土曜日, 1月 08, 2011

「のだめ」物語の精神分析的考察

長編作品では,エピソードや登場人物がどうしても膨大になる.
世に名作と謳われる作品では,ほぼ例外なく,それらが絶妙に共鳴しながら大きなテーマに向かって収斂していく.初期に提示されたテーマが,姿形を変えながら何度も回帰する.読者はその巧みさに酔いしれるとともに,「作者は神か?」といったある種絶望的な思いに捉われる.
「のだめカンタービレ」もまた,自分にとってそのような物語の一つである.

作者はこれらの伏線や登場人物を,計算し尽くして描いたんだろうか?
もちろん,膨大な準備と周到な計算はあっただろうが,それだけでこれほど巧みな物語が紡げるとは思えない.
おそらく,無意識的な何かに導かれる経験があったに違いない.
言い換えれば,単にストーリを考え出すのではなく,それをリアルに体験する,つまり作者が登場人物の内面を生きることによって(そしてさらにそれを作家の眼で客観視することによって),初めて可能になる作業だろう.
8年に及ぶ長期連載の意外なほど初期の段階で,作者はこの長大な物語のディテールまで,あたかも自分の生き様を振り返るようにありありとイメージできていたに違いない.

ヤドヴィガに出会って,そんなことを思った.
実は原作を読み進んでいるとき,なぜ彼女が登場したのかわからなかった.
全136話中の第102話に,彼女は唐突に現れる.
物語のグローバル感を出すためとか,マダム征子の懐の深さを強調するためとか,いくつか理由を考えたが,結局はその程度の脇役だと思っていた.
正直,その後,彼女のことはほとんど忘れてしまっていた.
それが最終話直前の重要な場面で,唐突にのだめと絡み始める.それも極めて濃厚に(性描写の無いこの物語では,共同演奏はもっとも濃密な人的交流を表す記号である).
そこであらためて思った.
「ヤドヴィって一体誰?」

で,辿りついたのが,ヤドヴィガ=のだめ分身仮説.
役割は「永遠の少年」.
事実,千秋が連想したように,彼女は(ホタル)のだめを髣髴とさせる上に,見た目や服がどことなく子供っぽい.彼女はのだめの少女人格なのだ.
のだめにとってそれは,強烈な表現力=「音楽の強さ」の源泉でもあると同時に,人間的成熟を妨げる楔でもある.変態行動をしている時の彼女の支配的な人格と解釈してもいいだろう.
それをより確実に説明するために,ヤドヴィガは造形されたんではないだろうか?

世に奇矯と言われる振舞いの多くがそうであるように,のだめの変態ぶりもまた,人の目をくらまし,厳しい社会から自らを守る鎧になっている(この文章もそうだけど).他者との共感を拒絶した結界(=変態の森)で,好きなピアノを演奏したり理想化した恋人とじゃれあうことで,一見自由奔放な,その実脆く壊れやすい自我を守っていたのだ.

シャドウであるヤドヴィガの音楽も,他者を拒絶し,内面に埋没する指向性を持っている.
つまりは自己満足の音楽であり,「自由に楽しくピアノを弾いて何が悪いんですか?」的な生き方を体現している.

師匠オクレールが早々に見抜いたように,のだめの成長の鍵は,自身の音楽を他者に向けて開放することにある.
聴衆に聴かせるために腕を磨き,曲の主題を演じきり,そして聴衆の反応を糧にさらに音楽性を高めていく.厳しい批評でさえ「悪いことばかりじゃない」のだ.
聴衆だけでなく,作曲者もまた重要な他者である.
曲の背景や意図を理解する,つまりは楽譜を介して作曲者と対話することも,のだめの音楽家としての成長に欠かせないのだ.
オクレールの忍耐強い指導により,それらは徐々に達成されつつあった.

ところが最終話近く,(主観的な)千秋の裏切りと自身の成功に深く傷ついたのだめは,やどかりが身を隠すがごとくヤドヴィとのセッションに埋没する.そこに知り合いの幼い子供たちも加わり,彼女の子供人格にとってある種の理想郷が出現してしまう.
しかし,それはあくまで刹那的な逃避に過ぎないし,のだめにもそれは自覚されている(アパート仲間への態度や,これらのシーンで描かれる彼女の表情がそれを表している).
ヤドヴィガは成長を促す他者ではなく,鏡に映った自分なのだ.
その役はやはり,彼女を愛する男性性の千秋でなければならなかった.

縦割りのほんの小さな1コマだが,印象に残るイメージがある.
のだめが千秋に連れ去られる際,ヤドヴィガと子供たちが見送るシーンである.
千秋が腹を括ったのに呼応するように,のだめもまた,理想郷を離れ一人の男性と対峙しようとしたことを,つまりは子供人格からのデタッチメントを,このシーンは表象している.
見送るヤドヴィガの表情はちょっと寂しげながら,暖かい眼差しである.
それは,のだめが子供人格を否定的に抑圧するのではなく,より大きな人格の中に統合することに成功したことを暗示している.

最終話,リュカに「音楽のほかにやりたいことは無かった?」と縋るように問いかけるのだめには泣かされた.
これまでしがみついてきた幼稚園の先生という(子供人格の)夢と決別し,これから先,音楽とともに生きると決意した彼女が,それでも思いを断ち切れず漏らした悲鳴のように思えたから.

その相手が,子供でも大人でもない微妙な年頃のリュカというのがまた象徴的である.
彼はヤドヴィガと同じく豊かな創造性を持ちながら,子供のまま留まろうとする「永遠の少年」ではない.
むしろ背伸びしてまで大人になろうとする「奇跡の子」である.
これによって読者は,これまでどおり様々な困難に出会いながら,音楽家として,人間として成長を続けていくのだめの未来を確信することができるのだ.

ちなみにドラマ/映画の上野樹里は,まるでコミックから抜け出してきたかのように,挙措の隅々まで忠実にのだめを演じているが,一点だけ,猫背&内股歩きというオリジナルな演技を採り入れている.型破りとは言えのだめもヒロインなのだから,これは大きな冒険だ.
おそらく彼女は,女優としての直感でのだめの子供人格指向を見抜き,それを表現したのではないだろうか.
彼女もまた,のだめの内面を生きたのだろう.
 

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