Thursday, November 06, 2014

ちゃんと怖がる

白状すると、まろには「怖い」犬友達が3人いる。
すべて女性で、しかも遠方に暮らしているというのが、3人の共通点だ。

だから、普段はビクビクせずに済んでるのだが、先日たまたま、そのうちの2人がたて続けにファームに来るという、惑星直列みたく珍しい巡り合わせになった。

何がきっかけだったか忘れたけど、今回、命知らずにも、1人に「○○さんって怖いですよ」と言ってみた。
当然ながら、返ってきたのは「あら、私、全然怖くないわよ。失礼な」という、直球の全否定。
ご、ごめんなさい、本当に失礼でした・・・

ただ言い訳じゃないけど、怖いという感情って大切だと、常々考えている。
人は怖いから相手を「恐れる」わけで、実はこれは「畏れる」に繋がっている。
音が一緒というだけでなく、おそらく語源的にも同根のものだ。
つまり、怖いはrespectの第一歩だ。

キリスト教の「愛」というのは、私たち仏教圏の人間にはなかなか理解しにくいが、そこにはこのrespectが多分に含まれているんじゃないかと思う。
卑屈でも優越でもなく、対等かつ自然に他者をrespectできることが、人として成熟することじゃないかとすら思っている。

相手が動物でもそうだ。
例えば犬と長く暮らしていると、往々にして相手を恐れる気持ちが薄れるが、それが何かベテラン犬飼いの証みたいに感じてるとすれば、それは違うだろうと言いたい。
どんなに従順で可愛らしく見えても、犬は犬だ。
狩りを本分とする肉食動物であり、その気になれば、サルの末裔を咬み殺すくらいお安い御用だ。
勘違いしないでほしいのだが、だから躾を、、、などと言いたいわけじゃない。
そうじゃなくて、相手をちゃんと恐れ(≒畏れ)ましょうよ、と言いたいのだ。
(同じ理由で、ことさら相手を怖がらせる必要も無い。もともと「怖い」のだから)

その点、ファームに来る子供たちは素直だ。
最初のうち、ほとんどが動物を怖がり、腰が引けている。
それで良いと思うのだが、大人の多くは「怖くないよ~」と感情を否定し、無理に「触れ合い」させたがる。
だから、「傍にいながら見て見ぬふりをする」という最上の挨拶ができない。
相手が必死に「来ないで!」と叫んでるのに、にこにこ笑って上から覗き込んでしまう。
「動物愛護」というのは随分と傲慢なフレーズだと思うが、それを傲慢と感じない感性を育てるのは、そんな経験の積み重ねかもしれない。


幸か不幸か、3人目の犬友達とは長い間会っていない。
一番遠方だから、もしかしたらもう死ぬまで機会は訪れないかもしれない。

もし会って「あんた、怖いよ」と言えば、きっとこう返ってくるに違いない。
「バカじゃね!?」
ああ、怖い・・・