Tuesday, January 28, 2014

シープドッグいろは歌留多 よ~な

【よ】横の隅から顔のぞく
   ←よしのずいから天のぞく
(犬がいない!と思ったら、羊の群からヒョッコリ顔を覗かせたり)

【た】To be a Mi Ti Do Re, you wanna shake.
   ←旅は道づれ世は情け
(農夫たちが音階に託した羊追いの極意。意味は「ミ・シ・ド・レでやってみ、シビれるぜ!」)

【れ】猟犬は口で逃すし
   ←良薬は口ににがし
(ハウンドドッグは吠えて羊をバラけさせちまう、というシープドッグのグチ)

【そ】走力の迅速
   ←総領の甚六
(ちょっと意味不明。走力があって身のこなしが敏捷ということかなぁ?)

【つ】杖も数本
   ←月とすっぽん
(恰好を気にするなら、クルークもTPOに応じて用意しておきたい)

【ね】猫にはケリを入れ
   ←念には念を入れ
(本当の敵は室内にいる)

【な】ナイスランにパチパチ
   ←泣きつらに蜂
(見事なランに会場からまき起こる拍手)

Saturday, January 25, 2014

シープドッグいろは歌留多 ち~か

【ち】チビも追われりゃ群となる
   ←ちりも積もれば山となる
(ルール知らずの子羊も、ちゃんと追ってやれば群れるようになる)

【り】リーダー犬の子沢山
   ←律義者の子沢山
(人も犬も「英雄色を好む」のは一緒のようで)

【ぬ】濡れ手でおさわり
   ←濡れ手で粟
(作業着にタッチするのを許すなら、外出着の時でも許さないと犬は混乱する)

【る】るぢもカラスも照らせば光る
   ←瑠璃も玻璃も照らせば光る
(真っ黒けで見えにくいが、日光の下では目立つ(苦し紛れの身内ネタ))

【を】主にカネボウ
   ←鬼に金棒
(ハンドラーのレインコートはほとんどが某素材メーカー製らしい)

【わ】われさきにドジぶた
   ←われなべにとじぶた
(フィールドに入ってしまったドジな豚を、先を争って追いかけるシープドッグたち、、、ってどう考えても設定に無理があるなぁ)

【か】帰りのつらを見ず
   ←蛙のつらに水
(作業を終えて帰るときに顔を覗き込んでこないのが信頼関係)


Wednesday, January 22, 2014

シープドッグいろは歌留多 い~と

【い】犬も仰げば尊しわが師の恩
   ←犬も歩けば棒にあたる
(犬が師となるケースが多いのがシープの世界)

【ろ】碌でもない証拠
   ←論より証拠
(口くさっ!また、家畜のフン食ったろ!!)

【は】鼻よりかかと
   ←花よりだんご
(鼻キスするより、かかとに食らいついてくるヤツの方が圧倒的に多い)

【に】憎まれ犬、地に這いつくばる
   ←憎まれっ子、世にはびこる
(羊から見たらあの姿勢は憎たらしいに違いない)

【ほ】ホライゾンまでくたびれ大回り
   ←骨折り損のくたびれもうけ
(地の果てまでアウトランさせる気か!?このハンドラーは)

【ヘ】ヘマこいて尻すぼみ
   ←屁をひって尻すぼめる
(今日はすごく良いランだったのに、最後に失敗してぐだぐだに)

【と】トロ箱の冷や水
   ←年よりの冷や水
(暑い日には水浴び用のトロ箱に飛び込む犬が続出)

Tuesday, January 14, 2014

極私的創世記 第2章

主なる神はヒトを連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。
イヌは寝てばかりで何の役にも立たなかったので、ヒトは朝に夕に勤勉に働いた。

主なる神はそのヒトに命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよい。しかし善悪の木からはこれを取って食べてはならぬ。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、ネコが最も狡猾であった。ネコはヒトに言った、「善悪の木の実を取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか。」

ヒトはネコに言った、「神はその木の実を食べると死ぬと言われました」

ネコはヒトに言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。

そこでヒトが見ると、その木はいかにも好ましかった。それでヒトはその実を取って食べた。
このようにして、ヒトの目は開かれ、それで自分が裸であることを知った。そこで、ヒトは、ネコの毛を剥いで身にまとった。

そよ風の吹くころ、ヒトは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それでヒトは、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。

神である主は、ヒトに呼びかけ、仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」

ヒトは答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」

すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。あなたは、なんということをしたのか。」

ヒトは答えた、「ネコがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」。

主なる神はネコに言われた、「おまえは、この事をしたので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは一生、満ち足りることがないであろう」。

さらにヒトとイヌとネコに言われた、「おまえたちは罪を犯したので、罰として名前を変えなければならない。ヒトを犬と、イヌを猫と、ネコを人と呼ぶことにする。そして互いに反目しながら一緒に暮らすだろう」

主なる神は、彼ら犬という名のヒトと、猫という名のイヌと、人という名のネコをエデンの園から追放し、のろわれた地で暮らさせることにした。

だから、犬は善悪を知る上に勤勉であり、猫は寝てばかりで役に立たない。そして毛を失った人は相変わらず狡猾で、満足というものを知らないのであった。



Saturday, January 11, 2014

日出ずる国でシープドッグを思う (6)

こういうことをアテも無く考えていると、結局、彼らを理解することなんか本当に必要なのか?という疑問に立ち返ってしまう。

シープドッグだろうが何だろうが、相手は犬なんだから、人さえ愉しめればそれでいいじゃん。
ほら、犬だってあんなに嬉しそうなんだし。
大体、仕事って言ったって羊なんかどこにもいないんだから、そんなことゴチャゴチャ言っても始まらないだろ?
てゆーか、あんた、そういう自分を気に入ってるだけなんじゃないの?
自分で楽しむ分には勝手だけど、それをよそ様に押しつけるのはどうかと。。。


そんな声があっても不思議じゃないし、むしろ、もっともだと思う。
それでも、自分は彼らのバックグランドを理解したいし、そうした方がいいと思っているし、できれば周りの人にも勧めたいと思っている。

なぜって、そうすることで彼らの魅力を一層強く感じるようになるし、逆に、至らないところに一々腹を立てずに済む(こともある)から。一見不可解な彼らの行動を理解するヒントを得られることもある。
そして何より、「知りたい」と願い続けることが、彼らと彼らを育んだ世界に敬意を払うことになると思うからだ。

って、ん~、本当か?
我ながら、後づけでキレイゴトっぽい匂いがする。
やめよう。
いっそ「惚れた女の過去が知りたくて何が悪い?」くらいに開き直った方がすっきりするかもしれない。

それでも、犬が自分の意志で作業に参加し、終わりの合図で同じくらいイキイキと帰ってくるのを見ると、たったそれだけで、小さな奇跡に巡り合ったように思える。
そんな犬を作り上げ、今日まで継承してきた世界に感謝したくなる。
まだ十分クサいけれど、これは正直な気持ち。

自分がイギリス人だったら、断固、シープドッグをユネスコの無形文化遺産に推薦するのに、、、って、「その世界」の人たちにとっては、ホントにどーでもいいことなんだろうけど。

(終)

Thursday, January 09, 2014

日出ずる国でシープドッグを思う (5)

例えば、これまで色んなボーダーコリーを見てきて、一つの性格類型が形成されつつあるように感じている。
Hiroと私の間では、それを「フワフワした犬」と呼んでいる。特徴を一言で説明するのは難しいが、ざっとこんな感じ。

 ・ファームにいる間中、わりと愉しそうにしている。
 ・頭と尻尾が常に上がり気味。
 ・他犬と一緒でもケンカはしない。
 ・広い場所に出るとフラフラし始める。呼びも聞いたり聞かなかったり。
 ・共通する評価は「家ではよく言うことを聞く」
 ・羊にも結構突っ込んでいく。ただ、すぐに気が逸れる。
 ・「じっと見つめる」仕草をしない。基本的にキョロキョロしている。
 ・人への愛想はよい。ただし、目で語りかけてくるような感じは無い。

要するに、アウェーの場でも機嫌良くしていられるし、そこそこ言うことも聞くんだけど、集中力が無いというか、荒々しくないというか、どことなく「とりとめない」印象を受ける。
もちろん違いといったってわずかだし、単なる個性の範疇かもしれないが、いろんな農場で出会ってきた犬たちとは、やっぱりどこか違うという感じが拭えない。

私たちは、こういう気質が、犬と暮らすことの日本的な常識・良識の中で生まれてきたのではないかと考えている。もちろん交配の影響も大きいだろうけど、それに加えて、屋内飼いによる生活境界の消失や、ある種特徴的な犬に対する態度・習慣が相まって、そのような性格が形成されるのではなかろうかと。

それが良いとか悪いとか、好きとか嫌いとかは、また別の話だ。
フワフワしていること自体が問題なわけじゃ無いし、むしろ可愛らしく、どこでも一緒に行ける良いパートナーだと言える。
ただ、シープドッグのDNAを携えた犬を、極東の国で自分たちの枠組みで育てているという事実、それが性格形成に関わっているかもしれないという可能性には、自覚的であるべきだと思う。

(続く)

Wednesday, January 08, 2014

トト急逝

ファームを開いた時からずっと一緒だった、トカラヤギのトトが逝ってしまった。

一昨日の夜から寝たきりになり、昨日は何とか立たせようとアレコレやってみたが、カエルのように這いつくばるのが精一杯で、それ以上は何もしてやれなかった。

動物と暮らすということは、死が身近になることでもあって、そんなことはもう慣れっこだと思っていたのに、意外なほどショックがきて自分でも驚いている。

柵を壊されたり畑を荒らされたり、いつもいつも敵対関係にあったが、10年も一緒にいるとさすがに情が湧くのか。

この数年は病気がちでボロボロだったけど、よく頑張りました。
敵ながらあっぱれ。

Tuesday, January 07, 2014

日出ずる国でシープドッグを思う (4)

もちろん、シープドッグがお座敷犬でもスポーツ犬でもペットでも家族の一員でもなく、もともと農家で羊仕事を手伝ってきた犬だということは、誰でも知っている。しかし、この「誰でも知っている」というのが案外曲者で、それは「知ってるから誰もそれ以上突っ込んで考えない」ことでもある。
実際のところ、彼らが生活してきた世界を体感レベルで生々しく想像できる人は、この国にはほとんどいない(自分にはできない)。

なぜ、そこにこだわるかというと、もし「シープドッグとはどんな犬か」ということを少しでも掘り下げようとすれば、結局それは、「〇〇××の状況で、□□△△な振る舞いをする犬」という表現にならざるを得ないからだ。そして厄介なことに、この「〇〇××」には彼らが暮らしてきた世界そのものが含まれている。

例えば、羊に対する動き一つとってみても、それが地形や羊の気質や気候によって異なるのは、いかにもありそうだし、人の生活圏との距離や群との関係や自由時間の過ごし方なんかも関係ありそうだし、もしかしたら、食べ物や寝床の作りやトイレの作法でさえも、無縁ではないかもしれない。
結局、彼らを理解するためには、まず彼らのいた世界を理解する必要がある、、、とまぁそういうことになる。
当たり前だけど。

じゃーそーすりゃいーじゃん、と突き放されてしまいそうだが、それがそう一筋縄ではいかないのが、「枠組み」の面倒臭いところ。

そもそも「犬と暮らす」「犬と遊ぶ」「犬を躾ける」・・・ここ日本では常識(良識?)と言っていいような概念が、ことごとく当てはまらないのが彼らのいた世界だ。社会化とか散歩とか脚側とか、競技とか演技とかショーとか順位とか、車追いとか無駄吠えとか拾い食いとか、検査とか遺伝疾患とか毛吹きとかブリーダーの良心とか、、、そんなこんなとは無縁でいられたのが彼らの一生だ。
それを本当にリアルに思い描くことが、果たして私たちにできるだろうか?

あ、いや、それはさすがに言い過ぎだったかもしれない。
少し頭を冷やそう。

(続く)






日出ずる国でシープドッグを思う (3)

「枠組み」と言っても別に一枚岩みたいにドカンとあるわけじゃなくて、その人の生死に関わるような重大なものから、気にも留まらない軽いものまで、多種多様にある(規範、主義、信条、常識、偏見、信仰、価値観、パラダイム、世界観、趣味嗜好、固定概念、好き嫌い、思い込み、こだわり、オレ流、、、等々)。
ただ、どんな枠組みでも一旦それとして登録されると、緩めたり解除することは想像以上に難しい。「授業で得た知識」のような、たぶんもっとも更新しやすい部類の枠組みでさえ、B君のようにあの手この手で抵抗してみせる生徒は、決して少なくない。

目新しく馴染みの無い事象でも、手持ちの枠組みで理解できる(ように思える)場合は少なくない。もちろん、その方が知的な負荷は少ないから、往々にして人はそれで押し通そうとする。しかし実際には、枠組み自体を拡げないと本当には理解できないことが、世の中にはゴマンとある。
そして厄介なことに、枠組みを拡げることの必要性とメリットは、実際に拡げた後になってみないと、金輪際わからない仕組みになっている(勉強の必要性が子供にはわからないように)。

ということで、ここまでが長い前フリで、ここから強引に話をシープドッグに振る。
「羊のいない国でどうやってシープドッグとつきあう?」というのは、Fair-rings Border Collie Centreとして掲げてきたテーマの一つだったりするのだが(実はそうだったんですよ!)、その前段に当たる「シープドッグを理解する」ことが、すでに十分難しいんじゃないかということを、最近しみじみと感じている次第。その理由を考えていて浮かんだのが、この枠組みの話だったのです。

今、日本には犬に関わる情報が溢れていて、それが多かれ少なかれ、私たちの頭の中に枠組みを形成している。それは確かに、私たちの「犬との暮らし」を豊かにしてきてくれたのだが、それが逆に、シープドッグ理解の妨げになってるのかもしれない、と。

(続く)

Monday, January 06, 2014

日出ずる国でシープドッグを思う (2)

もともと人間というのは、頭の中に独自の「枠組み」を持っていて、それを通してでないと、出来事を認識したり、行動を選択したり、社会生活を営むことができない(つまり、何もできない)ことになっている。
それは子供とて同じで、彼らなりの枠組みで親/先生/友人たちとつき合い、学校/家庭生活を送っている。そして教科の内容も、知識や考え方という、知の枠組みの重要な構成部品である。

新しい単元に入るとき、B君は精一杯、理解しようと努めてくれている(と思う)。ただ、あくまで手持ちの枠組みで済ませようとするため、それで手に負えないような新しい概念が提示されると、反射的にストッパー回路が働らく。それが、矢継ぎ早の合いの手という形で表現されるのだろう。

もう言うことの予想がついたと思うが、A君はたぶん、その枠組み自体が柔軟なのだ。新しいことが入ってくると、一時的に手持ちの枠組みを緩めたり、( )に入れたりできる。口を半開きにしたヌエのような表情は、無防備な心の状態が表出したものだろう。
そして、わからないなりに説明を鵜呑みし、しばらく反芻していると、やがてどこかで「腑に落ちる」時が来る。たぶん、この時に出てくるのが、場違いな「あ、そっか」だ。
同時にそれは、知の枠組みが再構築されたことの合図でもある。
根拠は無いけど、そんな風に思っている。

B君はよく「要するにどういうこと?」と説明を求めるのに対し、A君は「それって〇〇ということでしょ?」と自分で要約できたりする。
この差は大きい。
ちょっと応用問題になると、B君はまた一から説明し直しですからね。

(ちなみにB君は普段から腰が低い。旅行のお土産を手渡す際に、いつも出来が悪くてスミマセンねぇと言い添えるその姿には、中学生にしてすでに苦労人の風情がにじみ出ている。彼は、人とのネットワークで枠組みを大きくするタイプなんだろう。安心しろB君、君は絶対出世するから)

(続く)


Sunday, January 05, 2014

日出ずる国でシープドッグを思う (1)

新年早々、回りくどい話になります。

縁あってここ一年くらい、塾講師のアルバイトをしている。
個別形式だから、教えた生徒は30人にも満たないくらい。これっぽっちで何かを語るのも何ですが、感想めいたことを一つ。

今、頭に浮かんでいる2人の生徒。
A君は、こちらが新しいことを説明しだすと、ほとんど毎度、顔つきがボワーッとしてくる。もしかして死んでる?というくらい反応が薄いので、どうしてもこちらから一方的に説明することになる。そのうち、というか場違いなほど後になって、「あ、そっか」とか「おお」とか呟いたりしている。
なかなかどうして、やりにくい。

対照的にB君は最初から積極的、「ここ、教えて!」と迫って来る。内心不安な新米講師としては、こういう前向きな発言はとてもうれしい。おお、そうかとばかりに説明を始めると「なるほど」とか「わからない」とか「あ、ちょっと待って」とか、盛んに合いの手を入れてくる。こちらも調子に乗ってぐいぐい説明する。

で、A君とB君、どちらがよく勉強できるかというと、実はA君なのである。それも圧倒的に、と言っていいくらい。
この違いはどこからくるのだろう?

B君が受講をおろそかにしてるかというと、そんなことはない。自分の成績にも、人一倍不安を持っている。ただ、何となく感じるのは、彼が盛んに言葉を挟んでくるのは、関心や意欲が高いからというよりは、それによって何かを守ろうとしてるんじゃないか、ということだ。
何か、というのはもちろん彼自身のことだが、もっと言えばそれは、彼がこれまでに築いてきた「知の枠組み」みたいなもの。

(続く)