木曜日, 1月 31, 2013

放牧地の怪

今もって謎の、不思議な不思議な事件だった。

この時期、放牧地の一部を閉めて養生中にするのだが、ときどき、そこに犬たちを開放してやっている。
つい先日も、ぺぐ、かい、もっちの3頭を走らせていたのだが、いつの間にか、ぺぐが端っこで背中をズリズリしている。

こういうときは大抵、ミミズの腐ったのとか野生動物のフンが落ちてたりするので、のおぉっと叫びながら現場に駆けつけた。
そこでHiroが目撃したものは、、、一片のこんにゃく。

それも豆腐大の素のこんにゃくではなく、5cmくらいのやつに切れ目を入れてくるっとひっくり返した「ねじりこんにゃく」。
その付近に葉っぱの煮つけみたいなものもあったそうだから、なぜか放牧地の一角が妙に家庭的な感じになっていたわけだ。

誰かそこでご飯でも食べたんだろうか?
謎だ。
 

日曜日, 1月 20, 2013

もっち失楽園

もち嬢、数々の悪行が仇となり、ついに生まれ育った楽園を追われ、犬の園に追放されました。
ただし寒さが厳しいので昼間だけ。
夜は室内でぬくぬくと寝ています。



←ぺじの喉に喰らいつく














で、この女、外に出しても大変です。

人の気配がするたび、1.5mほどの扉を飛び越えて、裏庭と園の間を行ったり来たりしてます。
誰よりも大量に食い、他犬の〇んちまで貪り食い、巨大な〇んちを生成します。
激しく遊び続けます。
園を抜け出して勝手に羊を追っかけます。
お隣の藤田さんちまで遠征して、ハナちゃんに吠えてピンポンダッシュで帰ってきます。
里心がつけば、ぎょわわわわんと悲鳴を上げながらガラス戸を引っかきます。

総括すると「必死に生きてる」という感じ。
でも、猫を羽交い絞めするのは止めてください。

火曜日, 1月 15, 2013

「犬に向きあう」に歯向かってみる(続き)

あたりまえのことだけれども、人と犬の生活様式は違う。上下関係もある。
だから、一緒に暮らすときに「ただ暮らす」ということができない。
どうしても、人から犬に向かって働きかけてしまう。
そして人がマジメであればあるほど、犬に向きあう濃度が高まる。

でも、、、そもそも人が犬に教えることなんて、「天然自然の理」みたいな観点からすると、その半分は逆行したものだし、残りの半分は無意味だ。
それは当然といえば当然で、犬はハナから自然のままに振舞っているのであって、人間が指図するときはそれを修正したいときに限られるからである。
家具を齧らないとか、ソファに乗らないとか、牙を使うとか使わないとか、、、そういうことが問題になるのは人間社会の中だけで、自然界ではまぁどうでもいいことだろう。

だから人が犬に働きかけると、多かれ少なかれ犬は「混乱」する。
それは誉めるとか叱るとかの方法論とは関係が無い。
欲求に従った自然な行動を矯正する、という原則に変わりは無いからだ。
もしそれが行き過ぎたとしたら、自分で考える意欲を無くしたり、悪いストレスをため込んでしまう犬がいても不思議ではない。真摯に向きあうことが人と犬にとって100%望ましい結果をもたらすとは限らない。

それでなくても、人間には妙なところが多い。
喜怒哀楽が激しい、常に喋っている、すぐに触りたがる、正面から覗き込む、直立して両手を使う、走りがのろい、仲間と競争する、恨む、騒ぐ、泣く、叫ぶ、、、これはもう動物として壊れていると言ってもいいレベルだ。
そういうのと四六時中一緒にいること自体、犬にとってどうなんだろう?、、、と、たまに思いを馳せるくらいの自省的な姿勢があってもいいように思う。
犬に何かを教えたりするのは、それが必要だ(と自分が考える)から(自分の責任で)教えるのであって、それが「良いこと」とか「犬のため」とか嘯くのは慎みたい。

ものの本によると、シープドッグの本場ヨークシャ州の農夫たちには、犬をペットとして飼うことを恥じていて、愛情をかけることを他人に隠そうとする風習があるのだそうだ。
どうやらそれは朴訥な農夫たちのテレ隠しらしいが、もっと別の意味があるんじゃないかと思っている。
つまりそれは、農場で長年培われてきた犬育てのノウハウが内面化したもので、その意味するところは「犬にあまり関わるな」ではないかと。
 

「犬に向きあう」に歯向かってみる

物事や人に「向きあう」という言い回しには、どこかポジティブなニュアンスがあって、そのせいもあってか、飼い犬に対して「向きあう」ことは、正しく望ましい態度ということになっている。そこに「きちんと」や「真摯に」などの修飾語がくっ付けば、もう天下無敵の肯定表現である。
そして、犬と昼夜を共にし、常に観察とケアを怠らず、愛情かけてしつけを施し、休日には充分なトレーニングか運動、といったあたりが、たぶん普通にイメージされるところの「犬にきちんと向きあう」飼い主である。

でもサ、、、というのがこの小文の主旨なのだが、別に真っ向から意見するわけじゃなく、まぁこれに限らず耳触りの良い言い回しというのは、とかく適用範囲が過大解釈されがちなので、たまに疑ってみるのも悪くないでしょ、くらいのスタンスである。

ということで、「犬に向きあう」飼い方自体に異存は無い。言ってみればそれは、人々が長い年月をかけて獲得した、犬と暮らすことの「良心」を具体化した行動モデルであって、そのやり方をなぞることで、より多くの人が犬との暮らしを楽しむことができるようになった。
まことにもって慶賀の至り。

しかしそれを頭から信じこみ、何の疑いも無く実践し、「科学的根拠」とやらで理論武装し、ついにはそれを正義として掲げ、逸脱を非難するまでに至れば、これはこれで厄介な話である。たとえ的を得た指摘であっても、「これぞ良識」「皆、我に習え」的な心証が透けて見えると心が萎える。
そもそも良識とか良心みたいな単語が頻出するメッセージって、退屈な上にちょっと気色悪い。(この文章のように)

と、ここまでは単なる好き嫌いの話だが、問題にしたいのはここからで、つまりモデルはどこまでいってもモデルに過ぎないというところ。
そこには自ずから、限られた前提条件と有効範囲があるはずだ。
「犬に向きあうことの弊害」というものがあったとしてもおかしくは無い。

続く
 

土曜日, 1月 12, 2013

猫になめられる

もなかが膝の上で毛繕いするとき、ひとしきり(5分くらい)自分の被毛を舐めてから2,3回、私の手や太腿を軽く舐める。

これって、1)膝を貸してもらってることのお礼なのか、それとも、2)ちょっと味を変えてみたかっただけなのか、あるいは3)単なる偶然なのか...

真相が2)や3)だったとしたらちょっとムカつくが、1)だとしたら、えらい安いお礼やんけという理由で、すっげームカつく。

どうでもいいけど。
 

 

火曜日, 1月 08, 2013

ひつじと自己嫌悪

年末に負ったケガがようやく癒えてきたと思ったら、新たな傷を抱えてしまった。
心に、、、じゃなくて今度は膝である。

この季節は朝夕の2回、羊たちにもヌカとオカラを与えているのだが、これが大層好物らしく、エサ箱を配るときはいつも揉みくちゃになる。
本来こういうときに危険なのが腐れ羊のレイ君なのだが、エサに夢中でそれどころじゃないらしく、配膳のときは頭突きを控える、というのがこれまでの暗黙のルールだった。

しかし昨日は、いつものように羊たちに揉まれながら、フと心に不安がよぎった。
「レイはどこ?」
不幸なことに、そのとき彼は真横にいた。
こちらの微妙な心の揺れを察知したのだろうか、彼もまたフッと我に帰った顔をした。

・・・来るっ!・・・

一瞬の間をおいて、3発の強烈なフックが膝に入った。
そのうちの一発は、膝が逆に曲がったような気がした。

もう昨日のことなのだが、今も痛む。
膝が、、、じゃなくて心が、である。
頭突きされた瞬間に思わずカッとして、ヤツに蹴りを入れてしまったのだ。
50年以上も生きてきて、未だに自分がコントロールできないとわ...