「愛犬物語」を友人に薦められて読んだのは、十数年も前の、ボーダーコリーを飼いはじめてまだほんの間もない頃。
獣医だった作者の体験をベースに仕立てられた物語はどれも、上品なお菓子のように口当たりが軽く味わい深い。40あまりのショートストーリを、あっという間に読了した。
ヨークシャ地方が舞台だけあって、農場で暮らすボーダーコリーの話もいくつか出てくる。その部分だけは何度も読み返した。
いや、正確にはボーダーコリーとは書かれていなくて、せいぜい「シープドッグ」、あるいは単に「牧場の犬」として紹介されているだけだ。そのぶっきらぼうな呼称や描写からは、農夫と犬たちに向ける深い好意とリスペクトが伝わってくる。
「牧場の犬たちは幸福な日々を送っている。散歩をねだる必要がないし、一日中外におれるし、しかも飼い主と一緒に仕事ができるのである。」
「刈り入れの時、馬車の上にふらふらしながら立っている犬がいる。麦刈りの季節、乾した束のまわりでネズミを追っている犬がいる。牧草地を歩き回っていたり。牧舎のまわりを嗅ぎまわっている犬がいる。彼らはいったい、何をしているのだろうか? 」
「私は牧場を訪ねると、まず犬を探すことにしている。犬がいれば、その近くに主人がいるからである。」
「ジョックに似た犬は、ヨークシャにはゴマンといる。みんな物陰に隠れて、私が車を出すのを楽しみにしている。」
「親愛なるティップ。北ヨークシャの高地でいきいきと活躍する数千の犬の代表選手。」
「安楽とか贅沢とかバランスのとれた食事なんか、意にとめたこともない。トウモロコシのかゆとミルクだけで生き、しかし生涯健康で過ごす。」
「私は、自分の犬たちが幸福であってくれといろいろ工夫するが、しかし牧場の犬の方がずっとずっと幸せである。」
「この犬たちは従順で、おとなしいのである.」
ストーリもさることながら、これらの断片的な文章にヤられてしまった。
農場のことを何も知らないのに、何だかやるせないような、いたたまれないような気持ちになった。
犬の暮らしをこんな風に描写するヘリオット先生の眼差しに共感した。
ごく普通のマンション暮らしだった自分たちが、田舎で動物にまみれて暮らすようになるまでには、いろんな理由と沢山の出会い、それにちょっぴりの偶然が関わっているが、今にして思えば、この本にも責任の一端はある。
で、今の暮らしで物語の世界に近づけたかと言えば、そんなことはない。
たとえ田舎であっても、今の日本で犬を飼うことの制約は大きい。
せめて敷地の中だけでもぶらぶらさせておけたらなぁ、、、と切に思っている。
4 件のコメント:
私も、牧場の犬が出て来る場面は、何度も何度も繰り返し読みました。てんかんの犬のお話もあったよね。厳しい農夫の牧場主が安楽死を言い出さなくてほっとした、っと。
そして、このお話に出て来たのだけど、確か、農夫は拷問されても口を割らないけど、実は彼らは犬を愛している、っというような表現や、牧場の犬達もある意味ペットだ、というような表現もあったよね。もしかしたら、ヘリオットさんの他の本かもしれないが。
あと、牧場の犬達の気晴らしのお話、隠れていて、ヘッジの上にいきなり飛び乗って「ワン」っと耳元で吠える、とか。あれは、犬達の気晴らしだって。。
ちょっと、また、ヘリオットさん、引っぱりだして山積みにして読みふけろうかな、,、秋の夜長だし。
あった、あった、同じ本の中にありました。Kuroさんもよく覚えてますね~!
私は車追いに命をかける犬のエピソードが好きです(確かジョックという痩せた犬)。
ひいき目かもしれませんが、ヘリオット先生の筆致は、シープドッグを書くときに一番活き活きしてるような気がします。本当に好きなんでしょうね。確か愛妻ヘレンさんの愛犬もボーダーコリーじゃなかったでしたっけ?
そうそう、憧れていたヘレン、彼女が連れてきた脱臼したコリーの足を治したことがきっかけで結婚に至るのだったと思う。
車追いのお話には、あちこちから、何気ない振りで、車なんかに興味ないってな顔したジョック(?)の子供達が、納屋の扉や壁に半身を隠してこちらをちら見していたり、ボーダーコリー達を見るとあの描写を思い出す。
っで、このジョックは、ちょっと歳をとって、若者達に追い越されそうになる、というのもあった。時代も流れるのよね。
あと、どんなに家の中に入れようとしても、どうしても主人の家のドアの外で寝ると言い張るシープドッグ(冬、雪の中から出てくるの)もいた。
アマゾンUKで見たら、ジェームズヘリオット集(ペーパーバック7(?)冊)があったので、買おうかと思案中。
ペーパーブック、買いですね。決まり。
できれば、Kuroさん訳の新刊を出しましょう。
愛犬物語(犬物語)は、たまたま畑正憲訳と大熊栄訳の2冊が家にあるんですが、訳の巧拙、というか文章のリズムで印象がガラッと変わるんですね。
例えば、「刈り入れの時・・・」の文章は、大熊訳だとこう。
「干し草作りの時期には荷車に乗って揺られていたり、 収穫の時期には刈り束の山の間で鼠を追いかけていたり、建物の周囲をうろついていたり、飼い主の後について牧草地をぶらぶらしたりしている。そういう姿を見ると、ほんとうは何をしているのかと怪しんでしまう。」
こういうのは単なる好みでしょうけど、私は畑さんのじゃないとダメだったです。入れこめないというか酔えないというか。原文のリズムはどうなんだろう?
あ、それから、コリーじゃないけど、何でも首を突っ込むおせっかいなおばあちゃんの話が好きだったりする。虐待されてた犬がみるみる美しいゴルディになる話。
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