土曜日, 10月 03, 2015

痛恨

Youtubeに「一瞬で卵のカラを剥く方法」っていうのがあって、コップに水とゆで卵を入れてガシャガシャッと振ると、つるんとカラが剥ける。

おお、これやんっ!て、ちょうど近くにあった茹で卵でやったら、水と黄身と白身とカラがぐじゃぐじゃになったどーしようもないものができてしまった。
にわとりさん、ごめんなさい。

そうだよね、半熟でやったらアカンよね。
オレってバカ・・・

金曜日, 9月 11, 2015

大人考

前から「大人になるってどゆこと?」みたいなことを折にふれて書いできたが、実は今もつらつら考えたりしていて、たぶんこのまま死ぬまで考えてるんだろう(ヒマやねぇ)。

最近思ったのは、普段私たちが「大人になる」というと、温和になるとか、協調性に富むとか、自立するとか、もっぱら精神的で概念的なものを思い浮かべてしまうけれど、実は、もっとずっと身体的なものかもしれない、ということ。

つまり、食べものの味がわかるようになったとか、絵画の美しさに目覚めるとか、手先が器用になったとか、、、そんなある意味ベタな感覚の積み重ねが、成熟につながるんではないか、という考え。
これには、感覚自体の肌理が細かくなるだけでなく、外界に対して感覚をオープンにすることが必要なのだが、それらの総和的な作用として世界の感じ方が変わってくるということは十分考えられる。

世界というのは、要は自分と世界との相対的な関係のことだから、その感じが変化するというのは、生き方そのものが変化するということだ。
例えば俗にいう「生かされている」とか「自然と一体」とか「自分は一人ではない」といった"ポジティブ世界観"なんかは、頭で納得しようとしてもダメで、「暑い」とか「痛い」といった体感レベルで感じるものなのかもしれない。

逆に言えば、そういう身体的なものが十分に熟さないと、いくらなろうとしてもなれないのが大人なのかもしれない。その変化がどういうものであるかは、それが身体性に根付くものであるがゆえに、言語化はとても難しい。
だから子供には、大人というものが逆立ちしたってわからないし、大人は自分の変化を顧みることでしか、大人というものを認識することができない、、、そういうことかも。

うん、思いついたばかりだから、自分でも何言ってるのかよくわからない。
それでもここに書いておきたくなったのは、それが自分にとって何か切迫した問題だからかもしれない。
なんなんやろ?
もうちょっとハッキリしたら、また書きます。

(以下、中島らも「今夜、すべてのバーで」から)
「なおる奴もいりゃ、死んでいく奴もいたよ。私は、なんとか助けてやりたいと思った。ことに子供の患者はな。そうだろ? 子供なんてのは、人生の中で一番つまらないことをさせられてるんだからな。私だって十七までに面白いことなんか何ひとつなかった。面白いのは大人になってからだ。ほんとに怒るのも、ほんとに笑うのも、大人にしかできないことだ。なぜなら、大人にならないと、ものごとは見えないからだ。小学生には、壁の棚の上に何がのっかってるかなんて見えないじゃないか。そうだろ?」
「そうですね」
「1センチのびていくごとにものが見えだして、風景のほんとの意味がわかってくるんだ。そうだろ?」
「そうです」
「なのに、なんで子供のうちに死ななくちゃならんのだ。つまらない勉強ばっかりさせられて、嘘っぱちの行儀や礼儀を教えられて。大人にならずに死ぬなんて、つまらんじゃないか」
「せめて恋人を抱いて、もうこのまま死んでもかまわないっていうような夜があって。天の一番高いところからこの世を見おろすような一夜があって。死ぬならそれからでいいじゃないか。そうだろ。違うか?」
「いや、その通りです」
「私はね、なんとか助けてやりたいと思ったよ。子供をね。でも、そのうち、それも思い上がりだってことに気がついた」
・・・
今日の収穫

月曜日, 8月 10, 2015

理解される悦び

犬が指示に従うということは、その犬が少なくとも、

 1)人が犬(自分)に「何かさせたい」という「意図」を持っている
 2)人は「コトバ」で「意図」を伝える
 3)ある決まった「コトバ」がその「何か」を指している

ことを理解するという、3つのハードルをクリアしたということだ。

どれもこれも、犬にとっては真新しい概念なわけで、それだけで十分奇跡に値すると思うのだけど、身の回りでわりと普通に見られるせいか、なかなかそうは受け取られない。

ま、それはいいとして、、、
人にとって、犬が「言うことを聞く」ことは悦ばしいことだし、犬を飼うことの醍醐味の一つに違いない。

もっと関係が深まると、犬は人の意図まで理解し、指図以上のことをやって見せるようになる。
例えば、ロクに教えてもいないのにお遣いをするようになるとか、、、あんまりいい例は思いつかないけど、ほら、犬ってすぐ気を利かそうとするじゃないですか。
この体験がまた、一部の犬好きにはたまらない。
「犬と暮らす悦び」ランキングがあれば、間違いなく上位にランクインする。
(健全な市民感覚からすれば、こういう人は微妙にヘンタイに属するのかもしれないけれど)

つまり人は、犬といることで「理解される」悦びを享受している、ということ。
しかし、その逆方向、つまり「意図通りに人が動いた」とか「人から理解された」ことを、犬の側が悦ぶような場面は、日常生活の中にほとんど見当たらない。

だから不公平だ、などと言うつもりはない。
そもそも人と犬の関係は対等ではないし、犬は理解されることなんか望んでいないかもしれない。
だからそんな場面はありえない、、、かと言えば、そうでもない。
例えばシープドッグの世界では、逆方向の回路が開くことがある。

一緒に羊を追っていると、ある時を境に、犬の動きがガラリと変わることがある。
それはたぶん、「こんな風に羊を動かしたい」という犬が持っているイメージを人が理解し、それを尊重して行動したときだ。

このとき、犬は驚きとともに、深い悦びに包まれる、、、んじゃないかと思う。
それまで、自発的な動きは無視されるか否定されるだけだったのに、指示に従うしか人と関わる術が無かったのに、突如、生来の能力が認められ、頼られ、尊重されるのだから。
あるいは、思いがけないところで、気の合う同志に出会った感じかもしれない。
あえてコトバにすると、「ああ、やっとわかってくれた!」とか「何だ、お前もやるじゃん!」というところか。

ま、本当のところはわからないけど。
しかし、「人に理解されたことを犬が悦ぶ」ことを察して悦ぶシープドッグ・ハンドラーは少なからずいる。
彼らは、「犬に教わる」とか「犬の群に入れてもらう」という言い方を、レトリックでも何でもなく、まさにコトバ通りの意味で使っている(と思う)。

ここまでくると、もう、真性のヘンタイと言うべきですね。
犬を悦ばしたって、それこそ一文の得にもならないのだから。
それでも、この悦びは案外深いし、「いかに最大限の愉悦を犬から引き出すか」という観点からすれば、人にとっても損な取引ではないと思うのだけれど。

カイラの親父の晩年

金曜日, 7月 10, 2015

ふりーと、うざい

犬が人を歓迎するとき、前手ドン("飛びつき"とも言う)するでしょ?

ぺぐとかうちの他の犬たちは、前から走ってきて「タタン・タン」とくるのに、ふりーとはそこに「タタン・ン・タン」と余分な1拍が入る。

これが、すっげーうざい。

拍子抜けしながら犬を受け止めるのは辛いし、やつの前手がキョンシーみたいにす~~~っと伸びてきて、鳩尾に食い込んでくるのは、もっと気持ち悪い。

あと、羊は見ないくせに、それ以外のことには何でも首を突っ込んでくるし、身体をぐりぐりこすり付けてくるし、抜け毛は豪快だし、いっつもうれしそうだし・・・

もう、どっか行け!

月曜日, 6月 29, 2015

草刈りしようよ

先日、相方Hiroが「草を刈る」と言い残して、エンジン式の刈払い機を担いで畑に入っていった。
普通、畑の草むしりに刈払い機を持ち出す人はいないと思うが、ファームの畑は「畑」と書くのが照れるくらい、茂りまくった草で藪のようになっている。

私たちは、そもそも畑仕事が嫌いなのかもしれない。

堆肥を撒いて、地面を耕し、畝を作って種を撒くところまでは、もう一日も待てないというギリギリの時期にかろうじてやった。
そして力尽きた。
そこから先の世話が、からっきしできない。
毎年、梅雨時になると、雑草の中に野菜が埋没し、生きてるのか死んでるのか不安になってくる。
そういう状態に追い込まれて、やっと重い腰が上がる。

放ったらかしのことを「自然」というなら、もう大威張りで自然農法と言える。
肥料は家畜の堆肥だけで、農薬の類も一切無し。虫や雑草とも仲良く共生している。ときどき、ヤギに齧られたり、にわとりの襲撃を受けたり、それを追って乱入した犬に踏み荒らされたり。。。
なので、収穫量と見てくれは良くない(味は良いんだけど)。
この野菜たちを食いつなぎ、かろうじて夏を乗り切るのも例年のことになった。

突然ですが、拓郎の替え歌。

「草刈りしようよ」

草の丈が 肩まで伸びて
藪と同じに なったら
約束どおり 刈払い機で
草刈りしようよ mmm

古いエンジンを ブルンと鳴らそう
畑が藪に 見えたら
仲間を呼んで 野菜を救おう
草刈りしようよ mmm

 ・・・

必死で刈った 緑の草を
裏の倉庫の 軒下に並べて干そう
草刈りしようよ
草の丈は もうすぐ肩までとどくよ

月曜日, 6月 22, 2015

褒めて育てて感謝する

最近、「犬の成熟」なんてことをよく考える。
もちろん、身体ではなくて心の話。

人と犬の関係って、基本、上下関係ですよね?
大人と子供のような。

例えば躾のとき、「正しい行動を褒める」とか「悪い行動を叱る」とか言うけど、そもそも褒めたり叱ったりは上下関係を前提にしないとできない(何が正しくて何がそうでないかは、人間しか知らないし)。
実際は躾だけでなく、あらゆる生活シーンで上下関係は再現・強化される(食餌の供給、撫で撫で、ブラッシング、声掛け、体高の違い、目線、態度、姿勢、歩く位置、etc, etc)。
犬が人と関わるということは、子供役を担うことと等しい。

羊仕事では、この関係が流動的になる。
もちろん、羊仕事でも大きな目的は人間が決めるけれど、そのサブタスク(「羊を集める」とか「動かす」とか「止める」とか)では、上下関係は弱まる、、、と言うより、状況によって刻一刻と変化するようになる。
人から教わる前に、犬は自身のやり方を持っているからだ。

そこでは、人と犬との関係性が質的に変化する。
役割の固定した縦型から、その都度最適な分担を求める水平型のチームワークへ。
”指示”から”協働”へ、”服従”から”自律”へ、”愛情”から”敬意”へ、”褒める”から”感謝する”へ・・・

この関係は、犬が子供のままでは難しい。
子供はつい親の指示を待ってしまうし、その指示に「反抗する」ことはできても「対案を出して主導する」ことはできない。
というわけで、羊仕事を考えていると、犬の成熟というテーマに至る。

考えてみれば妙な話で、人にとって「大人になる」ことは間違いなく人生の大命題なのに、犬のそれは話題にすらならない。訓練やしつけのノウハウは世に溢れてるのに、大人になること=情緒的な成熟の問題をきちんと取り扱ったものは聞いたことがない。
(犬は子供のままでいてくれた方が、いろいろと都合がいいのかもしれない)

自分を振り返ると、子供の頃は親や先生から褒められると無条件にうれしかったけれど、いつのまにかそうじゃなくなってたし、逆に「バカにされた」ように感じることさえあった。
そこに「お前はまだ子供だ」というメッセージを嗅ぎ取ったからだろう。

犬に「そういうこと」は起こらないのだろうか?
「大人になれずに不安や生き辛さを抱える」のは人間だけだろうか?
そもそも、犬にとって大人とは何なのだろうか?
・・・

世に「褒めて躾ける」方法論が定着して久しい。
そろそろ、「犬を成熟に導く」あるいは「成熟を妨げない」ためにどうすればいいかを、マジメに考えてもいい頃じゃないかと思ったりする。

目一杯、子供を演じる犬・・・

日曜日, 6月 14, 2015

今年の薪

冬の間、限界集落の伐採ボランティアに参加したり、チェンソー片手に山に入ったり(刃が取られて泣きそうになったゼ)、ホダ木の伐り出し作業を手伝ったり、木材フェスティバルの薪割り体験に顔出して余ったのをもらってきたり、、、あの手この手で木材を集めておいた。

うず高く積まれた原木を見ると心が折れそうになったが、無理せず、心技体の充実した日を選んで少しずつ玉切と薪割りを繰り返してきた。
そして今日、できた薪を倉庫に積み終えた。

ふっふっふ。
来るなら来い、冬。


木曜日, 6月 04, 2015

エア・リード

夜逃げした繁殖業者宅で保護された気の毒な犬、、、ではありません。
昼下がりのるぢ男。
リード(てゆーか単なる虎ロープだけど)が糸みたいに細くなってます。

これじゃあ用をなさないじゃないか!?とお思いでしょうが、いーんです、これで。
彼にとってリードとは、論理的に繋がっているかどうかであって、どう繋がっているかは問題ではない。
どうせ「行かねばならぬ!」ときは行ってしまうのだから、多少ロープを丈夫にしたって同じだし、繋がってさえいれば、普段はおとなしくじっとしている。
別に言われたからそうするわけじゃなく、彼が自分で決めて、それを律儀に守っているだけだけど。

ただフリーにしておくと、どんなフェンスも「ヒョイと」飛び越え、ファームの内外をブラブラするので、形だけでも繋いでおかないといけない。
本当は「農家の犬」らしくフリーにしておきたいのだが、たとえドのつく田舎でも、それは許されない。

世の中は理不尽と建前でできている。。。

水曜日, 5月 20, 2015

ちょっと見直したよ、るぢ男くん

上司でも家族でも恋人でも何でもいいけど、自分に関心を持ってほしいと願うような人がいたとして、そういう人の力になれるというのは、きっと誰にとっても心躍る経験に違いない。
このとき、指示された作業をこなす場合と、そうでなくて自発的な行動が相手の役に立つ場合があるが、同じ感謝されるなら後者の方がうれしかったりする。相手に信頼された(に違いない)という思いが、大きな報酬になるのだろう。
昨日のるぢ男を見ていて、犬もそうじゃないかと思った。

昨日は恒例の予防注射&虫下しの日。
獣医さんにファームまで往診してもらい、羊(とヤギ)に注射をしてもらった。

子供と一緒で、羊たちもお医者さんが苦手だ。
ボーーーーッと生きてるようで、嫌なことをされたことはちゃんと覚えている。
いつもならサッサと小屋に入るくせに、白衣が見えただけで警戒して近寄ってこないし、やっとこさ捕まえても、最後まで悪あがきをする。
そんな小さな抵抗も相まって、羊を小屋に入れる→一頭ずつ識別する→捕まえる→保定して注射→ノートに記録、という一連の作業は、結構大変だったりする。

昨日は、るぢ男もずっと一緒だった。
羊を集めるときは集めてくれるし、捕獲するときに逃げ道を塞いだり、捕まえた羊が動かないように睨んだりと、いろいろと助けてくれた。
以前は小屋の中でも羊を追いまわし、正直、手伝ってるのか邪魔してるのかわからない感じだったけど、今回は一息ついたときに、あ、何だ、お前そこにいたのか、と思ったくらい、自然に立ち回っていた。
こちらも忙しくて、いちいち指図する暇も無かったから、きっと彼なりに作業の流れを覚えていて、率先して動いてくれたのだろう。
好意的に解釈すれば、だけど。

小屋の中が片付いても終わりではない。
頭突き羊のレイ君ともう一頭は、草刈り要員として、近所の農家の栗園に貸し出している。
そこまで車で移動しようとすると、当然のようにるぢ男が乗り込んでくる。

栗園はアップダウンのきつい傾斜地にあるし、レイの頭突きは怖いしで、捕まえに行くのが憂鬱だったのだが、るぢを放したとたん、あっという間に連れてきてくれた。
そのまま柵に押さえつけて、外から注射してもらって、一丁上がり。
おかげで、スムーズに作業を終えることができた。
るぢ男は?と見れば、またサッサと自分から車に乗り込んでいる。
うぐぐ、こ・の・や・ろ~・・・

練習だろうが毎日の用事だろうが、羊追い/鳥追いは何でも好きなるぢ男だが、昨日はもっとイキイキして、ほとんど得意気にさえ見えた。
勝手な擬人化かもしれないが、人の助けになったという実感が、もともと舞い上がりやすい彼を、一層高揚させていたのだろう。

犬の自主性なんて人間にとっては99%迷惑かもしれないが、それでも、少しでもそういう機会が作れたら、、、と思わずにはいられなかった。



月曜日, 5月 11, 2015

みっしょんこんぷりーと

ふぅ、今年も何とか毛刈り・だん!
最後まで残っていた10頭目と11頭目をようやく刈り終えた。

いつものことだけど、なかなか思ったように刈れず、羊たちには負担をかけてます。
相変わらず、流血もあるし。
来年こそは、「そうなんっすよ、いきなり毛を掴まれて座らされたかと思うと、クルクル回されて、あれ、あれっ、何だよこれ!?と動転してる間に、気が付けば丸裸にされてたんっすよ」とコメントが出るくらい、流れるように刈ってあげるからね。

でも、年々頭数は増えるし、こちらも体力が衰えるしで、本当にそうしないともうやっていけないわけです。
今、一番切実に知りたいのは、お金の稼ぎ方でも若さの保ち方でもなく、バリカンの刃の研ぎ方です。

土曜日, 5月 02, 2015

存在感0の男

今朝、ほぼ2年ぶりに、たくわえていたヒゲを剃った。
特に理由は無くて、発作的に剃りたくなっただけ。

だから「何で剃ったの?」って聞かれたら困るなぁと思ってたんだけど、今日1日、一緒に居たHiroさんや3人の友人たちの誰一人として気がつかなかった。。。

明日は気付いてもらえるかなぁ?

火曜日, 4月 28, 2015

シアリング・ハイ

羊の毛刈りシーズン=死のロードに突入した。
昔より随分慣れたけれど、それでも、ビデオのようにクルクル羊を回して、シャシャシャーとバリカン動かしてハイ一丁あがり!という風にはいかない。

それにしても、人の営みって何でもそうだけど、細かいコツとか手順とかノウハウがびっくりするほど蓄積されてて、いつも感心させられる。

 曰く、毛が無いところからあるところに刃を入れろ
 曰く、刃が入らないときは無理せずに入れ直せ
 曰く、できるだけ横に刈れ
 曰く、毛を引っ張らずスキンを伸ばせ
 曰く、なんちゃらかんちゃら・・・

今回、例年より腰が辛くなってきたことに加えて、刈り終わった後になぜかハイになっている自分を発見した。
刈ってる時はよくわからないけど、たぶん、すでに高揚気味なんだと思う。

実は毛刈りってバリカンをどう動かすかというより、羊をちゃんと保定することの方が大事だったりする。
保定というのは、言ってしまえばレスリングのような(危うく「〇ッ〇〇のような」と書くところだった)、生き物同士の密なボディ・インタラクションでもあるわけで、それが心身の活動レベルを自動的にアップするんじゃないかと思う。
もしかしたら、類人猿の時代から獣と格闘してきた記憶の名残なのかもしれない。

この文章も、その余韻で書いている。
羊にはいい迷惑だろうけど、もうちょっとつき合ってくださいネ。


木曜日, 4月 23, 2015

もなかの冒険

うっかり庭に出すと、決まってウッドデッキの下に潜り込んで長時間籠城するので、とても面倒臭かったのだけれど、入り口になる隙間をびしっと塞いでやったので、わりと気軽に出してやれるようになった。


最初は周りを警戒して、それこそ地面にへばりつくように動いてたのに、今は中腰くらいで歩けるようになった。
たまに羽虫を狙ってジャンプするような余裕までかましてるし。

放っとけば、そのうち、柵の外まで冒険しに行くようになるだろう。
まぁそれでも別にかまわないけど・・・誰に会うかわからないから、もうちょっとダイエットしといた方が良いと思うよ。

月曜日, 4月 20, 2015

やりきれん

若い頃、昼寝をすると、夜眠れなくなって困ったけれど、今は昼寝をしても、夜にはいつも通り眠くなってしまう。
困ったもんだ。
もっと困るのは、ただでさえ早く目覚める朝が、さらに早くなってしまうことだ。
ああ、でも、そうでもないと1日が短くなって困るけど。。。

更新してないからって、こんなこと書くのもどうかと思うけど。

水曜日, 1月 28, 2015

The last day of SUN

Our dearest old buddie SUN has gone on Jan 25th.
He seemed quite well until noon on that day but his condition changed so suddenly at arround 14:00.
These years he had suffered from stomach torsion attacks and this time it was lethal.

He gave us a lot of gentle memories (and scratch as well).
Thank you SUN, sleep in peace.
That'l do...

木曜日, 11月 06, 2014

ちゃんと怖がる

白状すると、まろには「怖い」犬友達が3人いる。
すべて女性で、しかも遠方に暮らしているというのが、3人の共通点だ。

だから、普段はビクビクせずに済んでるのだが、先日たまたま、そのうちの2人がたて続けにファームに来るという、惑星直列みたく珍しい巡り合わせになった。

何がきっかけだったか忘れたけど、今回、命知らずにも、1人に「○○さんって怖いですよ」と言ってみた。
当然ながら、返ってきたのは「あら、私、全然怖くないわよ。失礼な」という、直球の全否定。
ご、ごめんなさい、本当に失礼でした・・・

ただ言い訳じゃないけど、怖いという感情って大切だと、常々考えている。
人は怖いから相手を「恐れる」わけで、実はこれは「畏れる」に繋がっている。
音が一緒というだけでなく、おそらく語源的にも同根のものだ。
つまり、怖いはrespectの第一歩だ。

キリスト教の「愛」というのは、私たち仏教圏の人間にはなかなか理解しにくいが、そこにはこのrespectが多分に含まれているんじゃないかと思う。
卑屈でも優越でもなく、対等かつ自然に他者をrespectできることが、人として成熟することじゃないかとすら思っている。

相手が動物でもそうだ。
例えば犬と長く暮らしていると、往々にして相手を恐れる気持ちが薄れるが、それが何かベテラン犬飼いの証みたいに感じてるとすれば、それは違うだろうと言いたい。
どんなに従順で可愛らしく見えても、犬は犬だ。
狩りを本分とする肉食動物であり、その気になれば、サルの末裔を咬み殺すくらいお安い御用だ。
勘違いしないでほしいのだが、だから躾を、、、などと言いたいわけじゃない。
そうじゃなくて、相手をちゃんと恐れ(≒畏れ)ましょうよ、と言いたいのだ。
(同じ理由で、ことさら相手を怖がらせる必要も無い。もともと「怖い」のだから)

その点、ファームに来る子供たちは素直だ。
最初のうち、ほとんどが動物を怖がり、腰が引けている。
それで良いと思うのだが、大人の多くは「怖くないよ~」と感情を否定し、無理に「触れ合い」させたがる。
だから、「傍にいながら見て見ぬふりをする」という最上の挨拶ができない。
相手が必死に「来ないで!」と叫んでるのに、にこにこ笑って上から覗き込んでしまう。
「動物愛護」というのは随分と傲慢なフレーズだと思うが、それを傲慢と感じない感性を育てるのは、そんな経験の積み重ねかもしれない。


幸か不幸か、3人目の犬友達とは長い間会っていない。
一番遠方だから、もしかしたらもう死ぬまで機会は訪れないかもしれない。

もし会って「あんた、怖いよ」と言えば、きっとこう返ってくるに違いない。
「バカじゃね!?」
ああ、怖い・・・


土曜日, 9月 13, 2014

ウソもつきます

「子供はウソをつかない」って誰が言った?
それってウソやと思う。
知恵が足りないから巧妙にできないだけで、ちょっとでも得すると思えば、むしろ大人より躊躇なくウソをつく。
ただ、すぐバレるから「他愛が無い」し、被害が軽いから「罪が無い」と感じるだけだ。

犬もそう。
かなり頻繁にウソをつく。

最近よく目にする、ウンチを喰ったあとのことさら何事も無かったかのような仔犬たちの表情。
あれはきっと最初の「ウソ」に違いない。
犬の世界でウンチ喰いに罪の意識は無いだろうが、人間たちのただならぬ気配を察して、これは隠しておいた方が世のため人のため、、、くらいは感じてるだろう。

それにしても…、完食してまんまと証拠隠滅したつもりかもしれないけど、床は汚れてるし、毛はゴワゴワだし、顔を舐めにくる口はめっちゃ臭い!
あれでバレてないつもりなんやろか?

ま、しょうがないか。
君らのおばあちゃんは、体型が変わるくらい盗み喰いしても、「私は何も知りません」としらばっくれてたからなあ…。
その後、腹一杯でどーしても食べられない夕食と延々にらめっこしてたのには、笑ったけど。

月曜日, 9月 01, 2014

いぬさらい

8がつ31にち ふりーと

きのう、きむとけんかしました。

いつものように、がぶがぶして、れすりんぐをはじめたようとしたのに、きむがひめいをあげたから、え!?とおもって、かおをのぞきこんだら、おもいっきりはなをかんできたので、それからはもうふたりともこーふんして、しっちゃかめっちゃかになってしまいました。

すると、とつぜん、くまおがいいました。
「もう、やめろよ。いいこにしてないと…」
みんな「はっ」として、サークルの中はいっぺんにし~~んとなりました。

そうです。
きのうのばん、ぼくのうちにいぬさらいがきたのです。
よるにふたりづれでやってきて、ちょっとぱぱとままとそうだんしたかとおもうと、あっというまにみじをさらっていってしまいました。

ぱぱとままは、「みじは、あたらしいかていでしあわせになるんだよ」といいましたが、そんなのはうそにきまってます。
だって、みじがあしにかみついたり、うなったりしたら、いつもふたりで「みじはわるいなぁ」っていってたから。
わるいこが、いぬさらいにつれていかれるってことくらい、ぼくだってしってます。

それから、どーしたらいいか、みんなではなしあいました。
みんな、れすりんぐがだいすきだから、やめることはできないけれど、しーなの「ふらいんぐ・ぼでー・あたっく」はきんしすることにしました。ものすごいおとがしてめーわくだからです。
それから、とりあえず、「きょうはいいこにしよう」ときめました。

そしたら、つぎのあさ、みんなげりになってしまいました。
きんちょーしたからかなぁ?

金曜日, 8月 29, 2014

さんの近況

このサイトでブログを書き始めたのが2006年の1月。
書いても書かなくてもいいけど、どちらかというと書かない方が世のため人のため、、、という内容ばかりを書き連ねて、気がつけばもう八年と八か月。

最初の頃の記事を読み返すと、りん姉が君臨してて、ぐれぐなんかまだ子犬で、さんは「青二才」と呼ばれている。
出世犬のさんにとって、ちゃん→わかぞー→青二才と、確か3つ目くらいの名前だったと思う。
そんな彼も今や老境である。

先日、そのさんが胃拡張になり、大騒ぎをした。

人間だったら胃拡張といっても「食べ過ぎやろ」と返されて終わりだが、犬にとっては致死的な疾患である。
そのメカニズムはまだよくわかっていないらしい。
まず胃にガスが溜まって膨れる。体型が痩せていたり筋肉が弱っていたりすると、膨満した胃が「クルリと」ひっくり返ってしまう。そうなるとますますガスが溜まり、周りの臓器を圧迫したり、胃そのものが壊死したりして、悪くすると2~3時間で死に至る。
捻転を起してしまえば、手術しか有効な手立てが無いが、胃を元に戻した途端、急に血流が復活してショック症状に陥ることもあるらしい。病気というよりはほとんど事故のような疾患だ。

実はヤツには2度ほど前科がある。
どちらも捻転までは至らず、胃拡張の段階で回復してくれた。捻転が無ければ、ガスさえ抜ければウソのように元気になるのも特徴である。
それでも腹が風船みたいにパンパンになるし、吐きまくったり苦しげに呻いたりして、その都度最悪の事態を覚悟した。

それで今回である。
以前と同じように腹を擦ってガスを吐かせようとしたが、悲鳴まで上げて痛がる始末。
これはダメだと獣医に行こうとしても、お盆のど真っ最中で、市内はおろか舞鶴、綾部、亀岡…、どこに電話しても繋がらない。
ようやく、年中無休という京都市内の病院に予約を取り、約1時間半かけて搬送する。
それがまた運悪く記録的大雨の降った8月16日で、道中、滝のような土砂降りになり、ただでさえ焦ってるのに運転にまで神経をすり減らす始末。

なんとか病院にたどり着き、ガスを抜いて胃の動きを促す薬を投与してもらう。
これでダメなら開腹手術と宣告されたが、何とか持ち堪えてくれた。
それでも入院は必須と言われたので、翌日、また往復3時間かけて病院通い。
交通費含めて10万弱が、一夜にして吹っ飛ぶ。

それから2週間、ヤツは何事も無かったかのように暮らしている。
食事の回数が増えた分、要求吠えの回数も増えた。
ヤツは、ってゆーか犬は、自分の都合の良いことは、びっくりするくらい速やかに習慣化する。

というわけで、家の中がまた少し狭くなったような気がする。

火曜日, 8月 12, 2014

夢一夜

犬のるぢ男がいつのまにか学生服を着た青年になっていて、ビルの駐車場のあたりをうろうろしている。
自分はそれを3階くらいの窓から眺めていて、、、

って、あ、もちろん、夢の話ね。

あいつヘラヘラしやがって何か危なっかしいな~、と思っていると、案の定、向こうから歩いてきたガタイの大きなおっさんに飛びついてしまう。

おっさんの怒った様子に、るぢ男は腹を見せておびえている。
運悪く、おっさんは乱暴な上に性根の悪い男のようで、これからたっぷりるぢ男をいたぶるつもりだ。
いつのまにか現れた手下みたいな連中と一緒に、ゲラゲラ笑いながら、るぢ男の腹にスプレーみたいなものを吹付けている。

助けに行くべきだと思ったが、(こちらに落ち度があることがわかってるので)おっさんに殴られるのが嫌で、なかなか出ていく勇気が出ない。
そのうち、おっさんはるぢ男をトラックに載せて、どこかに連れ去ってしまう。

ここで目が覚めたのだが、そのとき自分は、るぢ男を助けなかったことを激しく後悔していた。。。

この夢って一体何が言いたかったんだろう?