月曜日, 10月 15, 2012

人生を楽しむ犬

前の記事で引用した「愛犬物語」の中の文章-「刈り入れの時・・・彼らはいったい、何をしているのだろうか?」は、「犬は労働をしているのではなく、彼らの人生を楽しんでいるのではなかろうか?」と締めくくられる。

このくだりは特に記憶に残る。
だから、この本を読んだ翌年、思い切って訪ねた西ヨークシャの農場主さんの口から「うちの犬たちは自分の人生を楽しんでいるの」と同じセリフを聞いたとき、それが違和感なく腑に落ちてきた。

西欧人である彼らが、彼らの価値観に従って「人生を楽しむ」と表現するとき、そこには「"自立したオトナ"が、"自らの意志で"仕事や趣味に打ち込む」というニュアンスが含まれる(ホンマか?)。
ただ単に飼い主と遊んだり、あるいは指示に従って仕事するだけでは、たとえそれがどんなに楽しそうに見えたとしても、"人生を" 楽しむとは言わないと思う。

何より、生まれた時からボーダーコリーに囲まれて暮らしてきたという農場主さんの言葉には、有無を言わせぬ力があり、英会話の不自由な自分にも、そこだけははっきりとわかった(気がした)。
件の文言に「これだけはわかって欲しかった」と念を押したあと、彼女はふと口をつぐんだ。おそらく最後にこう言いたかったんじゃないだろうか?
「それがボーダーコリーだから」

彼女は生活環境の変化や競技化したトライアルなど、シープドッグをとりまく状況を大変憂いていて、センターやレスキュー活動、講演や出版などあらゆる機会を捉えて、あるべき本来の姿を伝えようとしていた。
当時も多忙を極めていたが、それでも、いきなり訪ねてきた風変わりな一家を、こちらが訝しく思うほど歓待してくれた。

なぜかと言えば、それはもちろん彼女の人柄に因るところ大だろう。
しかし今にして振り返れば、会って最初に訪問の理由を訪ねられたとき、羊追いやトレーニングのことはおくびにも出さず、「犬たちが普段どんなふうに農場で暮らしているのか知りたかった」と答えたことが、一番の理由だったように思える(実際それは本心だったのだが)。
彼女には、それが何よりうれしかったんじゃないかと。

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