすっげー視線感じるんだよ。
   さっきなんか、空から監視されてる気がしたし。。。
小林:お前さぁ、ちょっとそれ、ヤバいんちゃう? 医者行った方がいいって!
福本:いや、古賀の言うこと、わかる気がする。。。
古賀:えっ!?
小林:えっ!?
福本:実はオレも、誰かに狙われてるんじゃないかって感じてた。
   それに、いきなり棒でツツかれたこともあるんだよ。ついさっきなんだけど。。。
小林:も~、ちょっと、やめろよ~。キミ悪いじゃん~。
古賀:ゴメン、ゴメン、やっぱ気のせいだよな!? バイトしすぎて疲れてんのかなぁ。。。

(食卓で)

母:セリちゃん、グズグズしないで、早く食べちゃいなさい!
娘:え~、でも、どれ食べるか、迷っちゃう~。
母:バカねぇ、たこ焼きなんか、どれも一緒よ!
  あと行儀悪いから、爪楊枝でツンツンするの、やめなさい。
娘:は~い、ママ。
  ど、れ、に、し、よ、う、か、な、、、
  よし! キミに決めた!!

(プスッ)

古賀:あ~~~!
小林:あ、待てよ、古賀! どこ行くんだ!? お~い!!!
福本:あーあ、行っちゃった。ま、しょうがないか、オレらたこ焼きだし。

土曜日, 10月 06, 2018

腕時計の怪

昨日、久しぶりに銭湯に行って帰ってきたら腕時計を無くしていた。
そういやロッカーの奥に置いたままだったことを思い出し、慌てて受付に電話して、ロッカーの中を探してもらうようお願いした。
どこかのおっさんがパチってたら見つからんよなぁ、、、ちょっと悲しくなりながらベッドに行くと、何と枕元に置いてあった。
どうやら、朝から時計をしていなかったようだ。。。

そして今朝、目覚めたらその時計が止まっていた。
そういや、前回電池を交換してから、もう2年以上も経っている。
慌てて時計店を探したが、田舎の悲しさ、なかなか見つからない。
ようやく、食料品スーパーの中に小さな店があったのを思い出し、車を走らせた。

「すみませんっ、この時計の電池交換できますか?」
「え~っと、これは太陽電池ですねぇ。光に当ててやってください」
「・・・」

情けない。
まぁ、忘れっぽくなったのはしょうがないとして、「ロッカー奥に時計を置いた」「2年前に電池交換した」などとウソの記憶を作ってしまうのはどーゆーこと?

その場しのぎのいい加減な人生を送ってきたツケが回ってきたのかも。

日曜日, 9月 30, 2018

へへへ

リトグリちゃんがラジオに投稿したメール読んでくれた!
嬉しすぎてしんどい。
ラジオネーム、もうちょっと考えたら良かった。。。







木曜日, 8月 30, 2018

暑すぎる

柵に突っ込んだ首が抜けなくなったと、べぇべぇ羊が喚くもんだから、救出のため外に出たんだけど、いやもう、ほんと暑い。たった5分で汗まみれ。
動物たちの様子は普段とそれほど変わらないが、運動量は明らかに少ない。
実際にはすっげーストレスなんだと思う。

脳の適応力は大したもので、異常気象をもうそれほど異常とも感じなくなってきたけれど、身体の方はそうはいかない。
この変動の早さはほんとにヤバイと思う。
まずは教育プログラムを抜本的に改編して、地球規模の自然を考える人材を組織的に育成すべきだ。
今すぐにでも。

月曜日, 7月 30, 2018

もう勘弁してください

一瞬、軽く心臓が止まったと思う。

刈り払い機にガソリンを入れようと、いつものように倉庫でゴソゴソしてたら、ふと視界の隅に黒い影がよぎった。不吉なものを感じて目を凝らすと、太くて黒いゴム管のようなものが、顔の高さから床のすぐ上まで、縦一文字にブラ下がっている。
まさかぁ!?とは思ったが、そのまさかだった。
両手を広げたくらいの青大将。
ヒュッと喉が鳴って、全身が総毛立って、おしっこ漏らした(ウソ)。

棚に丸めてあった防鳥ネットに潜ろうとして、そのまま絡まって動けなくなってしまったようだ。
これで、「ネットに絡まって自殺した蛇」を目撃するのは6匹目だ。
ラベル付けて包装したらヘビ捕獲器として売れるかも。グロいけど。

そーいえばここしばらく、倉庫で作業していると、ときどき磯の香のようなツンとした刺激臭を感じていた。その臭いには覚えがあって嫌な予感もしたが、ま、いろんな生き物いるからしょーがないかと、あまり深刻に考えないようにしていた。
あ、そーいえば最近、乾いてるはずの床に黒々としたシミを見つけて、首を傾げたこともあった。
あれ、ヘビの体液だったんだ!
10cmほど視線を上にずらしてたら、濡れた尻尾があったはず。。。

え、ちょ、そしたらさぁ、ネットに絡まってまだグネグネしていた時にも、真横で作業してたかもしんないじゃん!
や〜だ〜!!
1日1回は倉庫に入るし、その辺に置いてある工具は使用頻度が高いから、可能性は極めて高い。

想像しただけで気が狂いそうになるが、どうかトラウマになりませんようにと、今、必死の思いで文章に書き起こしている。

日曜日, 7月 01, 2018

耳タコ

とりあえず、いんでぃどとはずきるぅぺととりばごは、おれのテレビから出て行ってくれないか?
話はそれからだ。

土曜日, 6月 30, 2018

分離不安

まだ幼かった頃、知らない場所や人混みで親の姿が見えなくなると、それまでの上機嫌がウソのように泣き喚いたものだ。

今でも記憶に残る、どこかのデパートの売り場。
プレゼントを買ってもらえるというので、有頂天になって駆け回っていて、親がいない!と気づいた瞬間に世界が暗転した。
わーわー泣いても周りの大人たちが知らん顔なのがまた怖くて、ますます大声で泣き叫んだ。
買ってもらったはずのプレゼントは思い出せないが、生まれて初めて店内放送のお世話になるという痛恨の失態とともに、売り場で感じた不安や無力感は、今でもハッキリ覚えている。

なぜそんな羽目に陥るかというと、調子こいて辺りに気を取られて、親の居場所確認をサボっていたからだ。逆にいうと、親に頼っていたせいで、アウェイな場所なのに油断できるくらい安心していた、とも言える。
「あんまり離れなさんな」という親の注意なんか、まるで耳に入っていなかった。
ま、子供なんてそんなもんだし、むしろそうやってすぐに油断できるから、いろんなものを吸収できるのだろう。

犬の問題行動とされるものの一つに分離不安というのがあるが、これなんか同じだと思う。
しつけやトレーニングをどうこう言うより、要は犬が幼いということじゃないかと。

ファームに来る犬たちの中にも、それまで機嫌良く敷地をブラついていたのに、飼い主がちょっと姿を消した途端、急に騒ぎ出す犬がいる。飼い主が消えたドアの前に陣取り、抗議するように、あるいは哀訴するかのように、脇目も振らず吠え続ける。
飼い主が戻ってくると、再会を喜んで甘えまくるかというと、そうでもなくて、すぅっと平静に戻ってまた辺りをフラフラしだす。
安心と不安、万能感と劣等感、高揚と抑うつなど、気分が極端から極端に振れやすいのが未成熟な心の特徴の一つだが、分離不安な犬というのは、まさにそういう心の状態にあるのだと思う。

犬を飼うという行為は、大なり小なり、相手に子犬(の役割)を求めることでもあるから、それが分離不安という形で現れるのかもしれない。
「問題行動」と仰々しくラベリングしてしまうのは、ちょっと気の毒な気がする。

ただ気になるのは、そうやって騒ぐ犬ほど、飼い主の呼びかけへの反応が鈍いように感じられることだ。
呼んでもなかなか寄ってこない、、、くらいだったらまだいい方で、飼い主の方を見たり、あるいは耳をピクリと動かしたりといった、僅かな応答すら返さない犬もいる。
これも、まぁ子供だからと苦笑いでやり過ごすこともアリだが、呼びが効かないというのは現実的な不都合が多い。それに、幼かろうが年寄りだろうが、呼びかけをスルーするという態度は、ちょっとヨロしくない気がする。これは何とかしたい。

以前テレビで、分離不安の対処法として、犬が陣取るドアの前に敷物を置いて、吠えたタイミングで思いっきり引っ張るという方法を紹介していた。
いわゆる天罰方式というやつだが、映像を観ていて、ええ、そんなあ!?とのけぞってしまった。
もちろん、それで鳴き止む犬もいるだろうけど(TVに出演した犬には見事に効いた)、例えば不安に陥っている子供に対して、いきなり足払いをかけてひっくり返すようなことをするだろうか?

手っ取り早い対処を求める気持ちはわかる。
特に集合住宅なんかで隣近所から苦情が、、、といった事情では、即効性のあるやり方に頼らざるを得ないだろう。
ただその場合でも(問題行動が収まったとしても)、成熟やコミュニケーションに関わる課題が残っていることは頭に留めておくべきだ。

いや、たとえ目に見える問題が無くても、私たち犬飼いは「飼い犬をどうしたら成熟させられるか?」ということに、もうちょっと心を砕くべきじゃないかと思っている。犬の成熟とは何か?それを促すにはどうするのがいいか?といったことについて、犬の個性や置かれた環境に照らし合わせ、各自が少しずつ考えるのである。「心の成長」みたいなワードを意識するだけでもいいかもしれない。

そうすれば、犬との関係性が変わる、、、ことはないかもしれないけれど、自分や人社会の未熟なところに気づくことはできる。

土曜日, 6月 09, 2018

ファームあるある怖い話

3日ほど前だったかな、倉庫の中でネズミが死んでいた。

まだ、なまなましかったから、たぶんシャッターを開けたときにどこかに挟まれたんだろう。
忙しかったから、申し訳ないけど埋めずにコンポストに捨てた。

で、今日、Hiroさんがゴミを捨てようとコンポストを開けると、、、
そのネズミがまだ動いていて、こちらを睨んでいた!、、、そうだ。

どんよりした梅雨空の今朝の話。

土曜日, 5月 26, 2018

信頼関係

よく「犬と信頼関係を築こう」なんてことが言われて、それがまた耳触りが良いもんだからつい激しく頷いてしまうわけだけれど、フと立ち止まると、どーゆーことかよくわからなかったりする。もうちょい噛み砕いて言ってもらわないと困ります、と当局に苦情の一つも言いたくなるが、その当局の所在がまたよくわからないときている。
こうなったら、自己流で解釈するしかない。

信頼関係は双方向の作用だ。
自分から相手、相手から自分への信頼があってこその関係である。
そして単純に字面を追えば、信頼とは「信じ」て「頼る」ことだから、その第一歩はまず相手を「信じる」ことになる。

実はここで引っかかってしまう。
人が犬を信じるのはまぁ信じればいいとして、犬が人を信じるとはどういうことか?
「信じる」は、相手がウソをついたり裏切ったりする可能性があるからこそ成り立つ行為だ。いや、別に本当にウソついてくれなくてもいいのだが、少なくともウソという概念がないと、それを乗り越えたところにある「信じる」も成立しない。

何だかわざわざ話をややこしくしているようだけれど、言ってみればウソも裏切りも、わざわざ話をややこしくするのが大好きな生き物特有の技だ。犬の住む世界はそうではないだろう。
だからことさら言わなくてもいーじゃんという意味で、「犬が人を信じる」という言い方には違和感をおぼえる。

では、犬はどんな心理を経て、人を信頼するようになるのか?
それは「安心」ではないかと思う。

動物の欲求は、基本的には生存確率を高める方向に向いているから、特に群動物の場合、メンバーから受ける安心感は、何物にも代え難い魅力に違いない。
だから犬は真っ先に、一緒にいて安心できる存在を求めるようになる。
エサくれるとか、遊んでくれるとか、褒めてくれるとかもポイントにはなるが、それよりも何よりも、安心を与えてくれる人を求める。
そして人から安心を得た犬は、その人の意を汲み取ろうとするし、周りの世界に向けて自発的に行動しようとする。

だとすると、当面の問題は、どうすれば犬に安心感を与えられるのか?に移る。
人間同士だと、相手の財力や権力も安心の源になるだろうが、もちろん犬にはそんなものは通用しない。言葉も無力。
たぶん動物としての安定感みたいなもの、、、落ち着いた態度、穏やかで力強い声、安定した姿勢、揺るがない自信、心身の健康、、、そういうもろもろを全身をアンテナにして感じているに違いない。ノンバーバル言語とか無意識の所作と言ってもいい。

これは頭で考えたりコントロールするものではないから、できる人は最初からできるし、できない人はなかなかできない。
そう言ってしまうとミもフタも無いが、それでも、自分の様子が犬を安心させるかどうか、ということは頭の片隅に置いておいてもいいと思う。
犬が人を信頼するようになるのは、そういう僅かなことの積み重ねだと思うし、それにきっと、人の動物的な部分に対しても同じような効果があるからだ。

では逆に、人から犬に対する信頼とは何か?
私見ではそれは、「この状況でこの犬はこういう風に振る舞うだろう」という予想のことだ。
予想が確信に近いものになり、かつ予想された振舞いが人にとって不快でも問題でもない場合に、私たちは「犬が信頼できる」と言っている。
その意味ではリードで街中を散歩するのも、クレートに入れずに留守にできることのも、信頼の賜物と言えるのだが、普通はそこまで大仰には言わない。
ここでポイントになるのが、自由意思と人との関わりだ。

ファームでは、朝と夕の2回、犬たちをフィールド内に放している。
頭数が多くて散歩に連れていけない(こともないけど、面倒臭い)からだ。
その間、人間は家畜の世話に忙しいので、犬たちはフリーで敷地内をうろついている。
本当はもっとかまってやりたいのだが、あいにく、そんな暇は無い(こともないけど、面倒臭い)。

羊を見張るやつ、鳥を睨みつけるやつ、ひたすら放牧地を駆けるやつ、人の傍を離れないやつ、、、犬たちのやることは見事にバラバラだ。個性ってすげーといつも感心している。
ただ、暇そうにするやつがおらず、揃いも揃って何やら忙しげなところは、さすがボーダーコリーと言うべきか。
こっそり柵の中に忍び込み、羊を追いつめる不届き者もいないではないが、まあ事故は起きないやろと多寡をくくっている。

最初からこうしようと決めたわけではない。
毎日の暮らしの中で、人と犬が試行錯誤を重ねてきた結果だ。
仔犬の時、自由にしてやれるのは狭いサークルの中だけだったのが、やがて庭や作業場に広がり、大人になる頃にはほぼ敷地全体になる。
その中で犬たちは、色んなことと折り合いをつけながら、自分の居場所を見つけ、わきまえた行動を身につけてきた。
ざっとまぁ、そういうこと(=そういう風に思えること)が、人から犬への信頼ではないかと思う。

と、いうことで強引にまとめると、人と犬の信頼関係というのは、犬がまず安心できることであり、その安心感を糧に人と犬が互いの意思を尊重しながら暮らしを築いていくことだと思う。
異論は多々あるだろうが、大事なことは、双方が相手(の意思)を欲望することだ。


犬と暮らすということは、イコール犬の自発的な行動を制限することでもある。
しかし信頼関係という見えない秩序のもとで、自由意思を発揮する場面を増やすことはできる。
それは人にとって煩わしいことだし、リスクも伴う。
ただ、世の中の多くのことがそうであるように、それは一見犬のためのようであって、実は人がよりよく生きるためのものだったりする。


木曜日, 4月 26, 2018

毛蟹ツアーがあるんやから毛刈りツアーとかあってもえーんちゃう?

今年もこの季節がやってきた。

例年、4月なんてまだ余裕をかましてたのだが、今年はお尻に火がついたような感じだ。
暑い日が尋常でなく暑いことと、刈る頭数が増えたからだ。

Hiroさんの努力もあって、羊は13+5(子羊)頭にまで増えた。
毎年、毛刈りのテクニックは少しずつ向上していると思うが、それと同じくらいのペースで頭数も増えている。だから、負担感はなかなか軽減しない。
そりゃー、何百頭もいるような牧場からすれば、ほとんど誤差範囲みたいなもんでしょーけどー

それに去年からは飼育委託されたアルパカも加わった。
彼らも暑さには弱いし、毛は伸び続けるので、やっぱり刈ってやらないといけない。

羊は原則、保定と剪毛が1人でできるように、手順と道具が美しいまでに確立されているが、パカはそうでもない。ようつべを検索すると、紐で縛ったり壁に押しつけたり大勢で押さえ込んだりと、お前らみんな勝手にやってるやろ!状態である。まだまだ世界的にも試行錯誤なのかもしれない。

去年はアルパカ自体が珍しいこともあって、委託元にも協力いただきワーッと作業して乗り切ったが、今後定常的にやって行くためには、そこまで力をかけるわけにはいかない。
ああ、今日は燃やさないゴミ出す日やからちょっと捨ててくるわ、くらいのノリでないと続かない。
目を血走らせた鼻息荒い男たちにとり囲まれるパカも気の毒だし。

あーあ、それにしても気が重い。
ある日突然、広瀬すずがやってきて「毛刈りお手伝いさせてもらえませんか?お金払いますから」って言ってくれないかな?

日曜日, 4月 22, 2018

俺にまかせとけ

「よく知ってるけど、口にしたことがない」セリフというのが誰にでもあると思う。

この前、何かの拍子に「オレにまかせとけ」と口にしたことがあって、その時、あれ?何かうまく言えてへん、みたいな微妙な違和感を感じた。
なぜと自問してみると、要は「言い慣れてない」からで、そう言えば、生まれて一度も言ったことないかも!?ということに思い至った。

つまり、ある仕事なり課題なりを引き受けて、実行から結果責任までまるっと背負うという言動を避けてきたわけだ、自分という人間は。
なんという無責任な男なんだろう。

いやいや考えようによっては、安請け合いをしないという意味で、逆に責任感が強いのかもしれない。
ネプチューンの原田泰造みたいに、オレにまかせとけを乱発する人間にあまり頼りたくないと思うのは、自分だけではないと思う。

まぁその辺はどっちでもいいとして、自分にはこんな未使用ワードがまだまだ一杯あるような気がする。
頭の中に、「そんなバカなっ!」とか「お前に俺の何がわかるんだ!?」とか「前の車を追ってください」といったドラマや映画の定型セリフが、未開封状態で大量にストックされている。
そういうのってちょっと可哀想じゃないかと思う。
言ったことがないセリフを使ってみたい、ということがモチベーションになって、行動を起こすことだってアリだと思う。

筒井康隆氏の小説に、登場人物の社会属性(主婦とかサラリーマンとか女子高生とかヤクザとか)と言葉遣いをミスマッチさせた話があって、強烈な異化効果に驚いたことがある。
自由に会話している気でいても、がんじがらめと言っていいくらい、言葉が限定されているのが現代人なんだと、思い知らされる。

そういえば最近、セクハラやパワハラ、暴力沙汰などの報道が多い。
そのたびに「意識を変える」必要性が叫ばれるが、それこそ表層的な意識ならいざ知らず、内面化した意識を変えるなんてことが、そう簡単にできるはずがない。
セクハラ研修でいくらケーススタディを積み重ねても、ガハハ親父の性根は変わらない。

本心は話の内容ではなく口調にあらわれる、みたいなことをどこかの学者さんが言ってたが、ならば、意識を変えるのにまず言葉遣いを変える、というソリューションもあるかもしれない。
国会なんか杓子定規な官庁語を使うから、建前しか言えないのであって、答弁は飲み会用語を使うこと、というルールにしてしまえば、ぶっちゃけオレら小役人なんかさぁ、おエライさんの顔色伺うしかないわけよ、みたいな本音が、10回に1回くらいは聞けるかもしれない。
どーしようもないガハハ上司には、とりあえず主婦の井戸端会議か、女子大生の恋バナ用語くらいをマスターしてもらおう。
もう少し、相手の気持ちを斟酌できるようになるかも。

まぁそれは難しいとしても、一人称を替えるくらいだったらできそうだ。
相手との関係で一人称が変わるのが日本語の難しいところだが、それを逆手にとるのである。

実はこんなしょうもない文章でも、しっくりくる一人称が無くて、ずっと悩んでいる。
ワタシはリーマン時代の感覚が蘇るようだし、かといってオレは強がってるみたいだし、ワシはおっさんだし、ボクは年齢的に気がひける。
だから、できるだけ一人称は使わないようにしているのだが、どうしようもないときは「ジブンは」とか「コジンテキには」などを使っている。
はっきりいって苦しまぎれだ。

あれ、何の話をしてたんだっけ?
というのも、言ってみたかったセリフの一つです。

木曜日, 4月 12, 2018

輝かしい朝に

ファームの1日は、外飼い犬のうんち掃除から始まる。

犬が一晩にする量なんてたかが知れてるが、5頭分ともなるとかなり手強い。
人間と一緒で、仕事しないやつに限って大量にうんこする、、、気がする。
掃除しながら「もう、うんこすんなっ!」と毒づいてる自分は、あんまり好きじゃない。
    
最近はそれに、アルパカのうんち拾いが加わった。
日課にされてる方には賛同いただけると思うが、これは結講悩ましい作業なのだ。
ヒツジやヤギだと、フンはフィールド中に散らばってしまうので、そもそも拾い集めようなどという気も起きない。

アルパカはフン場を決めて、決まった箇所でする習性があるようで(タイミングが重なると、一列に並んで順番待ちしてたりする)、黒々と盛り上がった塊が、嫌でも目に入ってくる。
これは掃除せなアカンか~、という空気に追い込まれる。

実は見た目だけじゃなく、寄生虫予防の意味もあるから、せっせとうんち拾いしている。
両手にチリトリと熊手を持って、中腰をキープしたまま、ウサギの糞みたいなやつを集めて回るのは、かなりの重労働である。

いや、うそ、実はそれほどでもない。
そりゃ愉しかぁないけど、気候さえ良ければ、鼻歌が交じることだってある。
問題があるとすれば1日もサボれないことで(丸一日溜めてしまうと、見ただけで心が折れる)、朝夕の2回、できれば昼頃にもう1囘、雨が降ろうが槍が降ろうが、ジミすぎる作業を重ねないといけない。

自分のペースで適当にやれればいいのだけど、動物相手だとまったくそうはいかない。
このフラストレーションが文明発展の原動力なのだろうけれど、それにしても、アルパカのうんちって・・・

金曜日, 3月 09, 2018

勉強しません

ここに書いても詮ないことだが、あんまりメディアが書かないから書くのだけれど、今、高校教育がエライことになっている。
もう、信じられないくらい学力が低い、勉強もしない、だけど大学には行く、、、のだそうだ。
ある私立高校に勤める知人がいて、トンデモな実態を教えてくれた。

その高校には進学と普通の2コースがある。
勉学できる子は進学コース、そうでない子は普通コースという、私立ではわりとよくあるパターンである。

進学コースでは、難関大学を目指してひたすら受験対策に勤んでいる。
それが良いか悪いかは別にして、まぁ見慣れた光景ではある。

問題は普通コースだ。
クラブに賭けてる連中はしょうがないとして、そうでない生徒たちがもう完全に勉強のモチベーションを失っているという。
成績が悪くて進学を諦めたからではない。
そうではなくて、誰でも大学に行けてしまうからだ。

最近では多くの(いや、たぶん全ての)私立大学が、AO入試や指定校推薦と呼ばれる推薦入学枠を用意している。私大合格者の40%が推薦枠という数字もあるから、入学者の過半数が推薦という大学も珍しくないだろう。
しかも大学の数がこれまた多いものだから、こんな地方のパッとしない高校にも山のような推薦依頼が届く。

本来、推薦入学というのは、特定の分野で高い能力を持った生徒に対して、一般試験以外の門戸を開くことが主旨だと思うが、はっきりいって公募の推薦以外は、学生の頭数を確保する手段以外の何物でもない。
これは、授業料のためならなりふり構わないというか、かなり恥ずかしい実態だと思うのだが、声を大にして言う人はあまりいない(言論人の多くが、何らかの形で大学に関わっているからだろうか?)。

もちろん、各大学の推薦枠は限りがあるから、誰もが希望通りに応募できるわけではないが、大学さえ選ばなければ、志願者はほぼ全員が推薦を受けられる。しかも、一旦推薦が得られれば、よほどのことがない限り取り消されることはない。
学費の心配さえ無ければ、あとは大学生活の開始を余裕で待つばかりである(先の高校は、裕福なご家庭が多いらしい)。

しかも、さっき「大学さえ選ばなければ」と言ったが、実は、推薦依頼を出してくる大学の中には難関と言われる有名どころ(関西で言えば、関関同立みたいな)まで含まれている。
希望枠は成績順で埋まるから、そういう大学の推薦を狙って、わざとランク下の高校に入ってくる生徒もいるらしい。
入試で落ちた優秀な学生を尻目に、な~んも勉強しなかった◯カ学生が面接だけで入学するという、アンフェアな逆転現象も生じている

わずか数年とはいえ、将来の安楽が保証されている若者がいかに傲慢で怠惰になるか、知人は授業をしながら日々実感しているそうである。
「マジメなやつはカッコ悪い」という伝統的な風潮もあるだろうが、もう教師なんかそこにいないかのような態度で授業を邪魔する。
だったら学校に来なきゃ良いのに、と思うが、そーゆーやつに限って毎日せっせと通ってくる。
出席が不足すると推薦に響くからだろう。

で、高三にもなって、My father (am are is) an English teacher. レベルの問題に首をひねっている。
いや、問題を解く前に、問題文の意味が理解できているのかどうかすら怪しい。
こーゆーのが大学に行って、一体何をするというのだろう?