1)人が犬(自分)に「何かさせたい」という「意図」を持っている
2)人は「コトバ」で「意図」を伝える
3)ある決まった「コトバ」がその「何か」を指している
ことを理解するという、3つのハードルをクリアしたということだ。
どれもこれも、犬にとっては真新しい概念なわけで、それだけで十分奇跡に値すると思うのだけど、身の回りでわりと普通に見られるせいか、なかなかそうは受け取られない。
ま、それはいいとして、、、
人にとって、犬が「言うことを聞く」ことは悦ばしいことだし、犬を飼うことの醍醐味の一つに違いない。
もっと関係が深まると、犬は人の意図まで理解し、指図以上のことをやって見せるようになる。
例えば、ロクに教えてもいないのにお遣いをするようになるとか、、、あんまりいい例は思いつかないけど、ほら、犬ってすぐ気を利かそうとするじゃないですか。
この体験がまた、一部の犬好きにはたまらない。
「犬と暮らす悦び」ランキングがあれば、間違いなく上位にランクインする。
(健全な市民感覚からすれば、こういう人は微妙にヘンタイに属するのかもしれないけれど)
つまり人は、犬といることで「理解される」悦びを享受している、ということ。
しかし、その逆方向、つまり「意図通りに人が動いた」とか「人から理解された」ことを、犬の側が悦ぶような場面は、日常生活の中にほとんど見当たらない。
だから不公平だ、などと言うつもりはない。
そもそも人と犬の関係は対等ではないし、犬は理解されることなんか望んでいないかもしれない。
だからそんな場面はありえない、、、かと言えば、そうでもない。
例えばシープドッグの世界では、逆方向の回路が開くことがある。
一緒に羊を追っていると、ある時を境に、犬の動きがガラリと変わることがある。
それはたぶん、「こんな風に羊を動かしたい」という犬が持っているイメージを人が理解し、それを尊重して行動したときだ。
このとき、犬は驚きとともに、深い悦びに包まれる、、、んじゃないかと思う。
それまで、自発的な動きは無視されるか否定されるだけだったのに、指示に従うしか人と関わる術が無かったのに、突如、生来の能力が認められ、頼られ、尊重されるのだから。
あるいは、思いがけないところで、気の合う同志に出会った感じかもしれない。
あえてコトバにすると、「ああ、やっとわかってくれた!」とか「何だ、お前もやるじゃん!」というところか。
ま、本当のところはわからないけど。
しかし、「人に理解されたことを犬が悦ぶ」ことを察して悦ぶシープドッグ・ハンドラーは少なからずいる。
彼らは、「犬に教わる」とか「犬の群に入れてもらう」という言い方を、レトリックでも何でもなく、まさにコトバ通りの意味で使っている(と思う)。
ここまでくると、もう、真性のヘンタイと言うべきですね。
犬を悦ばしたって、それこそ一文の得にもならないのだから。
それでも、この悦びは案外深いし、「いかに最大限の愉悦を犬から引き出すか」という観点からすれば、人にとっても損な取引ではないと思うのだけれど。
カイラの親父の晩年 |
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